あれ、無味無臭だ、と思った直後、名状しがたい苦味が口内を埋め尽くす。にがっ、と目の前の無糖コーヒーを罵倒した瞬間、咳き込んだ。 沢田綱吉、つまりオレ、と無糖コーヒーというこのペアが、あまりにも不釣合いでいっそ無様とも言えるようなものであることは百も承知だ。オレだって好き好んで、こんな罰ゲームみたいなブラックコーヒーとの格闘をしているわけではない。同じ色の飲み物だったら、コーラのほうがはるかに好きに決まっている。 勉強机の上に鎮座するブラック缶コーヒーを眺めては、はあ、と溜息を吐き出す。この溜息をひとつつくごとに、オレの寿命が一日ずつ縮んでいっていることは間違いなさそうだった。 縮む寿命も、不味すぎるブラックコーヒーも、どちらも御免だ。でも致し方ない、今日オレは、眠るわけにはいかないのだ。だからこうして、無様にもブラックコーヒーに含まれるカフェイン様にすがり付いて、重力と眠気に負けて垂れてくる瞼を、必死に押し返そうとしている。はあ、とオレの口から、寿命が縮む音がまた漏れた。 粘着性のある苦味がしつこく舌の上に留まるので、観念して台所へ水を飲みにいく。時刻は深夜二時、家族は全員、とうに寝静まっていた。 階段を下りている間にも、三日は寿命が縮んだ。陸続と唇の間から行進してくる溜息たちは、オレの視界の明度をどんどん落としていく。希望という光が、絶望という暗幕で遮断されていくような感じだ。 コップに注いだ水をちびちびとやりながら、オレは自分の棺桶に供えてもらうものを思案し始めていた。オレの宝物ってなんだろうか、死後の世界まで持って行きたいものなんて、何一つないような気がする── そこまで脳内で思考を済ませたところで、オレは窓の外にひとつの人影を認めた。真っ暗い深海から、ぬっと姿を現すアロワナみたいだった。 直後オレは、まだなのに、と思った。 まだ、棺桶に供えてもらうものリストを、作り終えていないのに。 辛うじて光が差し込んでいた最後の窓に、暗幕が引かれる。希望は完全に遮断された。 *** 事の発端を話すには、時間を前日の昼間まで遡らなければならない。それはオレがトイレから教室に戻ろうとしているとき、のことだった。 リノリウムの廊下に手から滴る水をぶらぶらと落としながら歩いていると、右手にあった応接室の扉が開きっ放しになっていたので、オレはなんとはなしに教室の中を覗いてみた。そこには、部屋中央部にしつらえられたチープなソファに、一本のトンファーが立てかけられていた。 「あれは・・・」記憶の中の引き出しを探れば、その物騒な武器の持ち主はもののコンマ一秒でわかった。「ヒバリ、さんの」 その後に自分が起こした行動は、今思い返しても理解に苦しむ。どうしてオレは、そのトンファーに触ってみようなどと考えたのか。世界七不思議の一つだ。 濡れた手をワイシャツで粗雑な仕草で拭って、トンファーのほうへ歩み寄っていく。一体この武器によってどれだけの人間が大怪我を負ったのだろう、と想像するだけで背筋が凍りかけた。 だからオレは、その凍りかけた背筋に根負けして、トンファーに触ってみたいなどという好奇心は即刻唾棄すべきであったのだ。そうすれば良かったのに、オレは、オレという奴は、なんて馬鹿だったんだ。ダメツナ、という呼称が、最早愛おしくさえなるほど、オレはその瞬間、最高にダメツナだった。 そのトンファーを形容するとすれば、陰惨、酷薄、冷酷、残酷非道、阿鼻叫喚、などなど、負の意味をこれでもかと背負った言葉たちが次々脳内に押し寄せてくる。でも中には、美しくて、しなやかな言葉もあった。例えば、無敵、とか。 「トンファーを手放すときなんて、あるんだ・・・」四六時中、肌身離さずもっているイメージだった。 まあ一本しかないから、もう一本は持ち歩いているんだろうけれど。そんなことを思いながら、立てかけてあるトンファーの取っ手の部分に手を伸ばす。 ゴトン。 その音が、人生の終末の鐘だった。 オレが触れた拍子に床に倒れこんだトンファーを見て、オレは身震いを禁じえなかった。 「き、き、傷・・・!」トンファーの側面に、わずかではあるが傷が、ついてしまった。 傷付けた。トンファーを。しかもよりによって、ヒバリさんのトンファーを。世界で一番傷付けてはいけないものを。 思わず尻餅をついた。まずすぎる。逃げるべきか、謝るべきか。どちらにせよ、国内屈指の名医にお世話にならなければいけないだろう。 数秒、悩んだ。そして倒れたトンファーを元に戻して、教室を飛び出した。 三十六計逃げるに如かず! どうかバレるな、と神様に懇願しながら扉から出ると、床に滑って転んだ。さっき自分が、濡れた手から床に水を滴らせていたためだ。 ダメツナここに極まれり。 自分で呟いて、泣きそうになった。 発狂した心臓を宥めすかしながら、教室に戻り、次の授業を気が気でないまま受ける。国語の授業だった。いつもならすぐにやってくるはずの睡魔たちが、激しくビートしている心臓に怖気づいたのか、今日ははるか遠方へと旅立っていた。きっとハワイあたりに旅行に行っているに違いない、オレもそこへ逃げていけたら、と自分の顔を両手で覆った。 「・・・この三尸虫は、庚申の夜に人の体内から抜け出して、天に隠している罪を告げると言われている」 国語教師の言葉に、ビートしていた心臓が覿面に止まった。え、今、なんと?戦戦兢兢とオレは国語教師を見遣った。 どうやら、中国あたりの教えについて説いているらしい。道教、と黒板に雑な字で書いてある。中国語学科卒らしい国語教師は、自分の知識を衒って、よく中国文化の話をする。 サンシチュウ?コウシンの夜?難しいことはさっぱり理解できなかったけれど、とにかく、何某かが夜に人の身体から離脱して、隠しているはずの過失を天に知らせるらしい、ということはわかった。冗談じゃない。トンファーのくだりを、天に知らされたらたまらない。 コウシンの夜って、どの夜だ?まさか、今夜などではあるまいな・・・、とオレはしかつめらしい態度で教師のほうに向きなおった。 「だから昔の人は、庚申の夜は徹夜して過ごすことで、三尸虫が身体から抜け出るのを防いだという」 庚申の夜がいつか、という核心には触れていないにせよ、教師はグッドな発言をした。どうやら、三尸虫とかいうものは、徹夜すれば身体から抜け出ることはないらしい。 今夜は、否、しばらくは徹夜だ。トンファーに傷をつけた罪が、時効になるまで(時効がいつか、なんて、涙が出そうだったので、その辺は考えないことにする)。 オレは悲嘆と決意が入り混じった気持ちで、ほぞを固めた。 *** 闇から現れたアロワナ。 美形を絵に描いたような彼を比喩するのに、アロワナを用いるのには少々無理があるけれども、オレにはそう見えた。あの絶対零度の無表情は、アロワナ以外の何物でもない。 オレは手に持ったコップを取り落としそうになった。掛け値なしに既に五秒は心拍をやめている心臓は、白血球も赤血球も血液に送り込まないので、オレの体内に居座る理由がなかった。 闇から現れたヒバリさん。両手にはぎらつく殺意を纏った(ようにオレの目には映る)トンファー。 オレは死を覚悟する。 同時に、棺桶に何を供えてもらうか思案していた自分を恥じた。死体など、彼が残すはずもなかったのだ。棺桶は不要だ。 (逃げやがった、)三尸虫のやつ、逃げやがった! コン、と台所の窓が、ヒバリさんの手の甲で叩かれた。はい。すぐに開けますとも。 その窓を開ける行為は、とりもなおさず地獄への門を開く行為だった。カラ、というあっけない音で、地獄への扉が開いた。 「やあ」 感情を色にたとえるなら、ヒバリさんの顔はまったくの無色透明。形の良い唇を少しだけ開けて、深夜に人様の家へ闖入するのにはあまりにも手短すぎる挨拶をした。 「こ、こ、こんばんは・・・っ」しゃちほこ張ったオレは、そう口にするだけで精一杯だった。 できるだけ苦しまないようにしてほしいな、とオレはぼんやり考えた。いたぶらないで、奪うなら一思いに命を奪ってほしい。 室内へ入ってきたヒバリさんの身体が動くのが、視界のすみに映った。オレはかたく瞼を閉じる。全身に駆け巡る激痛を、待った。 「これ、」 待てども待てども訪れない激痛に拍子抜けしているオレに、ヒバリさんが手渡したのはオレの生徒手帳だった。 「落ちてたよ」応接室に、とヒバリさんは言いつめる。 なるほど、とオレは感じ入った。三尸虫が離脱しなくても、オレが犯した罪はすっかりばれていたわけだ。ダメツナの本領発揮だ、と泣きたくなる。 「あ、ありがとうございます・・・」とりあえず小さく頭を下げて、手帳を受け取った。暫くヒバリさんがアクションを起こさないのを見て、オレは続けた。「あ、あの、と、トンファー、すみませんでした、あの、そんなつもりはなかったんですけど、」 無色透明の表情のまま、ヒバリさんは首を横に傾けた。なんのこと?とでも言いたげだった。 疑問符を浮かべている瞳は、外の闇の黒よりも色濃く、その存在を湛えていた。成人の眼球の重さは、約7.4グラムらしいけれど、ヒバリさんのそれはもっともっと重みがありそうだった。深くて、全てを吸い込んでしまいそうな色──いや、全てを吸い込んできたからこそ、あんな静謐な黒を灯しているんだ、きっと。オレもじきに吸い込まれてしまうんだろうな、とさえ、思う。 (トンファーのこと、ば、バレてない・・・?) やはり成功したんだ、と歓喜した。カフェインで、三尸虫を閉じ込めてやった! 「あ、あの、分からないならいいんです」 オレは身体の前で両手をひらひらやった。この話題は早急に水に流すべきだった。 「応接室で、ヒバリさんのトンファーを見かけたので・・・それ、いつも持ち歩いてるんだと思ってました」 ヒバリさんは瞳の深い黒でオレを値踏みするように一瞥してから、「じゃあ、揉んでくれる?」と言って、トンファーを持った右手を差し出してきた。 は?とオレが素っ頓狂な声をあげたことについては、論を俟たない。 「これ、軽量化はされてるけどね、ずっと持ってれば、そりゃ多少腕だって疲れるよ」僕だって化け物じゃないんだから。 オレにとっては、結構化け物だけど、と無論口には出さずに思う。 「いつでもどこでも、僕が誰かを咬み殺そうと思ってるなんて、勘違いしないでよ」 え、それって勘違いの部類にカテゴライズされちゃうの?と無論口には出さずに思う。 「わかったならさ、この疲れた腕を揉みほぐすくらいの誠意を見せてよ」 どんな展開だよ、と無論口には出さずに思う、つもりだったのに、表情に滲み出てしまっていたらしい。 「・・・何か不満なの?」 ヒバリさんのこめかみに青筋が立ってしまう前に、オレはハイ!と潔い返事をした。 「ふうん、」ヒバリさんは相変わらずオレを値踏みするみたいな目でこちらを見る。「案外、上手だね。不器用そうなのに」 食卓の椅子に座ったヒバリさんは、気だるげにオレのほうへ腕を伸ばす。その腕を一心不乱にマッサージしているオレ。深夜三時の、おそらく世界一不思議な構図。 「ぶ、不器用ですよ、そりゃ」器用だなんて、言われた試しがない。「御覧の通り、予想通り、第一印象通り、不器用です」 「ふうん」ことさら関心も無さそうな声で、相槌なのかなんなのか、ヒバリさんはそんな声を漏らす。 「それにしても、どうしてこんな時間に・・・?」 「深夜は睡眠をとるもの、なんていう常識を僕に押し付けないでくれる」 「で、ですよね」 そりゃそうだ、と自分の投げかけた愚問を内省しながら、ヒバリさんの白い腕を優しく指で押す。血管という血管が見えない腕だ、きっと点滴するのには医者が難儀するだろうな、と思った。ヒバリさんが点滴している図なんて、想像できないけれど。 よいしょ、よいしょ、と罪の許しを乞うような気持ちで、マッサージを続ける。食卓に頬杖をついたヒバリさんが、薄く笑んだのが見えた。 「いい子だね」 オレはヒバリさんのその言葉に驚いて、顔をあげた。彼が人を褒めようとは。 「いい子はいじめたくなるよね」 きゃ、という奇声が無意識にオレの喉から漏れる。 「君の肉はおいしいと思うよ、」震え出しそうなオレなど差し置いて、ヒバリさんは楽しげだ。「草食動物の肉は、おいしいからね」 オレは雑食です、一応、と心の中で泣き叫んだ。間違いなく、断末魔の叫び。 途端、ヒバリさんの腕をほぐしていたオレの手は、強く引っ張られた。前のめりによろけるようにして、オレの頭は椅子から立ち上がったヒバリさんの制服の中に埋もれた。こんな深夜に制服なのか、なんていう尤もな疑問が、煙をあげはじめた脳から発掘されるはずはなかった。 首筋のあたりに走った痛みに、オレは目を剥いた。咬まれている、しかもなんだか弱めに、やわらかく、つまり、甘く。 心臓の早鐘は、先刻とは違った音を鳴らしている。種類の違う動悸だ。 咬まれて、ゆっくり吸われて、ヒバリさんの唇が体から支離されたときには、くっきりとオレの首筋に赤い痕がついていた。 「僕専用整体師のあかし」 そう言って、ヒバリさんは口角をあげるようにして笑い、光栄と思って、と偉そうに付け足した。 ヒバリさんが帰っていった後、ベッドの中で思案をめぐらせた。 これから毎日彼の腕をマッサージするのと、彼の手によって一思いに天に召されるのと、どちらが自分にとって幸運だったかを。 答えは朝まで出なかった。 ただ一つ確かなのは、赤く残った鬱血の痕をさすると、心拍が少し早まるということ。 勉強机の上の缶コーヒーを睨む。 この懊悩と鬱血は、カフェインなんかよりもよっぽど高性能な覚醒剤だ。 はじめてヒバツナ・・!なんかどきどきです。ていうかヒバツナなのか?これは。(大いに違うと思う ただの整体話じゃないのこれ? サブタイトルは 〜すみません僕がやりました〜 です。 080217. 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