![]() 【1】 深緑の黒板の前に立つと、彼の髪が放つトパーズの色彩はより一層精彩に富む。世界史上最強のコントラストだ、と俺は思う。 「同じ元素の原子でも、原子番号は同じでも、質量数が異なるものが天然には存在する。これは、それらの原子の原子核中の中性子の数が異なるためで、このような原子同士を、互いにアイソトープといって──」 凛とした、声。教室に木霊する、心地良く耳を劈くといったような、よく通る彼の声はあまりにもステレオタイプな教師然としていて、視覚化が可能ならば彼の声も間違いなく、彼の身体と同じように白衣を羽織っているだろう。白衣というご立派な防具で、その下にある柔肌を隠そうとしている、ということを、俺は知っている。 けれどもその隠された柔肌とか白衣の下の秘めやかな内部とか、あるいはそれらが持ちうるチラリズムの魅力に気付かない愚者どもは、ひそひそと性懲りも無く私語を繰り返す。先生はこの学校で働き始めてからまだ一年目なので、どうしても生徒に舐められる傾向にあるらしい。しかしながら、ここ最近はその舐められる兆しも消え失せてきた。 理由は単純明快だ。 ──ドンッ! ドン、っていうより、ドカン、って感じかもしれないが、先生が黒板を右手のグーで思いっきり殴った。正面を向いたまま、右腕を前方から後方へ持っていくようにして、小指側で黒板をひび割れそうなほどに。せっかくの史上最強のコントラストが台無しじゃないか、と俺は内心でひとりごちる。 「私語を慎め!」 エルリック先生はめちゃくちゃ怖い。と、大多数の生徒から、そう思われている。 その鋭い語気を生徒たちの頭上に置き去りにして、また黙々と黒板に向かって几帳面に字を綴り始める。無駄な話は授業中に一切しない。 「こ、こえ・・・まじこえーよなあの先生・・・」指弾された男子がひそひそ声で、隣の奴に言う。本当、性懲りもねえな。「綺麗なだけに、睨まれると超こえー・・・」今にも震え上がりそうな風情だ。 だんまりと押し黙ったまま、白い字をせっせと記していく先生の後姿を見ながら、俺は一人、ほくそ笑んだ。心を鬼にしてるんだな、そういうところが、最高にシビれる。潜在する俺の獣の側面が、むくりと頭をもたげる。 (俺は知ってるから)怖いなんて思わないよ。 正面に向き直った先生と少し目が合って、彼の蜂蜜色の双眸がゆらり、困惑に妖しく揺れる。それはたゆたう水面にも似ていて、俺はやはり、口元の笑みを隠せないままでいる。 わざとらしく俺から逸れた、幻想的な光の輻射を持つ金の瞳。チェックメイトだな、それしかないな、と俺は心臓の底から高揚が滾ってくるのを手に取るように感じていた。 チェックメイトから遡及することおよそ一週間、の話をする。 その日は朝からの曇天で一日中気分は暗然としていたが、最早吹っ切れていた。下校時刻になるとはかったように沛雨が空から競争を始め、ハワイのフルマラソンのような大人数による一斉の雨露のスタート。生憎出遅れた俺は傘も無く、小雨になったころを見計らって学校を出たが、帰路の半ばに差し掛かったあたりで再度豪雨にリターンしやがった。 当然しとどにずぶ濡れになったが、ここまで濡れるといっそ気持ちが良い。中途半端に服が濡れるといつまで経っても気にするものなのに、こんな状態になると清清しくさえ感じられるのは人間の奇妙な心理だ。 下校途中、そう、たしかドン・キホーテの脇を通ろうとするあたりだった。ドン・キホーテのイメージキャラクター、ドンペン君(という名前なんですよ、ご存知?)が高い位置にある看板から屈託のない笑顔で眼下を見下ろしている。 景観とドンペン君を無数に裂いていく雨のずっと向こうに、チープなビニール傘をさして、立っている男がいる。立っている、というと語弊があるかもしれない。立っているのではなく、行こうか行くまいか踏みとどまって悩んでいるのだ。 その理由は、本人に聞かずともわかった。その男の後方一メートルあたりに、ダンボールにおさまった一匹の子猫が、にゃーん、という作り声じみた音を発していたからだ(猫なで声、とはよく言ったものだ)。しかしながらその凄惨とも言うべき躊躇を見せる男にとっては、その<猫なで声>が玉音にでも聞こえるのだろう。一歩足を踏み出そうとしては戻り、戻ろうとしては踏み出そうとする。 その後姿には見覚えがあったが、俺が目処をつける人物の後姿とはどうもダブらなかった。 (あれってエルリックか? 化学の先生の──) 俺が確認した限りでは十回ほど、左足を踏み出して戻す、という行為を続け、あの人の利き足はきっと左なんだろうな、と俺がそこまで考えたところで、エルリックと思しき男は行動に出た。思しき──否、間違いないだろう。後ろで一本に束ねた金の長髪、隣を通り過ぎていくグラマーな女と寸分たがわぬ身長、そして何より、常時彼が身に纏う固有の、冷然としてしかしどこか艶かしいオーラが、彼のビニール傘の傘下に充満していた。 (確信はある。でもリアリティがないな)俺はそう思った。学校で見せる彼の厳然とした、しかつめらしい教師面からは、とてもじゃないが猫の鳴き声に容易く心酔させられるようなイメージなど嗅ぎ取れなかった。生徒が私語をすれば黒板を叩いて吼える、そんなスパルタな印象しかなかったのだ。 「だから、オレん家はアパートなんだって・・・ほら、見えるだろ、あそこの灰色の・・・」 そう必死に弁解する男は(しかも、猫に)、一体何者なのだ。 ここでまた、みゃーん、という、彼にとっては至高の玉音。まるで呱々の声だとでも思っているのだ、きっと。そしてダンボールという檻に入った猫の姿を、孤影悄然、なんて四字熟語を独りよがりで当てはめて、思う存分に哀れむのだろう。 考えられない、彼の第一印象から与えられるイメージ像の、完全に範疇外だ。あんな顔をする人だったのか。 猫は味をしめたというように、みゃーん。とどめだ。 「・・・あー! もう、絶対うちじゃ鳴いたらだめだからな」 そうして檻から救い出した子猫をビニール傘の下に招き入れ、軽の車へと浮き足気味に、そして揚々と乗り込んでいく姿を見て、俺は言葉を失った。 「・・・なんだあれ・・・」まるで別人だ。 俺と先生の恋愛の顛末は、少し長い話になるだろう。でもひとつ確かなことは、この瞬間に初めて、彼の白衣という防具に頑丈に守られた「柔肌」を、俺はこのちょっと近視の入った目玉でしっかりと目撃した。 その「柔肌」はおそらくニュートンも予想しえなかったほどの強烈な重力を持って、俺を深い穴へと引きずり込んだ。所謂恋だとかいう、あの穴だ。 まわりくどい言い方をしないで表現すれば、単純に、その瞬間俺は恋に落ちたのだ。無聊な日々が大いなる塊を成しただけのような俺のこれまでの人生が、一気に覆るような、そんな恋にだ。 あの「柔肌」に触れたらどうなるか。彼は泣くだろうか、憤慨するだろうか、あるいは恥じるだろうか。考え始めたらキリが無くて、俺はただ、走り去る軽自動車の後姿を見つめていた。 この穴は随分深い。地上の光が見えないほどだ。抜け出すなんて到底無理で、つまり、俺にはもう道はひとつしかなかった。この穴の中で生きるという、そういう道だけだった。 【2】 『[一問テスト] 問:原子内の電子は(ア)により原子核に引きつけられている。 (ア)に当てはまる語句を答えよ。』 模範解答:クーロン力(静電気力でも可)。 「なんだよ『クローン引力』って・・・そんなの教えた覚えはねー・・・無性生殖じゃあるまいし・・・」 ごつ、と事務的なデスクの上に煩雑に重なった紙に、額を打ち付けた。そうしたことで眼鏡をかけたままだということに気付き、パキ、と小気味良いがしかしゾッとしない音を聞いて、慌てて外す。殊に目が悪い訳ではないのだが、こう、素顔だとどうも教師の威厳に欠ける、ということを、此処で働き始める前の学校で重々知らされたのだ。慰み程度ではあるものの、眼鏡を掛けると幾分教師らしく見える、筈だ。 話を戻して、今左手に握らせた項垂れ気味の赤ペンで採点しているのは、化学の授業の開始時に必ず行う『一問テスト』なるものだ。前回の授業の復習的な内容になっているのだが、今回の出来の悪さと言ったら思わず眼鏡が涙で曇るような勢いだった。 今は眼鏡を外したので曇ることもないだろうと思ったのだが、はぁ、と吐き出した溜息のせいで、机上に置いた眼鏡レンズがやっぱり曇った。あ、こりゃ、だめだな。 (この辺の説明がちょっと忽せになってたのかな・・・今度復習しなくちゃな・・・) 内省、内省。日々精進の毎日である。今は印刷室を陣取って、次回の一問テストが印刷し終わるのを待ちながら(次回は丸がたくさんかけますように)、うなり声をあげて印刷済みのわら半紙を吐き出す印刷機の横で採点の真っ最中だった。 『クーロン力、または、静電気力。』輝かしい文字の羅列がオレの網膜を刺激する。 「おっ」やっとこさ丸の機会がやってきた。「でかした、でかしたぞ!」必要以上に大きく丸を描く。まるでその「○」を描くことによって、明日世界が終わるのを阻止できるとでもいうかのように、誇らしい気持ちをひしひしと感じながらだ。こういう瞬間がたまらなく嬉しい。自分の職が誇れる瞬間でもあった。 名前を確認する。こんな至幸の瞬間を与えてくれたのは誰だ? そこには、ロイ・マスタング、といやにでかく大書してあった。俺が、お・れ・が正解したんですよ、と朗々たる風情の声が聞こえてこんばかりの自己主張だ。贅こきな奴だな。 (自己顕示欲甚だしい・・・) 名前は知ってる。顔も、知ってる。自分の受け持つ六クラス全員分の名前と顔ぐらい覚えることは容易だ。でもそれだけじゃなくて、マスタングは悠悠と学年トップに君臨するほどの秀才だからだ。その俊異なまでの明晰さからして、此処が全校生徒千五百人にのぼる『高校』という割と大規模なコミュニティであったとしても、この名前を知らない教師はまずいないだろう。 学業も運動も抜群、まさに文武両道というかんじだが、品行はあまり芳しくないようだ。紊乱──なんて言葉を用いたら針小棒大であるけれども、奴がノートをせっせと取っている場面など一度も見たことがない、というのは教師群、異口同音の事項。 容姿も端麗ということで有名みたいだが、教師A曰く、「綺麗なのは知ってるけど、いつも授業中机に伏して寝てるからよく思いだせないんですよねえ。ちゃんと直視できたことあるかな」だそう。まったく、嘆かわしい。 (でもオレの授業はわりと起きてるけどな・・・最近は) 最近、とは言っても、ここ三、四日のことだ。目が抉れるような感覚のする超強烈な目薬でもさされたかのように、パッタリ眠らなくなった。そのせいでオレも過敏になっているのかもしれないけれど、なんだかものすごく目が合う(気が、途轍もなく、する)ので、授業を熱心に聞いてくれているんだろうとオレはかなり好意的に解釈しているが、どうもあそこまで凝視されると、学校の机の中に財布を置いてきてしまったときのような、イオンになりきれない原子のような、落ち着かない気持ちになる(わかりづらいって? 失敬)。 いかんな、教師たるもの、あんな視線にも慣れていかなくては。と、オレは決意を新たにし、次のプリントにうつった。印刷機の呻吟が止んだので、印刷が完了したらしいことがわかる。 すると、噂をすればなんとやら、というやつで、 「こんにちは」そう言って扉を開いたのは、言わずもがな、だ。 一問テストで丸の機会を与えてくれたこの秀才に、今はかなり好感度上昇中だったので、そのときはなんの表情の発露もなく彼を迎えることができた。その秀才の左手には化学の問題集。折り目がまったく見られないあたり、開かれた形跡もあまり伺えないが素行を改めようという努力を始めたのかもしれない。 (質問でもしにきたかな?)うんうん、謹直で非常によろしい。 「一問テスト、見てくれました?」 本当、自己顕示欲甚だしいな。まあよかろう。今日は大目に見る。 「あれ、眼鏡掛けてないんですね」オレが返事をする前に言ってきた。顕示欲苛烈な上に利己的なのか。 曲者だ。 「あー・・・今、外したんだ。一問も見た」 あー、の部分でどちらのコメントに先に返答しようか考えあぐね、どちらでもいいやと思いなおし適当に返した。例えば、一気に十個ぐらいのコメントを立て板に水でされて、それを一回で返答しなければならないという危うきに瀕したとき、この「あー」は息継ぎを必要とするぐらい長くなるだろうと思った。 「よくできてたでしょ」にやり、という擬態語を本当に音に出しているんじゃないかと思うような笑みを口元に貼り付けて、マスタングは言葉を継いだ。「先生?」 (に、苦手だ)ザ・第一印象。 こういうカンは良く当たるほうだ。くじ運もない、女運もない、そのくせ悪い予感はあたる、そんな人生を歩んできた、がっかりだ。なんて、そんなことが脳裏に一瞬馳せたので、「え、あ、ああ」と取ってつけたような語調になってしまった。 するとマスタングは口元の笑みを満面へと広がらせた。怖気さえ感じるような笑顔だ。 「わからなかった問題、教えて欲しいんですけど」笑いながら言うな、笑いながら。 なんとはなしに、外した眼鏡をもう一度かけた。それは申し訳程度の、装備のつもりだったのかもしれない。 眼前の敵に、挑むための。 【3】 伏せた長い睫毛に縁取られた瞼が細微な開閉を繰り返して、視界の広さを調節する。その調節された視覚は大人びたシンプルな眼鏡のレンズを通して、俺の問題集の上を這い回る。 綺麗な爪を先端に装着した白くてたおやかな指が、文を左から右へ追っていく。俺は文よりもその艶かしささえ感じさせる指をじっと凝視した。 指の次は、一旦外していた眼鏡を俺が来た途端に再度かけ直した、端麗な横顔の稜線をじっと目で辿る。どんな天才画家も、この神の創造とも言うべく稜線を完璧に再現することは不可能だと思った。その顔の上部に位置する眉間にぐっと皺が寄ったかと思うと、先生はこちらを怪訝な目で振り返り、言った。 「・・・あのな、オレの顔じゃなくて、問題を見ろ。こっちを」 俺がにこにこと満面の笑みを浮かべつつ長時間の注視を投げたものだから、しびれを切らしたのか先生は、トントン、としなやかな指で俺を促すように問題集の紙面を叩く。 「なんで眼鏡、掛けてるんです? 本当は悪くないんでしょ、視力」 いきなり核心を突いてみた問いに、先生は、過去の犯罪歴をずばりと言い当てられた、みたいな狼狽した表情を見せた。そして、「お前、授業は」と念を押すので、俺は「今は昼休みですから、ゆっくり喋っていただいて構いませんよ」と、ギリギリ歯が見えないところで口元の広がりを制止した笑顔を未だ浮かべながら、頷いてみせた。 先生はふぅ、とひとつ嘆息を漏らし、眼鏡を外した。凛然とした、気圧されるほどに強く、それでいてどこか庇護欲を掻き立てられる儚さを備えた双眸が露になった。 射抜かれた、というのはこういうときに使う言葉だ。俺はそう思った。 「・・・ほら、オレってさ、なんて言うの? 結構、童顔、みたいだし、ほら、身長、とかも、しんちょう・・・とか、も、」ここで先生は、小さくかぶりを振った。ものすごく小さい声で、『大人気ない、大人気ないぞ、オレ』と呟いたのが聞き取れたような気がした。「身長、とかも、ほら、ち、小さいし、並よりは、ちょっとだけ、な、ちょっとだけ!」相当コンプレックスらしい。 その苦渋の薬を<大人>や<年甲斐>というオブラートに包んで飲み込んでは見たものの、中で水によってオブラートが溶けて結局苦い良薬を味わう結果になった、というようなかんじだった。 「だから前の学校で、男子校だったしさ、結構なめられてしまったというか・・・成績もガタ落ちで・・・」 先生かわいいもんね、という言葉をここで挟んだら、たぶん続きを喋ってくれないだろうなと予想して、呑み込む。 「教師の仕事っていうのはさ、ほら、オレなんかの場合は化学を教えることだろ? だけど生徒に甘くしてたら、そっちのほうがなおざりになっちゃったっていうか、そんな感じだったからさ」少し俯き加減のその顔は、悲しみと悔恨が液体化した雨に降られているようだった。俺にはその雨を凌がせてあげる傘もない。 「授業中のオレ、超こわいだろ・・・。ごめんな、本当はああいうふうにするの嫌だし、みんなと喋ったりもしたいんだけどさ、オレのせいで成績落ちちゃったりしたらやっぱり面目ないしな」眼鏡を白衣の裾で拭いて、胸元辺りで持ち直した。「この眼鏡は、威厳っていうか、そういうものをちょこっと付けるためのもの」 そう言って凸レンズを覗き込んで、こちらに顔を向けて、やわらかに一笑した。「みんな高校には勉強しにきてるんだもんな、オレの好き勝手はできないよ」そう言い詰めて、もう一度、ごめんな、と謝り、「オレ、オレみたいな先生絶対嫌いだもん」はは、と笑う。そして、あ、ほら言ってる側から、と自戒して、問題集に目を戻すよう俺を催促した。眼鏡も再度、装着。これで威厳、ついてるのか? と俺は内々で首を傾げる。逆に強がる小動物のようで、愛らしさが増す気もする。 「だから、ここの計算式が、密度=(2.9×10 -8) 3分の2(9.3×10 -23)になるところまではわかるか? あとは数学の問題で──」 「ねえ、先生」 「ん、わかんないか? 最後の答えは有効数字が二桁だから・・・」 「先生のこと口説いてもいい?」 俺とっても気に入っちゃった、と言い募る。先生はその俺の台詞が、明日世界が終わりますという予言にでも聞こえたのかもしれない。まるで信憑性が感じられない、なに言ってんだコイツ、というような目で、俺を見た。 「かわいー」我知らず微笑みながら漏らす。言う、というよりは、勝手に漏れるというかんじだ。「本当、かわいいですね」 すると、暫時、先生は黙り、「・・・いいからさ、問題を、と、ときなさいよ」信憑性ゼロの無軌道な予言をする生徒に返す言葉は、コレらしい。いいから正気に戻れ、と。しかしまだ続きがあったようで、先生は立て続けに口を開いた。 「おまえはさ、そうやって、オレが今しがた、なめられたとか成績ガタ落ちとかそういう情けない話をして、それなのに、尚もオレを馬鹿にして、コケになさるおつもりなんでしょうか」口調が変だ、混乱しているのかもしれない。これは、本当に、可愛いな。 「コケにするだなんて、とんでもない」俺は綽綽余裕な感じでにこにこ顔の口元の綻びをすこし締め、「にこにこ」から「にやり」の擬態語へ移行した。「俺、こういうことは本当に気に入った人にしか言いませんから」 微量なものだが先生に正気が戻ってきたようで、 「・・・言ってろ。まったく、ガキのくせに、生意気な」 「ガキってなんですか、先生といくつも違いませんよ。先生いくつでしたっけ」 「四十二」 「またまた」 「・・・マイナス、成人一人分」 「じゃあ二十二ですか、ほら、俺と五つしか違わない。オッケーオッケー、ありですよ、大いにアリ」 「何が大いにアリだ、五つも、だ、五つも! 五年っていうのは大きいぞ、オリンピックの記憶が一回多くて、よちよち歩きだった幼児が小学校に上がるくらいの、」 「て、あれ?」 「人の話を聞け」 「先生、教師、何年目?」 「三年目」 「それじゃ十九で教師になったってことじゃないですか、おかしいでしょその数字、本当に四十二歳だったりして、あ、でも四十二でも俺はオッ」ケーです、を遮って、 「だって十九で教師になったから、そりゃな。飛び級ってやつがあるんだ、この世には」先生は事も無げに説明した。 「へえ」俺は感嘆した。そりゃ、なめられても仕様がない。新任の頃は、受け持ったクラスが仮に高三だったら、ひとつ年上が教師ってことになるもんな。 「どうでもいいだろそんなこと、早く答えを出せ」 促されて、不承不承計算を始める。7.2g/cm3 、と書いたら、違う、と怒気の混じった声が耳元に飛来した。 |