【オマケ】


くしゅん、という控えめな音が教室内に響いた。そういえばさっきからひっきりなしだな、と思い、花粉か、と結論する。確かに、窓枠によって四角く切り取られた青空にも、心なしか黄色っぽい悪魔の粉が舞っているように見えなくもなかった。
 毎年恒例となっているのか、それとも今年から発症した新参者なのかそのくしゃみだけで判ずることは困難だったが、彼女も春になると人類に一斉に猛攻を仕掛けてくるその悪魔の餌食になっているのかと思うと、同情を禁じ得ない。
 彼女の隣の席に座る男子生徒が、花粉症を患うその女生徒に声をかける。「花粉症?」
 そうなの、春大っ嫌い、と女生徒が鼻をこすりながら首を縦に振る。春大っ嫌い、という固定概念が既に形成されているということは、毎年恒例タイプか。ご愁傷様、だ。
つらいよね、と男子生徒は憐憫の意を表する。お前も花粉症なのか、とオレは疑念を抱いたが、単に気褄を合わせただけか、と思い直した。
男子生徒はその会話を契機に、彼女に矢継ぎ早に話しかけた。もしかしたら、彼は彼女に気があるのかもしれない。「この問題、わかった?」小声で、机上の<一問テスト>を指差している。
 ううん、全然、と彼女も笑う。満更でも無さそうだな、と傍観者のオレは勝手に結論付ける。俺も俺も、としまりのない顔で男子生徒が彼女の言葉に不和随行するのと、
「私語を慎め」という、鋭い語気が教室内の空間を切り裂いたのは、ほぼ同時だった。
 会話していた二人の生徒は肩を聳やかして前に向き直る。男子がアイコンタクトと口の動きだけで、(こわっ)と女子生徒に伝えた。彼女も小さく首を振る。
 教壇に仁王立ちしている教師は時計を確認し、「回収」とだけ生徒に語る。最後列の席に位置する生徒たちが、自分の列の分のプリントを前方へ回収していく。それを教員に渡し、回収役の彼らは黙然と席に戻った。
 その最後列の生徒たちよりも後ろにしつらえたパイプ椅子に凭れながら、まったく、とオレは溜息をついた。オレの猿真似じゃねーか。まあ、悪い気もしないが。
 残る授業時間は三十五分足らず。一問テストに時間を配分しすぎだということと、あまりにも生徒に威圧的すぎることを、後でみっちり叱ってやろう。

 授業終了を告げるチャイムと同時に、厳然たる風情をキープしたままだった新任教員の表情が柔らかくなる。そんなところもオレとそっくりだ。
 委員長による号令を終え、その新任教師は教科書と名簿類を抱えて、教室の後方で授業の様子を見守っていたオレに駆け寄ってきた。その嬉々とした駆け寄り方は、相も変わらず忠犬を彷彿とさせた。
「先生、どうでした、俺の授業」
「先生ってな、お前も先生だろ」
「そ、それはそうなんですけど」
 新任、マスタング先生の弾んだ声を聞き流しながら、オレはパイプ椅子を片付け、小脇に抱える。俺が持ちます、と手を伸ばしてきたマスタングを、大丈夫、と制した。廊下へ歩き出したオレの半歩後ろに、マスタングが続く。
 今年の三月にオレと同じ大学を卒業したマスタングは、就職に関して一切迷いを見せなかった。オレはオレで、もっと広く可能性を考慮しろ、と多様な道や職業を勧めてはみたが、筋金入りのわがまま王子のこと、マスタングは梃子でも意見を曲げなかった。化学の教師になります、の一点張りだ。
 五年前、オレとマスタングはほとんど一緒に聖倫学園を去ったが、その数ヶ月後には校長の不貞が白日の下に晒され、校長自身も高校から追放されていたらしかった。「ぜひ、戻ってきてくださいね」と、春風駘蕩の四字熟語をそのまま体現した彼、メル先生に強く誘われて、オレはマスタングが大学入学を果たした翌年には、聖倫学園に戻ってきていた。
 そんな怒濤の五年間をしみじみと追想しながら廊下を歩いていると、前方からやってきた女子生徒に声をかけられた。
「エルリック先生、マスタング先生と同棲してるって本当ですか?」
 なんでそんなに期待が滲んだ声なんだ、とオレは不審に思いながら、叫ぶように言う。「居候してるだけだ!」
 そのオレの声を聞いて、「居候、ね」とマスタングがわざとらしく繰り返す。「そういう表現も、まあ、間違ってはないですね」
 オレはパイプ椅子でこいつの脳天をかち割ってやろうかと本気で考えた。怒りに震えるオレを尻目に、マスタングは素知らぬ顔で歩を進めていく。歯軋りしながら、ぽかんとした表情のままの女子生徒を置いて、オレもマスタングの横に並んだ。
「今までは学生でしたから、言いませんでしたけど」マスタングは様々な色合いを含んだ声で、唐突に切り出した。「こうして俺も、ひとかどの社会人になったことですし」
 オレは耳を欹てて警戒する。こんなふうにもったいぶる時のマスタングは、突飛なことを言い出すと相場が決まっている。
「結婚しましょう、」マスタングはこちらを見下ろして、いつもの笑顔で、まるでただの挨拶みたいにそんなことを語りかける。「居候さん」
 居候さん、という最後のアイロニーがなかったら、オレは暫し身動きがとれなくなってしまっていただろう。結婚という重大な単語よりも、居候という皮肉っぽいその言葉に励まされて、オレはいつものように、強がった。
「お前は、法律を一から学びなおせよ」
 ふん、とマスタングから顔を逸らしたら、揺れた自分のポニーテールが首をくすぐった。同性同士の結婚は認められていない、常識だ。
「わかってますよ、」マスタングは弁明するように捲くし立てる。「でもほら、気持ち的なものとかあるじゃないですか、二人でおそろいの、指輪、とか・・・・」オレに却下されるのを見越したのだろう、彼の言葉は尻すぼみになった。
 おそろいの結婚指輪。男同士で。ギャグだとすれば、満点だ。
「ご冗談を」オレは本心から言った。冗談、ともう一度繰り返す。
 ですよね、と後方でマスタングが肩を落としている。しゅん、と耳と尻尾を垂らした犬のようなその情調に、お人好しのオレは、例にもれず情が湧いてきてしまう。
「結婚は無理だが、」オレは極力ぶっきらぼうな声音で、口を開いた。「・・・国籍くらいなら、変えてやってもいい」
 悄然と垂れていたマスタングの耳と尻尾が、ぴんと立ち上がった。餌を待つ忠犬然としたその表情の発露は、昔も今も、ちっとも変わらない。
「・・・・国籍?」首を傾げるマスタングは、五年前、初めて彼がオレに化学の質問をしに印刷室へやってきたあの時よりも、はるかに純然たる疑問符を点していた。「どういう意味です、先生」
 鈍感野郎、とオレは無音で毒を吐く。「自分で考えろ!」お前も一介の教師なんだからな。
「そ、そんなこと言わずに、教えてください」
 マスタングは潤んだ瞳で、オレをじっと見つめてくる。現前する謎に困窮し救いの手を求める、その向学心が横溢したような目は、教師という役職についている人種全てのウィークポイントに違いない。
 絶対的確信犯であるマスタングに、見事に弱点をくすぐられたオレは、一年は好きって言ってやらないからな、という負け惜しみにも似た思いを固めてから、言った。
「オランダじゃ、同性愛結婚が認められてる!」
 刺々しく叫んで顔を背け、すぐに早足で職員室へ歩を進めだした。
 バサッ、と背後で音がする。マスタングが、抱えていた教科書類を落としたのだろう。
「先生!」
 千切れそうなほど尻尾を振るあの優秀な犬は、一年後くらいには完璧に、オランダ語をマスターしているに違いない。



END





【オマケ2(オフ本にも未収録の書き下ろしです^^*)】


 俺の彼女さ、記念日とか忘れると怒るんだよね、という同僚の軽はずみな嘆きを思い出す。
「可愛いもんじゃないですか」一問テストの丸付けをしながら打ったオレの相槌は外交辞令ではなく、本心だった。
「まあ、可愛いんだけどさ」結局彼の話は、いつもノロケで終結する。実に平和的で、微笑ましいことだ。「なんで女ってのはさ、ああも記念日っつうものに拘泥するんだろうな」
「記念日を覚えて、それを忘れた男を叱責するのが、女の仕事なんですよ」そう、<女の仕事>だ。オレは内々で、我ながら当を得た己の発言を反芻した。
 そういうもんかね、と同僚は首の後ろを掻く。「そういや、エルリック先生は、彼女とうまくいってんの?」
「いや、まあ」オレは曖昧に笑ってみせた。彼女、という単語に、耳が警戒心を露にしている。カノジョ? アイツは「カノジョ」じゃなくね? という感じで、だ。
「同棲してるんだって? 綺麗な顔して、意外にやることはちゃんとやってるよなあ、エルリック先生も」
 どういう顔なら、彼女と同棲していても「意外に」と言われずに済むのか、オレはいつも疑問だ。ダスティン・ホフマン似であれば、ある程度奔放な女性関係を持っていても驚かれないだろうか、とも思う。教会から花嫁を強奪できる彼なら、女性との同棲などおそらく動作もないほど初歩的な行為だ。 

 以前同僚と交わしたそんな会話を想起しつつ、オレは耳に当てた携帯電話から漏れ出す、「カノジョ」の小刻みに震えた声を聞いている。
「すみません、先生……!」漏れてくるのは、今にも泣き出しそうな、情けない声音だ。「今日、ゼミのメンバーで飲み会が入っちゃって……学園祭の模擬店の話し合いも兼ねてるので、ちょっと抜けられそうになくて……帰りが遅くなりそうなんです」
「そんなことくらいで、そんな情けない声出すんじゃねえよ」
「だって今日は、記念すべき三十三回目の記念日なんですよ」
「いや、全然キリとか良くねえし」<女の仕事>であるはずの任務を、よくもまあ、まめまめしくこなしていらっしゃることだ。「お前は女か、マスタング」
「先生、もしかして忘れてましたっ?」何年経っても、お互いの関係性が教師と生徒でなくなった今でも、こいつはオレを「先生」と呼ぶ。
「……忘れてた」
 にべもない返答でマスタングの詰問に迎撃するオレの声には、微量の嘘が混じっていた。マスタングはこの後飲み会だということを考慮すれば、これくらいの嘘なら、おあいこだろう。すぐさま電話機が「そんな、ひどい」と稚気の滲んだ声色で拗ねる。
「お前、頼むから、人前でそういうこと言うなよ」
「え、言っちゃ駄目なんですか?」
 おいおい。勘弁してくれ。眩暈と共に、電話を切った。
 赤の電源ボタンを押してから、あ、と遅れて気付く。オレがダスティン・ホフマンに似ているかどうか、マスタングに聞きそびれた。
 まあ、聞くまでもないか。



悪たれ千一夜



 一から説明するとたいへん長い話になるので割愛するが、オレとマスタングが付き合いだした頃というのは非常に多事多難な日々の最中、とかく災難や難局ばかりであったので、明確な「記念日」というのは不明と言っていい。そもそも、オレにいたっては「付き合っている」と認めた記憶もないのだが、恥を忍んで言えば、まあ、マスタングのことは、嫌いじゃないし、一緒に住んでいるし、「恋のABC」も、まあ、済ませてしまっているわけなので、「付き合っていない」と表現するわけには、如何せん、いかない。そうなると取りも直さず、オレは付き合ってもいない相手とそういう事をするような奴、ということになってしまう。それだけは御免だ。オレはそんなに簡単じゃない。
「先生の、簡単じゃないところも好きですけど、たまに、簡単じゃなさすぎるというか、度が過ぎてます」以前マスタングは、唇を尖らせるいつものポーズで、オレにそんなことを言った。意に満たないような口振りで、マスタングがそんなふうに不貞腐れる頻度は、年々増しているような気がする。「だって、」彼の口調は、街頭演説をする政治家のようにしかつめらしく、且つ仰々しく、オレに切切と訴えかけた。一体どんな理由が飛び出すのだ、とオレはマスタングにマイクを向けてやりたくなる。「もう、二年以上一緒に住んでるのに、まだ、一回だって、俺とお風呂に入ってくれないじゃないですか」
「お前と一緒に風呂に入る理由が見当たらない」背中だって一人で洗えるしな、とすげなく付け足しながら緑茶を啜った。
「一緒に住むようになって、もうすぐ千日が経つんですよ」オレたちの「記念日」とやらは、オレがここ、マスタング邸に引っ越してきた日に設定されている。「千分の一ですよ、千分の一すらないんですよ、もはや、天文学的数字じゃないですか」
「なんの確率だ、それ?」いぶかしむオレに、
「俺と先生が一緒にお風呂に入る確率」とんでもない返答が戻ってくる。こんな街頭演説をする政治家がいれば、オレはその度胸を買って、むしろ一票入れてやるかもしれない。
「そんな確率を計算する暇があったら、地球近くを浮遊している惑星が衝突する確率でも求めてくれよ」その方が世界への寄与にもなるぞ、と補足する。
「俺にとっては隕石の衝突より、人類の滅亡より、遥かに大切な確率なんですよ」
「オレは一時でもお前の教師であったことが、心から恥ずかしいよ」オレは眉間に手を当て、それこそ人類滅亡を目前に控えたような溜息をついた。「慙愧に堪えない」
「それに、まだ明るいところでエッチだって、」
「それ以上言ったら、ぶち殺す」マスタングの野卑な語尾を遮るように、テーブルを拳骨で強打した。
 うっ、と怯んだマスタングは眉毛をハの字にし、現実から目を逸らすように瞼を閉じたかと思うと、「……俺は先生のそういうところが好き、俺は先生のそういうところが好き……」と悲痛すぎる念仏を唱えた。
「念じんな! 自分に暗示かけんな!」

 普段はこんな調子だが、オレだって別に、マスタングが憎いわけじゃない。一応、お、お付き合いしているわけなのだから、そんなの当然だ。それでもオレが憎まれ口ばかり叩くのは、オレの本有的なへそまがり体質のせいである。オレは素直じゃないし、強情だし、男としてあるまじきレベルの奥手なので、「二人でお風呂に入ろう」などと誘えるはずがない。天と大地の位置が逆になることより、空の色が突然緑に変わることより、天然記念物のトキが一般家庭で飼育されるようになることより、オレがそんな発言をする可能性のほうが低い。更に言えば、ドキンちゃんが食パンマンからカレーパンマンに変心する可能性よりも──否、さすがにそこまでは低くないかもしれない。それは、有り得ない。
 くどくどと御託を並べる結果になったけれども、とにもかくにも、一緒にお風呂に入りましょうだなんて、オレがそんな峰不二子ばりのコケティッシュな台詞を口に出せるわけがない。上辺は虚勢を張って取り繕ってはいるが、根はとんだチキンなのだ。だからオレは、入浴の際、黙ってそっと浴室の鍵を開けておくことくらいしかできない。それくらいしかしない。それがオレの精一杯、たったそれだけでも満身創痍なのだ。
 二年以上寝食を共にしているのだから、マスタングはそういうオレの側面を見抜いて然るべきだ。見抜けないお前が悪いのだ、と。
 責任転嫁の能力に巧拙や優劣があるとしたら、オレはとっくに黒帯の有段者だろう。

 いかにも、という雰囲気を纏わせた、ノーブルな本皮を張り巡らされたオレの手帳は、去年のマスタングからの誕生日プレゼントだ。手帳カバーの内側には、オレの名前まで刺繍されている。手帳に名前を刺繍するという概念が無かったので、頂いたときには舌を巻いたものだ。たいへん有難いことではあるが、オレの安っぽい仕事鞄からこの手帳を取り出すのは、毎度若干の逡巡を伴う。「彼女からのプレゼントだな」と同僚の目の敵にされること請け合いなのだ。そんなささやかな悩みを漏らした際、じゃあ来年は鞄をプレゼントしますね、とマスタングが意気込んだことについては論を俟たない。そういう問題じゃねーっつうの。刺繍入りの鞄は勘弁だ。
 総理大臣が小脇に抱えていてもおかしくないような──総理大臣というものは、その肩書きから想像するほどの高給取りではないそうだけれど──その豪奢な手帳を開くと、ちょうど今日が記念日にあたることに気が付いた。毎月やってくるものなので、今更嬉々と浮き足立つようなイベントではないにせよ、今日は定時にあがれそうだし、たまには何か用意してやってもバチは当たらないだろう。
 何を用意するか、と悩む時間は数秒にも満たなかった。カレーだ。あいつは、何よりもオレの御手製カレーをこよなく愛している。家事も料理も不得手なオレだが、馬鹿の一つ覚えとはよく言ったもので、カレーだけには並々ならぬ自信がある。高校時代、一人暮らしを始めるオレに、「せめてカレーくらいは自炊しなさい」と母親がご高説してくださった、とっておきレシピを今でもしっかり覚えているのだ。
 よし、と腕まくりをし、馬力を掛けて残りの仕事を済ませて、“デスク”としか呼びようがない事務的な机に散らばった資料やペンを、粗雑な仕草で鞄に詰め込んだ。オレの御手製カレーを前にした、マスタングの喜びに満ちた表情を想像する。あれはけっこう、歳相応で、可愛らしい。自然とオレの口元も綻ぶ。
 いつもは悪たれ口ばかり垂れているけれど、オレだって別に、あいつが憎いわけじゃないのだ。

 飴色玉葱がオレのカレーの極意、真髄だ。底の深いフライパンの上でじっくり三十分以上は、丹念に玉葱を炒める。なかなか骨の折れる作業ではあるが、感動的なあの味わいを思えばいささかも苦ではない。
 今日は金曜、マスタングは五限までみっちり授業が組まれているはずだから、帰りは七時過ぎになるだろう。すきっ腹で帰宅したところをオレのカレーが出迎えれば、あいつは歓喜のあまり失神するかもしれないな。オレはフライパンの上で木ベラを踊らせながら、一人ほくそ笑んだ。原型を留めないくらい柔らかくなった玉葱を、なおも我が子の髪を梳くような手付きで、丹誠込めて炒め続ける。
 最終的に褐色のペースト状になった玉葱が、ちょっともう勘弁してよ、と音をあげるくらいまで火を通してやったら、続いて牛肉を軽く炒め、水と野菜を投入する。あとは灰汁を掬うくらいで、調理はフライパンに一任だ。手隙になったオレは米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れる。
 我ながら、なんという手際の良さ。惚れ惚れするぜ。今日はマスタングの野郎がいないので、殊にてきぱきと作業を進められた。あいつがいると、何かにつけて邪魔に入ってくるのだ。毎度、「エプロン姿の先生は、本当、滾ります」などと、もはや称賛というよりも言葉の暴力に近い放言をしながら、オレの腰に背後から手を回してくる。当然オレはそれが世界の摂理であるかのように、マスタングに肘鉄を喰らわす。そんなやりとりを、少なく見積もっても既に百回以上は繰り返しているにも拘らず、マスタングは懲りる気配すらない。あいつの学習能力はチンパンジー以下に違いない。
 垂れ流し状態になっていたテレビはアニメを映し出している。子ども達のゴールデン・タイムか、とオレは濡れた手を布巾で拭いながら、なんとはなしにテレビの前へ腰を下ろした。最近のアニメはこんなに絵が綺麗なのか、と思わず感心する。三十二インチの液晶の内側では、右手と左足が義手義足である金髪の少年が、ちょこまかとはしこい動きで走り回っている。
 携帯の着信音はアニメのエンディング曲に掻き消されてしまい、しばらくオレの耳に届かなかった。内蔵の着信音のうちでは最も洒落ていると思われるそのメロディが、二回ほどリピートされたあたりで、オレは慌てて携帯を取った。待ち受けは言うまでもなく、愛猫イオン。携帯を開く度オレがにやつくので、職員室内では一時期、オレの待ち受けには恋人の写真が貼り付けられていると噂になった。オレは汚名を返上すべく、「違うんです、猫の写真なんです」と説明して回ったら、どうしてかオレを不審がる目線の色はより濃くなるという結果に終わった。ぞっこんの彼女ににやつく男性よりも、自分の愛猫ににやつく男性のほうが、変人レベルが高いらしいということを、そのとき初めて知った。
 話を戻そう。オレは通話ボタンを押して、電話機の小さな穴を外界へリンクさせた。
「はい、もしもし」着信相手は画面で確認したので、よそゆきの声を用意する必要も無かった。「授業終わったのか?」
 もしもし、とオレの鼓膜を突いたマスタングの間延びした声は、不格好に震えていた。突然「すみません」と謝ってきたかと思うと、「今日、ゼミのメンバーで飲み会が入っちゃって……学園祭の模擬店の話し合いも兼ねてるので、ちょっと抜けられそうになくて……帰りが遅くなりそうなんです」続けて謝罪の理由がオレの耳に告げられる。
 ぴた、とオレの動きは三拍停止し、その後、コンロの上にふてぶてしく鎮座するカレー鍋を一瞥した。いや、別にいいけどね、と自らに言い聞かせてから、「そんなことくらいで、そんな情けない声出すんじゃねえよ」平静を装った声のトーンで、マスタングを詰る。
 その後何回かの言葉のキャッチボールをしてから、通話を切った。携帯の画面が待ち受けのイオンに戻ったのを確認してから、「……別に、いいけどね」今度は声に出して、呟いた。大学の付き合いだって、大切だ。
 台ふきんで念入りに磨いたテーブルを見遣った。そこには、帰りの道すがら買ってきた、新しいカレー皿が二枚、物寂しげに並んでいる。

***

 こんなことなら三合も炊くんじゃなかった、と歯噛みしながら、米の炊き上がりを知らせる炊飯器の電子音を聞いた。最近買い換えたこの炊飯器は、炊き上がり時にえらく洒落たメロディを鳴らす。炊き上がりを知らせる音。我が国の国民であれば、誰しもが浮き足立つはずのそのメロディが鳴り終わらないうちに、オレは無愛想に炊飯器の蓋をあけた。
 一般的に考えれば無謀のようにしか思えない量の白米を皿に盛り、完成したお手製カレーをそこへかけて、テーブルにつく。いただきますの挨拶もせずに、スプーンを取った。
 一人のご飯ほど、早く済むものはない。ロクなテレビがやっていなければ、尚更だ。残業もこれくらい早く終わればな、と詮無き不満を漏らしながら、空になった皿を流しへ運んだ。
ひとつ断っておくが、オレのお手製カレーは今日も完璧な出来だ。オレの気分がなかなか浮上しないのは、カレーの味のせいではない。当たり前だが。
 でも、たかだか奴の帰りが遅いくらいで、こんなにむしゃくしゃしている年甲斐も無い自分を認めるのは、あまりに癪だった。冗談じゃない。もう二十五だぞ? 四捨五入すれば、三十だ。恋愛ごときにうろたえて許される年頃か? 冗談じゃない。
 でもまあ、孔子に言わせれば「惑わず」になるのは確か四十だから、まだうろたえたり戸惑ったりするのは許される年なのだろうか。なんて、そんな取りとめもないことを考えながら、風呂に入り、夜も更けきらないうちに早々と寝室へ向かった。

 こんな、焦燥が常に胃袋に噛み付いている状態で、寝つきなど良いはずがなかった。身体は疲弊しているはずなのに、目と脳だけが異様に冴えている。脳などは、それに寄った無数の皺がミミズのようにぐねぐねと蠢きだしそうなほどに、活発に稼動している。
 ゼミの飲み会か、女子もたくさんいるだろうな、と考えては、正気に戻れ! とかぶりを振ること、小一時間。それらの葛藤や懊悩をからくも払拭し、眠りという海の浅瀬に足が浸かったあたりで、玄関の扉が開閉する音が聞こえた。ロイ・マスタング様のご帰還だ。
 そろそろとおっかなびっくりこちらに近寄ってきていた睡魔が、その音に怖気づいたのか、踵を返して敗走していく。オレの目は飽くなき精神で、また冴えてくる。タイミング悪いんだよ、とオレは理不尽な憤りをマスタングに抱いた。
 程無くして、マスタングが寝室のほうへ静々とやってきた。オレは狸寝入りを決め込んでいる。
「……先生、カレー……」
 ベッドサイドで披露された情けない声に、やむなくオレは瞼を開く。「……おまえ、酒臭い」
 指摘すると、すみませんっ、とマスタングは口元に手をやった。相当飲んでいるらしいが、振る舞いは素面同然だ。とんだウワバミなのだ、こいつ。心臓はもとより、肝臓にも毛が生えているに違いない。
「カレー、作ってくれてたんですね」マスタングの眉間には哀感漂う皺が浮かんでいる。「今日は、記念日だから……!」どうして言ってくれなかったんですか、とますます彼の表情は悲愴な面持ちに変わっていく。「先生がカレーを作って待っていてくれたなら、絶対飲みになんか行かなかったのに……」
 ビーフジャーキーのお預けをくらった犬のように、マスタングの肩がしゅんと縮こまった。いつもならこの辺で「待て」を解いてやって、ジャーキーを与えてやるのだが、今日ばかりはオレのヘソもなかなか真っ直ぐにはならない。
「別に、お前の為に作ったわけじゃない」ふん、とマスタングに背を向けるように寝返った。「オレが食べたかっただけだ」
「嘘ばっかり」ベッドサイドにしゃがみこむ忠犬が、牙をむく。「だったら、あんなに甘口にはしないはずでしょう。先生は辛口が好きですから」
 ギク、とオレの肩が震えたのが、マスタングにも見えたらしい。
「記念日、覚えててくれたんですね、嬉しいです」
「……三十、三ヶ月?」背を向けたまま、くぐもった声で返事をした。曲がっていたオレのヘソが、少しずつ前向きになっていく。
 はい、と忠犬は喜ばしそうに声を高める。「きっと、千日は越えましたね」
(千日、ね……)オレは確かめるように内々で繰り返した。
 長かったような、あっという間だったような。喧嘩もいっぱいしたな(喧嘩というか、オレが一方的に怒っているだけだが)。オレが頑迷なもんだから、いつも先に折れて謝ってくるのはマスタングのほうだ。本当、我が教え子ながら、感心する。こんな横着者のオレなんかと長年付き合っていけるような奴は、世界中探したってマスタングしかいないだろう。
 いつだってオレを、まっすぐ想ってくれている。ほんとは、すごく感謝してるんだ。そんなことは、面と向かって言えないけれど。
(──でもさ、)オレはきゅっと唇を噛む。

「お風呂、入ってきますね」
 彼のほうへ向き直ったオレに微笑みかけてから、マスタングは「先に寝ててください」と言って立ち上がり、ドアのほうへ爪先を向けた。
 ベッドから抜け出し、大きく打ち始めた心臓を無視して、オレは部屋を辞そうとするマスタングを追いかけ、彼の服の裾を、後ろから摘んだ。瞬時にして、耳朶まで熱が帯びていく。
 疑問符を点してこちらを振り返ったマスタングが、上擦った声を出す。「先生?」

 ──でもさ、あんまりにも意固地なままだったら、さすがのマスタングだって、オレに愛想を尽かすかもしれない。オレだって、それは怖いんだ。
「……一緒に、風呂、はいる」

 だからさ、千日に一回くらいは、素直になってやってもいいよ。
 千一日目の明日には、いつもの悪たれ口に、戻るけど。



END