また明日、じゃない。
さようなら、をした相手に、再び会うことは許されるのだろうか?
そんなことを考えてた。

でもきっと、許されるんだ。ハローは何度だって唱えられる、幸せでやさしい呪文。
さよならなんて辛い歌は、もう二度と、欲しくなかった。


Glitter Song (1)


暗黒の影がオレを追ってくる。
オレは死に物狂いで逃げ惑い、眼前に冷たく鎮座する一本道を不恰好に喘ぎながら走り続ける。
声は頑なに出してくれないくせに、格好悪く乱れる喘息はいくらでも吐き出す喉に、現金な奴だ、と悪態をつく。それでも助かった部分もある、この不完全な喉のお陰でどうにかオレは呼吸ができるらしかった。
漆黒の追っ手はいやに韋駄天だ。ひどく足が速い。そして無慈悲に、その俊足でオレを追い詰める、すぐに追いつかれてしまう──いつもそうだ。
(もっと、はやく、走って・・・!)うすのろな両足に諂って、請う。どんなおべっかも浴びせてやる、逃げ切れたら優しく労わってやる称揚だってしてやる、だから今だけはオレにスピードを──
(速さを──!)
目の前の現実は無情だ。
ほら、もうすぐ、後ろに、黒い魔手が伸びてオレの背を、掴まえようとする。
(やだ、やだ、)
殺されてしまう、


「Hello・・・」
早朝、というよりも暁の五時少し前、冬の空はまだ真っ暗だ。
ベッドに正座しながら、開いた窓に向かって、はぁ、と息を吐き出してみる。白濁に燻った吐息が一刹那で霧散した。冬だけの、この吐息の視覚化に意味を見出すとすれば、視覚で人間に伝えようとしてくれているんだ。『今日はとっても寒いですよ』。暖かい格好で出かけるように、と。冬の吐息は親切だ。
今日も最悪の夢見で、こんな時間に起きてしまった。
あの黒い追っ手が、現の今でさえ背後にいるのではないかと、時折、後ろを向いて確認してしまう。頭悪いな、オレ。
この孤児院へと送られてきてから、ということはひとえにあの男──認めたくはないが、オレの父親──がトラックに轢かれて無様に死んでくれてから、一年以上の歳月が経っている。それなのに、まだあいつは追ってくる。あの追っ手が誰なのか、オレにはわかっている。憎むべき敵だ。至高の怨憎を抱く、オレの生涯に亘る敵。
轢いてくれたトラックの運転手には、平伏してお礼を言いたいところだが、生憎酒気帯び運転であったために檻の中に入ってしまっているらしい。オレにとっては、その檻から救い出してあげたいと思うぐらいだ。有難い、きわめて有難い。あの男を殺してくれて、ありがとう。

だと、言うのに。
オレはまだこんな脆弱な夢を見る。未だに、あの男の掌上にめぐらされているのだ。
(悔しい)
窓枠を、強く握った。ミシ、と軋んだ音がしたので、やめた。
凛冽とした寒気が鼻の頭をくすぐって、くしゃみがひとつ出る。それでもオレは窓を閉めずに、朝がもうじき来るというのに慇懃に夜空で踊ってみせる星を仰いだ。
「Fa la la la・・・」
(覚えてる、かな)一番明るく輝いている星に焦点をあわせて、ぼんやりと心の中で思う相手に尋ねる。
(オレのこと)
『──エド』
確かに聞こえる。この耳にちゃんと、残っている。それを確かめて、安心した。
あの、こわいほどに、やさしい、声。
寒気にほだされて冷たくなった窓枠に両腕を乗せて、その上に頭を寝かせる。
(オレはおぼえてるよ)
忘れられていてもいい。そう思うようにしている。
そうでもしないと、悲しくて、懐かしくて、あんまり幸せで、どうにかなりそうだった。
(オレは、絶対、わすれないから、)それでいいんだ。
相手の気持ちが薄れても、たとえ自分だけの一方通行でも、直向きに気持ちを送れば、その道の痕は消えない。片道だけでも、相手への道しるべは残る。見返りも、帰り道だって、求めていないし無くていい。オレが、オレだけでも、しっかり覚えていれば、相手への道は消えないんだ。
孤児院仲間のレイは、そんなの不毛だ、さっさと諦めろよ、忘れろよ、って言うだろう(語尾が推測なのは、オレが言葉を話せないせいでこの考えを伝えられないので、相手の返答も知る由が無いから。でもレイは打算的、功利的な奴だから──この場合、それを建設的ともいうのかもしれない──こんなオレの考えなど、きっとせせら笑って問題にもしない、と思う)。
でもいいんだ。そんなふうに言われたっていい。
だって、その人は、
(おれのいちばんたいせつなひと)
ずっと、一番大切な人。
今後どんなヒーローがオレの現前に参上したとしても、それは不変で、ずっとずっと、オレの一番大事な人。
(元気かな)今日も、笑っていてくれればいいな。
オレと一緒じゃなくてもいい。他の誰かと、笑っていればそれで。

思い出す、長いようで泣きたいぐらいに短かった、一ヶ月。そう、たったの一ヶ月。
初めて見た野球中継、難儀を極めた皿洗い、規則正しく二人の身体を揺すったデンシャ、いまだにどんなものだったのかわからないけど、一瞬部屋を明るく照らすほどの光を放つ、黒くて不思議な形をした箱のような、カメラ、とやら。
『大丈夫、おやすみ』
声、温もり、オレの頭を撫でた温かくて大きな──

中断。
追憶を慌ててやめた。夜空の星が滲んだので、危うく泣きそうになっていたことに気がついたのだ。
泣かないんだ。ぜったい、泣かない。幸せな記憶の中で、泣きたくはないんだ。
涙はいつだってオレに、苦渋や悲痛の象徴である、というイマジネーションしか抱かせないから、こんな幸福な追憶の中で涙なんて要らない。
薄れていく星たちの光、じきに太陽が挨拶をしてくれるだろう。ハロー。

凄愴な記憶を、いつか、幸福の記憶が凌駕してくれることを祈って、眠った。
きっと今日はもう、おぞましい夢は見ない。

(また会いたいなんて、わがままはいわないよ)

あの一ヶ月は神様がオレにくれた、唯一のおくりものなんだ。
もうひとつ、なんて言ったら罰があたる、そういうものだ。


***


厳然とした、でもどこかやわらかい、そんな寒空の下でこの孤児院のメンバーたちが鬼ごっこをしている。あ、今日は缶蹴りかな。
オレはそれを室内で、窓から頬杖をついて見下ろす。
最も容易な意思疎通の手段であろう『会話』ということができないオレは、やっぱり疎外されてしまう位置にあるようだった。
きゃはは、という甲高い女の子の笑い声が空に溶けた。あんなふうに、声を出して大笑いすることもできない。
転んで膝を擦りむいて、鮮血の滲む擦傷に狼狽し泣き喚く男の子が居て、その様子を、というよりも“泣き喚く”というその行為を、羨望の眼差しで見つめる。声をあげてわんわんと泣くことができたなら、今でもこの喉は正常に機能していたかもしれない、とも思う。
「Hello,hello. The god and I are praying to meet my dear person. If it is loveless, I cannot live・・・」
そういえば、新しい“歌”なら、この喉は覚えてくれるのかな?
そんなことを思いついたけれど、なんだか面倒だったので、あきらめた。歌を覚えたところでどうする?どうせあの輪には入れない。
それならこの歌でいい。あの人が褒めてくれた、この歌でいい。
『綺麗な歌声だな』
またあの優美な声を思い出して、はにかむように笑んだ。
「また歌ってるのね」
部屋を掃除していた先生が、床から顔をあげてオレにほほえんだ。
オレは口元が緩んだまま先生の方を向いて、小さく頷く。『歌しか、うたえないから』
そう伝えたつもりだったけれど、先生はまた床を履き始めた。どんなに表情を使って喋ってみても、それを読み取ってくれる人はいない。べつに悲しくはない、だって、普通そうなんだ。
(ロイさんが変なんだよ)肩をゆらして無音で、クスクス笑う。
あの家にいたときは、心の中で“ロイ”と呼んでいた。でも歳月と遥かな距離がオレの前に立ちはだかり、その存在に気がつくたびやっぱり少しずつ面影は遠くなって、今ではすっかり呼び捨てなんてできなくなってしまった。
それはもちろん悲しいことだけれど──それでいい。そういうものだ。全てのものは、変わっていく運命にある。
それでも、ただひとつ、変わるまいと抗っていたいのが、この気持ち。
オレがおじいさんになっても、この気持ちだけはきっと、変わらないと願っている。
「Hello・・・」
この歌が何度だって、この胸にある不変の思いを新たにしてくれるから。


***


いつだって思っていたよ。
いつだってオレの希望だった。糧だった。絶えることのない幸福だった。
だから、
だから、

「帰ろう、エドワード」

あの日はとんでもなく泣いてしまった。



オレがいつものように、窓外の景色を見るともなく眺めながら鼻歌のように歌っていると、血相を変えた先生がばたばたと走ってきた。
なんだ?火事でもあったのかな?なんて自分的にかなり危機度の高い選択肢を思い浮かべながら、廊下を疾駆する先生を見遣る。
『どうしたんですか?』
「え、えど、エドワード君よね!エドワード君!」会話が噛みあっていないことはわかっている。
『何かあったんですか?』今起こっている、先生をあんなにも怪顛させる事態を問うべく必死に表情を操る。
「で、電話が、軍の人が、」
自分の意思が通じたとか通じなかったとか、そのときはどうでもよくなった。
とりあえず、よく口から飛び出なかったなと感心するほど、心臓が大きく跳ねた。
ドクン。
「あなたを引き取りにくるって!」

・・・へえ。
あ、そう。
それが、オレの第一印象。
あまりに信憑性というか現実味というか蓋然性がなかったので、心臓は一度飛び上がったきりで、そのあとはどきどき忙しなく動いたりもしなかったし、驚きも戸惑いも、緊迫感もなかった。でもちょっぴり期待という恥ずかしい思いが巣食っていたのは、否めなかったけれど。
たぶん、何かの間違いだ。そう呪いのように言い聞かせた。本当に間違いだったときに、落胆しないようにと。
だって、名指ししてなかったもの。ロイさんかどうかなんてわからないし、違う“エドワード”を探している人かもしれない。エドワードなんて、有る図な名前だし。
期待しちゃ駄目だ。その分、落胆も大きいから。
(かみさまは意地悪だな、こんな期待をさせたりして)
無駄だよ、オレはこれ以上堕ちようがないぐらいの苦痛を知ってるから、こんな事態然してもない。
「Hello,hello・・・Fa la la la・・・」
あの人が褒めてくれた、この歌があれば、オレはどんな艱難も平気だよ。
もう泣いたりしない。

泣いたりしない。そう思っていた。
まるで逆の意味で、泣くことになるなんて、思いもよらなかったから、さ。
確証のない宣誓とか賭け事はしないほうがいい、ということをそのとき学んだ。


待合室に来たっていうから、とりあえず、その部屋へと向かう。
(期待するな、ぜったいするな、)
でも、今になって心臓がドキドキと内側から、乱暴に左胸あたりの皮膚を叩いた。厄介な奴だ。落ち着け、落ち着いて、おねがい。
部屋の前まで歩を進めて、待合室から漏れる電灯の光を見て、足を止めた。この白い光の下に、いるのは、誰だろう?
『期待するな』
待合室に設けられた安っぽいソファを、温めているのは、誰だろう?
『期待を、』

ようやく、顔をのぞかせた。

「あっ」オレの喉が生きていれば、そんなふうに漏らしただろう。
待て、まだ、駄目だ。
まだ、まだ、期待しちゃいけない。心臓だけは、耳元でがなりたてているけれど、その他の部分は冷静沈着を保っていて、まだ。

『ほんとに、オレでまちがいないの?オレのこと、おぼえてるの?』

「当たり前だろう」

その一言を聞いて、涙器が途端に破壊された。
ばっと廊下の方へ隠れて、屈みこんで、故障した涙腺から怒涛のように溢れ出てきた水分を隠すように、両の手で顔を覆う。
(うそ・・・っ)
うそだ、こんなの。

自分に言い聞かせてたよ、もう会えなくても辛くないように。
会いたいと思ったって、ちゃんと見て見ぬ振りをしたんだよ、ロイさんが困らないように。
自分が落胆しないように──そうだ、オレは逃げていた。
夢の中で後ろから追ってきたあの黒い影は、父親ではなかったのかもしれなかった。淡い期待、どうしたって胸に巣食う悲哀、懐古、それらが大いなる闇となって、オレを追っていたのかもしれなかった。
それなのに、
(どうして会いにきたりするの・・・)
オレの努力が水の泡だ。オレの我慢が全部無意味になった。
(ぜんぶ、ぜんぶ無駄になっちゃったじゃんか、ばか)
廊下にしゃがみこんで涙を流すオレの頭の上から、あの優美な声が、何千回も思い出した声が、落ちてくる。一寸だって記憶と違わない声。あのときの声。一生忘れないと誓った、あの声。
オレは寸分たがわず記憶していた。
「エドワード」

(うれしくてしにそうだ)

かみさま、やっぱり、おくりものをもう一つねだりたい。
そんなことをしたら怒りますか。

たとえ地獄に落ちてもいいから、目の前の人を抱きしめてもいいですか。

地獄よりも、今のこの幸福を手放すほうがよっぽど辛い。
おれは心の底から、そう思うんです。

オレが飛びついて後ろに少しよろけたロイさんは、しっかりとオレの背中に腕を回してくれた。そうして二年前みたいに頭を優しく撫でて、オレの名前をもう一度呼んだ。

「帰ろう」

頷くまでもなかった。
ただオレはひたすら、その懐かしい胸の中で泣き続けていた。


ロイさんの服はいいにおいがした。あの家のにおい。

あの家──オレの帰る場所。

そう呼んでも、きっとロイさんは怒らないでいてくれるはずだ。


::to be continued::



わー Glitter Song第一話でございます・・!
今回はエドたまの一人称でしたが、次回からは本編と同じく主はロイさんになると思われます・・うーんどうだろう
孤児院でのお話が本編では書けなかったので、ちょっとそこを補足って感じでとりあえず第一話・・!です!ドキドキ
頑張ります・・!//