ミスター・ジャスティス


【1】


国内一の難関私立中学に一発合格。国内一の難関私立高校を主席で卒業。国内一の難関国立大学に現役合格、さらに主席で卒業。大学在学中に、司法試験一発合格。現在は法曹界屈指の天才検事として注目を浴び、その期待を裏切らない、面目躍如・八面六臂の活躍を見せている。
彼の肩書きは、ざっとこんな感じだ。そこ退けそこ退け、エリート街道驀進中。やりたい放題し放題。庶民としては、羨望や尊敬よりも溜息が先に出る。
広辞苑の出版社は、「エリート」の欄に彼の名前をいれるかどうか、目下白熱した議論を繰り広げている。との噂。
「失恋だな?」
彼はそうオレに問いを投げかけ、口の端を卑しく吊り上げた。超のつくエリート様であっても、他人の不幸に蜜の如き甘みを感じることに変わりはないらしい。オレに言わせてもらえば、彼は、高学歴と人格者がノットイコールであることの証明みたいな人物でもある。
「私がそう推測する根拠は二つある。ひとつ、」
「失恋じゃありません」
「うるさい。ひとつ、」彼は原則として人の話を聞かない。「その雁の腹のように腫れた瞼、そして目の下の隈。明らかに夜通し泣いていた顔だ」
「それより早く次の被疑者を」
「ふたつ、」彼は原則として自分の欲求を優先する。「君がいつもカバンにぶら下げていたお守りが、今日は無い。『恋愛成就』と書かれた、あのお守りだ」
あれは友達から貰った土産だから仕方なくつけていたのだ、とは、言わない。そう弁解したところで、話がややこしくなるだけだ。
ロイ・マスタング検事は、人が触れてほしくないデリケートな部分に、なんの忌憚もなく執拗に言及してくる。そのことについて、彼は天才だ。人の傷口に、あそこまで平然と塩を揉みこむことができる奴は、そういない。ともかく、自分の知識欲さえ満たせれば、他人の迷惑などお構いなしなのだろう。
「失恋だ。なあ、そうだろう」
本当にもう、うるせえ奴だな。
この話題はできるだけ、長引かせたくなかった。延長戦は勘弁、願わくは、コールドゲームに持ち込みたい。
「失恋だったら、なんですか?」オレは声に怒気を孕ませる。「マスタング検事に関係ありますか?」
彼は顎に手を当て、暫しの黙考ののち、「……無いな」と呟いた。
そうです、とオレは淡々と言葉を継ぐ。「あなたには関係ありません」
「たしか、君は彼女と同棲していたんだったか」
「恋人と同棲しているのは、ブロッシュ事務官です」
厳密にいえば彼女ではなく、彼氏と同棲、らしいが。これはオレとブロッシュ、事務官同士だけでの秘密だ。検事に顎で使われるだけの事務官には、常に被害者意識がつきまとう。その被害者意識からか、事務官同士の結束は固い。
「そうだったか?」彼は原則として他人に興味が無い。「まあ、どうでもいいことだ」
「はい、どうでもいいことです」
「今日は普段以上に、君は私に冷たいな」
「別に、普通です」
「これも失恋と関係があるのか?」
「……あるわけないでしょう」
次の被疑者を呼んできます、とオレは席を立った。

***

「ケネス・ニール。一九八七年一月四日生まれ。本籍地は──州」
手錠をかけられたままの被疑者が、淡々と口を開く。両耳に六つ、唇と鼻には一つずつピアスがついている。顔に穴をあけることがそんなに楽しいのだろうか、とオレは首を傾げる。顔にあいた穴の数を、誰かと競っているのかもしれない。
髪は短髪で、金と赤のツートーンでカラーリングされている。腕には趣味の悪い刺青。まあ要するに、いかにもチンピラ、という風情の青年だった。
身体は小柄で、どちらかといえば華奢なほうだ。ごついピアスや刺青を見せびらかすことで、その細身の身体を武装しているのだろう。猫が威嚇の際に毛を逆立てるようなものだ。そう思って見れば、チンピラという種族がどこか可愛らしくも思えてくるから不思議だ。
被疑者が氏名、生年月日、本籍地を述べ終えると、マスタング検事は警察から送られてきた調書に目を落とした。
「被疑者は、二〇一〇年七月二十八日水曜日、午後三時頃、──市内の路地で、会社員のロバート・アトリーさん三十一歳が持っていた、現金二十万円の入ったトートバッグを奪い、そのまま逃走。身体がぶつかった拍子にアトリーさんは転倒し、右ひざを負傷。被疑者は、二十九日午前十一時に、セントラル警察署に自ら出頭、と」
抑揚のない声で検事が調書を読み上げる。オレがそれに続いた。
「調書の内容に、間違いありませんか」
「ねえよ」チンピラはぶっきらぼうに答える。取り付く島もないとはこのことだ。「今そいつの言ったとおりだ」そう言って、検事を指差す。
「私に指をさすな」検事は眉を顰める。「何故、出頭した?」
「自首しちゃわりーのかよ」
「出頭と自首は意味が違うんだ。面倒だからいちいち説明しないが、お前の場合は『出頭』だ。自首と言い直すな、素人が」
「検事」オレは語気を強め、咎める。
なんだよこの検事、と被疑者は舌打ちし、「別に、反省しただけだよ。悪いことしたと思ったから、じ──シュットウした」
「それ以前に、お前にはもっと反省すべき点がいくつもありそうだがな」
「マスタング検事」検事のほうを睨む。
「まずは親不孝を猛省しろ」
「検事っ」更に語気を強める。
「オイ姉ちゃん、なんなんだよこの検事」と、チンピラ。
「オレは男だ!」
できることなら、二人まとめて部屋から追い出してやりたい。

脱線した話を元の線路に戻すのは、いつだってオレの役割だ。
「ともかく、被疑者は罪を認めていますから、起訴の方向で……」
「目撃者は?」検事はオレに問うてくる。
聞く前に調書を読めよ、とは言わない。「いえ……人通りの少ない路地でしたから」
「一人も? こんなに目立つ容貌なのにか? 赤と金の頭なんか、一度見たら夢にまで出そうだが」
「被疑者は事件当時、帽子を被っていたようです」
「……成る程」
検事は激甘のコーヒーを一口すすると、被疑者の頭頂部から足の先まで、舐めるように見回した。
「もやしだな、お前」なにを、言い出すのかと思えば。「女にモテないだろう」
チンピラのこめかみに青筋が浮き出る。「なんだと、てめえッ」
「検事!」本日最大の声量だった。
「どうして彼を狙った? ロバート・アトリーを」
「別に、理由はねえよ。目に付いただけだ」
「また、『別に』か。口癖か、それ?」
なんなんだよ、うるせえんだよ、と被疑者の苛立ちは積もっていく一方のようだ。無理もないだろう。同情する。
「実際、アトリーさんと被疑者に面識はありませんでした」
「……そうか」
検事は呟き、再びコーヒーに手を伸ばす。いまひとつ納得いかない。そういう顔をしている。
こりゃ捜査に出るつもりだな、とオレは気が重くなる。今日中に処理しなければいけない案件が、まだ山のようにあるのに。
認めてるんだし、起訴でいいじゃん……そうは思うが、そんな口を利く権利は事務官にはない。

***

外に出る、と検事が言い放った瞬間、オレの残業が決定した。
マスタング検事の担当事務官となって早一年──「他の案件はどうするつもりです」などと言い返す気力は、もはや残っていない。反論したところで、どうせ無駄だ。そういうやつなのだ、こいつは。
玄関へ向かう検事を、後ろから小走りで追いかける。
「事件現場を見に行くつもりですか?」
「ストリップショーに行くと思うか?」
小癪な皮肉はスルーする。これくらいは慣れっこだ。「現場は、既に警察が捜査しました」
「どうして男を狙ったと思う」
「え?」早足で歩きながらの会話は、息が切れる。
「あのチンピラは小柄で、見るからにひ弱だ。それなのに、どうしてわざわざ成人男性を狙った?」
「だから、理由なんて無いって言ってたじゃないですか」ついでに、堪忍袋の緒も切れそうだ。
「いや、不自然だ」断固として言い切りやがる。「女性や高齢者なら、理解もできるが」
「それはそうかもしれませんけど」
「不自然な事象には、理由が無ければおかしい」
そんな世の中、理屈だけで出来ているわけじゃないんだからさ。それにあいつ、見るからに頭悪そうだし、無謀そうだし──とは、言わない。
検事の目が鋭く正面を見据えている。こういうときの検事は、真剣だ。
真剣な彼は、決して間違わない。悔しいけれど。

ひとつ大きな溜息とともに、腹をくくる。
「……わかりました、」残業だって、もう慣れっこだ。「行きましょう、事件現場へ」







【2】


コンクリに反射した熱波が、身体にまとわりつくような、粘度のある暑さを作り出す。歩くだけで、身体中の毛穴から汗が滲み出る。都会の暑さは、田舎のそれとは明らかに一線を画している。快晴の空には、それが水蒸気の塊とはとても思えないほど立体的で、手触りすらありそうな、巨大な入道雲が浮かんでいた。
こんな炎暑の日には、なるべく外に出たくない──それが常人の然るべき思考だ。こんな日に、わざわざ捜査に出なくたっていいじゃないか。検事の本分は、デスクワークだ(ただし、冷房が利く環境限定)。
そんなことを考えながら、前方を悠然と闊歩する検事を見遣る。そうしてから、しょうがないか、と思う。あいつは、まかり間違っても「常人」ではないのだ。

「で、誰なんだ?」
「え」藪から棒の問いに、オレは顎を突き出す他ない。
「君の瞼を妊娠させた相手だ」
ぼってりと腫れたオレの瞼を指差し、検事は下卑た笑みを口元に貼り付ける。また失恋の話か、とオレは辟易する。朝のやりとりで、この話題には終止符が打たれたと思っていたのに。
「いい加減、しつこいですね」
そんなに酷いかな、と自分の目を擦ってみる。昨日は一応、冷やしたのにな、アイスノンで。
「そんなに泣くほど、好きな相手だったのか」
「失恋じゃないって、何度言えば」オレは検事を振り切るように、歩みの速度を上げる。「昨夜、アルマゲドンを見ただけです」
適当に嘘をついて、その場を糊塗しようと試みる。事実、アルマゲドンを見た翌日は、いつもこんな目になる。あれは、名作だ。だが、合コンの前日には見ちゃいけない。
「私が慰めてやろうか?」
卒なくこの場をやり過ごそうと思ったのに──この言い草には、さすがに、頭に血が上った。
「結構です!」
大人気ないとはわかっていても、蛮声を張り上げてしまった。
「食事の約束をすっぽかされただけです」あ、口が滑った。まあいいか。
「食事?」検事は合点がいかなそうだ。「たった、それだけでか?」
「デリケートなんです、オレは」検事と違って、と舌の根まで這い上がってきた言葉は、辛うじて飲み込んだ。
「食事の約束を反故にされただけで、そんなに落ち込むとは」
「別に、落ち込んでなんか」
「相当、そいつに惚れ込んでいると見た」
「別に、そういうわけでは」
「『別に』? なんだ、あのチンピラの口癖がうつったのか」
うるせえ、くそったれ! と思い切り喚けたら、どんなに胸のすく思いがするだろう。“人の癇に障る”という能力に優劣があるとすれば、マスタング検事は黒帯どころか師範代だ。

「誰だ? 私の知っている奴か?」
「検事は、他人には興味がないと思っていました」
「そうだな、他人に興味はない」検事はあっさり顎を引く。「だが、他人の不幸には興味がある」
「それはそれは、」大げさに肩をすくめた。「素晴らしい性格ですね」
角を曲がると、オレの革靴の音が止む。会話を遮断するように、オレはぴしゃりと放った。
「ここが、事件現場です」
と、検事の目つきが途端に変貌した。
先ほどまでの、軽佻浮薄を地でいくような目つきから、才気走った知的な双眸に、一瞬で切り変わる。怜悧、という熟語がよく似合う、そんな表情だ。
彼は変人で、最低で、天才だ。ついでに、呆れるくらいの美形。
こういう奴を、世間ではよく「ずるい」という。

***

「『襲ってください』と言わんばかりの路地だな」
検事の言葉は的を射ていた。確かにこの路地は、背の高いビルに挟まれ、薄暗く、人目につきにくい。極力、避けて通りたくなるような道だ。人の通る「通路」というよりも、ビルの「隙間」という単語のほうがしっくりくる。
「被害者アトリーさんの自宅への近道だったようです」
なるほど、と呟きながら、検事は現場を見渡す。きわめて閉塞的な空間だ、立っているだけで息がつまりそうになる。と、一匹の三毛猫がそばを通った。猫好きなオレが思わず顔を綻ばせていると、
「おい」
という検事の怒気混じりの声が飛来した。緩んだ顔面筋を慌てて締め直す。
「な、なんでしょう」
「ATMがあるぞ」検事は、路地を曲がった先を見ている。
路地を出ると、大通りというほどではないが、やや広めの道に突き当たる。検事の後ろから覗き込むと、たしかに、地方銀行のATMがひっそりとその存在を湛えていた。

「ええ、まあ」だからなんだ、と言いたくもなった。「どこにでもありそうな、ありふれたATMです」
ATMを不思議の国の入り口とでも思っているのだろうか、と心中で皮肉る。
「見たんだ」
「はい?」
オレの眉間の皺は深くなる一方だ。これがもし一生取れないくらいの皺になってしまったら、検事にレーザー治療費と慰謝料を請求するつもりでいる(勝訴できる気はしないが)。
「当時、アトリー氏は現金二十万を持っていたそうだな。ここでおろしたんだろう。それを見たから、犯人は彼を狙った。このカードの時代に、普通の人間は日常的に二十万も財布に入れない」
なるほどそれなら、女性や高齢者ではなく、成人男性であるアトリー氏を選んだ理由になりうる。乾坤一擲の思いでバッグを奪ったところで、中身が空ではしょうがない。たとえば戦争を始めたいのなら、多少危険が伴っても、日本よりは米軍の基地の武器庫に忍び込んだほうがいい。
どうせやるなら、多額の報酬があるほうを狙いたい──平たく言えばそういうことだろう。理屈はわかる。が、
「だけどそんなこと、調書のどこにも」オレは泡を食って調書を取りだし、めくる。
「君はミステリーサークルの謎も、調書に書いてあると思うのか?」眉間にしわを寄せたのは、今度は検事だ。「調書を信用しすぎるな」
イラッとはしたが、どうにか堪える。「でも、あのチンピラ──被疑者だって、そんなこと一言も」
「そうだな、問題はそこだ」
検事は腕を組む。あのチンピラ、正直に「金をおろすところを見たから襲った」と言えば、この性悪な検事に弄くりまわされずに済んだのだ。「もやし」と面罵されることもなかった。

「単に、忘れただけとか……?」
オレは上目遣いで検事を見た。そんな媚びた目線になったのは、不正解とわかっていたからだ。
「そんな重要なことを忘れて、よく本籍地を忘れずに言えたものだな」
ぐうの音も出ない。あんなナリだが、あの被疑者は初犯だった。初めて犯罪に手を染める、そのきっかけとなった事実を、そう簡単に忘れられるものだろうか。
「その事実を隠す意味も、ないですよね」
アトリー氏を襲った理由を隠したところで、被疑者にメリットなどなさそうなものだ。量刑や裁判になった後のことまで配慮しながら、慎重に話をしそうなタイプにも見えない。
ならどうして、隠した? あのATMが、本当に不思議の国の入り口に見えてくる。
「ちょっと飯を食ってくる」
そう言い残すと、検事は突然踵を返した。え! とオレは調書から顔をあげ、「ちょ、ちょっと」とうろたえた声で呼びとめる。捜査を始めたばっかじゃないか!
「君も一緒に行くか?」
「いえ、遠慮します」そこは冷静にNOの意思表示をした。
それは残念だ、と笑う検事は、ちっとも残念そうではない。「奮発して、二五〇円の牛丼を奢ってやろうかと思ったのに」
それは残念です、とオレも便乗する。「二五〇〇〇円のフルコースならお供しました」
オレは調書を鞄に仕舞い、支部のほうへ身体を向ける。検事とは逆方向だ。
「一時前にはお戻りくださいね」
一応、そう念は押したものの、検事が約束の時刻に戻ってきたためしはないし、期待もしていない。太陽暦でも太陰暦でもなく、彼は「マスタング暦」で生きているので、もうそれはしょうがないことで、こちらは諦めるしかない。

***

翌日、支部に出勤してきた検事の格好に、オレは開いた口が塞がらなかった。
ポロシャツに綿パンという出で立ち。ラフにも程がある、というかんじだ。くたびれたオレンジのポロシャツは色褪せ、カーキ色の綿パンには、社会人としては目をそむけたくなるような皺がある。胸に申し訳なさげに光っている検事バッジも、何故自分がポロシャツなんかに? とさぞ狼狽しているだろう。
担当事務官としては、眩暈による立ちくらみに耐えるので精いっぱいだった。
「ま、マスタング検事、す、スーツは……?」
検事は深刻そうに両の眉を下げた。「今朝、トイレに流してしまった」
目がしらを押さえ、沸点近くまで到達した怒りのパロメーターをぐっと抑制する。怒ったら負けだ、怒ったら負けだ。そう念仏のように繰り返すことで、近頃のオレは釈迦も真っ青の寛大さを会得しかけている。
「検事バッジが、無事で、良かったです」
震える声で偽りの言葉を紡ぐ。そうそう、大人だな、オレ。オレが女だったら、自分と結婚したい。
「あのチンピラ被疑者を呼んでこい」
「え?」
目がしらからぱっと指を離す。いつになく、職務に積極的じゃないか。
検事のほうを見遣ると、ものすごく、珍しいものを見ることができた。バツの悪そうな検事、という稀有な光景を。
「……私だって、好きでこんな格好をしているわけじゃない」
じゃあ、なんで? という問いは冷めたコーヒーと一緒に飲み込んだ。それを聞くのは、あのチンピラ被疑者と二度目のお喋りを始めてからだ。







【3】


「……なんだよあんた、その服」
検事の出で立ちを一瞥したチンピラの言葉は、至極まっとうなものだった。本日の検事のエキセントリックな格好には、さしもの悪でさえ、常識的な非難の一つも浴びせたくなるようだ。チンピラは長男らしいし、案外しっかり者なのかな、とも思う。
「この前はスーツだったよな?」チンピラは眉根を寄せる。
「姉の赤ん坊にゲロを吐かれた」検事は、さも残念だ、という顔をする。検事に姉はいなかったはずだが。「アルマーニのスーツに、だ」むろん、アルマーニでもない。検事の言葉は、少なめに見積もっても、八割はでたらめだ。
腑に落ちなかったので、くちばしを挟んでみる。
「さっきは、トイレに流したと伺いましたが」
「ゲロを吐かれたから、トイレに流したんだ」
ああ、そうですか。こんな奴が人を裁くなんて、と心底からこの国の制度を嘆いた。
「変な検事だな、アンタ」
チンピラが唾を吐き捨てるように言う。君こそ神の代弁者だ、とオレはそのチンピラを心中で喝采した。

「検事、始めますよ」無駄口の多い検事を急かす。「駄弁りの時間じゃないんです」
検事は面倒くさそうにこちらを見遣ると、「最近、殊にカリカリしてるんだ」とオレを指差し、チンピラに語りかける。「女にフラれたらしい」
「け、検事!」
思わず腰を浮かしかけた。この野郎、張り倒されたいのか。
「へえ、あんた、美形なのにな」チンピラはこちらに視線を投げ、呟く。「仕事も出来そうだし」なんだ、こいつ、いい子じゃないか!
「私はどうだ?」検事は椅子の背もたれに身を預け、胸を張る。「いかにも高給取りに見えるだろう」
「全然」チンピラは眉をひしゃげさせる。「スーツのときは、まあ、ある程度はそう見えたけどな」
「やはりこの服じゃ駄目か」
「あたりめーだろ、アホか、あんた」
そりゃフリーターの格好だ、とチンピラは笑う。すると彼の頬にエクボが浮かび、唇の端から八重歯ものぞいた。なんだ、笑うと可愛いじゃないか。
「そういえば、事件当日は、被害者のアトリー氏は何を着ていた?」検事が机に頬杖をつく。「たしかアトリー氏は会社員で、事件が起きたのは平日の昼間だったな」
「ええ」オレは調書を確認し、顎を引く。
チンピラは少し考えるように目を泳がせた後、「……スーツだった」と言った。
「どんな色の?」検事は続ける。
「そんなことまで覚えてねーよ」可愛らしかった笑顔を引っ込め、チンピラ特有の、常に怒気を孕んだような表情になる。「とにかくスーツだった」
「違う」
被疑者の目をじっと見つめる検事は、断固たる口調だった。
「お前は今、推理したんだ。平日の昼間なら、会社員はふつうスーツを着ている。だからスーツだと答えた」
「す、推理じゃねえよ、見たんだ」被疑者の動揺は、火より明らかなものだった。
「今日の私の格好、」検事は服装を披露するように、腕を広げる。「事件当時アトリー氏は、これとまったく同じ格好をしていた。その日は、有給を取っていたんだ。次の日から旅行に行く予定だったらしい。だからATMで金をおろした」
え? とオレは耳を疑い、調書を慌しく捲った。そんなこと、どこにも書いていない。この野郎、勝手に捜査に行きやがったな。
「ま、間違えただけだよ!」被疑者の弁解は、誰がどう聞いても、むなしいだけだった。「服装なんて、どうだっていいだろ」
「お前は、見ていないんだ」
「え?」はてなマークを浮かべたのは、オレだ。
「アトリー氏を標的にした理由が曖昧だったのも、そのせいだ」
「違う!」
チンピラは駄々をこねる子どものようだった。オレはといえば、固唾を呑んで検事の言葉をただ、待った。
「お前は犯人じゃない」

犯人はお前の弟だ、とまで検事は言った。
オレは調書に目を落とす。こんなに役に立たない調書など燃やしてしまえ、と思った。

***

被疑者の弟、クラーク・ニールは、地区の空手大会で優勝経験があるなど、武道に長じた、体格の良い男であったらしい。また、来春には医学部への進学が決まっており、いわゆる文武両道タイプだったようだ。
「遊ぶ金が欲しくてバッグを奪ったって……あいつ、馬鹿なこと……」
兄である彼は、はじめは頑なに「俺がやった」と言い張っていた。しかし、ついぞ折れる気になったらしい。見抜かれているとわかった嘘は、そう簡単につき続けられるものではない。
「でもあいつは医者になるんだ。俺みたいな出来のわりぃのと違って、あいつは優秀なんだ」それに俺のせいでもあるんだよ、とケネス・ニールは必死に弟を庇った。「俺がこんなだからよ、きっと俺に似ちまったんだ。だから俺のせいなんだよ」
彼は膝の上で拳を握り、検事のほうに、哀願に近い顔を向けた。誰かに物事を懸命に頼み込むなど、「ひとかどの不良」にとっては最も恥ずべき行為なのではないか。
「頼むよ、なあ」彼は、不良の顔ではなく、立派な<兄>の顔だった。「俺を逮捕してくれよ」
あいつは医者になるんだ。彼は懇請するように続ける。
「あいつはなんにも悪くないんだ」言うと、現時点での被疑者は、深く頭を垂れた。「検事さん、頼むよ……」
検事は何も言わず、軽く目を伏せただけだった。法そのものを悲嘆するような、悲しげな横顔に見えた。

オレにも一人、弟がいる。同じ弟を持つ身として、つい目がしらが熱くなった。
いい男じゃないか、ケネス・ニール。
オレたちの立場上、彼の願いは叶えてあげられないけれど。

***

今日は珍しく定時であがれそうだった。検事が突拍子も無い行動さえ起こさなければ(炎天下、突然捜査に出る、など)、定時であがることも、そう遠い夢ではないのだ。
ケネス・ニールのおかげで、なんだか久しぶりに、弟に会いたくなった。今晩飲みにでも誘おうか、などと考えながら、
「では、お先に失礼します」検事に声をかけ、席を立とうとする。
「待て」
背後から呼び止められた。残業を命じられるのか、とオレは耳を塞ぎたくなる。
「まだ聞いていないぞ」
飛んできたのは、残業よりも鬱陶しい話題だった。「いい加減、諦めてくださいよ」
検事の言わんとすることはわかる。どうせまた、失恋相手のことだろう。そんなに人の失恋を弄ぶのが愉快なのか。
「いや、諦めん」
「もう帰りたいんです」身体がアルコールを欲している。酒は、イライラに効く特効薬だ。
「言うまで帰らせない」
「あなたのような人が人間を裁くなんて」
「おいおい、司法試験にケチをつけるな」
検事は大げさに肩をすくめる。憎たらしいったらありゃしない。
検事の机には、ノーブルな革張りの、黒い手帳がある。検事がどこへ行くにも、普段必ず持ち歩く手帳だ。携帯に適した小さめのサイズだが、そのサイズにはとても相応しくないほどの、膨大な情報があの手帳には詰まっている。
「私が知らない事実がこの世にあるなんて、許せないんだ」検事の淀みない弁舌は、定時を過ぎてもまったく濁らない。「美人だろ? 君は面食いそうだからな。顔にすぐ騙されるタイプだ」
ああもう、本当にうるせえやつだな。
早く帰りたいし、イライラもピークだし、もうどうにでもなれ、とオレは自棄をおこした。
──その自暴自棄のせいで、「あのときどうにか堪えていれば」とオレは、後々長いこと後悔する羽目になるのだが。
「あんたのその大事な手帳に、書いてあるんじゃないですか!」
ふん、とオレは踵を返し部屋を出た。「あんた」なんて、ひどく礼を失した敬語になってしまったが、もうどうでも良い。
もう知らねえよ、あんなやつ。くたばっちまえ。
バタン、とわざと大きな音を立てて扉を閉めた。

***

バタン、とわざとらしい大きな音を立てて、扉が閉まる。
まったく頑固なやつだな、と頭を掻く。手帳に書いてあるんじゃないですか、だと? あいつの意中の人間の名前など、書き記した覚えはない。体よく逃げたな、と私は扉のほうを睨んだ。
まあいい、明日また問い詰めてやろう。そう思案しながら、明日のスケジュールを確認しようと、手帳を開いた。
明日は何日だったか──カレンダー状になっているページのマス目に何気なく目を落とし、そのまま、硬直した。
今日から二日前のマスに、こうある。

「エド(事務官)と食事」。

それは、アルマゲドンを見たなどとうそぶいてエドがひどく目を腫らした、まさにその日にあたる。
自分の唇を噛むようにして、舐めた。窮地に追い込まれた時の、私の癖だ。
エドは口を滑らせて、「食事の約束をすっぽかされた」と言っていた。しかも、好きな人に。
(……私、だと?)
これはさすがに、想定外、だった。想定外というよりは、してやられた、という感じだ。
この法曹界屈指の天才検事ともあろう私が、ハタチやそこらの若者に、一本とられるとは。不覚だ。

執務机に肘を付き、伸びかけの髪をくしゃりと押さえた。私が頭を抱えるなど、何年ぶりのことだろうか。幼少の時分に耳にした、ノストラダムスの大予言以来かもしれない。
『失恋だったら、なんですか?』気の強い彼の口ぶりを思い出す。『マスタング検事に関係ありますか?』
「……大アリじゃないか……」
二日前の夜、私は何をしていた? それすら思い出せない。しかし少なくとも、あんなアヒルの瞼にさせるまで、彼を泣かせてしまったことは確からしい。
約束など完全に、忘れていた。
「これはまずい……」

これはさすがに、謝ったほうが、いいんだろう。男として。人として。上司として。
しかし、他人に対する謝罪の仕方など、私には皆目わからない。他人にまともに頭を下げた記憶もない。
約束を反故にした時の正しい謝り方──か。
おい、誰か、六法全書をもってこい。
きっとそこに載っているはずだ。



END





***********************************************
[ His eyelid like duck’s belly. ]
(ドラマH/E/R/OのWパロ的な感じでやらせてもらってます的な!)

ロイエド要素の薄〜〜〜い短編ですみません…ものすごく楽しかったです…(※私が
珍しくエド→→ロイのお話でした あんなにつっけんどんなくせにね!
あとチンピラ君が「おれを逮捕して」と言っているんですが、もちろん既に逮捕はされてるわけですが…なんか「起訴して」っていうのも変なかんじで…笑

※法的なことについてはあの…ほんとうに生半可な知識で書いているので、ふ、雰囲気だけ読み取っていただければ有難いです…ふ、雰囲気だけ…!ごめんなさーい!詳しい方、間違い等ありましたら是非ご指摘ください…!笑