![]() ミスター・ジャスティス [sample] (第一部:『光げんじ』編 より)※時系列:拍手で連載した短編のかなり前 【2】ストーカーの話 『あなたをいつも見ています』。 その一文を見た瞬間、全身に戦慄が走った。体中の皮膚が粟立ち、喉が震えた。 帰り道を歩いていたときから、なんか嫌だな、と漠然と感じていた。誰かに見られているような、誰かがついてきているような、そんな気味悪い感覚があったのだ。いやいや自意識過剰だ、男をストーキングするやつなんているか……と自分を奮い立たせて、どうにか自宅のポストの前まで辿り着いた。 そこで待っていたのが、これだ。郵便物を確認しようとポストの扉を開くと、A5サイズの紙が二つ折りにして入っていた。なんだ? と軽い気持ちで中を開くと、明朝体で印字された一文が、紙の中央に鎮座していた。 (嫌がらせ……か?) 職業柄、怨みを買うことは多い。量刑に不服で、と検察官に襲いかかった犯罪者の話を耳にしたことも度々ある。事務官には量刑を決定する権限などないが、取り調べを受けている被疑者にとっては、検事も事務官も、みんなひとしなみに敵に見えることだろう。 ただのいたずらだ、と自分に言い聞かせ、紙を畳んでスーツのポケットにしまった。こんなもの気にも留めないんだぜオレは、と必死に虚勢を張る。 こういうとき、深く考えてはいけない。でないと、眠れなくなりそうだ。 「ただいま……と」 おかえりー、と晩御飯を用意して出迎えてくれる彼女。が、喉から手が出るほど欲しい、今日この頃。出会いがないよなあ、と嘆息を漏らしながら靴を脱ぐ。出会い自体は多い仕事だが、生憎お相手は、臑(すね)に疵(きず)持つ不逞の輩ばかりなのだ。 今日は事件に関する調べ物が長引いた。帰宅し、途中コンビニで買った弁当を食べ、シャワーを浴び終えたころには、時計はすでに十二時をまわろうとしていた。 深夜にやっているバラエティー番組を三十分ほど見て、ベッドにもぐりこむ。明日も早い。 部屋の電気を消し、瞼を閉じて数秒──心臓の内側から、どろりと恐怖の感情が一気に流れ出してきた。 『あなたをいつも見ています』。禍々しいあの一文が、脳裏によみがえる。 はっとして目を開けた。塞き止めようもないその恐怖の液体は、心臓から溢れだし血管へ、そして血管から全身にまわった。 電気をつけ、カーテンが閉まっていることを確認する。次に玄関へ行き、戸締りを確かめた。念のためチェーンもかける。 (これなら大丈夫……だよな) サンダルのまま、玄関先にうずくまる。 (う……こわ……) 誰かに電話しようか。家族の顔が真っ先に思い浮かんだが、でも、と思いとどまった。オレの実家は遠い地方にあるので、電話したところで心配をかけるだけだろう。 ブロッシュはどうだ? ああ、でも聞くところによると、あいつは彼女と同棲しているはずだった。こんな夜中に呼びだしたら悪い。 今日のところは様子を見て、明日、さらに嫌がらせが続くようなら、誰かに相談しよう。警察に行ってもいいかもしれない。いやでも、男のくせにストーカーされているだなんて、相談するのはちょっと恥ずかしいな……などと思案しながら再び寝床についた。 言うまでもなく、ほとんど眠れなかった。真偽のほどはともかく、目を閉じているだけでも七十パーセントの睡眠効果があるとどこかで聞いた。だから、せめて瞼だけは一生懸命おろしていた。こちとら、明日も仕事なのだ。 こんなことで仕事を休むわけにはいかない。学生とは違うのだ。 翌朝、今日もすし詰め状態の電車に揺られ、縋るかのように吊革に掴まる。はちきれんばかりに人を詰め込む車両を見るたび、最大積載量を超過してはいないのだろうか、といつも一抹の不安が過ぎる。 女性専用車両があるのなら、「オレ優先席」があってもいいのに、と睡眠不足の頭でぼんやり考えた。昨夜は徹夜同然だった。「オレ優先席」は飛躍だとしても、「徹夜の方優先席」くらいならあっても良さそうなものだ。 低血圧のせいか、朝は弱い。それに昨日の一件も相まって、今朝の憂鬱さは抜きんでていた。こういうときはイアホンを嵌めて、耳から脳髄へ音楽を流しこむに限る。外界を遮断するように、いつもよりボリュームを二つ上げた。ウォークマンの音量はとりもなおさず、オレの憂鬱レベルを示している。 今日はマイケル・スウィフトというアーティストをチョイスした。大音量で響いてくるマイケルのクールな歌声に、奈落の底まで落ち込んでいた気分が、少し浮上する。「君の努力を、神様は決して見逃したりしない」とマイケルが歌う。うんうん、その通りだ、とオレは自らを鼓舞して、電車を降りた。人の心や精神を癒すのは、精神科医やセラピストなんかじゃない、ミュージシャンだ、と思う。 エスカレーターから伸びる列に並びながら、社会人諸君よ、と心で語りかけた。そうさ、神様は、我々の努力を必ず見てくれている。天網恢恢疎にして漏らさず、の逆バージョンだ。 東方支部には、いつもより十分ほど早く到着した。まだ誰も出勤しておらず、室内には静寂がおりていた。この静穏な空間が、一時間ほど後には殺伐としたものに豹変する。早朝だけの、束の間の静けさ。嵐の前の、というやつか。 建物内部には、支部長室、マスタング検事の取調室、ホークアイ検事の取調室、資料室、そしてオレたちが「居間」と呼ぶ、まさしくリビングのような広めの部屋がある。少数精鋭の、規模的には小さな支部だ。 自分用のコーヒーを淹れるために、居間の隅に設置された小さなコンロで湯を沸かす。その間も、オレはきょろきょろと周囲を忙しなく見回している。落ち着きを保てない。 今もどこかで監視されているのだろうか──いつもなら心休まる早朝の静かなひとときが、今日ばかりは厭わしい。煩わしいはずの昼間の喧騒が、恋しくなる。 やかんがピューっと鳴りだす頃に、マスタング検事が出勤してきた。 「あ……お、おはようございます」 「ああ」検事は居間の中央のテーブルに鞄を置く。 「い、今、コーヒー淹れますねっ」 一度沸騰を知らせたやかんに水を足しながら、ほっと胸をなでおろす。人が来てくれて良かった。一人でいるのが、不安でしかたない。今なら、たとえ凶悪殺人犯と二人きりでも、一人よりはましだ。 検事に相談してみようか、しかし相談といっても、まだこれといって何か被害を受けたわけではないし……と頭を悩ませつつ、淹れたコーヒーを検事の前にそうっと置く。マスタング検事専用の黒っぽいマグカップは、なんだか高価そうなので、丁重に扱わねばならない。 「……ん?」コーヒーを口に含んだ検事が、手にしたマグカップを睨みつける。「いつもと味が違うな」 あ、砂糖を三本しか入れなかったかもしれない。「すみません、きっと砂糖が……」 「こんなイージーミスをするとは、珍しいな」 「す、すみません」 「しかも、二つも」 「二つ?」砂糖と、何だ? 検事は一度マグカップをテーブルに戻し、オレのスーツを指差した。 「ボタン、掛け違えてる」 慌てて視線を下に向ける。検事お得意のからかいではなく、実際、ボタンホールが一つ余っていた。「本当だ、す、すみません」と何故か謝ってから、急いで掛けなおす。 「何かあったか」 「え?」 検事の淡白な口調に、かえってどきりとした。 「更に言えば、今日、君は腕時計もしていない。忘れたんだろう。顔の血色が悪いし、目元には薄い隈もある。昨晩、眠れなかったんじゃないのか」 黒曜石のような瞳が、こちらをじっと見据えてくる。被疑者になったかのようで、坐り心地が良くない。 この双眸に射抜かれると、なんでも洗いざらい話してしまいたくなる。隠したって無駄だ、と否が応でも思わせられるからだ。マスタング検事に黙秘権を行使できる被疑者はすごいな、と奇妙な尊敬の念が湧いた。 スーツのポケットに手を差し入れてみる。紙の当たる感触があった。この不安の渦の根源である、ポストに投函されていたあの紙だ。 相談してみようか、と思うが、ためらう。馬鹿にされるかもしれない。「男のくせに情けない」と、鼻であしらわれるかも。だって、相手はあの、ロイ・マスタング検事だ。他人に興味がないことではずば抜けて定評のある、あのマスタング検事だ。 しかし問題を一人で抱え込むのは、精神衛生上、あまりよろしくない。風声鶴唳とでもいうのか、些細なことでびくびくと怯えているようでは、仕事にも悪影響が出る。 よし、ここは一つ、笑われてやろうじゃないか。 「あの、実は、これなんですけど……」 諸問題の根源を、テーブルの上に広げた。『あなたをいつも見ています』。その一文は、昨日初めて目にした時とまったく同じ迫力で、オレの背筋を震わせた。 「き、昨日、ポストに」 「……なるほど」 検事はその紙を手に取ると、様々な角度からためつ眇めつ眺めた。 「しかしこの程度じゃ、警察は動かんな」 「で、ですよね」 検事の言葉遣いは決して優しくないが、彼の言うことに間違いはない。その場凌ぎのような励ましで茶を濁されるよりは、むしろそのほうが有難かった。 様々な角度から存分に観察した後、検事は投げ捨てるようにして、再度テーブルに紙を寝かせた。その紙から、つい目を逸らす。直視できない。あの紙には二つの緑の目がついていて、それと目が合ったら最後、恐怖のどん底へ突き落とされてしまう──そんな妄想に囚われる。 そんなオレの様子を見て、検事が淡然とした口ぶりで尋ねてくる。 「怖いのか?」 図星をつかれ、唇を噛んだ。「男のくせに、な、情けないですよね」 「誰にだって、怖いものの一つや二つ、ある」続けざまに、砂糖を取ってくれ、とオレに指示する。 スティックシュガーを渡しながら、「……検事にも、あるんですか?」 『恐怖』なんて、マスタング検事からは最も縁遠い単語のように思えた。『慈愛』と同じくらい、縁がなさそうだ。 「ああ」私も人間だからな、と四本目のスティックシュガーをマグカップに注ぐ。 「な、なんです?」俄然、会話に乗り気になった。「検事の怖いもの」 オレの質問に、ちら、と検事はコーヒーから視線を上げ、また目を伏せる。 「わざわざ、他人に弱みを打ち明ける趣味はない」 「あ、そうですか」なんだ、つまらん。 と、ここでホークアイ検事が出勤してきたので、机上のコピー用紙をポケットに戻した。 *** 定時退社は今日も儚い夢に終わったが、残業は二時間程度で済んだ。先週は大きい事件を扱ったせいで、三日家に帰れなかった。そのことを思えば、二時間の残業などまだ楽なほうだ。 荷物をまとめて席を立ったマスタング検事に、「お疲れ様でした」と頭を下げる。 「大丈夫なのか」扉に手をかけた検事が、こちらを振り向く。「帰ったら一人なんだろう」 「え?」何のことかと思ったが、ストーカーの件だとすぐに察しがついた。「ああ、えっと、たぶん大丈夫です」 「そうか」 それ以上は詮索せずに、検事は取調室を出た。現に大丈夫なのかどうかは、自分でも判然としなかった。でも「大丈夫か」と問われて、「ダメです」とは言いづらい。 あの嫌がらせは、きっと昨日の一度きりだ。そう自分に言い聞かせた。明日からは、またなんのわだかまりもなく生活できる。昨日の一件だって、事務官の激務に忙殺されているうちに、すぐに忘れるだろう。 それでも念には念をと、駅から家まではタクシーを使った。ギリギリワンメーターで帰れる距離なので七三〇円で済んだが、それでも月末には痛い金額だ。くそう、ストーカーの野郎め。 ポストは、一階に集合型のものが設置されている。オレの部屋は三〇一号室なので、「301」と書かれたプレートのあるポストを、戦々恐々と開いてみる。 中身は、空っぽ、だった。安堵する。が、ストーカーの野郎が一度でも触ったのかと思うと、ポストの取っ手を消毒したくなった。 ああ、でも、良かった。やっぱりただの嫌がらせだったんだ。それもそうだ。男をストーキングする物好きなど、そうそういるはずもない。 自分の部屋に入り、施錠をして、カーテンを閉めた。ソファに身を沈め、ネクタイを緩めながらテレビを点ける。もう終盤ではあったが、地上波初登場という映画が放送されていた。清純派として人気を博している女優が、何か、鍵のようなものを川に向かって投げ捨てている。感動的なシーンのようだったが、前後関係がわからないので、どうして鍵を投げ捨てているのかも、オレには皆目見当がつかない。今度DVDを借りてくるか。テレビ欄を確認すると、映画のタイトルは「メトロ」とあった。ふうん、聞いたことないな。 その時──コン、コン、と玄関の扉がノックされた。 全身の毛が凍りついた。心臓が未曾有の早鐘を打ち始める。 (だ、誰か、いる) 玄関の向こうに、誰か。 玄関の覗き窓を覗く勇気すらなかった。新聞のテレビ欄を手にしたまま、しばらくの間、硬直していた。まばたきすら忘れ、嗚咽を漏らしそうになるのをこらえた。 口の中が異様に乾く。うまく呼吸ができない。息が苦しい。 どうしよう。怖い。怖い。 かじかんだように震える手で、通勤バッグから携帯を取り出した。頭が真っ白だ。 誰か、誰かに連絡しないと。一人では、恐怖に押しつぶされてしまう。 無我夢中でボタンを押し、無我夢中で携帯を耳に当てると、 『もしもし』 と、妙に聞きなれた声が電話口から漏れてきた。 「あれ、け、検事?」 いつの間にか、マスタング検事にかけていた。家族か、あるいは一一〇でもダイヤルしたかと思ったのに。 『君がかけてきておいて、あれ、とは何だ』 「す、すみません。や、夜分にすみません」 携帯を両手で持ち直す。背筋が伸びる。これが世に名高い職業病というやつか。 『ストーカーか』 その一言に、肩の力が抜けた。 「……検事は、本当に、なんでもお見通しなんですね……」 『そんなことはない、』こんなにも傲岸不遜に謙遜をする人物を、オレは見たことがない。『私だって、女性の下着の色までは見通せない』 この人はどうしてこう、こうなんだ。「それが見通せるようになったら、真っ先に教えてください」 『で、どうした』 はっとして本題に切り替える。検事と話していると、どう足掻いても彼のペースに巻き込まれてしまう。 「げ、玄関が……さっき、ノックされて」あのノックの音を思い出すだけで、背筋に怖気が走った。「ドアの向こうに、だ、誰か、いるのかも……」 『覗き穴を覗いてみろ。ツラを見れば解決だ』 なんて無体なことを。「そんなの、む、無理です」 『何故だ』な、何故、だって? 「こ、こわいんです」当たり前じゃないか! 弱々しいオレの声音を聞いて、ふむ、と検事は思案するように一息置いた。 『……仕方ない、』電話機の向こうから、検事が立ち上がるような物音がした。『そこにいろ。ドアは開けるな』 「え」 『私が行く』 今度はオレが、何故だ、と言いそうになった。何故、オレのために、彼が動いてくれるのだ? ほんの十五分程度だったろうけれど、検事が来てくれるまでの間、本当に時間の流れが遅く感じた。秒針のうすのろな動きが歯痒く、かと言って何かをする気にもなれない。検事からの連絡がないかと、携帯を開いたり閉じたりして、時間をやり過ごした。 検事は車で来ると言っていた。住所の説明はしたが、うまくここまで辿り着けるだろうか。ああでも、検事の車ならカーナビくらいついているか──頭を巡るのは、詮無い思索ばかりだ。 インターホンが鳴らされた時には、思わず肩を聳やかした。間髪置かずに、ドアの向こうから、「私だ」という検事のバリトンが飛んでくる。そこで初めて、身体の力を抜き、ゆっくりと息を吐き出すことができた。 チェーンを外して扉を開けると、検事が手に白いコピー用紙を持っていた。 「な、なんです、それ……」 「玄関の前に置かれていた」 紙には、『どうしてタクシーを使ったの?』とある。今度は手書きだった。掛け値なしに、息が三秒は止まった。さっきストーカーがノックをしたのは、この紙の存在を気づかせるためだったのか。 「う、怨まれているんでしょうか、オレ」 声が上擦って、恥ずかしい。だけど、なりふり構っていられなかった。泣き出ださないように、目がしらに神経を集中させることで精一杯だった。 「いや、これは怨みのたぐいではないだろう。むしろ好意じゃないのか」 言うと、検事はなんの躊躇もなく、紙を真っ二つに破いてしまった。そのままゴミのように丸めて、自分のポケットに突っ込む。検事はまだスーツ姿だった。帰宅後、着替える間もなくオレが電話をかけてしまったのかもしれない。 「あ、それ、破ったりしていいんですか」逆恨みとか、されないだろうか。 「ああ、証拠品になったか。迂闊だった」 「いえ、そういう意味ではないんですが」 「それにしても、暇な人間がいるものだな」 「そ、そうですね」 「ストーキングをする暇があるのなら、私の抱える公判を肩代わりしてほしいな。忙しい奴も、そうでない奴も、何故二十四時間しか与えられていないんだろうな。平等に、均等であることが、かえって不平等じゃないのか」 「そ、そうですね」オレは頷くほかない。 「準備はできているか」 「え、準備、ですか?」 顎を突き出して反問する。準備とは、一体なんのことだ? 「うちに来るんだろう?」 「え、えっ」そんな話、微塵も聞いた覚えはない。 困惑したオレの反応に、検事は肩をすくめる。これ見よがしの、大仰な仕草だ。 「ここに一人残されて、君は眠れるのか?」こちらを挑発するかのように、片眉を下げる。「君がここに留まるというのなら、私が来た理由はなんだ。玄関のゴミを拾うためか?」 え、え、そっ、そんな、捲くし立てないでほしい。余計に混乱するじゃないか! 「さっさと準備しろ、三分以内だ」 「は、はいっ」さ、三分ッ? 尻に火がついたような思いで、クローゼットから大き目のバッグを引っ張り出した。 (第二部:『若紫』編 より)※時系列:拍手で連載した短編のあたりです 【5】恋の話 仕事に行きたくない、とここまで猛烈に感じる朝は、久方ぶりだった。 ええい休んでやる、と最大限の度胸を振り絞っても、精々、布団の中に十分ほど長くいられるだけだ。最終的には、渋々起き出してスーツに腕を通す。学生とは違うのだ。 家を出る前、自分の鞄にぶら下がったお守りが目に付いた。「恋愛成就」と刺繍が施してある、桃色のお守りだ。先月、大学の友人たちと久しぶりに飲んだ際、男であるという事実だけを伏せて検事のことを話した。というか、愚痴った。すると友達が、「頑張れ」と言って、自分のバッグに入っていたものをくれたのだ。いらねーよ、大体ピンクじゃないか、と遠慮したのだが、押し付けられた。 そのお守りに効力が無かったことは、昨日はっきりと証明されたので、出発する前に外してしまった。くれた友人には悪いが、今は忌々しいだけの代物だ。 「失恋だな?」 平生通り、いや、むしろ誇らしげでさえある口調で、検事は言った。 「私がそう推測する根拠は二つある。ひとつ、」 「失恋じゃありません」 彼は原則として人の話を聞かないので、「オレが失恋したという推測に至るまでの二つの根拠」を、立て板の水の弁舌で述べ始めた。当然ながら、反省の色など微塵も見えない。約束を破ったということに、まず気が付いてさえいないのだろう。 一体いつになれば『若紫』の約束を思い出すのか、そしていつになれば、オレに謝罪の言葉をかけてくるのか……はじめはそう思っていたが、いや逆だな、と思考を反転させた。逆に、思い出さずにいてくれたままのほうがいい。あの一件をまた蒸し返されても、かえって腹が立つだけだろう。約束に浮かれた自分も、奮発して買ってしまった『Taylor』の革靴も、今となっては自己嫌悪の材料でしかない。 その日は、ケネス・ニールという青年が送検されてきた。検事が、その青年に関する捜査に出たことで、オレはもちろん、ホークアイ検事とブロッシュの勤務時間も延長を余儀なくされた。すみません、申し訳ありません、と毎度のことながらホークアイ検事に、平身低頭、平蜘蛛のように陳謝する。「平蜘蛛事務官」の異名をとるオレは、もはや東方支部の名物にもなっている。 「大丈夫よ」と美しい女検事はオレに微笑みかけた。「あれの不始末は、はじめから勘定に入れて案件を処理してるから」 彼女の絶対零度の笑顔におののいた。「あれ、とはマスタング検事のことですか」 「マスタング? 誰かしら、それ」顔のわきに垂れた髪の束を、雅やかな所作で耳にかける。「ここには、支部長と私、ブロッシュ君、エドワード君、それから害虫が一匹いるだけよ」 「いつも悪いね、ホークアイ君」と支部長は眦を下げ、 「あ、また降格した」とブロッシュがけたけたと笑う。 その翌日も<害虫>は、昨日と変わらず、オレの「失恋」についてしつこく尋問してきた。くたびれたポロシャツに綿パンという、クールビズの意味を履き違えたような服装で、「言うまで帰らせない」などとのたまった。 「私が知らない事実がこの世にあるなんて、許せないんだ。美人だろ? 君は面食いそうだからな。顔にすぐ騙されるタイプだ」 マスタング検事の担当事務官として、「怒ったら負け」を座右の銘に、ここまで務め上げてきた。けれど今日ばかりは、さすがのオレも限界だった。 「あんたのその大事な手帳に、書いてあるんじゃないですか!」 この無謀で愚かしい片思いも、一度は「告げる」と決めた想いだ。ここまできたら、もうどうにでもなれ。 取調室を後にし、東方支部から出ると、沈みかける夕日が遠くに見えた。会社を出た後に太陽を拝めるなんて、と夏の日の長さに感激する。 ケネス・ニールという弟思いの被疑者を取り調べたことで、オレも久しぶりにアルフォンスに会いたくなった。飲みに誘おうと、弟に電話を掛けてみる。が、 「今日は会社の送別会があるんだ」とあっさり断られた。 「あ、そう」 「ごめんね、兄さん」せっかく誘ってくれたのに、とアルは持ち前のテノールで続ける。 「いやいや、なんの。気にすんなって」 そう取り繕いながらも、ちょっぴり気落ちした。弟も社会人一年目、まあ色々と大変なのだろう。アルの上司が、どうかマスタング検事のような者でありませんように、と夕日に願った。 地下鉄に揺られ、家の前に着くころには、日はすっかり暮れてしまっていた。 闇が充満する視界に映りこんだ「ある物」に、オレは思い切り顔をしかめた。マスタング検事のアウディが、アパートの前に停車していたのだ。 先回りされたらしい。意地でも誰かと飲みに行くんだった、と即座に後悔した。 オレの姿を認めると、検事が車から降りてくる。「遅かったな」 「何しに来たんです」 出しうる限りの冷淡な声で、目も合わせずに聞いた。 「君と話をしに」 「オレは、話すことなんてありません」 『若紫』の件に、ようやく気が付いたのだろう。今更すぎるんだよ、とむかっ腹が立ってくる。謝罪も何もいらないから、放っておいてほしかった。 「乗れ」と検事はアウディのボンネットを軽く叩く。 「乗りません」 「何故だ」 「明日も仕事だからです」 彼には一瞥もくれずに、階段を上がった。追いかけてくる気配はない。部屋に入ってしまえば、検事も大人しく帰るだろう。 鞄から鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込む──いや、差せなかった。衝撃のあまり、視界が翳る。明らかに作為的な傷によって、鍵穴が変形していたのだ。 「け、検事!」三階から、地上に向かって身を乗り出す。「あんた、もしかして……」 オレが逼迫した声を投げると検事は、先の尖った金槌のようなものを、飄々と車から取り出した。 「手が滑ったんだ」と言い、肩をすくめる。悪びれるどころか、露悪的ですらある。「修理代くらい出すさ」 「し、信じらんねー……!」 こんな奴が<正義>でたまるかよ。大丈夫か、司法国家。 「乗るんだ」 「嫌です」こうなったら、ホテルにでもなんでも泊まってやる。 「……君に、話があるんだ」 そう漏らした検事が、俯くようにオレから目を逸らした。そのことに、オレはひどく戸惑った。検事があんなふうに、逃げるみたいに顔を背けるところなんて、初めて見たのだ。 「ずるい」とこぼしそうになった声を、からくも飲み込む。あんな顔するなんて、検事はずるい。 オレは、あんたのこと、大嫌いだ。大嫌いなのに、そういう顔をされるだけで、胸が痛いくらいに締め付けられる。 「乗れと言っても、君はきっと、素直には乗らないと思ったんだ」検事の顔は、斜め下を向いたままだ。 「……当たり前です」 「だからこんな方法しか、思いつかなかった」と言って、金槌を握り締める。 「器物損壊罪ですよ」 「君は法律に詳しいんだな」 検事は顔を上げ、ふ、と笑う。わ、笑った、とオレは一歩後ずさった。 「……検事は、ずるい」 下唇を前歯で噛む。オレが、検事の笑顔に抗えないこと、知っているくせに。いや、知らないか。 「ん? 何か言ったか」と下にいる検事が聞き返してきた。 なんでもありません、と返事をし、溜息を吐き出してから、アウディのセダンに乗り込んだ。 *** 「……スーツに着替えたんですね」 「まあな」 昼間、検事は悪趣味なポロシャツと綿パンに身を包んでいた。スーツは車に積んでいたのかもしれない。「スーツはトイレに流したのでは」と問い質そうかと思ったが、それも面倒なので、やめた。 「マスタング検事は、どうして検察官になったんですか」 スーツの襟に燦然と光る検事バッジが目に付いたので、尋ねてみた。 ハンドルを握る検事は、助手席に座ったオレに目を遣る。「唐突だな」 「代々、弁護士の家系だと聞いたので」 「代々、弁護士の家系だから、かもな」 「と、言うと?」 運転席に視線を投げると、赤信号を見つめる検事の横顔がある。釘付けになってしまう前に、慌てて目を背けた。 「弁護士の家に生まれたから、弁護士の仕事をいやというほど見てきた。裁判はともかく、毎日毎日、離婚や借金の相談を親身になって受けるなんて、なんて素晴らしい仕事なのだろう、と思ったものだ」 「離婚や借金の相談を親身に受ける、マスタング弁護士」笑い出しそうになるのをこらえた。「マスタング、法律事務所」自分で言ったことに、ぷ、と噴き出す。 「法律の疑問に、親身になってお答えします」マスタング検事が便乗した。 「人生を破滅させたい方は、どうぞお気軽にご相談ください」オレも合わせる。 マスタング法律事務所です、と、オレと検事の声が重なった。 「破滅の門だな」と検事は肩の位置を高めた。 「検察官になったのは、弁護士が嫌だったから、ですか」 「嫌、と言うと御幣があるが。あれはあれで、必要な仕事だし、やり甲斐もあるんだろう。ただ、向き不向きの問題だ」 「検事は、人をいじめるのが得意ですもんね」 「人を守るのが苦手なだけだ」 自分で言っていたら世話がない、とオレは肩を揺らした。くそう、さっきまで怒っていたはずなのに。検事のペースに巻き込まれたら最後、オレの片意地など容易に崩されてしまうのだ。 それに、と検事は続ける。今日の彼は饒舌だ。「それに、近かったんだ」 「近かった?」オレは疑問符を浮かべる。 「自分の中の<正義>に、検察官のほうが、近い位置にいた」 そんな気がしたんだ、と検事が言い詰めたころ、彼のマンションが見えてきた。 「検事の<正義>は、他人の家の鍵穴を損壊しても、許されるんですか」 「そうだな、許される」何故なら、と検事は人差し指を立てた。「あれは、過失だからだ」 器物損壊罪では、確かに過失犯の処罰はできない。が、 「金槌持って、何が『過失』ですか」 世界一性質の悪い<正義>だな、とオレは嘆息を漏らした。 ほぼ半年ぶりだというのに、ベスの熱烈な歓迎はまったく衰えを見せなかった。「久しぶり! 久しぶりだね! また来てくれたんだね!」とオレの太腿に、さかんに前足を突き立ててくる。 ベスと戯れるオレをよそに、検事はソファに腰を下ろし、沈黙を保っている。虚空を睨みつけるその横顔は、話の接ぎ穂を探しているようにも見えた。 オレは、自らの全てをさらけだすように仰向けになったベスの、毛の薄い腹部をさすりながら、 「もしかして、謝ろう、とか思ってるんですか」 オレの言葉に、検事は頬杖から顔を上げた。「そうだとしたら、なんだ」 「やめてください、そんなの」 オレは笑いながら、ゆるゆるとかぶりを横に振った。 「最初は、謝れ馬鹿野郎、って思いました。でもよく考えたら、検事が他人に頭を下げるところなんて、見たくないなって」 「怒らないのか?」 「さっきまで、ちゃんと怒ってたじゃないですか」よいしょ、とベスを抱き上げる。ベスからは、シャンプーのようないい香りがした。「でも、オレの家まで来てくれたし、今も、謝るタイミングを探してるようだったし。だからもう、いいかなって」 「君は、私のことが好きなのか」 検事は顔色一つ変えずに、そんなことを尋ねてきた。もとより彼にデリカシーなど求めていないが、それでもこれには、かあ、と両の頬が熱くなった。 「嫌いです」 その言葉は、検事の目を見て言えなかったので、ベスに向かって言った。ベスが、「え、まじで?」と身体を硬直させる。ごめんなベス、君のことは大好きだぞ。 「嫌いに決まってるじゃないですか」 「知っているか?」検事は綽綽余裕、というかんじだ。「君は嘘をつくとき、俯きがちになって前髪を触る、という癖がある」 「え、今、触りました?」 「ベスは片腕で抱えられるからな。空いた右手で、梳かすように短く触れた」 自分の無意識の部分を指摘されると、まるで独り言を聞かれたような気恥ずかしさに襲われる。 「オレが嘘をついても、全部お見通し、ですか」 「半年間もほぼ毎日、行動を共にしている君の嘘を見抜けないで、どうやって初対面の被疑者の嘘を暴くんだ」 それもそうですね、とオレはうなだれる。マスタング検事の事務官になんて、本当になるものじゃない。 ベスが身じろいだので床に降ろしてやると、リビングの隅に置かれた犬用トイレへ駆けていった。 「検事は、どう、思ってますか、オレのこと」 どきどき、どきどき、と唸りながら、皮膚の下で心臓がおびえている。どんな言葉が返ってくるのか、と。 「それが、私にもよくわからない」 「……そ、そうですか」ずきん、と身体の中心に、重苦しい疼痛が馳せた。 だけど、そりゃ、そうだ。わかっていたことじゃないか。わかっていたことだ。 |