Hello,see you again.──ハロー、また会いましょう。 Hello,hello, (上) 考えてみて欲しい。 穴だらけで汚れきった服を身に纏い、髪は伸ばしっぱなしなのかぼさぼさで、前髪から片方の瞳が辛うじて覗く。 そんな風体を呈した一人の少年が、自分の家の玄関を鳴らし、私が扉を開いたところで、開口一番、歌い始める。 誰だってたじろぐだろう、対応に窮するだろう。 だからこの瞬間の自分を、私は恥らったりしていない。 年齢は十代半ば、裸足の足は生々しい裂傷だらけだった。更に刮目すると、か細い両腕にも首元にもほんの少し見える顔にも、生傷は絶えなかった。 少年は顔に被る(というよりも、顔を覆う)鬱陶しそうな前髪を片手で払いのけて、息を吸った。 すぅ、と。 食物を請うのか宿を請うのか、私が用意したのは陳腐な二択。 もちろん、それらは少年が次に起こした行動によって無下にされたのだが。 「Hello,hello」彼は躊躇いながらも、そう歌った。 「The god and I are praying to meet my dear person. If it is loveless, I cannot live. Hello. Hello. Fa la la la la… I can surely meet you. Please tell me someone. You might leave why. Hello. Hello. Fa la la la la… I keep saying, "Hello" for a long time. Fa la la la la…」 とりあえず、英文は深く考えなくてもいい。 夜分遅いにも拘らず朗々と歌いきった少年に、我ながら情けないが、私は口を開けっ放しのがま口財布よろしく開いて唖然とした。 名乗りもせず、挨拶もせず、彼は他人の家の玄関先で一曲歌いきったのだ。 「き、君はなんだ?ストリートチルドレンか?」 何故か私がおどおどしながら問うと、彼はこう返答した──否、しなかった。 また口を遠慮がちに開いたので何か言葉を発するのかと思ったが、先刻の旋律を紡ぎだした咽喉は、今度はなんの音も出さなかった。 ただ、少年は、黙って、口を広げている。あー、と。 「め、めしが欲しいのか?」 このまま追い出したらマスタングの名が廃るような気がしてならなかったので、私は已む無くリビングから小さなフランスパンをひとつ持ってきて、与えた。 少年はやはりだんまりとそれを受け取り、身体を翻して礼もせずに夜の闇へ埋没した。 私はひたすらに疑問符を頭上に点している。 「・・・礼ぐらい言えんのか」 翌日の夜。 今日もまた玄関のチャイムが鳴り響いた。ピンポーン。 仕事で疲労困憊の私を急かすように、チャイムは鳴り止まない。 ピンポーン、ピンポーン、ピンポン、ピンポンピンポンピンポンポンピン・・・ん? 「わかった!いまいく!」とにかく、そのけたたましいチャイムの猛襲に、私は疲労に塗れた身体を起こす羽目になる。 玄関を開けると、さも当然というかのように、昨日の少年が佇んでいた。 そして彼は、またもや何も言わぬまま、歌い始めた。 「Hello,hello」 「歌はいいから、君はなんなんだ?」 「The god and I are praying to meet my dear person. If it is loveless, I cannot live・・・」 「歌うんじゃなくて、言葉を喋ってくれないか!」 私が強い調子でそう詰問すると、少年は歌うのをやめ、そのまま、やはり沈黙を決め込んだ。 追い出せばよかったのかもしれない。 私も一応軍の上層部に属す人種だ、どうせこの家の外観を見て主の富裕具合を見極め、金目のもの若しくは食べ物をせびりに来たのだろう。 裏道の方へ入った路地へ行けば、こんな子供たちは溢れかえっている。 そう、追い出せばよかったのだ。 「・・・喋れないのか?歌えるのに?」 それでも、そう言ってこの少年を慮り、私の言葉に明白に首肯した少年を家の中へ招いてしまったのは。 彼の歌声と、前髪から覗くトパーズ色の瞳が、とても美しかったからだった。 まず少年を風呂に入れさせ(水道等の扱いに戸惑ったのか、小一時間出てこなかった)、すだれ状態になっていた前髪を輪ゴム(ヘアゴムなどうちには無い)で縛ると、少年の整った目鼻立ちがようやく明らかになった。 すっと通った鼻梁、美しい旋律を生み出す唇、金色の睫毛に縁取られた大きな双眸は、どこか生気を失っていた。 「名前は?」言いながら、紙とペンを渡した。筆談だ。いささか古典的だが、致し方ない。 少年は左手でぎこちなくペンを持ち拙い字で、『エドワード』と名前を記した。 「エドワードか、いい名前だ。年は?」 また一生懸命に文字を記していく“エドワード”。 『14』と書いた後、『か、15』と付け足した。 「腹は減ってるか」 私がそう言うと、エドワードはまた歌いだそうとしたので、近所迷惑を考慮して私が制止した。「夜は歌うな!」 エドワードは首を右へ傾げ、こう書いた。 『うたわなくてもいいの』。 『おこらないの?』。 「怒る?何故怒る必要がある」 そのときの私にはまだ、そのエドワードの挙動の意味が汲み取れなかった。 何故だか彼は(私が制止しない限り)食事の前はいつも歌っていた。それが規則だとでもいうかのようだった。 『へんなの』。 「変なのはお前だ・・・」 エドワードは束の間考えたのち、その日の最後にこう綴った。 『ありがと』 エドワードは髪を切った。 後ろはばっさりと短く、前髪も顔がしっかり覗くように整えた(エドを連れて行ったときの美容師の驚きようと言ったら)。 体中を覆っていた傷の数々も治癒し、骨と皮しかないのではないかと思わせるように、まるで小枝だった彼の腕や足も少しずつ健康的な体躯になっていった。とは言っても、まだまだ標準には満たない。 それはさておき、エドの声については、戻ってくる気配が一向になかった。 「Fa la la la la….」 しばしばそう口ずさむ姿は、いたって普通の少年なのに、彼は会話になると一切言葉を発せなくなる。 「それはなんの歌なんだ?」 私が問うと、彼はきゅっと頭をかしげた。 知らないそうだ。 何かが彼から歌声だけを残して、美しい声を奪っていってしまったような、そんな妙な感じだった。 「まるで人魚姫の歌声のみ残ってますバージョンだな、甘い魔女だ」 エドはまた首をきゅっと右へ傾ける。 知らないそうだ。 人魚姫知らないのか、子供くせに。 「そろそろ昼時だな、何か作るか」仕事が非番の日の、ゆったりとした午後。 私が台所へ向かおうとソファを立つと、隣に座っていたエドも立ち上がり、私が歩けばその後ろをぺたぺたと付いて来る。 「Hello,hello.Fa la la la…」 いつもの歌を小さく歌いながら、私が右へ行けば右へ、左へ行けば左へ、何処へ行くにも付いて来るのはエドの性癖だった。 「まるで金魚のフンだな」冗談めかして言うと、エドはやはり頭を小さく傾げるのだった。 *** 母親が出て行った。 家中に響くあの重なる金切り声が止むのかと、オレは内心ほっとしたのを覚えている。 オレが3歳のときだった。 オレは母親に顔も声もよく似ていて、親戚からもこう言われてはよくちやほやされていた。 『お母さんにそっくりね』 母親の消えた家にはオレと父親だけが残され、オレはその日から家の一番北にある、薄ら寒くて昼間も仄暗い、牢獄のような部屋へ閉じ込められた。 母親は教会の聖歌隊だった。 二人が若かりし頃には、父親がその歌声に魅了されてどうのとかっていう、どうでもよいなれそめを聞いたことがある。 ある日、オレの“牢獄”に父親がカセットテープを運びいれ、一言、オレに命令した。 「覚えろ」 そのまま退出していく父親を無気力に見つめ、フラフラの腕で再生ボタンを押した。 オレは二日間、水しか与えられていなかったのだ。 テープから、美麗な旋律が流れ出す。母親の歌声だと、すぐにわかった。 (ああ、そうか) まだ、惚れ込んでるのか、アンタ。 この声に。 オレに歌えというのか、声が酷似した、この息子に。 『Hello,hello.The god and I are praying to meet my dear person. If it is loveless, I cannot live. Hello. Hello. Fa la la la la… I can surely meet you. Please tell me someone. You might leave why. Hello. Hello. Fa la la la la… I keep saying, "Hello" for a long time. Fa la la la la…』 綺麗な歌だった。オレは素直に賛嘆した。 「Hello….」 何度も繰り返し繰り返し聞いたものの、歌詞が記された紙もない状態で3歳の子供が、たった一日でこの英文とリズムを覚えることは不可能だった。 夜、父親がまた部屋へやってきた。 そうしてまた一言、オレに命令した。 「歌え」 オレはおずおずと歌いだした。 「Hello,hello…」 一番は滞りなく歌えたが、二番は出だしからわからなかった。 口を噤むと、頬に鉄拳が飛んできた。 オレがわけもわからぬまま冷たい床に倒れ、切れた口腔から滲んだ血を味わった。 「いた・・・」思わずそう呟くと、今度は鳩尾に土足で蹴りが飛んできた。胃液を吐いた。 「喋るな」 その忌々しい声で、喋るな。 取り付く島のない冷然とした声音で、父親はそう告げた。 喉が焼け付くように痛んで口内は血の味で充満していたし、目の前の男の拳や爪先が突進してきた局所局所もどくどく脈打つようにオレを苦痛で苛めた。けれど、オレは身体よりも精神とか意識とか心とかそういう実体の無いあやふやで模糊な、“mind”という言葉がしっくりとくる決して他人には傷付けられてはならないような、そういう部分を叱咤され殴打されむちゃくちゃに乱暴されているような感覚だった。 室内の闇の黒が、涙に透けて歪んだ。ぜえぜえと喘ぐオレの喉には嵐。重力に屈服して這い蹲らされている無機質で温度のない床に、眼前に仁王立ちする男の影が色濃く、そしてぞっとするほど悲哀に満ちて、開け放したドアから侵入する光に相対するように長く長く落ちていた。 恐怖に竦んだオレが泣き出し、漏らしてしまった嗚咽にも、いちいち男は反応し蹴りやら鉄拳やらを次々繰り出し、 オレが気を失ってしまうと、硬質の足音がようやく遠ざかっていった。 また父親が来る。こう言う。 「歌え」 オレはがくがく全身を震わせながら、必死で覚えたテープの通りに歌った。 歌詞を間違えるたびオレは殴られ床を舐めることになった。 意識朦朧の中でなんとか全てを歌い終えると、父親は居間へ戻り、小さなパンと水をオレに与えた。 歌え、と言われて、オレが歌う。 歌えば食料が与えられた。 もちろん途中で噎せたり、歌声以外の声を出したら意識が飛ぶほど殴られたし、ときには無意味に痛めつけられたときもあった。 それでもオレは歌い続けた。 生きるために歌った。 気付けばそんな生活が、10年以上続いていた。 オレの咽喉は、歌以外の音を忘れてしまった。 というよりもそれらの苦痛を伴う記憶がトラウマとなって、オレの咽喉を凌駕していた。 『ハロー、ハロー。 神様、私は愛しい人に出会えることを祈っています。 愛が無ければ生きていけないわ。 ハロー、ハロー。 私はきっとあなたと出会うでしょう。 誰か私に教えて。 あなたはどうして去ってゆくの。 ハロー、ハロー。 私はずっと言い続けるわ、ハロー。 ハロー。愛しい人』 こんな恋愛に放蕩した歌以外、オレの咽喉から発せられる音はない。 そんなある日、オレは風邪に罹ってしまった。声が出ないほど嗄れた。 オレは焦った。 殺されてしまう。 殺されてしまう。 歌わなければ、死ぬ。 シヌ? オレは二階だというのに、窓から飛び降りた。 木々がクッションとなったので、なんとか大きな怪我はしないで地上へと降り立つことができた。 どうして今まで気付かなかったのだろう。 逃げ出せばよかったのに、こうして。 そのまま夜の闇へと逃げ込む。 凛冽とした寒風が嫋々とオレの頬を撫で、冷たい寒気に触れた傷がじんと泣いた。その快いぐらいの痛みに、オレは確やかに“生”を感じた。オレはまだ生きているらしかった。 外の乾いた空気の匂いとか団欒を囲んでいるだろう家庭から届いてくる食べ物の匂い、煙るように白く濁ったオレの吐き出した吐息、耳を打つ人々のとりとめのない喧騒、そういったものが手を取り不安定にもちゃんとバランスをとって、この世界は正常に機能しているように思えた。 そういう悔しいほど平安な夜のとばりの中に一人置き去りにされてもオレは淋しくなんてなかったけれど、こういう『正常』の中へ『非常』から逃げ出してきた自分がなんだか不思議だった。この『正常』に順応できるのか、不安でもあったのかもしれない。 三日は公園の水でなんとか耐えた。三日断食ぐらい慣れっこだ。 喉が潤いと息吹を取り戻し、なんとか歌えるようになったので、ひときわ目に付いた立派な家のインターホンを押した。 あとで気付いたことだけれど、食前に歌、もしくは食事をもらうのに歌うという行為は異質なのだそうだ。 そんなオレの常軌を逸した行動を、不思議な顔をしながらも受け入れてくれる人間の家のインターホンを、オレはたまたま押したのだった。 それでもやはりいきなり歌いだすのはどうかと思ったので、「食べ物をください」と言おうと試みる。 けれど、トラウマという枷のついたこの咽喉は、一切の音を作り出さなかった。頑固な奴だ。 だから、已む無くオレは歌った。他の手段を知らなかった。 『正常』の世界の中で、オレは無知だった。 Hello,hello. ハロー、ハロー。 コンニチワハジメマシテアリガトウマタアシタサヨウナラ。 万感を込めて、オレは歌った。 ハロー、と。 突発的続き物・・私にしては珍しくすごく暗い・・! なんだかよくわからんな・・うーん・・しかもバッドエンド寄りの終わり方になるはずですので、嫌な方はちょっとあれかと・・! 誰かが死んだりはしないのですが! エドがかわいそうな子すぎてすみません・・ |