─ばいばい─ あれから、二年の歳月が流れた。 私の部屋にも心的にも、未だに、彼の面影は色濃く残像のように留まっている。 日曜の朝は、休日のゆったりとした空気の流れが運んでくる歌を朝に聞く。 これは私の、二年前から始まった新しい日課だ。 窓を開ける。いい天気だ。 透徹とした、一週間の初めの空気が耳に届けた、歌。 Hello… 懐かしく、悲しく、泣きそうなほど幸せな、あの歌。 Hello,hello, (番外編--その後) 彼が使った寝巻きも、歯ブラシも、駅員に頼んで持ち帰った切符も、カメラのレンズを好奇に満ちた視線で覗き込んだアングルの写真も、全てがまだ、あのときのままだった。 こんなことをしたところで何になる。そう自問もしたし、馬鹿なことだともわかっていた。 それでも、少年がここに居たその事実の残滓は、まだそれらに残っている、はずだ。そう思うと、“捨てる”という行為が途端に難儀に思えてきてならない。 そんな難儀を強いてまで捨てる意味も見出せないので、そのままになっている、という次第であって、それらを眺めて追憶に耽るだとか過去へトリップするだとか、そんなある種の嗜虐的な行為はしていない。 ただ、捨てない。ただ、残しておく、いや、残してある。 それだけだ。 しかしながら、夢ではたまに、見る。 夢の中の彼は、けっして笑っていない。悲愴な面持ちでいつも、さめざめと泣いている。 ばいばい、 頭のなかで何度も何度も再生した、あの日が精細に蘇る。この脳にここまで仔細な描写が記憶されているということに驚くぐらいに。 涙が、一滴、二滴、三、四、五。彼の眼下にある紙面にその涙雨が滴って、『父』という字が滲んで、歪む。そんな、視界の隅に入っていたのかいないのか、自分でも確認できていないような部分さえ、ぞっとするほど鮮明だ。少年の涙に濡れた睫毛の数さえ、その流れる映像を停止させれば数えられそうであるほどに。 笑ってくれ。私がそう言うのに、彼はイエスと答えてくれない。 返答はいつも、ハロー。 庭に残されていたメッセージは、もはや片鱗さえ残っておらず、その上を蹂躙するかのように無遠慮な雑草が繁茂していた。 そんな訳で、今日も夢見が良くなかった。多感な思春期などとうにお暇した分際だというのに、たかが夢で感傷的になる乙女のような自分が可笑しい。 暗雲だらけの心境を晴らすために、雲ひとつない空の下へ出る。 いい天気だ。 *** 彼が初めて私の家に来た日も、こんな寒さだった。いよいよ季節が冬に向かって行進の速度を速め、太陽は休暇(たぶん有給)を申請し始める。秋が働きつかれて、だらんと懶惰な生活を始めると一層風が冷たくなり、頬の産毛を凍らせる。 こんな温度が、私はわりと好きだ。気持ちが浄化され、アイロンをかけられたワイシャツのようにパリッと新調されるこの感じが心地よい。 はあ、と吐き出した息が白く煙るように視覚化され、暫時的に口元に留まり、一刹那で消えた。冬にだけ姿を現す、内気な吐息。ハロー、もう冬だな。 その瞬間的な吐息の煙が雲散したのを見届けて、視線を前へとずらした。と、余所見をしていたので人と危うくぶつかりそうになり、慌てて右へずれた。寒気に包囲された人間たちは、足元を見て歩きがちだ。まるで歩を進める己の足がどこへ行ってしまうのかわからずに、不安で監視しながら歩いているかのようだ。 冬は人を俯かせる。だから、人の顔が、よく、見えない。 けれど。 フード付の、どこかの民族衣装のような白魔道士のような服装で身を包んで、購入したのだろうささやかな食べ物が収められている茶色い紙袋を胸に抱えた子供たちが群れとなって、往路の隅に申し訳なさそうに集まっている。 あれは孤児院の子供たちだ。その筆頭に、母親役と思われる女性が立って、誘導している。「さあ、風邪を引いてしまう前に、早く帰りましょう」 私はその時の自分には、今考えても、本当に感服する。 というのも、私は可視範囲の隅も隅、もう事物の輪郭がぼやけてしまうような部分に移りこんだ一つの顔を一瞬にして認識し、敏捷に反応したのである。 フードを深く被り、<<足元を監視するように>>俯いたその顔は、ほとんど見えなかったといっても過言ではない。 でも、私には、わかった。私には見えた。 俯き加減に伏せた睫毛が、ほんの少し揺れたその様子さえ手に取るようだった。吐き出したその吐息は、やはり少年の顔の前で白く残像を残した。 「エドっ!」 思わずその名を呼んだが、驚きだか戸惑いだかのオブラートに包まれたその声は、自分で思ったよりもずっと小さかったらしい。 スローモーションでその後姿が、雑踏に消えていく。 人違いではない。断じてない。 あれは、あの痩せた肩は、あの伏せた長い睫毛は──間違いない。 私はそこに立ち尽くして、もう人ごみに埋没して見えなくなった後姿を探していた。 ここらの周辺にある孤児院は、四つ。隣町に二つ、逆隣の町には六つだ。 それらの電話番号を洗い浚い書き出し、ひとつひとつ電話をかけた。その行動を起こしたときの自分は最早夢裡のような状態で、無意識的だった。それが当然とでも言わんばかりに、私は淡々とその作業を進め、ついに、探し当てた。 「そちらの孤児院に、エドワードという名の者はいるか」何度も何度も歯節へ出したその常套句を飽きもせず口に出すと、『ああ──はい、おります』という淡白な返答が耳に触れた。 その単調なトーンの返答に、私は受話器を取り落としそうになってしまった。 (いた、本当にいた)私は言葉を失った、否、探していた。この気持ちを表現できる言葉は、私の語彙から見出すことはできない。 『かわりましょうか──あ、申し訳ございません、彼は声が、その──』 「知っている」 知っている。やっぱり、間違いない。 『バイバイ、ろい』──彼の喉は確かにそんな音を吐いたが、喋れるようになったわけではないらしい。一過的なものだったのか。 「明日そちらへ伺う。その子を、私が、」ここで一息置いた、次の言葉を、自分に言い聞かせたかった。噛み締めたいと思った。 「引き取りたい」。 孤児院側も、まさか軍の上層部に食い込んでいる人間が孤児を主体的に引き取りにくるなど前代未聞の出来事であったらしく、非常に周章狼狽していたが文句や異議がある訳もないので、然程の遅疑逡巡も滞りもなく事はすんなりと進んでいった。 二年前、彼が家に引き戻されてからわずか数ヶ月足らずで、彼の父親は事故死したらしかった。 招かれた“来客室”で安物のソファを温めながら、いそいそと少年を呼びに行った女性が帰ってくるのを待つ。 心なしか、動悸がはやくなっているような気がした。心拍のメトロノームが、唐突な、未曾有の加速に焦っている。カチ、コチ、カチ、コチ、カチコチカチコチ・・・『なになに、こんなに私を急がせて、なんかあったの?』 ああ、あった。 大いにあった。 まず、ドアの向こうから見えたのは、金髪だった。 こちら側へ顔を覗かせようか、躊躇っているのだ。暫時の躊躇ののち、ひょい、と出てきた、顔。 その顔の上部に位置する両目はまず、不安を点していた。『ほんとに、オレでまちがいないの?オレのこと、おぼえてるの?』 「当たり前だろう」 私が言うと、エドの顔が、また廊下の方へ引っ込んで見えなくなった。傍らに立つ保母は、私を訝しげな視線で見ている。え、なにこの人、ひとりごと?やばくない?と言わんばかりだ。どうやら、この保母はエドと会話することができないらしい。あんなにエドは自由自在な表情を持ち合わせているのに、それを読み取れないなんて、愚かな奴だ。 私は立ち上がって、廊下へ出た。すぐ左側に、エドがしゃがみ込んで顔を手で覆っていた。華奢な肩が、小さく震えている。この震えは、見覚えがある──泣いているときの、肩の微動だ。夢でうんざりするほどリプレイした、この様相。 (髪が伸びたな) しなやかな蜂蜜の髪は、背中の三分の二くらいまでその脚を伸ばしていて、綺麗に切り整えられていた。ぱらり、とその肩の震えと重力に従って、身体の脇から金が床へと垂れた。私の愛した髪だ。 「エドワード」 まだ上がらない彼の頭上から、声をそうっと落とした。それでも彼は顔をあげない。 顔を見たい。 「エド」 もう一度、さっきよりも速度を落としたトーンで言うと、漸く彼の顔を見ることができた。もちろん、その顔は涙という名の水滴で濡れていたが、その涙は、夢で見たあの悲愴な涙とは明らかに別種だった。 エドが勢いをつけて、私の首根に飛びつく。私が後ろによろめくぐらいの、その力いっぱいの衝撃がこんなにも快かった。 か細い体躯は、小動物のように優しく労わって抱きしめなければならない。彼が伝えようとする無音の意思は、何よりも丁寧に慎重に傾聴しなければならない。様々に色を変える表情は、全神経を集中させて刮目しなければならない。 なにかと、大変だ。 しかしその分──精一杯の笑顔が返ってくる。全力を込めた腕が、背中をぎゅっと締め付けてくれる。彼が手にした幸は、少しも残らず熨斗を付けて、こちらへくれる。何よりも美しい歌声を、聞かせてくれる。 こんなに容易なコミュニケーションは他にない。 彼は嗚咽さえ、漏らさない。口の奥で噛み締めて、その声を殺してしまう。これは無意識というよりも、惰性というか、義務のようだ。それでもいい。 金の頭髪を撫でた。シャンプーのにおいが香った。 「帰ろう」 まだ春は遠いけれど、きっと、一緒に迎えよう。 そしたらまた、歌って欲しい。 ハロー、と。 今度は必ず、幸せにするから。 わー短い!さっぱり終わらせたかったので・・! 本編のハロー、あれだけじゃちょっと悲しすぎるというか酷すぎるだろうよ木下よ!続編書いてくれたまえよ!・・という有難いお声を、本当にたくさんいただいたので、とっても短いですが書いてみました・・!ドキドキ ハローは実は、『上』をUPした時点で、自分で全然納得いかなくて撤去も考えたぐらいだったのですが、こんなふうに、続編まで書ける次第になったのは、本当にコメントくださった皆様のおかげです!;; 有難うございました・・!* |