※死ネタ注意・でもバッドエンドじゃないでっす 氷の唇 今から何年前? オレの記憶が正しければ、もう二十九年前になるはずだ。 きっと、どこかの街のどこかの病院のどこかの病室で、珠のような赤ん坊が産声をあげたのだろう。 その日が在った事を、心から感謝していたのに。 後悔は先に立ってくれない。意地悪で性悪なやつだ。 表に裏があるように。生の裏側に潜む、それは。 見ないフリをしていた。 『愛してる』は少なくとも五十回、『好き』は数えるのもウンザリな百回以上、『かわいい』にいたっては両手の指を何回繰り返して使ってみても数えきれないぐらい耳朶に触れた。 耳に胼胝ができすぎて、もうオレの耳は原型を留めてさえいない気がする。そんな言葉を飽きもせずに。 暮れなずむ春の、うすのろな、たゆたう時の流れを身近に感じさせるような日だった事を覚えている。 「愛してるぞ鋼の」 断っておくが、語尾にハートマークのつく声の調子だ、真剣な顔つきで言われた日にはこっちが吹き出す。 緩みっぱなしのあの端麗な表情に、今抱えているこの本を力の限りぶつけてやれたらいくらか楽になるだろうが、眉目秀麗という言葉を典型的に湛えたあの美顔を傷付ける事ができるのは盲目者ぐらいじゃないのだろうか。 あ、今、『恋にはお前も盲目だろ』とか言った奴、出て来い。 「・・・・うっせー・・・」 オレが今吐いた辟易まみれの毀言も、多分大佐の耳には胼胝をつくりだしているのだろうけど。 柔弱な声音の科白になってしまったのは、声を荒げて咎める気力さえ最早殺がれているからだ。 オレの非力な指弾は、奴の笑い顔によっていつだって敗北を喫す。 (大体あんなに言いまくったら言葉の重みも軽くなるってなもんだろ・・・) と、負け犬の遠吠えにも少し似た、胸中での無音の謗り。暗黙の悪態を毒づいたつもりだったのに、「まぁ言葉の重みこそ軽くなるが・・・」と、大佐。 げろ。以心伝心ってやつかよ。勘弁してくれ、ほんとに。 「足りない」 「あ?」 『え?』って言おうと思った口頭はオレの意思に反して、精神的に疲労困憊のせいもあってかだらしなく輪を描き出してしまったため、 『あ』という少々間抜けで、どことなく不良のかおりがする音を歯節へ出してしまった。 『え』の口を形成することもままならないくらい精神的にやられているのだ。 「何回、何百回、何千回言っても足りないのだよ。言葉とは実に無力だな、鋼の」 「・・・あっそ・・・」 何千回、って桁が違うなその未来形。 という事は最低でもあと八百回以上は『好き』という科白を聞かなくてはならないのだろうか。 『愛してる』は九百五十・・・・?! もういっそ耳を除去しようか。胼胝だらけの。 「生憎私は言葉以外に、器用に気持ちを伝えられる手段を持ち合わせていないのでね」 長い睫毛がよく映える俯き加減で嘯く。 嘘を言え。 オレが一番大佐の心中を汲み取ることができる時は、そんな言葉を言われた時じゃない。 それ、は、えーと、割愛しとくけど、言葉じゃない。 腐るほど多種多様な手練手管を持っているくせに。 それでいつも困惑させられるこっちの身にもなれってやつだ。 「君の方こそ、私の事をどう思っているのかね?」 ドキッ。肩が震えた。不覚。って、少女マンガかっての。頭角を現す煩わしい虚栄心、自尊心。 「き」 少し躊躇ったのは、別に他意を含蓄しているわけじゃないって。 「嫌いだよ!当たり前だろ!この自意識過剰!!」 虚勢を張って、掃いて捨てるほどの好意をいとも容易に無下にしてやった。 大佐は、そうか、って苦笑を乗せた笑みを口端に貼り付けて、言葉を濁す。ちょっと気の毒だったかな。 本当にそう思ってる訳じゃない、よ。 以心伝心を、ほんの少し願ってみるだけ。 それなら別の部屋で読書すればいいのにって、大佐がほくそえんでいた事にオレは気付かなかった。 訃報を届けてくれたのは、ハボック少尉だった。 顔面蒼白な額に妙な汗を滲ませて、廊下を騒々しく疾駆する姿は必死。 オレに駆け寄って、たった、一言。 「大佐が・・・ッ!!」 オレには疑問符を浮かべるしか術がなく。 その言葉に不要なリアリティを注ぎ込んだのは、大佐自身だった。 ただし、白い布が顔を覆っていたので一見では誰だかわからなかった。 わかりたくなかった。 冗談だろ? 深閑としたほの暗い室内のベッドに、力なく大佐は横たわっていた。 車にひかれそうだった少女を助けた?そんなベタな展開があるか。 眼前に広がる現実味の無い、甚だしく禍々しい景観に思考回路がついていけない。 震えだす咽喉を叱咤し、血を吐くように声をどうにか絞り出す。 「馬鹿じゃねーの。そんなのに騙されるかよ」 オレ一人を残して、他の人間は退室していった。なんの気を遣っているんだ? 二人きり。何されるかわからないって言いながら、オレはいつも大佐の側にいたような気がする。 なぁ、返事しろよ。独り言みたいになっちゃうだろ。 「大佐・・・?」 そっと手を伸ばして真っ直ぐな黒髪に触れてみる。 その際偶発的に触ってしまった頬の冷たさにゾッとする。 その頬の冷たさに、その確かな死という存在に、背筋が凍った。息を呑んだ。目の前の光が、明度を失っていく。 過度の潤いが視界を包むのに、もう然程時間はかからなかった。 「・・・大佐・・・っ!」 瞬きをしたら、生温いものが溢れた。 オレはこの液体が大嫌いだ。認めるみたいでいやなんだ、昔から。 そんなオレの葛藤も素知らぬ顔で、左右の均衡のとれた綺麗な唇からは微量の息さえ漏らさない。 瞼の奥の静謐なあの瞳は、今どんなふうに輝いてる? 『鋼の』って、その紅唇で。『好き』って、その咽喉で。『愛してる』って、その、瞳で、身体で、重低音の声で。 オレを呼んだだろ? 囁いただろ? 胼胝だらけのこの耳に、睦まやかなセリフを。 心地良いあの響きを、忘れさせようって言うのか? しゃくり上げているオレの胸に、遺憾とか悔恨とかそういった類のものが怒濤のように押し寄せる。 まだ、言えてなかったのに。 『鬱陶しい!近寄んな!』 ずっといつまでも、未来永劫、大佐はオレの側にいるだなんて、そんな自意識過剰な事を寸分の疑念も懸念もなく信じ込んでた。 『この自意識過剰!!』だって? 自意識過剰はオレの方だ。しかもかなり性質が悪い。 遠目からでも、オレを見つけたらすぐに来てくれた。それがほんとは凄く嬉しかったよ、嬉しかったのに。 『くんな無能!』 そんな事にもちゃんと、気付いてたのに。オレは、なんで、なんで。 『嫌いだよ!』 嘘ばっかりだ。虚言しか生み出さないこの咽喉など、切り裂いてしまえたらいい。 それでも、大佐は笑ってくれた。その笑顔に甘えてた自分を呪う。 『君のそういう所も、私は好きだけどね』 いつでも言えると思ってたんだよ、いつだって側にいてくれたから。 そう、例えるなら、空気みたいな存在だと思った。 無くてはオレは生きていけなくて、でも身近にありすぎてその存在の大きさに気付かない。 『空気がない世界』を仮定して考えろと言われても、窒息して死んでいくだけだ。 それ以外にない。それ以外にそんな空想をめぐらせろというのか。 そんな仮定から世界を考慮しろって言われても無理みたいに、それぐらいにオレの中では、大佐の存在が消えた世界なんて考慮のしようがなかった。 図らずも大佐が死ぬだって?なんだそれ、って感じだ。 そんなの有り得ないって、オレはきっと笑い飛ばしてみせただろう。 でも、その『有り得ない事』が、『空気のない世界』が、今こうしてオレの前に現実として突きつけられている。 有り得ないなんて事は有り得ない、どっかで聞いたフレーズだ。 わかっていたつもりだった。のに、オレはこの有様だ。 わかっていた?オレは何をわかっていたつもりだったんだ? 何ひとつ、成長しちゃいない。 何ひとつ、 言いたかった言葉がある。 そして言えなかった言葉。 いやっていうほど、聞いた言葉。 眠っているような死屍に向かって。 「好きだよ・・・好き・・・当たり前だろ・・・っ」 もう届かない。もう、遅い。 「大佐に負けないぐらい・・・大佐が好きだよ・・・!」 詰まってばかりのこの粗末な咽喉は、ちゃんと音にしてくれただろうか? なんで言えなかったんだろう。何回言ってくれたんだろう。オレは、一度だって、 「大好き・・・!」 『は・・・あ、あっ・・・んっ、あ・・・』 あんなに愛されて、嫌いな訳がないのに。 オレの全身全霊を突き抜けて、脳内はもう己身を満たす楔にしか意識がまわらない。 引き寄せられた細身の腰を、多大な愛が貫く。 オレは受け止めきれない。オレはその量すら量りあぐねている。 オレはそれが勿体無いと、ぼんやりと考えてた。 こんな時に見た。 言葉にならないぐらいの、自身へ向けられる愛を。 汗ばむ体躯は四十度以上の発熱を体感させ、熱風のような喘息はみるみると理性を溶かしていく。 シーツを遮二無二掻き回す鋼の指さえ隈なく愛され、できることならオレの漏らした、か細い喘ぎの一つ一つにまで、大佐はキスをしただろう。 言葉なんていらなかった。唯のプラスαに過ぎない程度のものなんて。 でも。 もっと素直になれていれば。百回だって二百回だって、言葉は無力だから、全然足りないけど。 それでも、このやり場の無い思いを言葉にできていたら、この涙はいくらか光っただろうか。 オレはそのプラスαさえ、伝える事ができなかったなんて。 「ごめん・・・素直になれなくて、ゴメンな・・・」 目を覚まして。オレを呼んでよ。ねえ。いつまでオレを待たせるつもり? 「好きって、言えなくてごめんな・・・っ」 もう笑ってくれない。名前も呼んでくれない。その瞳はもうオレを見ない。 ウソだろ? 「起きてよ・・・たいさっ・・・!」 『おはよう鋼の』 蘇る、重低音のあの声。不鮮明で、はっきりとは思い出せない。 だからもう一度聞かせて、せめてこの愚鈍な脳に、焼き付けておきたいから。 もっとキスしたかった。もっと触れ合えばよかった。でも、もう、叶わない。 白い布がまた、掛けられてしまう前に。 初めて自分から合わせた唇は、いつもとは月鼈の差。 生気の無い、死んだような───・・・本当に死んでいるだろうか。 凍っている唇が、この悲惨な現実に信憑性を増大させていく。 そんな信憑性なんて要らない。できることならこんな悲境を駁するような逆説が欲しい。 反駁の余地がないといったような、有無を言わせぬ寂滅の物言いに、静寂の五月蝿さに、脱力するような眩暈を覚えた。 漸を追って明度を減退させていた視界は、もう真っ暗だった。 冥土の土産には何を持っていくっていうんだ。あんたはまだ早すぎるだろ?遠大で壮大な野望があったんじゃなかったのか。 オレはまだ、大総統の座についた大佐を見てない。見てないんだよ。見せてくれよ。 大佐が聞きたがってたオレの気持ちだって、今なら何回だって、何百回だって聞かせるから。 オレの目も、唇も耳も血も、手も足も髪も心も全部、全部あげるから。それでもあんたは戻ってこないっていうのか? 人体練成の構築式を練り直そうとしてる自分がいる。 何ひとつあの時のまま。稚拙な考えに完璧を見ていたあの頃の。 それに、そんなの大佐が望むとでも?愚の骨頂だ、オレは。 こんな話があった。毒りんごを食べさせられた姫は、王子のキスで息を吹き返す。 毒りんご?そうだね、毒りんごだったらいいのに。 キスなんかじゃ、目覚めない。現実はそう、甘くない。 氷の唇に、最後の手向けを。 大佐の見様見真似で歯を立てて、氷の唇に鬱血を残した。 反応はない。 「大佐。聞こえる?」 大好きだよ。 「たいさ・・・!」 愛してる。 鳥の囀り。麗らかな日差し。朝? 瞼を開けようと思ったら、涙ではりついていて、刹那の苦戦の後、光に慣れない瞳に陽光が差し込む。 無数の襞をつくり、うねっているシーツの上に佇んでいる自分に気付くと、慌てて視線を右にずらした。 頭が一つ。規則正しい律動の呼吸をしている黒髪の。 呼吸をしている、のだ。 生きてる。 「あ・・・」 恐らく人生で最も、ホッと安堵に胸を撫で下ろした瞬間だったと思う。 (よかった・・・!) 張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れて、同時に涙腺も狂ったみたいだ。 そんなこともうどうでもいい。 布団の中をゴソゴソと移動して、夢とは違う、現の温もりを感じる大佐の逞しい体躯に寄り添った。 「ひっく・・・うっ・・・よかっ・・・!」 声を出さないように努めたつもりだった嗚咽に、目を覚ましてしまった黒髪は、起きた早々狼狽しなければならない羽目になってしまったらしい。 「え、な、どうしたんだね鋼の!?」 聞いた? 『鋼の』って。 そうだ、こんな響きだった。 「好きっ・・・」 ダブルの困惑が大佐を襲う。かなり、狼狽えている様子だ。 「好き、大好き・・・!」 間に合ったんだ。 「よかった・・・!」 呼吸を整え、涙雨がようやく晴れあがってきたら、そっと鋼の右手で大佐の頬に羽毛のタッチ。 二人だけの、キスを乞う沈黙の合図。 ここに、大佐がいるって知りたいから。 「っ・・・んぅ・・・」 当然のように重ねられた口唇からは、確かな体温が伝わる。 心に染み入るような、オレの愛する温もりが確実にここにあった。 オレが文字通り夢見てた、嘘偽りない、大佐の体温。 「私もだよ、鋼の」 わかってるよ。いやってくらいに。有難う。 何千回だって聞かせて。 二十九年前に病室に木霊しただろう産声。 それはつまり、オレが知らない、間に空いた空白の十四年間があったということで、オレはその空白を憎んだ。 全ての時を共有したかった。たとえ出会っていなくとも、同じ星は見ることができた。それが悔しい。 でも、平気。 そんな空白なんて、なんてことないって言えるぐらいに、未来永劫に亘って、大佐がオレの側にいるんじゃなくて、オレが大佐の側にいてみせるから。 忌々しい氷の唇さえ、必ずオレが溶かしてみせるから。 |