La La La. [4] 大会の目前まで、ボイストレーニングと作曲に集中した。出来上がっていたはずの曲も、最後まで根気強く練り直した。 秀に連絡はとらなかった。また逆に、俺の携帯が鳴ることもなかった。 ジャパンミュージックフェスには、過去にも出場したことがある。出場条件には年齢制限なども設けられていないため、毎年、何度でも挑戦は可能だ。 だけど、今回がラストチャンス。俺は自分にそう言い聞かせていた。今度の大会に、すべてを賭ける。それでダメなら、潔く諦めるつもりだ。 俺が歌う理由。歌いたいと願う気持ち。秀に伝えたい、たくさんの感謝。それから、苦しいくらいの愛しさ──秀に再会したことで、それら全てが今、最高潮に達している。 歌いたい。歌わなくてはいけない。こんなに強烈に、そう思う。 こんな瞬間、きっと、もう二度とない。 (……時はきた) これが、最後のチャンス。そして、最高のチャンスだ。 秀。お前に伝えたいことが、やまほどあるよ。 俺の作った曲は、三分半の長さ。たった三分半のメロディに、どんなに言葉を詰め込んだって、この思いは伝えきれないだろう。 それに、読唇術では、百パーセント完璧に会話を読み取ることはできないらしい。どんなに熟練した技術を持っている人でも、だ。 だからさ、役に立たない「言葉」なんて、もういらない。そう思ったんだ。 言葉なんかじゃ、伝わりきれない。だから言葉じゃないもので、伝えるよ。 なあ、秀。お前に、届くだろうか? 大会の前日に、「聞きに来てほしい」という一言と、開催日時と場所、それだけをメールで送った。お前のために歌うとか、絶対優勝するとか、そんなことは書かない。そういうことは、全部歌で伝えればいい。 大会前夜は、ほとんど眠れなかった。日が昇ったのでベッドから這い出て、洗面所で顔を洗う。冷たい水で頬を叩き、気合を入れた。 いつもの無理しないラフな服装で、履き慣れたコンバースを足に嵌める。どうせ鳴らない携帯をポケットに押し込み、ギターを担いだ。 「龍也、もう出発するの?」 「お兄ちゃん、頑張ってね」 リビングのドアから、母さんと綾子が顔を出した。綾子はマスカラを手にしている。化粧の途中なのだろう。 一般入場の開始は、参加者の集合時刻よりも二時間ほど後なので、母さんと綾子は俺と時間差で家を出る。恥ずかしいから聞きにこなくていいと言ったのに。 「別にさ、優勝とか、しなくてもいいからね」 綾子が、俺に向かって微笑む。 「え?」 「ちょっとバカでもプー太郎でも、お兄ちゃんは、あたしの自慢のお兄ちゃんだから」 いつもは生意気のくせに、綾子はまれにこういう殊勝なことを言う。不覚にも、涙腺が熱くなった。こんなところで泣いては、兄の威厳が形無しだ。 「こういうときは、優勝してね、って言っとけばいいんだよ」 意地を張って、そんな切り返しをした。 「もう、『ドリーター』なんて言わせねーからな」 俺の言葉に、あは、と綾子が高い声で笑った。綾子は、美人だ。兄の贔屓目を抜きにしても。高校ではさぞモテるだろうから、兄としては気が気じゃない。 「じゃあ、いってくるよ」 いってらっしゃいと、母さんと綾子が手を振った。俺の夢を、家族は純粋に応援してくれる。この家に生まれて良かったと、俺はよく思う。 大会の開催地は、東京の有明。だから今日もまた、東京方面へ向かう特急列車に乗る。 でも、今日は「センター問い合わせ」をしなかった。秀は、必ず来る。俺はそう信じて歌うだけだ。 会場に到着すると、そこは既に参加者とその他の関係者でごった返していた。テレビ用のカメラを抱えた人も多くいる。マスコミの取材が入っているのだろう。 「沢入くん」と背後から声をかけられ、振り返る。フォーマルなスーツで決めた植田が立っていた。 「植田さん、来てくれたんですね」 「来ないほうがおかしいって」 植田は肩を揺らして笑う。スーツだと男前レベルが更にアップするな、と俺は感心した。 「参加登録は、もう済ませた?」 「はい。さっき、入り口で」 「じゃあ、発声練習でもしとこうか。向こうに待機室があるから」 待機室では、各々の参加者が準備をしていた。歌詞を確認する者、ギターのチューニングをする者、目を閉じてお守りを握りしめる者。出番までに、自分のコンディションを、自分なりの方法で高めている。 「歌詞は、本当にこれでいくんだね?」 植田は念を押すように俺に確認した。本番の歌詞について、前もって相談しておいたのだ。「はい」と俺が顎を引くと、 「けっこう、賭けだけどね。吉と出るかな、凶と出るかな」 と、思いのほか植田は楽しそうだった。 「でも沢入くんは声が良いから、そこに君の気持ちがのっかれば……きっと面白いことになるね」 「だと、良いんですけど」 俺は苦味のある笑い方をした。確かにこの歌詞は、乾坤一擲の賭けだ。本番の、自分のパフォーマンスに全てが懸かっている。 不安はある。でも、これ以外に思いつかなかった。この溢れる気持ちの全てを、歌に込める方法が。 順番は抽選で決められた。植田との発声練習を終え、結果を見に行く。俺はかなり後のほうだった。 「どうせなら大トリが良かったね」 にやつく植田に、「緊張で殺す気ですか」とささやかに反抗した。 一般入場の開始が、既に始まっていた。会場には続々と観覧者たちが集まってきている。未来のスターを発掘する注目度の高い大会だけあって、観客の数も並大抵ではない。入場は無料のため、興味本位で来る人も多い。 舞台の袖から観客を見渡した。かりに秀が来ていたとしても、この人数ではわからないな、と俺はちょっと気落ちする。本番前に、一目でも秀の顔が見たかった。 「彼女でも来てるの?」 観客席を覗き込む俺に、植田が尋ねてきた。冷かしという感じではなかった。 「いや、彼女ではないんですけど」 俺は首を横に振り、一息おいてから言った。 「俺の、好きな人です」 「若いねえ」と植田が口角をつりあげる。今度は、間違いなく冷かしだった。 「植田さんだって、若々しいですよ」嘘ではなく、本心だ。 「『若い』と『若々しい』は、マリリン・モンローとマリリン・マンソンくらい、違うって」 植田はそう言って自嘲する。俺も笑ってしまった。 レディースエンジェントルメーン! と司会者が大仰な声を出した。時刻は、正午ぴったり。 「いよいよ、始まるよ」 植田が司会者をまぶしそうに見た。彼は彼で、緊張しているのかもしれない。指導者としての、プレッシャーだ。はい、と俺は頷く。 「今まで、キツいこといっぱい言っちゃったけど」 植田は間の悪さを取り繕うように、右眉を掻いた。 「僕は君に一番期待してるんだ、実のところ」 それを聞いて俺は、悠然と笑んだ。 「ごめんなさい、知ってます」 植田は不思議そうに首をかしげた。 出場者たちの演奏が開始した。この大会にはジャンル制限がないため、ロックやバラードをはじめ、様々なタイプの音楽が披露される。 自分の出番までは、観客席に下り演奏を眺めることもできるが、俺はそうしなかった。正直なところ、他人の生演奏を見てプレッシャーになるのがこわかったのだ。 ピリピリと張り詰めた緊張感が漂う、待機室で順番を待つ。 部屋の隅に置かれたモニターは、ステージをライブで中継している。自分の出番を確認するためのものだ。誰が設定したのか、モニターは消音になっていたため、室内は静寂に包まれていた。 俺が植田と一緒にいたときは、皆それぞれ発声練習なんかをしていたのに、今は誰もが一様に沈黙を守っている。緊張でえずく者までいた。 俺は携帯の画面で未読メールがないことを確認し、深呼吸した。案外、心地よい緊張感の中にいる。何千人の観衆がいようが関係ない、そう思っていたからかもしれない。ただ一人のために、俺は歌うのだ。 そのとき、ブルッと携帯が震える。メールだった。まさか、と急いで手に取り、食い入るように画面を見つめた。 綾子からだった。いまどきの動く絵文字が乱舞している。 「いま、会場着いたよ。ママもおめかししてまーす。頑張って!」 ここでがっかりしては、綾子に失礼だ。でも、肩が脱力したことは否めない。むしろ身体の力みがとれて、ありがたいか。 返信もしないで、携帯を閉じた。パイプ椅子の背もたれに上半身を預ける。 (やっぱり……来ないかな) そもそも、耳の聞こえない秀を音楽の祭典に誘うということ自体、酷なのかもしれなかった。面白くもなんともないだろうし。 第一、俺の顔なんてもう見たくないかな、とネガティブになる。秀が必死に隠そうとした事実を、暴いてしまったのだ。しかも隠されたことに苛立って、怒声まで浴びせた。 嫌われたかも、しれない。 (まあ自業自得、だよな) いまごろ、俺の歌を彼に聞かせたところで、いったい何が変わるというのだろう。 (ダメだ、どんどん悲観的になる) 雑念を払うように、頭を二、三度振る。モニターを一瞥すると、自分の順番が近づいていることに気がついた。 ギターを抱えて待機室を出る。ちょうどスタッフが「三十六番の沢入龍也さん!」と呼びにきたところだった。「今行きまーす」と軽快に答える。 携帯の最終確認。未読メールは、やっぱりナシ。溜息とともに、ジャケットのポケットに携帯をしまう。 ステージの袖に入ると、俺の前の演奏者がマイクに向かうところだった。俺と同じ、弾き語り。でも女性だ。透明感のある声に、うまいな、と素直に感じた。 「ここは、関係者以外立ち入り禁止ですっ」 そのとき、スタッフの困り果てたような声が、後方から響いた。辺りがざわつく。物騒な雰囲気に、思わず振り返った。 心臓が止まりかけた。いや、実際、掛け値なしに三秒くらいは止まっただろう。 「しゅ、秀……!」 「沢入ッ」 秀はスタッフに阻まれながらも、それを押しのけるようにして、叫ぶ。生真面目な秀がこんな大それた行動を起こすなんて、信じがたいことだった。 「自分を、信じろ!」 俺は驚きのあまり声を失って、何も言えなかった。秀の声だけが、頭の中を何度も行き来した。 「君には、才能があるんだ!」 秀は、ほとんど泣き顔だ。でもたぶん、俺も同じだった。 「絶対に、あるんだ!」 観客席へお戻りください、と秀は強制的にスタッフに連れて行かれてしまった。ステージでは前の演奏者が歌い終わり、下手の舞台袖に去った。 ステージの真ん中に、ぽつんとマイクスタンドが立ち、俺を待っている。 エントリーナンバーと名前を呼ばれる。袖から出て、マイクの前に構えた。ドク、ドク、という自分の心臓の音だけが聞こえる。 「お兄ちゃんガンバ」と書かれたうちわを持つ綾子が見えた。母さんも一生懸命こっちに手を振っている。ふ、と知らず口元が綻んだ。 秀の姿は見えない。だけどもう、不安じゃない。 ぎゅ、とピックを強く握る。弾いた弦の振動が、内臓と脳にまで届いた。 大きく息を吸い、ステージのど真ん中で、俺は歌った。ラララ、と。 歌詞はなかった。はじめから終わりまで、「La」だけだ。 役に立たない言葉なんていらない。そう思ったから、俺は歌詞を書くのをやめた。 その代わり、メロディをたどることに全てを懸けた。声はもちろん、表情、しぐさ、身体のすべてを使って、表現した。感情を、思いを、まるごと全部「ラララ」にのせて、マイクにぶつけた。ハウったって、構うもんか。 秀は「聞けない」。だから「見て」ほしかった。俺の歌を。 歌い終わると、息が切れた。一曲演奏しただけなのに、ひどく汗をかいていた。 観客席の一番前で、植田がにっこりと笑う。そうして俺に、ブイサインをした。 「優勝者からコメントをいただきましょう。ズバリいまの心境は!」 と、騒々しい司会者にマイクを突きつけられたとき、俺はなんと発言したのかよく覚えていない。それどころじゃなかった。とにかく、観客席を隈なく見渡して、必死に秀の姿を探していた。 「ラララという歌詞には、どういう思いが込められていたんですか?」という質問には苦笑した。それをここで説明しろというのか。それでは何の意味もない。 写真を撮られたり取材を受けたりで、家に帰れたのは夜も更けきった頃だった。結局秀には会えず、こんなことなら優勝するんじゃなかった、とまで思った。 家では祝勝パーティーだった。母さんは奮発して高価なシャンパンをあけ、みんなで乾杯をした。報告の電話をいれると、親父も大喜びし、電話口ではしゃいだ。 「綾子、あのうちわはないだろ。アイドルのライブじゃないんだから」 俺が言うと、「えー」と綾子は不満そうに唇を突き出した。 「夜なべして作ったのに!」 「夜なべって」 女子高生らしからぬ単語のチョイスに噴き出した。忙しい受験生が、わざわざ夜なべして作ってくれたらしい。言うまでもなく、感謝している。照れるから、口には出さないけれど。 そうこうしている最中に、玄関のインターホンが鳴った。俺はやっぱり、心臓がとまりかけた。 「あら、誰かしら。こんな夜中に」 立ち上がろうとする母さんを、「俺が出る!」と制止する。走って廊下を抜け、玄関の門扉を勢いよく押し開けた。 「秀……!」 玄関先にぽつねんと立ちすくむ秀と目が合うと、全身の血液が逆流した。 「夜分遅くに、たいへん申し訳ない」 律儀に頭を下げる秀の腕を、俺は無言で引っ張った。そのまま二階に駆け上がる。「お、お邪魔いたします」と秀がリビングに裏返った声を投げた。 秀を部屋に連れ込み、後ろ手で鍵をかける。 「沢入、この度は本当に、おめで──」 語尾は俺がさえぎった。「うん、そういうのは、後で」 秀を引き寄せ、力を込めて抱きしめる。秀の身体が強張るのがわかった。 「さ、さわいり……っ?」 伝えたいことが、たくさんあった。はずなのに、言葉がひとつも出てこない。 大切なときに限って、言葉はなんの役にも立たない。 「秀……秀一郎、」 秀。秀だ。本物の秀だ。 彼の身体は、こんなに華奢だったかな。 「好きだ」 それしか、そんなありふれた台詞しか、浮かんでこなかった。 秀は黙っている。ああ、そうか。ちゃんと顔を見て言わなくちゃ。じゃなきゃ、彼には届かない。 身体をほんの少しだけ離すと、耳まで真っ赤にした秀と目が合った。 「好きなんだ、秀」 「さ、沢入」 告白したら、ちゃんと返事を聞くつもりだった。イエスか、ノーか。 だけど気づいたら、もうキスしていた。ドン、と後ろのドアに秀の背中を押し付ける。 「ん……ぅ……!」 秀は俺の腕の中でジタバタともがいたが、やがて静かになった。角度を変えると、キスがより深まる。 「……秀」 唇を少しだけ離すと、秀の潤んだ瞳が見えた。苦しそうに肩で息をしている。 「もしかして、初めてだった?」 俺の口の動きを見て、はっと秀が顔を上げる。「あ、当たり前だ……!」 「へえ、そうなんだ」口元がにやけるのは我慢できなかった。「秀、モテそうなのにね」 ただでさえ内向的だった秀のことだ。聴覚を失ったことで、なおさら人との交流を避けるようになったのだろう。 「モテそうというのなら、沢入のほうがよっぽど、そのように見える」 カア、と自分の顔が熱くなるのがわかった。 「そういう、不用意なこと言うな」 「え?」 「堪えがきかなくなるから」 外では雨が降り出したようだ。ぽたぽたと、雨粒の滴る音が聞こえる。 まだ熱い二人分の吐息が、俺たちの間で重なって、混ざった。 「前に俺、秀に『変わったな』って言った。覚えてるか?」 秀がゆっくりと首を振る。「実際、私は変わってしまった。昔とは、もう違う私だ」 「変わってないよ」 俺が呟くように言うと、秀は眉根を寄せてこちらを見た。 「なんにも、変わってない。秀は秀のままだった」 会場のスタッフに押し戻されながら、『君には、才能があるんだ!』と叫んだ秀を思い出す。 そう、あの言葉だ、と思った。小さい頃に聞いた、『君には、才能がある』という秀の言葉。それが俺をここまで、この舞台まで突き動かした。全ての原動力だった。 秀は口数が多くない。だけど、いつだって俺の欲しい言葉をくれる。秀は世渡りが下手だから、口先だけのお世辞は言えない。だからこそ、彼の言葉は信じられる。 「むしろさ、変わったのは、俺のほう」 親指で、そっと秀の下唇をなぞった。 「秀のこと、もう昔みたいに、友達として見られなくなった」 もう一度、軽く唇を合わせる。秀は抵抗しなかった。 「……秀と、こういうこと、したいって思う」 平静を装っているつもりだけれど、本当は心臓が口から飛び出そうだ。こちらが決死の告白をしているのに、秀は顔を赤くするだけだった。 「俺が言ってること、わかる……?」 やっぱり、こういう気持ちは迷惑だろうか──言いようもない不安が、胃の底のほうから湧きあがった。 「わ、私は」 と、秀が細い喉を震わせた。 「私は、ずっと君が、君だけがすべてだった……!」 普段は冷静沈着な話し方をする秀が、声を張り上げている。 「沢入がプロになったら、君の歌の感想を聞かせる。小学校のころ、君とそう約束したんだ。もしかしたら、沢入は覚えていないかもしれないが……」 覚えてるに決まってるだろ、ばか秀。 「耳を失ったとき、通訳という夢よりも先に、君との約束を思い出した。私は友人が少ないから、あれは人と交わした人生でたった一つの約束だった。絶対に……絶対に、守りたかった」 秀の瞼の裏側から、涙がこぼれた。 「だから君にだけは、耳のことを知られたくなかった。知られるわけには、いかなかったんだ……!」 何年もかけて必死に読唇術を勉強したのもそのためだ、と秀は声に涙をにじませる。 「耳が聞こえないとわかれば、きっと君はもう私を相手にはしてくれなくなる。そう思って今日まで、沢入に会う日のためだけに読話を学んできた。君のために生きてきたと言ったって、いいくらいだ」 どうして、と俺はたずねた。「どうして、相手にされなくなると思った?」 「目の見えない者に、ふつう芸人はパントマイムを披露しない。それと同じだ。聴覚を失った者に、ミュージシャンは歌わない」 なるほど、と思ってしまった。秀の言うことは、たしかに一理ある。 だけど、そんな秀は俺に、言葉のもつ本当の価値を教えてくれた。口先だけの、辞書からの借り物の言葉の無意味さを気づかせてくれた。なにより、歌いたいという気持ちを思い出させてくれた。 大会で優勝できたのは、まちがいなく秀がいたからだ。 ここは、ありがとうと言うべきかな。優勝はお前のおかげだ、と爽やかな青春群像劇を演じるべきかな……などと色々考えたけれど、正直、そんな余裕はなかった。心の底の本心──つまり俺の下心は、もっと別のことを聞きたかった。 「それは結局さ、秀も俺のことが好きっていうことで、いいのかな」 秀の蓮の頬に垂れた涙を、親指の腹で拭ってやる。長いまつ毛の下にのぞく秀の瞳と目が合うたび、胸の中心がきゅうと切なくなった。 「そ、そういうことで、いいと思うが」 よっしゃあ、とガッツポーズをしたい俺とは裏腹に、秀の表情はまだかげっている。 「だが、私は君に、謝らなければならない。君のような大切な友人に、重大な嘘をついてしまったことを」 ああもう、なんでこう、頭が固くて回りくどいんだ。そういうところも、たまらないけど。 「そんなこと、どうでもいいよ」秀の顔を両手で挟むようにし、ぐっと引き寄せた。「まじ、どうでもいい」 しかし、と秀がまた御託を並べ始める前に、唇を塞いでしまった。 「俺たちはもう『友人』じゃないんだって」と言い聞かせる必要もあるみたいだったけれど、キスしたら、全部どうでもよくなった。 *** 一つだけ、どうしてもわからないことがあった。 「なんで、ヘビメタなわけ?」 秀のウォークマンに入っている、彼のイメージとかけ離れているにもほどがある、あの音楽。耳が聞こえる頃に秀が素晴らしいと言ってくれた俺の音楽とは、似ても似つかないものだ。 「事故の後しばらくして、父に頼んだんだ。ウォークマンに、できるだけ激しい音楽をいれてくれ、と」 そう答えると、全裸の自分を恥ずかしがるように、秀は掛け布団を首まで引き上げた。「下着をつけたいのだが」とねだる秀を、「うん、後でね」と一蹴する。 「激しい音楽? なんでまた」 「視界の外では、どんなに大声で人に話しかけられても、私は気がつけない。そういうとき、『この曲を聴いていたから、気づかなかった』と説明して、相手が納得するような音楽が必要だと思ったんだ」 耳のことを隠そうとしていた俺の前ならともかく、秀は電車の中でもヘビメタを聞いていた。 「秀は、耳のことを常に人に知られまいとしてるのか?」 「いや、もちろん大学などでは、必要に応じて打ち明けるときもある。だが、特急列車では車掌が切符のチェックに来るだろう? 耳のことで車掌の手を煩わせたくないし、何より、そういう際にいちいち説明するのは面倒なのだ」 ははあ、と俺は何度か頷いた。だからヘビメタね、と納得する。 「じゃあ、秀はヘビメタがどんな音楽か、知らないわけだ」 「まあ、君の言うとおりだ」と秀は顎を掻く。「とても激しく、熱い音楽だと聞いている」 「そうでもないよ」 俺はいけしゃあしゃあと嘘をついた。 「クラシックにそっくり」 そうなのか? と秀は目を丸くする。「知らなかった」 しばらくこの嘘は、ついたままにしておこう。 秀が俺に嘘をついたことへの、心ばかりの仕返しとして。 |