そもそも世間には、恋人にまつわる記念日が多すぎる。なあ諸君、そうは思わないか?
「バレンタインデー」にはじまり「ホワイトデー」、「クリスマスイブ」、「クリスマス」。恋人や意中の人と二人で過ごして然るべき、という記念日がカレンダーには目白押しだ。更にいえば、いざ交際が始まると「出会った日」、「付き合いだした日」、とスケジュール帳の記念日はますます増える。
そして今日、六月十二日は「恋人の日」なんだそうだ。呆れるね、まったく。これほどまでに「愛を確かめ合う日」がなければ、世の恋人たちは情熱をキープしていけないのだろうか。

「なんだ、このクッキー」
例によって報告書を提出するために、大佐の執務室を訪れていた。部屋の中央に設えられたテーブルに、可愛らしくラッピングされたクッキーが、ちょこんと慎ましやかに正座している。そのクッキーに添えられた小さなメッセージカードに、こうあった。『親愛なるロイ・マスタング様。今日は恋人の日ですね。心ばかりではありますが、よろしければ』。
「恋人の日?」
オレはクッキーに向かって顎を突き出す。
その記念日の存在も、今日がその日であるということも、その瞬間に初めて知った。そうして、前述の(そもそも世間には、恋人にまつわる記念日が……)という御託を脳内で散々並べた後で、室内を見渡した。
大佐は不在だった。この多忙なエドワード様が、わざわざ出向いてやったというのに。一度舌打ちしてから、少し待ってみるか、とソファに腰を下ろす。
曇天を長方形に区切った窓の外は、雨模様である。今の季節らしいといえば、まあそれらしくも見える梅雨の空。雨の予兆である、湿った空気のにおいがしている。いつもの青の画用紙の代わりに、生乾きの雑巾で空に蓋をしたみたいだ。こういう天気の日は、機械鎧の接合部分が痛むから好きじゃない。
二十分ほど待ったが、大佐は現れなかった。怠業癖のあることでは有名な御仁だ、どこかで優雅な午睡でもあそばしているのかもしれない。
腹いせのつもりで、テーブルのクッキーを一つ盗み食いしてやった。可も不可もない、平凡なクッキーだった。
『親愛なるロイ・マスタング様』ね……とメッセージカードを斜めの視線で見遣る。
カードの文字も、その文章も、可も不可もない平凡なものだ。きっと、可も不可もない平凡な女が贈ってきたんだろう――なんて、性悪なことを思った。そんなこと、普段なら考えないはずなのに。
(……性格、わる……)
何故だろう、カードを直視できない。なんだか心がモヤモヤする。今日の天気みたいだ。

***

「あ、」こんなところにいやがった。
後で出直そうと執務室を出、図書館で文献を漁っていたところで、くだんの御仁を見つけた。閲覧用として設置されている窓際のソファで、大佐は眠っていた。やっぱりサボりかよ、とオレは顔を顰める。
唯一の救いは、彼の手に厚い文献が載っていたことか。ただただ睡眠欲の赴くままに、あそこに腰掛けたわけではないらしい。査定が近いこともあるし、調べ物でもしていたのかもしれない。

「おい、大佐――」
とまで声を投げたところで、思い留まった。文献を読んでいる最中に眠ってしまったのなら、相当疲れが溜まっているに違いない。そこを無理に揺り起こすほど鬼畜ではない。
オレは何気なく大佐の隣に座って、彼の寝顔を横から覗き込んだ。目を通したい書物があったにもかかわらず、どうしてそんな行動に走ったのか自分でもよくわからない。珍しいもの見たさだったのだろうか。
(……よく寝てるなあ)
相変わらず無駄に綺麗な顔だ、と思った。齢二十九にして、ここまでアップに耐える男はそういまい。
(こんなに近くで顔見るの、初めてかもな……)
高く突き出た鼻梁、閉じられた瞼を華美に飾る長いまつ毛、二十九年分の紫外線を浴びたとは到底思えない白い頬……手垢のついた表現をすれば、白皙の肌、とでもいうんだろうか。

(あ、綺麗な手、)
開かれたままの本の上に、ノーブルな白磁器みたいな左手が置かれている。その指などは、皮膚の下が透けてしまいそうなほどの白さで、まるで新鮮な鯛の白身みたいだ(我ながら不粋な喩えだが)。
その手があまりにも綺麗で、清らかで、なんだか美味しそうにも見えたから、つい触りたくなった。ちょん、と人差し指で白い手の甲を突いてみる。焔を意のままに操る手の割には、意外に冷たいんだな――
そのとき、あばら骨の内側に、小さな疼きが生じた。ドク、というか、ズク、というか、濁音を伴う鈍い感覚だ。場所はうまく特定できないが、おそらく心臓、だろう。
ん、なんだ?と疑念を覚えたときにはもう、その胸の変調は無視できないほどに強まっていた。ドクドク、ドクドク、と気短なドラマーがオレの心臓をむやみに叩いている。
「な、なにっ……?」
思わず胸を押さえ、低く呻いた。変だぞ、これは。
思えば今日のオレはなにかおかしい。クッキーのメッセージカードに不細工な感情を抱いたり、大佐の寝顔を盗み見たり、その白い左手に触れてみたり……普段は思いつきもしないような行動ばかりだ。

「……鋼の?」
「うわあッ!」掛け値なしにオレの身体は二センチ浮き上がった。「お、おはようゴザイマスッ!」
眠気の残る顔を横に傾げ、「ああ、おはよう」と大佐は薄く笑んだ。「情けない姿を見られてしまったな」
「情けなくない瞬間なんか、あんたにあるのかよ」
軽口を弄して、胸の異変を気取られないように努める。
「表面だけでもいいから、君はもう少し上司を敬うふりをしたまえ」発言のわりには、愉快そうである。
「表面だけでもいいから、君はもう少し尊敬できる上司のふりをしたまえ」オレは大佐の口調を真似る。
はは、と大佐は相好を崩した。「一本取られたな」
と、突然大佐はこちらに向き直り、オレの顔をじっと真正面から見つめてきた。
「な、なに?」声が露骨に裏返る。
「ところで、君――」
と手を伸ばしてくる。あの白磁器みたいな掌が、鯛の白身みたいな指が、オレの顔へ、しかもオレの唇のほうへ近寄ってくる。大佐の黒曜石の瞳がこちらを覗きこんでくる。
「う、うわ、なに……っ!」
鼓動が急に加速する。胸のドラマーはもはや、リズムを生みだすためではなく、オレの心臓をやっつけるために、バチでやたらめったら叩いている。
大佐の指がオレの口元に触れた瞬間、オレは眼前の蒼い軍服を突き飛ばし、夢中で何か喚いた。「触るなー!」とでも言ったのかもしれない。
訳も分からずそのまま駆けだし、図書館を飛び出した。たくさんの白眼視がオレの背中を追ってくる。こんな場所で大騒ぎしたのだから当たり前だ。

(……なんなんだ、)
なんだ、なんなのだ、この妙な感じは。おかしい。おかしすぎる。
――これじゃ、ま、まるで……!
まるで、の先は考えなかった。考えない方が身のためだと思った。



息せき切って外に出る。乱れた呼吸を整えようと、立ち止まり、何度か大きく深呼吸した。落ち着け、落ち着け、落ち着け……。
「あれ、大将じゃねーか」
顔を上げると、ハボック少尉がいた。今日も今日とて、口元で紫煙をくゆらせている。
「どうした、そんなに息切らして?」
「い、いや、べつに」と適当に返事をする。彼の問いをあしらうつもりではなく、うまく説明できる自信がなかった。
「理由もなく息を切らすのか、」と少尉は鷹揚に笑う。「最近の若者は落ち着きがねえなあ」
どうして息が切れるのか、こちらが教えてほしいくらいだった。どうして鼓動が速いのか。どうしてドラマーはオレの心臓を破壊しにかかるのか。
「それに顔も真っ赤だぞ」と少尉は飄然と続ける。
「え、うそっ」
オレは上擦った声と共に仰け反り、自分の頬を両手で押さえる。ひんやりとした機械鎧の感触が、火照った頬に気持ち良かった。
「エド、もしかして、あれだろ」
「な、なにっ」
ただでさえショートしている脳味噌が、ハボック少尉の猛襲をまともに食らい、ますます黒々とした煙をあげる。
「あれ、盗み食いしただろ?大佐のクッキー」
「え?」
「ここ」と言って、少尉は自分の口角を指差す。「クッキーのクズ、付いてる」
ああそうか、とオレは内心で横手を打った。大佐がオレの唇に手を伸ばしてきたのは、このクズを取り除こうとしたためか。
「ありゃ、やばいぞ」
オレがせっせと口元のクズを拭っていると、ハボック少尉はやにわに不穏な声を出した。
「やばいって、何が?」
「あのクッキー、」口に銜えた煙草の脇から、意地の悪そうな犬歯がのぞいた。「ありゃ、惚れ薬入りって話だ」
オレは身体を硬直させながら、何か呟いた。「嘘だろ」とでも言ったのかもしれない。

***

謎は万事解決した。
惚れ薬と聞いてはじめこそ驚いたが、今ではむしろ良かったと思っている。惚れ薬などという得体の知れないものを口にした不快さよりも、自分の奇怪きわまる行動の数々が、薬のせいだったと証明された安堵感のほうが強かった。

「あー、良かった……」
休憩所のベンチに座り、背もたれに上半身を委ねた。
「謎が解ける」というのは、科学者にとって至高の喜悦である。しかも本日の謎は、ほとんど迷宮入りかと思われるようなたぐいのものだった。化学式も数式も経験則もアテにならない、未曾有の難題だったのだ。それが、解けた。永久凍土のごとき謎が、「惚れ薬」というたった一語でもって、あっさりと氷解した。

ハボック少尉様様だ、と一人悦に入る。この陶酔感にもう少し浸り、手元のココアを飲みほしたら、再度報告書を提出しに行くつもりだ。
しかし、かえすがえすも安心した。大佐の寝顔を見たり、口元にそっと触れられたりしただけで、あんなに胸が高鳴るなんてどう考えてもおかしかった。
「うっ……」こうして思いだすだけでも、胸の内側がぎゅうっと息苦しくなる。
なんと効験あらたかな薬なのだ。まったく忌々しい。たった一片食べただけなのに、この有様だ。もし全てを平らげていたら、と思うとぞっとする。
さっさと報告書をあのクソ大佐に受理させて、帰って寝よう。妙ちきりんな薬を飲んでしまったことは確かなのだ、大事を取った方がいい。仰向いて冷めたココアをぐいと飲み、立ちあがった。

外はすっかり雨の色に染まり上がっていた。窓を打ち鳴らすような激しい雨だ。湿気でリノリウムの床とブーツが擦れ、不快な音を立てた。
「失礼しまーす……」
ノックをして大佐の執務室に入る。「やあ」とお昼寝からご帰還なさった大佐が手を挙げた。その顔を見るだけで、性懲りもなく心臓が引き攣った。いつになったら薬は抜けてくれるのだ。
「ほい、報告書」
ご苦労、と大佐は紙を受け取り、「相変わらず綺麗な報告書だ」と苦笑する。これは褒め言葉ではない。綺麗というのはつまり「白い」という意味で、手抜きだという揶揄が暗に込められている。この粗雑な報告書に検印を押す大佐も、手抜きという意味では同罪だとオレは思っている。
ソファに腰を下ろすと、例の曰く付きクッキーが目に入った。いや、正しくは曰く付きクッキーの空箱、だ。平らげられている、一つ残らず。さあっと背筋が凍った。
(……ま、まさか、)食ったのか?

報告書に目を通す大佐を見る。確認できる限りでは、特筆すべきような異変は見られない。
報告書に検印代わりのサインをすると、大佐は立ちあがってソファに近寄り、オレの隣に腰掛けてきた。ミシ、と二人分の体重を受けてソファが軋んだが、オレの心臓はそれ以上に軋んだ。
大佐は黙ったまま、オレの横顔をじっと見つめている。ああ、やっぱり、こいつもおかしくなったんだ。変なクッキーを食ったりするから。
「……な、なんだよ」
とち狂ったような心臓のビートを聞きながら、大佐を睨んだ。
「図書館で寝顔を盗み見されたからな、私も君の横顔を盗み見しているところだ」などと、この上司は馬鹿げたことをのたまう。
「盗み見どころか、公然と見てるじゃねーか……」
心臓という臓器が、身体の内側にあって本当に良かった、と思う。もし目に見えるところについていたら、胸の動悸を隠しようがない。

「今日は恋人の日らしいんだ、」大佐は嫣然と微笑み、「一緒に食事でもどうかな」
「な、なんでだよ!」オレとあんたが、いつから恋人になった。
惚れ薬の仕業としか思えない大佐のイかれた発言に、オレの顔は、惚れ薬の仕業としか思えない火照り方をした。
「やっぱりあんた、このクッキー食ったんだろ!」
「クッキー?」と大佐は小首を傾げる。「ああ、食べたが」
「これ、惚れ薬入りなんだろ、だからそんな、変なこと言うんだろ……っ!」
「惚れ薬?なんの話だ?」
反問されて、オレはたじろぐ。「だってハボック少尉が、このクッキーは惚れ薬が入ってるんだって言ってた」
「まさか」
大佐は一笑に付し、クッキーの空箱を裏返してみせた。そこには、名称・原材料名・内容量等々が記載された成分表がある。言葉を失ったオレに、「立派な既製品だ」としたり顔を作った。
「ハボックの冗談に騙されたのか」
「じょ、冗談……?」
魂を根こそぎ引っこ抜かれたように、クッキーの成分表をうつろな目で見つめた。そこには惚れ薬の「ほ」の字もない。

悠然と構える大佐の横で、オレの頭は再び混沌の渦に投げ込まれた。惚れ薬入りクッキーというのが、ハボック少尉の冗談。それはいい。そこまではいいとして、
(……それなら、)
昼間のオレの、あの奇妙な行動の数々は、なんだったんだ。一度は解決を見たはずの謎が、再び深いラビリンスにもぐりこんだ。
「どうした?ぼうっとして」
大佐が顔を近づけてくる。ぎょっとしてオレは背筋を反らす。心臓が今にもあばら骨を突き破りそうだ。
――あれが惚れ薬じゃなかった?そのほうが問題だ!
だったら、どうしてドキドキするんだ。どうしてこの男はオレを食事に誘うのだ。

「鋼の?」
どうして名前を呼ばれただけで、胸が苦しかったりするんだ!
「絶対、惚れ薬が入ってたんだ!」オレは喚いた。
「は?」大佐は怪訝な顔つきをする。
「そ、そうじゃなかったら……っ」
「そうじゃなかったら?」
そうじゃなかったら、困る。非常に困る。非常に問題だ。
「……まるでオレが、あんたのこと……」
語尾は、大佐にキスされたことで遮られた。ちゅ、という軽い音と共に、オレの言葉も、呼吸も、思考回路も心臓も、全てが一時停止した。
事態の把捉に二十秒ほどかかった。二十秒後、オレは口を開き、
「な、なんで」とだけ放った。二十秒もかかって、これしか思いつかなかった。
「いや、慌てた姿が可愛いなと思って」大佐はあけすけだ。
「そ、それでなんで、き、キスになるんだよ……!」
「惚れ薬のせいじゃないか?」いけしゃあしゃあと空とぼける。「惚れ薬入りなんだろう、このクッキー」
「だって、今、既製品って、」
「いいさ、どっちでも」
言って、大佐は目尻に優しげな笑い皺を浮かべ、
「どっちでも、君にキスしたい気持ちは変わらない」
なんだよそれ、という反論を音にする前に、もう一度唇を塞がれた。
このドキドキの正体が、惚れ薬のせいなのか、そうじゃないのか、今はまだわからない。でもとりあえず――この唇が離れるまで、その問題は保留にしておくことにする。
(……だって、)
だって、答えが出てしまうのは、こわすぎる。
だけどそれは、頭のどこかで、本当の答えをわかっているからなのかもしれなかった。


外は篠つく豪雨。
雨の音が、おそろしく遠く聞こえた。



END





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[ LOVE PLACEBO … 愛の偽薬 ]

エドが一人で勘違いして一人でてんやわんやするという二番煎じにもほどがあるようなお話でした…
けっきょくわたしはこういう初心〜〜エドが一番すきな気がします笑
(*ロイエドオンリーイベント開催記念アンソロジーに寄稿させていただいたものでした)