--第二便-- いつの間にか眠っていたようで、いつの間にか益体なしのアラームを止めていたようで、いつの間にか時計はもう、遅刻確実の時刻を無情にも愚直に指し示してくれていた。 二日連続で泣き腫らした目のあたりが疼痛を訴えて、すこし怯んだ。 (休もうかな) 思いかけて、かぶりを振った。だめだ。 昨暁決心したばかりだ、勇気を出す準備の決意をしたばかりだ。 けど、オレは意志が軟弱なやつだから、忘れようか、とも思ったりした。それは一番確かな逃げ道で、同時に、一番険阻な道でもあった。 忘れることはできた。ロイとの一切の記憶を、消すことは出来た。“A”の名前を忘却したときのように、忘れることは可能だった。 不要な記憶はゴミ箱へ、重要な記憶は鍵つきの宝箱へ仕舞うことのできる、便利な脳だ。今回にいたってはその対象があまりにも莫大だから、ゴミ箱に入りきれるかどうか少し不安ではあったけれど、可能性としては、掌上にある。 そう、“可能性”としては確実に、掌上にあったけれど、“選択肢”のなかには、それはなかった。 そんなことはもうオレも重々承知していて、だからああして泣いてしまったんだ。 わかっていた。あの、厳重に施錠された一番煌びやかな宝箱の最奥に、大事に大事に仕舞いこんでいた氾濫しそうなまでの記憶を、掌を返すようにして突然ゴミ箱へ捨ててしまうなんてことは、とてもじゃないけれどできなかった。そんなことぐらいわかっていた。 忘れることなんてできないから、忘れるなんていう選択肢はどこにもなかったから、 (苦しくて、) 息がしづらい。抜き差しならない状況で、どうしようも為す術がないのに、涙だけはちゃっかり出る。 手放した方が楽かもしれないのに、オレはばかなやつだから、捨てられない。 背中に背負った、倒れてしまうほど重い荷物に難癖をつけながらも決して捨てずに、銃撃戦飛び交う戦場の中へ入っていく。オレはそういう兵士であり、愚者だ。 そんな荷物を背負っていたら、銃撃をうまく回避できるはずもない。それをわかっているのに、オレは捨てない。 だってもしかしたら、 (後方から飛んできた銃弾を、背負った荷物がはじいてくれるかもしれない)決して無駄ではないんだ。そんなふうに信じてしまう。 だけど、やっぱり重いから、オレは少し泣いてしまった。それだけのこと。 重力とかいうやつは、いつだって平等に万物に圧し掛かる。それは胸をなでおろさせることでもあり、胸を冷やすものでもある。懇意でもあり、やはり無情でもある。 荷物は重い。捨てたりすることがない限り、その質量は今日も明日も一年後もきっと変わらず、地球から伸びた重力という手に引っ張られる。だから、安心できる。尚且つ、安心はできない。それは要するに、後ろから荷物を引っ張ってくれる手のお陰で、前かがみに倒れることはないだろうけれど、気を抜いたらその余力で後ろへ倒れてしまうかもしれない、ということで、詮ずる所、なにごとも一利一害なのだ。 朝のモーニングコールも、寝耳に水も、オレを夢から現へ引き戻してくれるものが今はないから、当然のように寝坊した。 しわくちゃになった、先日まで久しく使っていなかったシーツの皺襞がオレの頬を撫でる。長期にわたり放置したあとの、少しかび臭いにおいが、それでも微力ながらオレを現実へ連れ戻した。ツンと鼻に付く臭気から、しっかりしなさいよ、ってキツめのお叱り。たくさんの涙を吸ったこの布製の花壇に咲いた、いくつのも悲しみの花を、もう育ててしまうわけにはいかなかった。 ごしごしと顔をシーツに擦り付けてから、掛け布団を剥いで、朝の空気を肺に送り込む。 今日も息をしているらしい。 それを残念と思ってはだめだ。 洗濯もしていない二日流用のワイシャツを、暫時の逡巡の後羽織って、“洗濯”という行為を久しぶりに思い出した。自分でその家事を行ったのは、もうはるか昔の話だ。 ボタンを掛け違えないようにゆっくり留めて、ちゃんと留められたことに安堵して、ネクタイを取った。結べもしないくせに、バッグに詰め込む。結んでくれる人も、いまはいないくせに。 髪を束ねようと思ってヘアゴムを探したら、例のハートつきのゴムしかなかった。あとは全部、ロイの家だ。溜息をひとつ吐き出して、髪を結うのを断念し、急場しのぎで顔を洗って──歯ブラシさえここにはない──家を出た。 瞼を見えない指に押さえつけられるような感覚がする。眠気とはまた違う、それは涙痕の代役を担うじとりと重い億劫な感覚で、ひどい顔をしているんだろうな、とオレは思った。そういえば、鏡を見ていなかった。 ロクに梳きもしなかった髪を慰み程度に数回手で撫で付けて、ハイヒールを履いた女性が昇降するとカンカンという声で嬉しそうに甲高く鳴く、臙脂色に錆びた階段を下りる(男たちが履くスニーカーなどの靴では鳴いたりしない。たぶん女好きなんだろう)。 歩き始めて、やっと靴下を履いていないことに気付いた。煩わしいぐらいに不可視の力がオレを引きとめようとしているらしい。そうはいかないんだって言っても、わかってくれやしない。 一旦戻って靴下を履いて、まだ完全には消滅していなかったモチベーションでどうにか、足を駅へと向けた。 空は嫌味なほどに青い。 顔色ひとつ変えないまま、ラッシュを過ぎ閑散とした電車に乗って、流れていく景色を頬杖で見るともなく眺めながら、二十分の無為な時間を潰した。 八十歳まで生きると仮定すると、人間の人生はおよそ二十五億秒に換算される。その二十五億秒のうちの千二百秒を、すっかり無駄にした気分だった。勿体無いと思う気持ちの反面、こういう時間も人生には必需だとも茫々と思う。ちなみに呼吸は人生の間で、大体六億回から八億回するらしい。そのうちのいくつを、オレはこの乗り物の中で唾棄しただろうか? ギシ、と赤紫色のシートが苦しそうに軋んでみせた。シートの背もたれには直径三センチほどの小さな穴が開いている。そこから、人間たちに蹂躙されるだけという悲痛に満ちた生き様であるシートの咆哮でも垂れ流されてきそうだった。今のオレなら、そんな声も聞き取れる気がする。 そういう、取り留めのないことを考える。考えて、その湧き上がった思想を、シートのそこここに置き去りにして、電車を降りた。思想のポイ捨て。シートがまた泣いたような気がした。 (泣かないで)そんな長閑なことを願う。 いつも通り下駄箱から雪崩のごとく崩れ落ちてくる多様な手紙やら差し入れのようなものやらを腕で受け止め、掘り返すようにして履き古したシューズを発掘し、足に履かせた。雪崩を構成していた諸々をぞんざいにバッグに投げ入れ、歩を進める。 またギシギシという軋む音を、今度は足元に敷かれたすのこ板から聞いた。耳はしっかり機能しているみたいなのに、オレの耳には何も届いてはいない。 1−10に向かって歩いていると、後方から声を掛けられた。「エルリック、ずいぶん遅い登校だな、どうした?」 振り返ると、現代国語の実直で知られる教師が立っていた。その懇ろな配慮にも、オレは苦味の乗った笑いを返しただけだった。 「ネクタイを締めろ、ネクタイを」 オレの物足りない胸元を見て、教師が咎めた。その言葉に、自分はたぶん少し腹を立てたようで、 「締め方がわからないんです」と、ひとりごちるように言った。 「な、おいおい、もう九月だぞ?」オレは、そううろたえる教師を、やはり重い瞼から覗く狭小な視界にどうにか収めた。 「それでも結べないんです」 教師から目を逸らした。胸のあたりがちくりと痛んだ。ダンベル然の瞼による重圧がかかる目元が熱くなったけれど、それきり、涙という下拙な水が滴ることはなかった。 そ、それならはやく覚えるんだぞ、と言いながら退散した教師を目で追う事もせずに、踵を返す。 (『それでも、結べないんです』だってさ)自分で言い放ったことに再々苦笑するだけで、苦笑が呼んだ憐憫のような心痛を、オレは顧ようともしない。 教室のドアを開く。クラスメート数人が軽く手をあげて、小さく頷くことによってそれに応えた。 「遅いぞー」担任であり、古典の教員でもあるワイマールが黒板に文字を記していきながら、そう一言だけオレに声を掛けた。一時間目が始まっていた。 ドアの開く音に反射的に反応しただけだろうが、ロイがちらりとこちらに顔をあげて、一瞬、目が合った。そしてすぐに黒板に逸れる。ドアの音に反射的反応を示した、ということがまざまざと提示されるぐらいの刹那だ。誰だって授業中にドアが開けばそちらに目を遣る。ただそれだけのことであって、それ以上もそれ以下もない。今ではもう、それだけのわずかな時間。オレという生き物に対しての生存確認のみ、というような、そんな意志が痛いほどに伝わる。こちらに刹那的に刺さった視線には、友愛も、はたまた恋愛的愛情も、信頼さえ、含有されていなかった。 荷物を机に置いて、席に着くと隣席のブロッシュが「おはよ」と潜めた声で言った。うまく笑顔も作れずに、口元をわずかに動かすようにして無表情は避けたつもりだったが、ただそれに頷くだけで、オレは机に伏してしまった。 世界中の不幸を集約したかのような暗然とした溜息を吐き出して、不幸色に染まり上がった脳味噌で悶々と考える。 こんな日がいつまで続くのか──もしかしたら、永遠にかもしれない──うんざりした、というよりは、気が重い。途轍もなく重い。 卑怯だ。 そんな言葉が突いて出た。 (だってあいつはかってに、おれとかおれたちの関係をこんなふうにして、) 挙句の果てには、 (おれをさけたりして) 言いたいことぐらいないのかよ。 (はっきり言ってくれなきゃわかんないよ) オレは馬鹿な奴なんだって、一番わかってるのは誰だよ。 オレを、オレだけをこんなふうにして、逃げていったりすんな。 お前の背中はもう見たくないよ。 もう、オレのことなんて嫌いだろうか。なんて、昨日とは真逆のことを考えた。一日にして思想が転回する、こんな鬱とした心境が好きではない。 嫌い? そんな、身勝手なこと、言って、 (“混乱する”時間ぐらい、くれよな) 「ばかろい・・・・っ」 鼻白むブロッシュがちらりとこっちを慮るように見遣ったのがわかった。 立派な恋わずらいに見えているかも。 けれど、 (そんなものよりよっぽど性質が悪い) 性質が悪くて、しにそうだ。 目の奥がいたいなぁとぼんやり考えながら突っ伏していたら、知らず熟睡してしまっていたようだった。寝ていないわけではなかったけれど、憂慮やら懸念やら鬱々とした思惟やらそういう雑念が相俟って、上手に眠れていなかったのかもしれない。 その夢にはやはりロイが出てきて、冗談を言い合っては、前みたく笑った。あいつの笑壷はオレ自身で、オレが受けた揶揄とか嘲弄を聞くとよく笑う。最高に失礼なやつで、最高の相棒だった。 (そうだ、あんなふうに笑った) へらへらと屈託もなく笑う。オレを小馬鹿にしたような哄笑で、いつもオレの耳を慰めた。それにつられてオレも笑う。伝染する不思議な魔力に、妖術にも催眠術にも似た、摩訶な感覚へと陥落する。 そうやってまたオレを笑わせて欲しかった。あのあやしのような、唯一無二の魔力で。 昼休みになってもなかなか食堂に立とうとしないオレの机の隅っこに、ブロッシュが黙ってプリンをひとつ置いてくれた。 そのプリンはすごく甘くて、すごくすごく甘くて、どうしようもなかった。 *** 電車を降りて、前方を見るとやはり、ロイの姿があった。 交尾をしている二匹のトンボがどこからか飛んで来て、オレの視界を二分割にした。トンボからは迫る秋の匂いがした。 仄暗くなった空で覆われた往路を、平然と自転車に跨って早々と去っていくその後姿に恨めしげな視線を送り見送って、切ない味のする咳をした。涙を我慢すると、なんだか咳が出るようだ。 意気消沈しているオレの肩に、子孫を残すべく交尾にいそしむトンボがとまった。 お前たちは仲睦まじげで、たいへんよろしいな。 (もう少しオレの肩に止まっていて) 帰りがてらスーパーに寄って、カレー具材一式を買い込んだ。 食欲が顕著にあるわけではなかったが、蠕動運動すら止んだ胃袋の驚くほどの静けさに、ちょっとばかり焦ったからだ。 歯ブラシも思い出すようにして購入し、廃人のようにうつろな目でスーパーを出て、しばらく歩き、ビデオを借りたら、あとは自宅に戻って鍵をした。 ふぅ、とひとつ息をつき、玄関に三秒以上留まると前のように一時間近く座り込んでしまいそうな気がしたので、あわてるように靴を脱いだ。 高校に入ってから、何回ぐらいつくっただろうか。手馴れた手付きで肉と野菜を刻んで、フライパンに火をつけ、油を伸ばす。既に炊飯器にはスイッチを入れてある。 粗雑にそれらを唐辛子ペーストと一緒に炒めて鍋に水を張り、まずは肉を入れて四十分ほど煮込む。そのあとは野菜を加え、また一時間弱、中火で煮込みあがるのをひたすら待つ。 テレビを散漫に見続けながら時間をつぶし、ルーを入れてできあがり。最後にインスタントコーヒーをひとさじ入れる。 この手間隙かかる料理は、いつも変わらず馥郁とした香気でオレを出迎えてくれる。 四人分ぐらいの量をつくるのがくせになってしまった。普段はそのカレーを二日ぐらいかけて、二人で食べる。 いつも二人で。 オレ一人じゃ、こんなに食べきれないな。 皿に盛って、テレビの前のテーブルへ置く。ブラウン管の向こうでは、芸人たちが粗野な笑いをけたたましく漏らしている。この番組もよく二人で見たのに、今ではまるで違うチャンネルを映し出しているかのように、頭に入ってこなかった。 あいつも、今、この番組を見てるかな。 だからなんだ、と自分に言い聞かせて、スプーンを取った。 一口舌鼓を打つと、ピリ、と舌に痺れるような辛味が走る。その痺れはいつまでも舌の上で踊り、分量を間違えただろうかと思った。 だってひどく辛い。舌がひるんで、弱まる。 いつもと寸分違わないはずの量の唐辛子が、オレを痛めつけるみたいに、舌を痺れさせた。 「から・・・・」 痙攣するみたいにしびれる舌に、水を与え、そうしてもう一口食すと、辛味に拍車がかかってしまった。 「・・・辛い・・・・」 辛い、っていう漢字は、奇しくも、“からい”とも“つらい”とも読める。 からさでピリピリと痺れる舌のように、つらさでは心が痺れて、痛む。 辛い、と呟いた自分が、からいと言ったのか、つらいと言ったのか、判断しかねた。 「辛いよ・・・・」 こんなの、とても食べれない。 立てた膝に頭を垂れて、舌のしびれが産出した熱くて、いっそ痛いような涙で、その両膝を濡らした。もう泣くつもりはなかったのに。 今日だけは、今日で、終わりにするから、と念じて、瞼をぎゅっと閉じたら波のように次々と雫が滴ってきた。 たぶん、カレーに、材料がひとつ足りていなかったのだと思う。 話し相手、一緒に食す相手、という、一番大事なものが欠けていた。 だから材料の足りないこいつは怒って、こんなに違う味で、オレを苛める。 痺れる舌。これが収まらない限り、涙は止まらないだろうと思った。 そうして暫く泣いて、冷えてしまったカレーは捨ててしまった。お百姓さん、ごめんなさい、と真摯に謝る。だけど今日は殊に食欲がないのです。 借りてきたビデオを見ようと思い、テレビデオに吸い込ませる。このテレビデオとやらが、時代の利器だ、と感嘆したのも束の間、いまはすっかりDVDの時代になってしまった。 オレがビデオ屋で借りる映画は大低駄作だ。オレは映画に関してはとんだ不眼力らしいので、ロイが面白いと言っていたものをいつも借りる。あるいはロイが目星をつけて、これはたぶん面白い、と言ったやつを借りれば、かならず秀作である。例外はない。 それをなんだか悔しいな、と思いながらも、「俺も昔はそうだったよ」と慰みにもならない言葉で励まされて、肩を落とす。そして、オレは一体いくつのロイの眼力に相当するんだ、と嘆いて、「五歳ぐらいかな」と言われては怒髪天を衝き、ロイは笑った。 ビデオが流れ始めて、舞台はどうやら欧米あたりらしく陽気な音楽と共に街を闊歩する女性が映し出された。 こういう始まり方は経験法則だけれども恋愛ものが多い。 恋愛ものはそんなにたくさん見たわけではなかったけれど、ロイが太鼓判を押している映画なのだから多分面白いんだろうな、とぼんやり思いながら、後ろに凭れた。 凭れた、ら、後ろには何もなかったので、危うく倒れかけそうになり急いで手をついた。 あ、そうだ、今後ろには誰もいないんだった。 部屋の隅から座椅子を引き摺ってきて、腰を落ち着けた。“ロ椅子”よりも、ずっと座り心地が悪かった。 そんなわがままも言っていられないので、かたい背凭れに身体を預けて、まだ視界を見難くするフィルターが完全には払拭できていないまま、ぼうっとテレビ画面を眺める。 この街中を堂々と闊歩する女性が、なにがしかの男性と出会って、そいつと恋におちて、最終的に結ばれる。ラブストーリーの概要っていうのはたったそれだけで、先が見え透いてステレオタイプなものなのに、何故か惹きつけられるものがある。ふしぎだ。 でも、オレたちみたいな、こんな邪道な恋愛は見たことないな、って、ロイの顔を浮かべながら思った。当事者ながら、こんな、こんなに馬鹿げた、こんなに迂回した残酷な、恋愛なんて見たことない、と嗤った。 (ばかなおはなし) くだらない。 後ろに倒れそうになったから座椅子に座ったのに、その座椅子をギィギィしてしまう生来の性癖によって、意地悪な重力はオレの背中を床へとひきつけた。 頭をゴチンと打って、天誅かと思わせるような、一喝。そして不甲斐なさに、自嘲した。 オレは、 (ロイがいないと、まともに座っていることもできないのか) なんて無力なんだろう。 『抗体物質はあんたか!』 何回反芻した言葉だろう。初めて言葉を交わしたときのこの台詞を、よくおぼえている。 あのときも、ロイはオレの背中を支えてくれていた。 文字通り出会ったその瞬間から、ずうっとオレを支えていた。 今は無い、その逞しい腕が後ろにあると信じていたから、オレは奔放に動き回って、倒れたりギィギィしたりできた。 オレはもう、まともに座っていることすら、できやしない。じきに、歩くことも立つこともできなくなるのかもしれない。 右腕をゆるりと目のあたりに乗せて、か細い息を吐き出した。 右腕がなんだかまた濡れた。嫌になる。 こうやってオレは、失ったものの、去っていったものの大きさを実感して、ただ、途方に暮れる。 息をするのも、ひたすらにつらい。 カレーは辛くて、重力さえオレの敵で、ネクタイは縛れなくて、オレはどうすればいいのか、わからない。 この途方もない現実に、打ち勝つ術など、オレなんかにあるのだろうか。 でもそれはきっと簡単なことだ。 名前を呼べれば。 そう思う。 *** 昨日のように虚ろな瞳で、遅刻時間帯の学校へ行き、席について、すぐに机に伏す。 頭が、瞼も、重い。昨日は十時に眠ったら二時半に目が覚めた。二度寝しようと思っても、かなわなかった。 眠っている間は、何も考えないで済むのに。まるで例の不可視の引力が、オレを眠らせないかのように、思考の渦へ否が応でも置き去りにしていくかのようだった。 今日も昨日のような一日が続くのか、と思うと、わけもなくどこかへ逃げ出したくなった。 朝からしめやかに降りしきる雨が、オレを降り籠めるかのように、そうはさせてくれなかったけれど。 昼休みを終え、もちろん何の変化もなく、オレが食事を摂りもしないのに食堂へ行って、そこで数回視線をロイに投げてみただけで、目が合うこともなく、それきりだ。 クラスメートも心配を通り過ぎて、オレ達をそっとしておこう戦法に出たらしい。担任も、何も言ってきたりしない。 燃え杭には火がつきやすい、だとか言うけれど、そんなことわざは嘘っぱちだ。強くくっついていた磁力ほど、離れたときは反発が激しいのだ。 足元がふらふらする。 脳味噌が鉛にでもなったかのように重く、不安定にぐらぐらして、こわいぐらいだ。 きっと昨日の寝不足と、栄養失調、それからいくばくかのストレスかなんかが蓄積して、こうなっているんだろうと鉛の脳味噌で推測した。 悪いものというのは度重なるもので、追い討ちをかけるように、五限目の体育でバスケットボールがオレの後頭部に直撃して、オレは未曾有の暗転たるものを経験した。 糸の切られた糸繰り人形のように、頼りなく崩れ落ちる感覚は、壮大な情けなさだけを瞼の裏に焼き付けた。 オレを支えていた、糸役は、誰だろう。 そんな馬鹿なことを思って、意識が遮断された。 チク、タク、チク、タク・・・・ アナログ時計の発する規則正しい音を耳に受けて、目を開けた。大分と鉛の頭は軽くなったが、瞼はまだ重い感じだった。 息をひとつゆっくり吐き出すと、まるで生まれて初めて呼吸をしたかのように、何故か感動的だった。呼吸をしている、ということに、今回は絶望を覚えず、頭の後ろにあった白い清潔感のあるシーツに頬をすりよせた。 途端、保健医が入ってくるなり、 「あら、起きたのね。どうしたの、寝てなかったの?」尋ねてきた。 まあ、そんなかんじです、と曖昧に言って、傍らに置かれた水を言葉で濁した。 その水を一口飲んで、もういちどゆっくり息をついた。 「クラスメートがここまで運んでくれたのよ」 保健医がどうということもなく呟いた言葉に、オレは弾みをおさえきれなかったというような声音で過剰に反応した。「だれが?」 「え?えー、と・・・たしか、ブロッシュ君、だったかしらね?10組で、金髪の」 そりゃそうだ。 (なんだ・・・)何を期待したのか。オレは馬鹿か。 ブロッシュに失礼な、とはわかっていたものの、案の上期待を裏切られて、うつぶせに輾転して枕に顔を埋めた。 (オレは馬鹿か) もう一度、自罰的な言葉を反芻する。 「いいから、そこにあるものでも食べておきなさい。誰が持ってきたのかしら」 そこにあるもの? ぱっと左手のサイドテーブルを見た。 そこには、食堂のカレーが持ち帰り用のパックに入って、恐縮するようにちょんと座っていた。 そのわきには、食堂から持ち出してはいけないとされているのに、七味唐辛子の小瓶が連れ添っている。辛味をつけるための、臨時のスパイスだ。 オレは、カレーに福神漬けを入れない。嫌いなわけではないのだけど、これは一種のこだわりでもあって、食堂でも逐一福神漬け抜き、と注文するぐらいだ。 そして着色料に塗れた真っ赤な、見るからに身体に悪そうな福神漬けが、そのカレーには添えられていなかった。 オレがそんな細やかな注文をすることを、知っているのは、 (ロイしかいないのに) 臨時スパイス、福神漬け抜き、そして何より、それはオレの好物のカレーのオプションだ。 「なんでだまって、置いてくんだよ・・・・」 黙ってたって、わかるに決まってるだろ。 オレを誰だと思ってるんだ。 カレーは厳しくも、材料が揃えば、いつだってやさしい。 静かに街を濡らしていた雨はあがり、水溜りだけが、降り続いた雨の余韻を描いていた。 つんと鼻孔を貫いた雨後のかおりが、オレに勇気をほんの少し与えてくれたような気がした。 帰路を辿り、自宅の最寄り駅まで着いて、いつものように前方五メートルあたりに、閉じた傘を携えたロイの背中がある。 五メートル。たとえこれが五センチであっても、三千里の遠さは変わらない。 今日は雨が降っていたから、自転車ではないようだった。だけどロイの歩幅のほうがどうしても広いから、どんどん距離は離れていく。 知らん振りするようにこっちを振り向かない背中。オレをいつも支える背中。 こっちを振り向かない──だけど、 (おまえがカレーを置いたんだろ) 「こっちむけ・・・っ」 口元でまごつくように、小さく漏らす。ロイの耳には届かずに、広い歩幅はどんどん距離を広げていく。 この途方もない現実に打ち勝つ術などオレなんかにあるのだろうか、 (でもきっとそれは、) 簡単なことなんだ。 走らなければいけない。 探すのは、追いかけるのは、オレの番で、だけど戦慄く足は動かない。 だから声を出す。 「ロイ・・・・ッ!」 だから名前を呼ぶ。 はあっ、とそれだけで息を切らしたら、また目元が熱くなって、ばかみたいだ。 ロイの足が、一瞬、とまる。 このこえはとどく。 |