「あ、いって」 しみた。 左手は髪の上で泡のお城を作らせたままにしておいて、右手でシャンプーがしみた目をおさえた。シャンプーが目に入って、地味に、それでも確かに、痛い。 湯船からほわほわと湯気があがっている。寒さが日毎に厳しくなる近頃の気候、湯船がないと風呂にはとても入る気にならない。ところで、どこかの会社では、「マイナスイオン」や「遠赤外線」を発生する効力があるとされる「トルマリン鉱石」を用いて、家庭の風呂を天然風呂にさせる商品を発明したらしい。 いやはや、大いに結構。努力賞。 だけどさ、もっとこう、他にやることあるんじゃない?とオレは主張したい。たとえば、たとえばだ、目にしみないシャンプーを、作るとかさ。強風でべろんと裏返しにならないビニール傘をつくる、とか、裏表どちらを向けて入れてもゴロゴロしないコンタクトとか、最後の1ミリまで使えるシャー芯とか、いくら切っても涙が出ないタマネギ(こいつができれば、カレー作りはぐっと楽になるに違いないのだ)、とかさ。そういうもっと身近なところから対処すべきなんじゃないのでしょうか。 ざぶざぶ顔を湯で洗って、何度か強めに瞬きして、痛みを追い払った。いつか絶対目に優しいシャンプーを開発してやる、と思ったけれど、どんな職業に就けばいいのかわからなかったので、諦めた。罪人を裁くなら裁判官、弱者を毅然と弁護するなら弁護士、病人を救済するなら医者、それなら、目にしみないシャンプーをつくりたいなら? ──身体が冷えるので、御託は終わる。 --第五便-- 適当にトリートメントをして、適当に流して、ふと眼前の鏡を見た。曇っている。シャワーの湯をかけた。 そこには、肩を優に超すぐらいの長さの金髪を持つ、金色の瞳の、十五歳の少年が、いる。オレだ。評価としては、まあ、悪くはない、と思う。母親似なのは否めないけれど。左耳にあいた空っぽのピアス穴を見て、我ながら、生意気そうなガキだな、と内心で呟いた。 そう、母親似だ。けれども髪の色と目の色は、しっかり奴のほうを引き継いだらしい。奴とは、わかりやすく言えば、父親だ。 まばたきをしてみても、一度開閉した瞼の後ろに見えてくるのは、やっぱり金目だ。ゆっくり閉じて、開いても、金目。がっかりしそうになる。猫科の動物みたいな、ほんの少し獰猛な目の色を点している。睫毛も金。これはもう、なんていうか、しょうがないか。 肩にたらりと垂れ込めている髪の末端を触った(ブロッシュがこの前枝毛探しをしていたけれど、終ぞ見付からず、つまらなそうに肩を落としていた)。鏡で見ても、肉眼で見てみても、ほとんど同じ色だった。金色だ。やすっちい、チープな色だ。ロイみたいに黒いほうが、重厚というか、利発そうというか、高級感があって、なんか、オレは好きだった。 『金髪金目が好きってわけでもねえな。寧ろ黒髪とかのほうが落ち着いてて俺の好み』 それでもロイは、オレが好きなんだってさ。変な奴だ。 「へんなやつ・・・・っ」 それで、そんな古文の恋物語みたいな純朴な告白をされて、あ、ちがう、その前に、あれ、その前だったか、あとだったか、よく、覚えていないけれど、 (ハ、レンチな、やつめ・・・) 手の甲で口元を押さえた。拭ったわけではなく、押さえただけ。 鏡に映った人の顔が真っ赤になっている。おまえ、だれだ。オレだ。 一人で思い出して照れてるなんてオレは馬鹿か。気恥ずかしくなって、シャワーの湯をかけて鏡の像を消した。 湯船の湯加減は絶妙。入浴剤で浅葱色に染まったお湯に首まで浸かった途端、淵からその浅葱色がいくばくか出ていった。そんなふうに湯がそそくさと逃げ出したくなるほど狭小なバスタブだから、体育すわりをするぐらいでちょうどいい。 (ロイが、あんなにハレンチなやつだなんて知らなかったっ!) 首まで浸かっていた湯に今度は顔まで浸かり、目をぎゅうっと閉じてぶくぶく言った。オレの懊悩や苦悶が浅葱色に溶けていく気がした。 ぶはっ、と空気中に帰ってきて、壁に頭を凭れて顔を両手で覆った。湯に顔を出したり入れたり顔を覆ってみたり、傍から見れば狂人のような姿態だ。 「ロイが、あ、あんな・・・」 軽々しく、き、キスとかしちゃう奴だなんて・・・! またずるずるとお湯の中にずり落ちる。顎のあたりまでお湯が侵攻してきている。「もうだめだ、も、もうだめだ」何が駄目なのかちっともわからないが、オレは連呼した。 はあ・・・と長く細い溜息をひとつ。浅葱色にかすかな波紋が広がって、消える。 こんなふうに一人で勝手に思い出しててんやわんやするオレのほうが、よっぽどハレンチな気がしないでもなかったけれど、そんな考え方をしだすと埒が明かないので、やめた。 オレがじたばた動き回るからだいぶん減ってしまった湯に、金色の髪が浮いている。 金髪金目が好きって訳じゃないらしい。黒髪とかのほうが落ち着いているかんじでロイのタイプらしい。 (それでも、オレがすきって言ってたけど、) 髪をつまんだ。ちょっと睨んだ。 「・・・・これが黒かったら、ロイはもっと、オレが好きなのかな・・・」 黒髪のオレか、どんなかんじだろうなあ、オレの髪が黒かったら── 「だ、」ばかたれ!「だったらなんだっつうんだ!」 染めてどうする、オレは奴のタイプなんて知ったこっちゃないんだ。関係ない、ぜんっぜん、関係ない。隣の家で飼われている犬が着ている服は、どうやら日替わりで変わっているらしいのだけれど、その事ぐらい、オレにとってはどうでも良いことだ。その犬がシャネルのコートを着ようが、ユニクロのスウェットを着ようが、オレの髪が黒かろうが金であろうが、オレの人生に於いてはなんの差し支えもないのだ。 はあ、はあ、と肩を上下していることに気付いて、自分が息を切らしていることがわかった。 あんまり大声で叫んだから、隣の壁が、がん、と蹴られた。『うるせえぞ!』よくあることだ。 隣室に響いたらしかった。その隣室の彼は、最近禁煙を始めたみたいだけれど(すれ違ったときなんかに覚えた、彼の纏うヤニ臭さを、この頃感じなくなったのだ)その事だって同等に、どうでも良かった。どうでも良いのだ。そう、どうでも良い。 オレはわるくないもん、とふくれて、またお湯をぶくぶく言わせた。 *** 「・・・・風邪?」いぶかしむロイが眉間に皺を寄せた。 「ち、ちがう」 「じゃあなんでマスク?」 察しろよ、ばかやろう! 白々しいまでのロイの鈍さに、オレはいきり立った。「だから、あ、ああいうことすんの、き、禁止!」マスクのせいで幾分くぐもった声になる。 「ああいうこと?」なんだ、その卑しい響きは、とロイは邪推する。この、ハレンチ野郎め・・・! 「だっ、だから、昨日みたいな、だな、その、」 ロイは合点がいったように頷いた。「ああ、ああいうこと、ね」そして肩をゆらしてへらへら笑う。「キスすんなよ、っていう一言も言えないのね、箱入りお姫様のエドちゃんは」 「お、オレはお前のように下卑た仕様の人間じゃねえんだよ!」はるかに高尚なんだ! まだ笑いを引っ込めないロイの自転車の荷台にぷりぷり乗り込もう、と思ったのだが、今日は雨降り模様なので歩きらしかった。 「でも、エド様党が悲しむだろうよ」 「な、なんで」 「『エド様のお顔が拝めないなんて!わたしたちの生きる糧が!』って、な」 「・・・・言わせとくの、そういうのは」そういう奇特な方たちには、風邪って説明しよう。ロイからの猥褻防止なんて言ったら、きっと、一部の党派が喜んでしまう。 オレはもともと顔が一般的なサイズのひとまわりぐらい小さいので(それが殊に嬉しいわけでもないが)、マスクをするにしても眼鏡をかけるにしても、サイズが大きすぎて似合わない。マスクなどは、もうオレの目の真下あたりにまできているのだ。けれどもそんな難境にも持ち前の不撓不屈の精神で立ち向かい、今日は終日マスクを外さないと決意する。 大体、オレは許可した覚えなんてない。キスしてよろしい、なんて、どこの誰が言ったんだ!この利己主義ハレンチノッポ! どこかで犬が鳴いている。例の、日替わりファッションの犬だろう、今日のファッションがお気に召さないのかもしれない。そしてオレもまた、泣きたい気持ちだった。 (第一、これって、) ロイエド党とやらの、思うツボ・・・・? ロイはともかく、オレ様は断じて、屈しない、ぜ。 学校で、不思議なものを発見した。不思議、というと語弊があるかもしれない、不可解というか、なんというか、まあ、腑に落ちない、というものだ。 それはうちのクラスの学祭の宣伝ポスター。一見なんの変哲も無く、「白雪姫」と洒脱な字体で大書されている。その字の周りをつたかずらのイラストと、毒りんごと思しき果実が囲っていた。うちのクラス、ということは取りも直さず男子が描いたというわりには、なかなか上出来なポスターである。 場所、大講堂(いや、これまた物凄い場所を陣取ったものだ、何人収容できるんだっけ、あそこ?)。 配役。 王子、ロイ・マスタング(言わずもがな、オレは吹き出した)。 白雪姫、 「あれ?」オレは思わず声をあげた。ロイも、おや?という顔を呈している。 白雪姫の脇、つまり生徒の名が記してある場所には紙が厳重に貼られていて、名前が見えないようになっている。そこにはシタン・アルダーと書いてあるはずだ。 (ははん?)オレは悪質な笑みを口元にちらつかせた。 ロイエド党の逆襲を怖れたわけか。学校全体が、白雪姫はオレが演じるとすっかり思い込んでいるのだろうが、ふふん、実のところ、そうではない。本番直前まで秘密にしちゃって客を入れ込んどけ作戦なんだろう。姫がアルダーでは客も半減以下になる、それはオレもわかっているが、致し方ない。許してくれたまえ、セニョリータ。 「やっぱり、やれば良かったんじゃねえの、姫役。変な見栄張っちゃって、十組の奴ら可哀想に」ロイが難色を示してオレを見下げた。 「うるせえな、嫌だって言ってんだろ」お前には一生わかんねえ苦しみなんだよ、とオレは今思いっきり渋面を作っているつもりなのだが、マスクのせいでそれもロイにはよく見えないのだろう。そのために、この虫唾が走るような嫌悪をロイは「見栄」なんて言葉で片付けやがった。不本意である。 「ぜってえ嫌だ、死んでもやるか」 「・・・・その姫じみた顔からそんな下品な言葉遣いが飛び出してくると、我が目若しくは我が耳をいちいち疑うよ、俺は」 そう言ってさっさとポスターから離れ、ロイは十組へと向かって歩を進めていった。 そういえば昨日の一件では、言動が粗野じゃなくて淑やかで、怒りっぽくない奴が、タイプだ、なんて、言ってたな。 (・・・『ぜ、絶対嫌だわ、死んだとしてもやらないのですわ』) これならお好み、か? なんじゃ、そりゃ。やめとけ、オレ。 学園祭を控えて、学校中はにわかに慌しくなっていた。廊下を赤と青のピエロ衣装を纏った二人組みが走り去ったり、とあるクラスの片隅にはまだ水の張っていない子ども用プールが置かれていたりする。金魚すくいでもやるのだろう。学園祭の模擬店は利益を目的としないので、金魚すくいも十円か二十円くらいで提供される。十円か二十円で我が身の運命を左右される金魚も、哀れなものだ。ちなみにオレは、出目金を見るといつも、水が目にしみたりしないのだろうか、と心配してしまう。あの剥き出しの目にシャンプーが入ったりしたら、大惨事を招く。ひょっとしたら戦争にもなりかねない気さえした。やはり、目にしみないシャンプーは必要だ、世界の平和を守るためにも! 「で、できた・・・!」 目にしみないシャンプーが、というわけではない。そう高言して拳を高々と突き上げたのは、ブロッシュだ。彼は脚本兼監督をすすんで買って出た。この学園内で今最も忙しく、且つ暇人な人物といえるだろう。 シャーペンを粗雑に投げ捨て、彼はうっとりと自分の原稿を見つめる。白雪姫の脚本が出来上がったらしい。完成も何も、原作を基にして台詞を繋いでいくだけだ、それほどまで感激する意味がわからない。 「どれどれ・・・?」オレの眼鏡にかなうかどうか、その出来立ての原稿に目を走らせた。ここでブロッシュが、「あれ、エドちゃん風邪?」とオレのマスクを見受けて尋ねてきたが、「いや、まあ、うん、そんなかんじ」と言葉を濁した。 しかし、汚い字だ。オレも人のことをあまり言えないけれども、ここまで汚くないつもりでは、いる。後方からロイも脚本を覗き込む。「まず、字がきたねえな」とオレと同様の感想を述べた。 序盤は順調。王道であり無難なストーリーが淡々と続いていく。脚本だけでみればお定まりでユーモアのカケラもない訳だが、これが同じ学校の人物が、しかも全員男子が演じるとなるとそれなりに見物にもなるのだろう。お笑いのようなものだ。ブラウン管越しに見るネタは然程笑えなくても、現場に行けばどうしてか同じネタでも腹の皮を縒るほど笑える、という原理と一緒である。不思議なものだ。 「白雪姫の類話はわんさかあってさ、結構苦労したんですよ。第一、ちゃんとしたグリム童話の原作では王子が姫にキスしないんだぜ、まったく興醒めだよな。曰く、眠った姫を運んでいた王子の召使が躓いた拍子に、白雪姫がぐしゃぐしゃの林檎を吐き出して蘇生するんだ。王子は何もしてねえ。なんじゃそりゃ、って話だよな。なので、脚色を入れてみました」 ブロッシュは滔滔と白雪姫について熱弁した。たしかに、毒りんごを食わされて生死を彷徨う白雪姫が目覚める理由は、王子のキスなんかよりも食ったりんごを吐き出す、というほうがよっぽど合理性があって論理的だ。が、飽く迄、フィクションの物語なのだからそんな現実じみた合理性だか辻褄合わせだかなんてどうでもいいのだ。そうオレも思うので、ブロッシュの言うことも一理ある、が、 「おい、これ、キスしすぎだろ」後ろからロイが呆れた声をたてた。 オレは呆れるもなにも、もう見限って言葉もない。だけどこれだけは言っておいた。「いくらなんでも、過剰な脚色だ」 過剰というのはよくない言葉だ。過ぎたるは猶及ばざるが如し、という諺もあるぐらいで、たとえば法律でも、『正当防衛』で相手に反抗するのは致し方ないとされているのだろうが、『過剰防衛』になるとこちらも裁かれる、という話を聞いたことがある。犯人が自宅の敷居をまたぐ前だったら、家のすぐ側でどんなに怪しい行動をしていても不法侵入にはならないので、殴ったり倒したりしてはいけないのだ、そうだ。オレはあやふやな知識を手繰り寄せた。 閑話は休題して、白雪姫に戻る。さて、文中には、白雪姫が目覚めてから完結するまでのほんのわずかな間に、三回もキスシーンがある。無駄だ。無駄すぎる。 ブロッシュの脚本を引用する。まずは王道に、目覚めのキス、これはまあ良しとしよう。白雪姫を舞台にするにあたって、欠かせないキスだ。 次に王子が目覚めた姫にこう言い、詠嘆する。 『「ああ、なんて美しいんだ、白雪姫!陶磁器のように白い肌、黒檀のように黒くしなやかな髪!」 (ここで王子がもう一回チュー)』 王子、ただの変態である。 「回数多く入れりゃいいってもんじゃねえだろ・・・」ロイが溜息まじりに詰った。 「R指定がつくぞ、年齢制限が」オレは脚本を投げ捨てる。 ああ、ひどい!とブロッシュが喚いた。 「一回で十二分だ」ブロッシュを睨んだ。ちょっと顎のほうへ下がってしまったマスクをくいっとあげた。 「大体、俺こんな王子役なら絶対やらないからな」ロイも続ける。 ブロッシュは不承不承そのクソ脚本を推敲するべく、オレが投げ捨てた紙の束を拾い上げた。 「当然です。オレは嘘が嫌いだからねん」不遜な声だ。 その言葉を受けて、クラス内では、オオッ、とか、エエッ、とか、おのおのの感じた気分が如実に現れた声が乱れ飛んだ。ロイはといえば、「あ、そう・・・・よく言うよ」と顔を顰めた。 只今、劇の練習中だ。 オレは音響として極力アクティビティーにならないで済むように、白雪姫のBGMをどう収集するか迷ったが、クラスメートの一人の妹が白雪姫の映画のサントラを持っていたようで、それを持ってきていただくことにした。しかしその妹さんはとってもそのCDを大切にしているらしく、貸してくれるかなあ、と兄であるクラスメートは懸念したが、その問題はすぐに解決した。その妹さん、とんだロイ様党らしいのだ。この学校の生徒でもないのに自ら副党首を名乗り出ているほどらしい。党首はこの学園内にいるとかで、ああ、もう、そんなことはどうでもいい。 机を前に送った教室で、台本を片手に役者たちがまだだいぶん不堪な演技で練習風景を繰り広げている。放課後で、あたりはもう暗い。青春ドラマのようだ。 そして白雪姫最大の山場、姫の目覚めのシーンで、こんな質問がどこからともなく飛び出した。「なあ、これ、本当にすんの?」たぶん声質は、ロイだったろうと思う。 その素朴且つ重大な質問に賛同するように、クラスのほぼ全員が、監督であるブロッシュのほうへ視線を向けた。オレはと言えば、床に直に横たわっている姫役のアルダーの背中が汚れないかとそわそわしていた。男子のみのクラスだけあって、まともに清掃なんてしないのだ。大抵、清掃時間だけはバットに変身する魔法の箒で、清掃時間だけはボールに変身する魔法の紙くずで思う存分遊ぶだけである。制服ということもあり、アルダーの背中になんか敷いてやったほうがいいんじゃないの、と思ったところで、ブロッシュの口が動いた。 「当然です。オレは嘘が嫌いだからねん」 ほう。本当にするのか。なんてスリリング、大いに賛成。オレも嘘は嫌いですからな。 種々の反応が飛び交う中、最も目を見張っていたのは、たぶん、アルダー氏だろうと思う。彼は典型的な年齢イコール彼女いない歴の人種だ(オレも、他人事では、ないの、だけれど)。そうは言ってもなかなか小奇麗な目鼻立ちをしていて、彼女ができなかった、というよりは作らなかったのだろう。この高校に入るために女も酒もタバコも断つ、という人は少なくない、年齢的に酒とタバコはないにせよ。 オレにとって、勤勉家ほど尊敬する人間はいない。だから幼年期のオレ自身を、オレはものすごく尊敬している。私淑はしないが。 「リハではフリでいいだろ?」眉間に皺をまだ作りながら、ロイが尋ねた。 この懇請はブロッシュも許容してくれたらしい。「ま、よしとしよう」 ロイは、なんでそんなに偉そうなんだ、とぼやいてから、屈んでアルダー氏に顔を近づけた。アルダー氏の顔が翳る。彼は息を止めているらしく、顔が赤くなってきていた(息を止めているだけのせいかと言われれば、ちょっと微妙なところだが)。その様子に幾人かからの微笑ましげな笑いが漏れた。 ある程度顔を近づけたところで、アルダーがおずおずと目を開いた。それを受けてロイが、言う。「お目覚めですか、姫」 くっ・・・!と感嘆なんだか何なんだかよくわからない声がいたるところで飛ぶ。その気持ちもわかる。悔しいぐらい、ハマりすぎだ。 「・・・・俺、お前になら抱かれてもいいよ・・・っ」アルダーがロイの首根に起き上がって抱きついた。むろん、そのような台詞は台本には無い。哄然と爆笑が包んだ教室内で、ロイ一人だけはシニカルに「俺はお断りだ」と気難しい顔をしていた。 *** 星が綺麗だった。すごく。 雨が降るかと思ったのに、よく天気をはずす事で有名な天気予報士の予見は見事に今日もはずれ、朝少し曇っていただけで、昼間からはからっと晴れ渡っていた。そのために星がとてもよく見えた。雨は降らなかったけれど、星は降った。満天の星空、否、満点の星空、だ。 夜空に散在する星の光が、何億年も前のものだと思うと実に神秘的だ。星とか、月とか、地球とか、そういう天文学的なものだけが、何億年も前の生き物と現世の人間を繋ぐ唯一のものだ、と思った。 「これって、何億年も前の光なんだよな」 オレは誰でも知っているようなことを、敢えて言ってみた。そんなの知ってるよ、とオレの低次元な雑学に対してロイが冷たく返す。よくよく考えれば誰でもすぐわかることだ、雑学というものにカテゴライズできないぐらいの常識的な知識だな。 「流れ星が見たいなあ」オレは子どものようなことを呟く。 流れ星と言えば、色んな説があった。神様が窓を開けるときの光、とか、神様の涙、とか。神様の涙、っていうのは雨にも用いられる思想だな。 「万一見れたって、感激のあまり願い事なんて唱えられねーよ」こいつはきっと流れ星を見たとき、飛行機のランプだとでも思うのだろう。そういう冷めた奴だ。 「別に唱えられなくてもいーの」オレはぶすっとしてロイを睨んだ。「その喉の奥が詰まるような感激が感じられるだけでも、素晴らしいとは思わないのか、君は」自分でもいいことを言ったと思った。 「・・・じゃあ、もしも願いが唱えられるとしたら、エドは何を願うんだよ」 「愚問だな」即答した。「身長」 ロイは、ああ・・・、と、なんともコメントしづらい、とでも言いたげな声を出した。 「ロイは?」自分の胸のうちだけ晒すのは面映い。 「うーん、そうだな・・・」考えるような仕草をした。「信号が、はやく青になりますように、かな」 信号待ちをしているわけではなかった。ので、オレは当然のごとくはてなマークを浮かべた。ロイは信号も待てないような、そんなに短気なやつだったっけ? どういう意味、と無音で答えを渇望するオレをロイはちらりと見て、 「・・・わかんないなら別にいいよ」冷たくあしらった。 「な、なんだよ!オレはオレ様がわからない問題がこの世にあるってことが許せないんだよ、教えろ!」 「あのさ」オレはそのロイの話題転換の言葉を聞いて、出端をくじかれた思いだった。「白雪姫、本当にするんだって、キス」 そんなこと知ってる。なにを今更。「知ってるよ、そんなの」オレはそう答えながらも、さっきのはてなマークがまだ消えなくて、心が浮ついていた。焦らすなよ、くそう。 するとロイはあからさまに不機嫌な顔をした。眉間の寄り具合は、阿吽を唱える寺院山門の仁王に似ていた。あそこまで物凄い形相はしていないにしろ。 「感想は?」ロイがたずねる。 「は?」尋ね返した。 「俺が他人とキスしちゃうのに、何も思わない、か?」 「はあ?思うわけねーだろ、なんでオレが。自惚れ大王め、何百回でもどうぞご自由に」白々と両手をあげて肩をすくませてみせた。「馬っ鹿らしい」 「あ、そう」 なんでオレが。ばっからしい。 そうしてまた歩き始めた。寒くて無意識に肩を聳やかせながら、安いアパートメントへ、それでも自分たちの都へ、歩いていく。住めば都とかいうやつですな。 「星か」ロイが横で漏らした。「しっかり見た記憶は、昔キャンプで行った山奥ぐらいだな」 ロイの実家は都心も都心、高層ビルと排気ガスが犇く大都会にあるんだそうだ。高校のあるこの地方に下ってくるまで、自宅から星が見えるなんて知らなかった、と言っていた。山奥限定の宝物だとでも思っていたのかもしれない。大都会は本当に、星が見えない。だから生まれてから死ぬまでその地を離れなかった土着の民は、生涯まともな星も見ずに死んでいくのか。悲しいことだ。 「オレ、オリオン座が好きなんだよね」夜空を見上げながら息を吐いた。ほんのちょっと白くなった。「最初に覚えた星座」って言っても、子供のころ、教科書の紙面でだけどね、と自嘲した。 脇に父親が居て、あれはいくつの頃だっただろうか、教科書の上に踊っていた、七つの星。三つの星を四つの星が取り巻いて、オレは柵の中にいる羊かなにかを連想したものだ。 「それでこっそり夜、抜け出して、星を見たんだ。辺りに光がない分、深夜の星ってほんとに綺麗でさ、感激した。それでオリオン座を見つけたときはもっと感激した」オレは自分の過去を思い出して、笑った。「だって、まるで教科書通りで、すげえ!って思った。まあ、当然なんだけどさ。ちゃんと三つの星を四つの星が取り囲んでで、教科書をまんま拡大したコピーが夜空に貼り付けてあるみたいな感じだった。あれから、星、結構好き」 ずっとこうして夜空を仰いでいると、頭がぐらんとして倒れてしまいそうだった。体力とか気力とか身体をしゃんと支えている足にかかる重力とかまで、この星空に奪われ捻じ曲げられてしまうような気がした。 「エド」ロイがこちらを向いた。暗闇に、ロイの色白な肌が映えている。一年中同じ肌の色で、すごいな、とオレが思ったあたりで、ロイが言葉を継いだ。「それ。マスク、外して」 あの、今、星の話をしてたんだけど。 という文句もどこへやら、へっ!とオレは顕著に裏返った声を発した。そして同時にマスクをがっちりと両手で押さえた。「や、やだっ」 「なんで」 「なんでって、だ、だって、ロイ、き、キスするだろ・・・!」 「そうだよ」そうだよって、なんじゃ、そりゃ。こうもけろりと言ってのけられる。「キスしたいから、外して」 その声のあまりの抑揚のなさに脱力してしまうというところだが、今日ばかりはオレも持ちこたえてマスクから手を外そうとはしなかった。 そのまま黙って冷えた身体を引き寄せられたが、手は口元へのガードにあたっているので、その身体を押しのけることは不可能だった。今日は自転車じゃないから、こんな妙なシチュエーションになってしまった。天気予報を外した予報士を恨んだ。 身体の腹部あたりが密着して、その距離を遠い遠いところにあるお星様と比較してしまって、一人どぎまぎした。話題が何億光年という距離から、一気にゼロセンチのものへと切り替わった。なんだこれは。死にそうだ。いくらわたくしだって、そんなに頭の回転はやくないです。 口元は死守している。それゆえ、それ以外の場所は完全に無防備になる。 ロイがそっとオレの頭を引き寄せて、まずは、額にひとつキスを落とす。残念ながら身長の差のため、十五センチほど上からされるので、本当に「落とす」という表現がしっくりくる。うぎゃ、と心のなかで呻くオレなど知らん顔で、オレの髪を触った。 「金色、星の色」そのロイの声には、ゆるやかな含み笑いが乗っている。「よく似てる」不快ではない。むしろ嬉しい。 こんなチープな髪の色嫌だ、って、昨日考えたばかりだった。だけど、ロイに一言そういわれるだけで、突如として誇らしくなってしまったりするから、本当、ばからしい。 オレの髪はお星様。それなら、ロイの髪は、星を覆う夜空だな、なんてぼんやり思った。 奇しくも、今の状態とまるで一緒だ。オレはロイに包まれていて、覆われていて、夜空には星が瞬いていた。 オレの髪が黒かったら、ロイはもっとオレのことが好きなのかな、って考えていた。でも、そんなことしちゃだめだった。だって、夜空から星が消えてしまう。なんて殺風景な景色になってしまうだろうか。 ロイの鼓動まで聞こえてきそうだった。オレのはとても聞かせられない。ロイの拍動の一体何十倍ぐらい速く打っているのか、知れたものではないからだ。 もうやだ、もうやだ、もうやだ。 何が嫌なのかさえ、よく、わからない。 なんでだろう、気付かなかった、いつの間にかマスクを抑えていた手が外されている。ロイが、星だとか、そんなロマンチックなこと、言うからだ。くやしくてたまらない。 ロイの黄色いピアスが見えた、一瞬、星かと思った。だってそのすぐ上に黒い直毛がかかっていて、星に見えてもしょうがない雰囲気だった。 (ああ、青信号──)わかった。やはり、オレは天才だ。 ロイはその願いを星に願ったのか、それとも耳元の飾りである小さな星に願ったのか、定かではなかった。そんなことはどうでもよかった。 「ん・・・・っ」心臓が喉からせりあがってきそうだ。 口を塞がれて、一刹那、もう、息が苦しい。水中でも、もっと長く息は保つだろうに、どうしてなんだ。 手首をロイに掴まれた左手を、ぐっと握った。瞼も例によって、ぎゅうっと閉じていた。 少し、ほんの少し唇が離れた。ロイと目が合った。「・・・ろ、ロイ、」 はっ、という浅い口呼吸しかできない。のに、オレが喋ろうとしたのを遮って、また満天の星空からキスが降る。「・・・んっ・・・・」 オレがなんて喋ろうとしたのか、その瞬間に、わすれてしまった。 なんでこうも、帰り際にばかりこんなことするんだろう。嫌だ。 だって、だって、家に帰ってもロイのことしか考えられなくなってしまう。きっとロイの思惑通りにはめられてしまっている自分が、ほんとにいやだ。 また、オレは悶々と独り相撲で悩むのだろう。そんなふうに罠を仕掛ける、こいつは性悪なペテン師だ。 だけど、どうせ、切ろうと思っても切れやしない。 星と夜空は、関係なんて断ち切れない。夜空があって星が輝ける。星があって夜空は意味を持つ。 ──太陽なんて、昇らなくてもいい。 そう一瞬でも思った自分が、ほんとに、いやだった。 |