順調。順風満帆。
これらの言葉が嫌いな奴なんて、そうそう居ないだろう。確かに、それらの言葉の意味をしっかり理解した耳には、心地良い響きだ。じゅんちょう、じゅんぷうまんぱん、鼓膜が歓喜に震えているのが分かる。これらの言葉が嫌いだなんて広言する奴なんていうのは、大抵、人間は高波に呑まれてこそ成長を遂げるんだぜを持説とする臍が後ろを見れるほど曲がった奴か、もしくはそれらの言葉の意味を知らずに語感だけで嫌いと決め付けた愚かな奴か、そういった人種だろう。
そして、例外的に、オレがいる。オレの臍は、まあ、真っ直ぐとまでは言わなくともある程度視界は前方に向いていると思うし、順調や順風満帆の意味もある程度は会得しているつもりでいる。もちろん、それらは良い意味合いの言葉だ、それぐらい知っている。けれども、今、オレはそれらの言葉をたいへん疎ましく感じざるを得ないでいる。
なぜか。簡単だ。
順調であることがむしろ、芳しくないからだ。順風満帆であることが予想外で、逆に、オレにとっては不利益とも言えるものをもたらす可能性があるからだ。
なぜか。簡単だ。
オレが単純に、それらが順調に進んでいってしまうのを、望んでいないからだ。まずい、と思うからだ。例えばボードゲームのすごろくなんかで、相手の駒がどんどんゴールへ進んでいく、それはまさしく「順調」であるが、オレにとってそれは喜ばしくない進行である。つまりは、そういうことだ。誰かの利益の裏には必ず誰かの不利益がある。詮ずる所、ギブアンドテーク。等価交換。一利一害。オーケー。
そこまで分かっていて、オレは敢えて、「順調」とか「順風満帆」という言葉を自分のヴォキャブラリーから引っ張りだしてきた。
なぜか。簡単だ。
一般論としては、オレの中で、オレの周りで、今進行しているものは、どう見積もっても「順調」としか見えないだろうと思ったからだ。順風満帆、おめでとう、何よりだよ、慶祝だ、そういった華美な祝辞さえ熨斗をつけて頂けそうな、そういう状態だからである。普遍的には慶事とされる状況で、オレは、オレだけはそれをよろしいとしていない。だからオレの周囲を取り囲んでわいわい祝杯さえ交わしている「順調」だとか「順風満帆」だとかいう言葉達を怨憎のこもった瞳で睨みつけていると、そういうこと。

じゃあ、その、オレが慶事と見なしていない慶事って、なあに?
と、首を傾げるアナタ、「順調」と「順風満帆」の意味を調べてノートに複写してから、出直してきなさい。


★三毛猫ヤマト★ U
--第六便--



まあオレもそこまで鬼じゃないので、お話しましょう。本当に複写してきた人は、うん、なんていうか、努力賞、あげます。
『金色、星の色』
金色、星の色。金色、星の色。金色、星の色。きんいろ、ほしのいろ、なんだそれ。
オレは多分、胸を張って“殺し文句”と呼べる言葉に、生まれて初めて出会った。そんな言葉の存在を忘れかけていた。他にも、「悩殺」とか「骨抜き」とか、そういったベターな三流恋愛小説などでしかおよそ用いられないと高を括っていた、お蔵入りしていた語彙たち。
殺し文句──実に、実用性のない言葉だ。世界に「気障でない男は浮世を渡っていけない」なんていうジンクスが蔓延しないかぎり、殺し文句なんて言葉が日常的に用いられるようにはなりえないだろう。
ロイの、いわゆる、オレをぐっさり殺してくれた“殺し文句”は、まるで九割方平仮名で構成された絵本から引用したかのような、稚拙なものだった。ロイと一緒に色んな映画を見てきたけれど、ここぞというときに、絵本の台詞を持ってくる男優なんて居なかった。耳の不自由なヒロインに手話で「愛してる」の意味を示したりだとか、道路を疾走する大型トラックの前に飛び出して不死発言をしたりだとか、愛の告白っていうのはそんなふうに劇的でいっそ壮観な気障っぷりを呈するものだと相場が決まっていて、間違っても幼児期に立ち返ったような言葉でヒロインを口説くシーンなんて記憶になかった。
だけど確かにオレは、その一言で脳天を完全に殺られた。まさしく、“悩殺”されたのだ。お恥ずかしいかぎりです。慙愧に堪えません、ほんとう。
あんな稚気に塗れた台詞は、映画なんかだったら絶対ボツにされるだろう。でも、オレみたいな馬鹿な奴を、悩殺することはできた。恥を忍んで言うなら、幸せとかいう途方もない感覚にすることはできた。
オレは手話には詳しくないし、ロイが疾走する大型トラックの前に飛び出したら、何やってんだ馬鹿やろう!って怒鳴り散らしてその後に述懐される愛の独白に耳なんて貸そうとしないだろうし、どちらの愛の告白もオレには似つかわしくないのだろう。さもありなん。
そう、オレには、オレ達には、そんな絵本の台詞が似合いだった。
なぜか。簡単だ。
オレ達は、まだほんのガキだからだ。


数えてみる。ひい、ふう、みい・・・指折り数えていって、指が一本倒れるたびに、オレは小さく舌打ちする。ちっ。
おでことか頬とか、そういう部分にされたものも含めてしまうと十指では足りないような気がしたので、然るべき口という部分に受けたものだけを数え上げてみる。一度目は、忘れもしない、あの始業式の日だ。実際、あの日に一体何度されたのかは、よく覚えていない。たぶん、二回ぐらいだったとは思うけれど。そんな訳で曖昧な記憶を頼りに二回と仮定し、親指と人差し指を倒す。浸かっている風呂の湯が冷めてきたので、指が二本倒されている左手はそのままで、右手で「あったか」というボタンを押して湯を沸かす。
その翌日から、思い出すだけでも怖気が蘇る隔絶期間が数日あって、やっとこさ仲直りというふうに事が運んだ日は、おでこだけで済んだはずだ。
その次の日に、一回。中指を折る。舌打ちした。ちっ。そして一番記憶に新しいのが、星の色、と壮大な台詞を吐かれた、昨日だ。薬指を折った。片手で事足りたことにほっとする。
勘が鋭くなくとも、勘、という言葉を一度でも耳にしたことがある人なら、もう分かるはずだ。
オレは例に洩れずバスクリンによって色鮮やかに染まった浴槽の中で、壮絶な思案を繰り広げていた。眉間にこの上ないほど皺を寄せ、しかつめらしい顔つきでロイにされた不躾なキスの回数を数えている。今日の湯はコバルトブルーだ。冬に青色っていうのはちょっと寒々しい。やはり緑系にすれば良かったな、と思ったが、もう遅い。
浴槽の湯が全て液体から気化して蒸発しうるような、たいへんな長風呂が連日続いている。その湯はオレのお粗末な思案や過慮、大仰な憂慮なんかが溶け出して冷めてしまい、「あったか」によって温度を何度も再生しながら浸かっている。デンコちゃんに怒られてしまいそうだ。覚悟の上だ。
昨日なんかは戦々兢々としながらマスクという重装備で赴いたというのに、あっさり、あれだ。たとえばオレが蛇に睨まれたアマガエルの立場で、虎視眈々と獲物を狙う、射るが如き炯眼、なんてもので射抜かれていたのならしょうがないが、べつだん、そういうわけでもなかった。だから不甲斐ない。くそう・・・。
一部推定も混同しているが、四回、だ。四回。今節の若者の性的なものへの破綻しかかった倫理観だとかみだりな価値観の現状だなんて知ったことではないけれども、その回数が、「友人関係」をさらりと超越できるぐらいのものであることは確かだ。少なくとも、オレの倫理観と価値観の中では。
そう、だから、だ。繰り返しになるが、まさしく「順調」に回数を重ねていっているのだ。望ましくない。嘆かわしい。どうすればいい。
これじゃまるで、まんま恋人同士だ。そう思われても文句は言えない。
断じてそうではないんです、あいつは友人に他なりません。じゃあなんでこんな成り行きになっているのかって?そう突き詰められれば、オレは口を噤んで、こう苦肉の台詞を吐くだろう。「知らねえよ!」
ここはハローという挨拶ついでに相手にキスをするような文化は決して確立されていない国であるが、ロイのキスというのはまさにそういう感じだった。おはよう、さよなら、ごちそうさま、そしてキス、そんなふうに全く同じ棚に並んでいる、そんな感じだ。彼は、おはようと挨拶できる相手にはキスもして良いと、何か根本的なものを履き違えていると思う。つまり、日常生活で多用される儀礼的な挨拶のごとく、手馴れているというか堂に入っているということだ。じつに、素晴らしい。じつに、不愉快だ。
オレがとやかく気にしすぎなんだろうか。
幾度も頭をもたげたその説をオレは気力で一蹴した。ちがう、ちがう、大丈夫、大丈夫だ、オレ。オレは決して間違ってはいない。ここはハローついでにキスが行われる国ではない。たぶん。国中がグルになって、オレだけをそんな決まりが無いかのように錯覚させるだなんてプロジェクトはないだろう。あり得ない。
望まない展開。嘆きたくなる関係。それを拒む術を持たないオレ、本気で抗おうともしないオレ。
やっぱり、悪いのは、オレなんでしょうか。
逆上せてきたので風呂の栓を抜いた。

***

ある日、オレはパセリになった。

問題の「星の色」の日から数日が経って、学園祭の準備でいよいよ帰宅が遅くなる群れが出始めた。オレもロイもその内の一人だったが、オレ達は殊更に準備を頑張っているとかいう訳ではなく、ただクラスメートと屯して放課後教室で他愛も無い雑談を交わしているうちに暗くなっているということが殆どだった。男子だけのクラスなんてそんなものだ。
途中経過としては、「星の色」の日以降、とりあえずロイの“ハローキッス”は防げている。防げている、と言ったら語弊があるかもしれない。ロイも全くそんな素振りを見せないので、意識的に防いでいるわけではない。ここ数日でロイのあっけらかんとした様子を見ていて、わかったことがひとつある。ああ、やっぱり、こいつは“挨拶”のカテゴリーにキスがカテゴライズされているな。
冬が本格的に始まり、太陽が本格的に怠惰をし始め、冷たい風が我が物顔で校庭内をよぎっていく。世界を今征服しているのは自分だとでも言いたげだ。でも確かに、そうかもしれない。凍った頬に肩をすくませて、そう思った。
ロイが教室に自転車のカギを忘れたというので、オレはこのクソ寒い中校門の前で、申し訳ないという有難い言葉を知らないロイが悪びれも反省もせず戻ってくるのをガタガタ震えながら待っていた。
と、我が物顔の風にいたずらされて、オレの足元に白い物体が舞ってきた。一瞬、女性物の下着かと思ったら、ただのハンカチで、オレは自分自身にちょっと泣きそうになった。
反射的に拾い上げた。高級そうなハンカチだった。ハンカチーフという、鼻がむずむずするような表現がよく似合う。布の隅に筆記体の英語で、おそらくブランド名だと思われる文字が刻まれている、が、あまりに雑というかクセのある文字だったので、この暗い中で読み取ることは不可能だった。
その布きれから、かすかに香水の匂いが香った。我ながら阿呆だとは思うがその淑やかな女性らしい香りにうっとりしているときに、声をかけられた。
「あ、すいません、ありがとうございます」
絶世の美女、という言葉が、咄嗟に脳内に浮かんだのは初めてだった。
ありふれた、どこにでもある表現だ。でも、それ以外見付かる言葉は無かった。今の今から、オレの辞書で「絶世の美女」とひけば、彼女の名前が出てくるに違いない。
オレが「運命的な出会い」という響きから連想するイメージに完全に合致するこのシチュエーションの中で、オレは無様にも凍りつくことしかできなかった。それは、この吹きすさぶ風のせいにした。やはり、こいつは今、世界征服をしている。そう思わない限り、自分の無様な姿を認めることが出来なかった。
「それ、わたくしのでございますの」
ございますの、という口調を用いる女性がこの世にいるということ自体驚きだったが、そのございますの、の髪が本当に美しくカールしていることにはもはや感服すら覚えた。オレの身勝手なイメージ像のなかで、ございますの、の髪は必ず毛先のほうにくるくるとクセがあるものだと決め付けていたからだ。
ございますの、というと幾分勝気で高慢ちきな雰囲気を与えがちだと思っていたが、思ったほどそんな印象は無かった。たしかに、一筋縄ではいかなそうな、芯の強い女性というアトモスフェアを纏わせてはいたが。黒に近い茶髪の、細くて長い髪がしなやかに風と踊っている。
「あ、ああ、ハイ、ドウゾ」
針金を何重にもぐるぐる巻きにされていたとしても、ここまで動きが硬くなることはないだろうと思った。本来なら、何度かそのハンカチーフをはたいてみせて砂を払い、大丈夫かい、気をつけてね、なんてセリフを言えたらいいと思ったけれど、オレはその場を逃げ出さずにハンカチーフを返すということだけで精一杯だった。
ありがとう、とそのハンカチーフを受け取った美女は、微笑した。モナリザのように美しいが、モナリザのような大人びた雰囲気は無い。オレとたぶん同年代の、まだ稚気の残る、それでも嫣然たる微笑みは、今からでも桜の木々を満開に咲かせることができそうだった。
女性の白い頬は蓮の花を思わせた。けれど、ずいぶん長い間外にいたせいなのか、その頬が赤らんできていた。そういえば彼女も、オレとは対照的な位置ではあったが校門で人を待っているようだった。
「あの、失礼ですけれど──」
美女が小さな形の良い口を開いた。言葉のかわりにその唇の間から桃色の花弁が出てきても、オレはいとも容易く納得しただろう。
この学校に、とまで彼女が言葉を継いだ。人を尋ねようとしていることは分かった。
そこで、彼女の大きな瞳が更に見開かれた。目玉が落ちてこないかとそわそわしてしまうような両目で、オレの身体越しに、校舎の方を認めている。その長い睫毛は、扇にでもできそうなほど快適な風を起こしそうだ。
そして、彼女はこう叫んだ。
「ロイ!」
今、この瞬間のオレ以上に、「ぽかん」という顔をしている奴がいたら、拍手を送りたい。
ロイ、と美女は叫んだ。きっと、オレの後方で、ロイが「反省」と「申し訳ない」の文字を知らない素振りで悪びれもせずに、あくびでもしながら歩いているのだろう。
ああ、とオレは悟った。
全国の美男子と全国の美女は、極秘のルートで全員、繋がりあっているんだ。いいなあ。オレもいいとこまでいってるとは思うんだけどなあ。どうやら悲しいことに、オレはその「美人ネット」からは除外されているらしかった。
「・・・・なんでお前がここにいるんだよ・・・!」ロイの、苛立ったような声が背後から聞こえた。オレはといえば、硬直したままだ。美女とロイの間に立って、たいそう邪魔な存在だろう。美人ネットでつながれた二人を隔てているオレは、法律に抵触しているような心地さえあった。「カリン!」
なるほど。
今の今から、オレの辞書で「絶世の美女」とひくと、「カリン嬢」と出ることになった。
そして、今の今から「ぽかん」とひくと、「ロイの野郎とカリン嬢が知り合いだったということを悟ったときにする表情」という説明が加筆される。



「・・・・ええと、ご、ご家族?」
オレはカリン嬢とロイに挟まれて、しどろもどろの極致でそう尋ねた。髪の色がロイと同系統だったので、安直にそう訊いてみて、我ながらこれはハズレだろうなと考える。
先ほどまで微笑としか呼べなかったカリン嬢は、今度は喜ばしそうな満面の笑みで、ロイの右腕を掻き抱き、しがみついている。その様子を見て、今一度、美人ネットを嫉んだ。
誰にともなく問うたが、どちらかと言えばロイ寄りに向けられたそのオレの問いに、こんこんと答えてくれたのはカリン嬢だった。にんまりと、俗に言うなら小悪魔的笑顔で笑ってみせて、こう言った。
「半分あたり、半分はずれ、ですわ」美女は意味深なことを言って、目を細める。その美しさたるや眩しいほどで、オレは思わず目を眇めた。
「大はずれだ」
ロイは生きていること自体が面倒になった、というような表情で、ぶっきらぼうに言う。カリン嬢がしがみついている右腕を振り払おうとしないのは、それすら面倒なのだろう。もしもロイがすげなくカリン嬢を振り払ったなら、オレはオーストラリアの木にしがみつくコアラ全てを木から振り落としてやろう、などと意味不明なことを考えていた。
「相変わらず、つれないんですわね」
綺麗に整った眉を吊り上げたカリン嬢は精一杯渋面を作ってみたつもりなんだろうが、その顔は写真におさめて出版できるほど美しいままだった。
「どうしてお前がここにいるんだよ」
ロイはさっきも言ったことを繰り返す。内容は同じだが、先ほどのものより語気が刺々しい。
「あら、そんなの決まってますわ。特急に乗って来ましたの。歩いてなんて到底無理ですもの」
粋なカリン嬢の洒落にもロイはにこりともしない。「理由を聞いてる、手段じゃない」
ロイの厳しい表情にも、カリン嬢は笑顔を崩さない。心底、待ちわびた人物に会えて嬉しいという顔をしている。何度も出産に失敗した夫婦が、初めての元気な子を授かったときには、こんな顔をするのだろう。
「だって、ロイったらわたくしが手紙を出しても音沙汰無しで、夏休みに帰省したと思ったらわたくしが会いにいく前に帰ってしまうんですもの」
「誰が、お前に会う前に帰ってはいけないなんて決まりを作ったんだよ」ロイの言うことはもっともだったが、美女の喋ることはすべて世界の摂理のようにも聞こえたので、どっちが正しいのかは計りあぐねた。
オレ達はとりあえず、この厳寒の中を少しずつ歩き始めていた。雪が降ってもおかしくない寒さだった、しかしながらこのあたりに舞っているのは美人ネットで繋がれた二人の会話だけだ。
「あら、帰省の際に将来の妻に一目会っていくなんて、誰に言われなくとも、当然のことですわ」
その衝撃的な台詞を横に、オレは呑気に、オー寒、なんてことを一人で小さく呟いていた。そして少し遅れて鼓膜に届いたその台詞に、愕然とした。
しょ、しょうらいのつま。
何に愕然としたのか。まだ、そんな制度というか、そんな言葉がこの世に存在しているということに、だ。悩殺だとか骨抜きだとか殺し文句だとか、更には許婚、フィアンセ、そんな物珍しい言葉が、どんどんオレのヴォキャブラリーから埃を被ったままの状態で引っ張り出されてくる。ということは、要するにそれだけ、オレの日常生活に大きな変化が起きている。
「フィ、」オレは言葉が詰まった。埃まみれの単語たちが次々オレの前に登場するので、むせ返りそうになったのかもしれなくて、完璧にしきれなかったクシャミのような発音になった。フィアンセなんて、まともに口にしたのは(正しくは、口にしようとしたのは)、おそらく生まれて初めてだ。「フィアンセ、で、ですか」
カリン嬢の笑顔が一層増した。それに伴ってロイの顔に溢れる難色も、濃くなった。
ほう、なるほど、なるほど。
本物の、王子と白雪姫のご登場、ってトコロですか。
こんな時期に、計ったようである。お見事、という他ない。
「ええ」そうなんですの、と歯を見せた嫁。未来は超然たる美女。
「くれぐれも、相手にするな、エド」と、取り付く島もないような様子の、婿。未来は利発で超絶美形の弁護士。
お見事だ、お似合いすぎる。よくできすぎている。なんだこれは。笑ってしまう。
あはははは。
もうこの時点で既に、この未来の夫婦と肩を並べて歩いていることに引け目を感じてきていた。犯罪をおかしているような気分にさえなる。
そう、パセリだ、と思った。オレはパセリ。脇の二人は、メインディッシュのステーキ。
レストランで注文して、美味しそうなステーキがやってきて、その傍らに申し訳無さそうにくっついているパセリの心境。
ある客には、まるで飾りだと思われている。端から食べるものではないとして、扱われている。またある客には、ステーキは頼んだがパセリを頼んだ覚えはないと冷たい視線で睨まれ、パセリを返すからそのパセリ分の金を返せと言われる、そういう役回りのように思われた。邪魔で、どうして同じ皿に乗っているのかと存在意義を問われる、そういう立場だ。お寿司の緑色の仕切りのように食べられないわけではないがあそこまで役には立たず、カレーの福神漬けのように添付されてはいるがあそこまで感謝はされない。そんな、パセリの心境。
なにさ。パセリ万歳。
「ほら、もう暗い、早く帰れ、カリン」ロイの語調は怒気に急かされ幾分早い。
「ご冗談!しっかりお泊り道具一式持ってきましたから、ご心配なく、ですわ」
「あ、そう。じゃ、さよなら、ご足労どうも。ホテルは確か東の方角にあったはずだから」
「・・・・本気でおっしゃってますの、ロイ」カリン嬢の頬がここで初めて引き攣った。
「本気でおっしゃってますの」ロイがオウム返しにした。その顔は無表情。
もう!と堪忍の緒を切らしたようにカリン嬢がいきり立った。「ロイの家に泊まっていくに決まってますわ!」
「俺の家ベッドひとつしかないんですの、ごめんなさいね、ですわ」
すっかり蚊帳の外のオレは隣で笑いを堪えるのに必死だ。美女が怖れるもの、それは、己の美貌の劣化と、自分の思惑通りにならない奇特な男、それだけだ。
「あら、そんなの取るに足らない問題ですわ。ひとつのベッドに一人しか寝てはならない、なんて法律はどこにもございませんもの」
うむ、確かに、ございません。でも、それは、どうだ、倫理的に。オレは黙って様子を伺い、継がれるカリン嬢の言葉を待つ。
「将来的に、夫婦仲になるんですもの、それぐらいの睦みあいは必須ですわ、ね?」
あのさ、とロイがこれ以上呆れる方法が見付からない、という風情で口を開いた。「お前の未来予想図、いや、未来希望的観測図を俺に押し付けないでくれない」
ロイが、女性に対して「お前」と言っているのは初めて見た。
「希望的観測だなんて、あんまりですわ。決まっていることですから、ただの未来図よ」
ロイは口をつぐんだ。呆れ果てて、返す言葉も無い、という意志がひしひしと伝わってくる。そんな様子の婿の隣で、嬉々とスキップ混じりの歩を進めている未来の嫁との取り合わせはどこか奇妙でもあった。
ああ──とカリン嬢が呟いた。「そういえば、ええと、そちらの方」
そういえば、ですって。あはははは。キャビアとフォアグラの隣に並んでいる不可思議なしめじだとでも思われていたのだろう、カリン嬢の視界にオレは入っていても、彼女の意識に入ってはいなかった。オレがトリュフでもない限り、同等には並べない。
なにさ、なにさ。しめじ万歳。
「お友達でいらして?」
「うんそう」ロイが全身全霊のヤル気を蒸発させた状態で、答えた。うん、そう、の意で吐き出された句点もない台詞は、「ウンソウ」というまったく新しい熟語を発音したかのように聞こえた。イントネーションの間違った、運送、とも聞こえる。
オレは困ったように、愛想笑いをしてみせた。本来ならトリュフがくるポジションに、しめじが居てすみません。
「とっても綺麗な方ね」この一言がお世辞じゃないとするならば、この世から嘘なんてものは完全に消え去るだろう。
オレはもう一度、愛想笑いをした。あはは、というよりは、あはあ、と記したくなるような気の抜けたもので、言うなれば笑いとも溜息ともつかない。そうしながらも内心で、イヤイヤあなたに言われたくないよ、とあきれ返っている。
「そうだろ」
ロイが何気なく放ったこの、カリン嬢の先刻のお世辞に賛同する発言に、オレもカリン嬢も、えっ、という顔をしてロイを振り返った。だけどオレよりも、びっくりの度合いではカリン嬢のほうが遥かに上だったろう。ロイが、渇仰する映画監督以外の人物を褒め称えることなど滅多に無い。それは当然カリン嬢も承知の上の事実であるだろう事は推測できたので、彼女が驚きに目を張るのも無理はなかった。
ロイがこちらをちらりと見て、いたずらっぽく、口元だけで笑った。そうして無音で言った。『そうだろ?』
くそう、不覚にも、どきりと弾んだ心臓に、喝をいれた。しっかりしろ!
「そ、そうですわね」そう言って驚きを取り繕った美女は、ちょっぴり不思議そうな、ちょっぴり羨ましそうな、そしてものすごく怪訝な視線で、こちらを見遣った。
ロイの野郎、カリン嬢をオレの敵に回したら、ただじゃおかん。美人を敵に回すことほど男にとって不利なことはないのだ。そういうわけで、ロイのわき腹を肘鉄で攻撃した後、オレは「いや、はや、とんでもないですヨ」と謙遜しておいた。謙遜ではあるが、本心でもあった。
夜の景色に浮かび出るようなロイの横顔は、やはり、男のオレでも否応なく惚れ惚れしてしまうような目鼻立ちだ。夜景のイルミネーションに易々と同化してしまいそうな輝きに満ち、しかしながら、美青年、というような神経質で虚弱そうな響きはあまり似つかわしくなかった。任侠の徒、というイメージもあるし、ときおり、猛々しく獰猛な印象を抱かせるときも、ある。だから、人形のように美しくは、ない。生きているからこそ美しい。動くから、表情が変わるから、その仕草ひとつひとつがいちいち格好良いのだ。すっかり見慣れた顔とは言え、今でさえ、一日に一度はハッとするときがある。文句は言えるが、否定はできない、奴は悔しいけれど、美形の最たるものだ。ちくしょう。こんな奴に容姿を褒められたって、嬉しくもなんともない。
(・・・・うそです)ほんとは、ちょっとは嬉しい。
いや、べつにそれは、ロイだからとか言うわけではなく、誰だって、人様に褒められれば嬉しいというものでしょう。
キザめ、女タラシめ、と胸中で悪態を山積させながらも、少し唇を尖らせているカリン嬢に、軽い優越を感じていたのは、確かだった。
しめじにだって、トリュフに勝る部分はきっとあるのだ。

*TO BE CONTINUED*





なんという中途半端さ!2−6ですー
一旦キリという感じで・・orz
白雪姫配役問題もまだ解決してないのですけれど、一難去らずにまた一難というかんじで
しかしながらフィアンセとか我ながら陳腐だよなあと思いつつも楽しんで書いちゃいましたえへえへ・・!
うちのエドワドたまは自虐体質なのかもしれません笑