美人は、作る料理までもが美しかった。なんというかもう、脱帽だ。 オレはショッキングピンクの光景を目の当たりにしたわけではなかったけれど、今度は、手元のカレーをぶちまけて、その場に卒倒してしまいたかった。南極まで逃げ出したかった。美麗なローストビーフが馥郁たる香気を室内に充満させている前で(そういやロイの家には奇跡的に古いオーブンがあった)、庶民的なカレーが入っている庶民的な鍋を抱えている、庶民。しかも激辛。美女に食させるような代物ではない。恥ずかしい、情けない、ごめんなさい、誰か、オレに自尊心というものをください。 「やっぱりか、」 悲愴な面持ちで呟くオレを横目に、 「やっぱ理科?なにそれ」アホ面でロイが返した。 「やっぱりか、帰りますよ、オレ、オジャマ虫だし、しめじだし、」南極にでも逃げてきます。 「は?」 しめじなんて料理に出てないだろ、あれ、っていうかエドしめじ嫌いだっけ?とロイが続ける。ロイはオレが馬鹿だとかよく言うけれど、ロイだっておっつかっつだろうと思う。 「お肉はお好きでなかったかしら?」 エプロンを纏い両手には料理用の大きな手袋をしたカリン嬢が、キュートな仕草で首を傾げてオレに問うた。そして、あら、カレーですわね、とふんわり笑った。これでキュンとしない男が居たら、オレはそいつに勇んで平伏そう──あ、ここに、いる。ベッドにヤル気なさげに凭れている、このいけずなノッポが。 「はっ、や、あの、決してけっしてそういうわけでは」 肉が嫌いかという問いに答えながら、顔の前で否定の意を示す手を振ろうと思ったが、カレーを抱えていたので叶わなかった。危うく落とすところだった。 「わたくし、カレー、好きですわ。よろしければご一緒しましょう?」 オレに、断れるわけがなかった。「は、ハイ、よろこんデ」今度はわけもなく、もう一度カレーを落としかけた。 --第八便-- いただきます、とフォーマルな挨拶をして、それぞれ箸やらスプーンやらを取った。 料理店で出されるものに全く見劣りがないローストビーフに見惚れているうちに、カリン嬢がオレ特製のカレーを淑やかな動作で口に運んでいた。 「あっ」オレは思わず知らず、漏らした。オレ特製のカレーは激辛だ。ロイも、オレと同じような顔をしてカリン嬢を見ている。 や、やばい。美女の顔が苦渋に歪むのを見たくはなかった。 カリン嬢は、ぱっと口元を、あいている左手で覆った。細長い綺麗な指に気を取られるのも刹那のあいだで、次の瞬間、オレははりつけの刑でもどんとこいという覚悟だった。全世界の人々ひとりひとりに二百回ずつ土下座しろと言われても、喜んでやっただろうと思う。美女に苦痛を味わわせることはそれほど重罪に思えた。 贖罪や免罪符としてのつもりではなかったが、せめて水をと思い、オレが席を立とうとしたとき、 「おいしい・・・!」 お? 「おいしいですわ!これはエドワードさんが作られたのかしら!」 オレも、ロイまでもが呆気に取られていた。今日は作り方を変えたっけ?いや、そんなはずはない、たっぷり唐辛子ペースト入りだ。 カリン嬢の瞳は爛々と輝いていた。心底感激してくださっているらしい。 「そ、そうなんでス、いましがた、慌てて」 「すごい!カレーというものへの価値観が崩された思いですわ!」 褒めすぎである。そう思いつつも、オレは、にへら、とだらしなく口元を緩ませた。美女に称揚されて嬉しくないはずがない。 「辛くないのか?」ロイが、うそだろ、という風情でカリン嬢を振り返った。俺でさえ喚いていたぐらいだぞ、とさも言いたげだ。 「あら、ご存知でないの?わたくしはとびきりの辛党なんですのよ」 人は見かけによらず、という言葉の意味を小学生に教えたいとき、オレは真っ先に今のこの状況を説き聞かせるだろうと思った。いいかい、美女はね、意外に甘党だったりしなくて、辛い物好きだったりするものなんだよ、小学生諸君、よく覚えておきたまえ。 「やっぱりカレーはこれぐらい辛くないと、ですわ。ね、エドワードさん」 ロイに見せ付けるように、カリン嬢がオレへ向けて、ねっ、と笑いかけた。 そ、そうですよねえ、ともごもごクネクネ返答するオレに、ロイは釈然としない様子だ。 ところで、カリン嬢、学校はどうなされた。と直接問えれば良いのだが、小心者のオレは、脇にいるロイに、「カリン嬢、学校はどうしたのかな」とこそこそ伝えた。そのメッセージをロイがカリン嬢に受け渡す。美男子経由で美女と会話する庶民の図、完成。 「そういや、カリン、学校は」 「お休みしてますわ」実にあっけらかんと言ってみせる。「今わたくしはたいへんな高熱に悩まされていることになっておりますの」 「休んでまで来たのか、お前、馬鹿か」 「なんですの、その言い草は、まったく感謝のひとつでもしてほしいぐらいですわ」 そんなやりとりが交わされるのをオレは傍観者のごとく見ていて、美女はめちゃくちゃなことをしても道理にかなう、ということを学んだ。 学校も無視してロイに会いに来た、惚れて通えば千里も一里、ってやつなのだろう。まったくもって、恋愛とは大いなるエネルギーである。 ローストビーフはむろん見掛け倒しな料理ではなく、想像した通りの絶品だった。それでもカリン嬢はエドワードさんのカレーには劣りますわ、なんて、なに言ってんですか、と突っ込みたくなるようなことを呟いていた(エドワードさん、なんて呼ばれ方をしたのは生まれて初めてだったのでなんだか背筋が落ち着かない)。 食事中にもカリン嬢はパタパタとよく動き回り、ロイが横柄にも飲み物やらおかわりやらを頼むのにもにこやかに快諾し、オレはほとほと感心していた。いま世界が求めているのは、これだ。彼女のような女性だ。まちがいない。 「や、いい奥さんになりますな、ほんとう」 オレがロイに呟いたつもりの言葉をカリン嬢は耳聡く聞きとめて、ふふ、と笑い、「エドワードさんたら、お上手ね」なんて、どっかの昼ドラの脚本から抜粋したかのようなことを言った。また、芙蓉のかんばせ、という稀有な言い回しが目の前を過ぎった。 その台詞を受けて、カリン嬢はいったいいくつなんだろうという疑問が頭の中を占拠したので、ロイが傍らでじろりとこちらを睨んでいることに気がつかなかった。 ローストビーフの脇についていたパセリは見て見ぬフリをして、オレはそのパセリと一緒にメインの肉を取り囲んでいた、火の通ったミニトマトをひとつ頬張った。このオマケのような野菜たちも、肉汁や他の野菜たちの風味が染み込んでいて実においしい。トレビアン。 食事をすっかり終えたらしいカリン嬢は、おもむろに、床に脱ぎ捨てられていたロイの制服のワイシャツを手に取った。床に落ちている衣服を拾い上げるその動作まで淑やかで、まるで路傍にさく一輪の花を摘みあげているかのような錯覚を覚えた。 「あら、ボタンが取れかけてますわ、ロイ」その口調たるや、そこいらの新婚夫婦よりも堂に入っている。花ではなくワイシャツを手にしてカリン嬢がロイにそれを差し向けて、ほつれたボタンを見せた。 「あ、そう?」というロイの返答も、然り。落ち着き払った雰囲気はまんま、長年妻と連れ添ってきた旦那のそれだ。 その妻はと言えば、ロイが頼んだわけでもないのに、何も言わずに自分の豪奢な旅行バッグから裁縫セットを取り出し、器用にボタンを縫いつけ始めた。 この以心伝心。この無音で繋がりあえるという、そう、まるで夫婦の完璧なテレパシー。 オレは傍らで馬鹿みたいにうんうんと頷いていた。トレビアン。 「・・・・エド」 ロイが突然オレを呼んだ。その声は、苛立ち三割、呆れ七割で割ってあった。 「なに」 オレが思ったとおりの、いたって凡庸な返事をすると、ロイは、ふうと小さく息をついて、オレから目をそらした。 なによ?なんだよ?とオレは暫し食い下がったけれど、こうなるとロイは頑迷に返事をしないということは目に見えていたので、オレはむくれながらもうひとつミニトマトを頬張った。 こういうとき、ロイが何を考えているんだか、よくわからん。言いたい事があるなら言えばいいのにな。 ばーか、と無音でロイを詰った。それが聞こえたはずはないのに、ロイはもう一度こちらをじとりと睨んで、そっぽを向いた。 なっ、なんなんだよ。いけずなノッポ! 「はい、出来上がり、ですわ」 そう言ってカリン嬢は綺麗にボタンが縫い付けられたワイシャツを、今度は黙々と風呂場の洗濯機に放り込み、機械を稼動させた。そうして別のワイシャツをハンガーから剥ぎ取って、敏捷にアイロンをかける。ほんとうに手馴れている。箱入りお嬢様のはずなのに、こういう家事全般に馴染みがあるというのは少しミスマッチな気もしたが、オレの敬服の前にそんな違和感など風前の塵だった。すばらしい、すばらしい。拍手喝采である。文句なしのお嫁さんだ。 こんな女性と所帯が持てるという、男冥利に尽きるという幸福な未来があるはずのロイはと言えば、何故だかさっきから不機嫌具合が輪をかけて増し、ときおりローストビーフの余りの野菜を口に運ぶきり、アイロンやら洗濯やらを買って出てくれているカリン嬢に礼のひとつもしない。まったく、失礼なやつだな、もう。 (なに、すねてんだか) さっぱりわからん。 映画でも見ましょう、と提案したのはカリン嬢だった。そりゃ、テレビの下に、これ見よがしに放列を見せているDVDの群れを見たら、誰しも興味をそそられるというものだ。 「どれが面白いんですの?」 ロイのご機嫌ナナメをしっかり嗅ぎ取っているらしいカリン嬢は、持ち主のロイではなく、オレに問うてきたのでちょっとびっくりした。まあいくらオレでも、この美女と小一時間同じ空間に居たので、まだまだフランクな会話と呼ぶには程遠いとは言え、だいぶん緊張はほぐれてきていた。 「えっ、えーと、そ、そうですね、これかな、やっぱり」オレは迷わず“メトロ”のDVDを指差した。「オレはこれが一番すき」 そうなんですの、と小さく漏らしたカリン嬢は、メトロをケースから取り出し、プレーヤーに差し込んだ。箱入りお嬢様というぐらいなので、そのDVDをCDプレーヤーに入れるんじゃないか、下手したらクラシカルなレコード再生機なんかを探し始めるんじゃないか、なんて懸念したが、大丈夫なようだった。そんなモダンなお嬢様の横には、むすっとあからさまに不機嫌なロイが座っている。なんなんだ。 耳ならぬ目に胼胝ができそうなほど繰り返し見た最初のシーンがブラウン管に映し出される。その陽気なシーンと共に流れ出てくるBGMも素晴らしい。 展開も、ところどころなどは台詞さえ空で言えるほどわかりきった内容だが、それでもこの映画は涙腺をぐいぐい刺激し、緩ませる。天才的だ。神がかり的だ。 オレがぐすぐすと洟をすすりはじめ、まなじりに涙を浮かばせ、美女の前で醜態を晒すのはどうだ、でもやっぱり泣けてしまう、どうしよう、という葛藤が巻き起こったところで、カリン嬢が突如、あっと言って席を立った。メトロ、最大の佳境である。それを遮って、彼女は、言った。その美しい瞳にも、オレと同様涙が光っている、のにも拘らず、 「お風呂に入ってきますわ」 くすん、と可憐に静かに洟をすすりながら、風呂場へ早々と行ってしまった。オレは涙も忘れて唖然とした。ここまできて、あなたも泣いているのに、どうして風呂へ行ってしまうの? メトロの最大の山場を、いとも容易く無視できる人間を初めて見た。 決してのめりこんでいなかったとかいう訳ではなかったはずだ、その証拠として、彼女の目にも涙がキラリと輝いていた。 何も言葉を発せないオレを差し置いて、ロイが代弁するかのように口を開いた。 「九時半だから」 その一言に、オレは当然のように、「は?」と返した。わかるように言ってくれ、オレはお前のようにカリン嬢との付き合いが長くねえんだよ。 「九時半に、あいつは風呂に入るって決めてる」 「へ?」 「外出中とか、とにかく、風呂に入ることが不可能な状況じゃない限り、必ず、九時半に風呂に入るんだ」 なんだそれ、 「なんだそれ」思ったことを、そのまま言う。こういう人間だけが世界に溢れたら、世界は平和になるどころか、破滅するだろうと思う。 「俺にも詳しくはわからん」そうして、くあ、とひとつ欠伸をした。「でも、昔っからそうなんだ」 「へ、へえ」と相槌を打つほかない。 「一時間十五分」 「は?」この野郎、オレを焦らしているつもりか。 「それで、一時間十五分したら、出てくる」 「絶対?」 「絶対」ロイは断乎として言い切る。その様子がなんとなく腹立たしい。「さすがに、数分前後することはあるけどな、時計を見ながら計って出てくるわけではないみたいだから」 ロイは冷め切った、カリン嬢の注いだ煎茶を一口飲み、うわ冷て、と文句を垂れた後、言葉を継いだ。「十時四十五分に出てくるよ」 「かならず?」しつこく念をおす。 「かならず」 「ほーお」オレはいぶかしむように、半ば睨むように、目を眇めた。「美女のお風呂事情には精通してるってわけね」ムッツリめ、と悪態を吐いた。声に出したかどうかは定かではなかった。 「はあ?」今度はロイが疑問符を浮かべる番らしい。 「カリン嬢、ロイのタイプにぴったりじゃんか。黒髪だし、身の回りのこともしっかりできるし、言動は淑やか最たるものだし、拗ねたふりとかはするけど怒りっぽくもないし、スタイルだって抜群だし、」洟を、もう一度、つん、とすった。メトロの感動の残余がまだ残っているのだ、きっと。「なにより、女だし、な」 オレと違って、な。 ロイから目をそらした。 何言ってるんだろう、オレ。こんなこと言うために、来た訳じゃなかったのに。 「ロイにはとてもじゃないが勿体無いな!」 おどけて、肩をすくめて見せた。 「なんだとこら」ロイも眉を吊り上げる。「まじで結婚するぞてめー」 「どうぞ、どうぞ、ご自由に、何百回でも」白々と両手を広げる。「三百人ぐらいの孫に囲まれて、リッチにゴルフにでもいそしんで、山奥の別荘なんかで暮らしながらメイドさんでもお妾さんでもたくさん雇って、たまに弁護士の仕事を思い出したようにやったりして、美しい奥様と悠々自適な輝かしい余生を送ってくれたまえ。そしてしっかりカリン嬢と、百歩譲ってお前の美形の遺伝子を引き継ぎ、須らく美形DNAを繁栄させるべし」 「なんだそりゃ」ロイは呆れて首をベッドのほうにうなだれた。 「『美人ネット』拡張計画」 「なんだそりゃ?」 本当、なんだそりゃ、だ。自分でも何を言ってるんだか、よくわからん。 こんなことが言いたいのか?久しぶりにロイの家で食卓を囲んで、カリン嬢が抜けてやっと二人になって、積もる話もあるんじゃないのか。 ロイにくだらない文句やら画策やらをぶつけて、ロイとカリン嬢の婚約のお膳立てなんかして、なにやってんだ、ほんとに。曇るロイの表情も、オレには量りあぐねるけれど、一番よくわからないのは、自分だ。何か得体の知れないものを、持て余している。どうすればいい、これはなんだ。 なんとなく間がもたなくなって、テーブルにあった水をくいっと飲んだ。ひんやりとした液体が、咽喉を通って身体に染み渡っていく。これが自尊心だとかいうものであれば良かったな、とぼんやり思って、隣室の扉のところにあった枯渇した植物を思い出し、知らず自嘲めいた溜息を漏らした。 「やっぱり、駄目か」 ロイが、心ここにあらずといった感じで呟いた。えっ、とオレはロイを振り向く。思わず、手に持っていたコップを落としそうになった。 「やっぱり駄目かな、俺たち」 何を、って、そう言い掛けたのに、息を呑んで、詰まった。ロイの目はこちらを見ず、遠い。 「ごめん」ロイの瞼が少し伏せられた。ロイの睫毛は真っ直ぐに空間を切る。 なんで謝る、なにに謝ってる。 ここでようやくその遠い目が、オレを見た。決して、冷然としてはいなかった。穏やかでさえあった。「ごめんな」 好きになって、ごめんな。 そう聞こえた。 オレ達は夫婦なんかじゃないけれど、テレパシーはある。相棒のテレパシーだ。何よりも信憑性のある、音の無い会話。何度だって交わしてきた。何度だって受けた、送った。言葉よりも確かで、言葉よりも温かく、そして、冷たく、厳しい。 俺たち、もう、駄目かな。 ロイの目が、そんなふうに言っている。 オレは目をそらす。そらしてばかりだ。 オレは弱い。弱くて、もろくて、ばかばかしい。ちくしょう。 なんでこんなに、オレは臆病なんだ。なんでそんなに、ロイは強いんだ。 当たり前みたいに笑いあった、触れ合った、あんなふうにはもう、戻れない。戻れない。もどれない。 さよならだ。 赤信号はさよならなんだ。 永遠に赤にならない、イカれた信号機だ。 涙がぼろりと出た。こうなったらもう、駄目だ。堰を切ったように涙が溢れ出て、止まらなくなる。 うっ、と嗚咽を噛み殺しながら、腕で目を覆った。袖で乱暴に涙を拭う。悔しい、くやしい。たまらない。何がなんだか、もう、よくわからない。どうして涙が出るんだ、どうしてこんなに悔しいんだ。 「エド、」ロイがうろたえたように、オレにそっと腕を伸ばす。 どうして、どうしてその腕に、抱きしめてもらいたくてたまらないんだろう、 (おれはよわいから、) たまらない。 ロイが、躊躇いがちにも、オレの背中に腕を回した。 「泣かせたい訳じゃないんだ、」 オレだって泣きたいわけじゃない。こんな格好悪いところばかり、見せたいわけじゃないのに。 そのまま、どれぐらい時間が経ったのか、オレの息が整うまでロイは何も喋らなかった。ただオレを抱きすくめて、たまにオレの肩から頭を上げ涙具合をちらりと見て、また顔を元の位置へ戻す。見んな、バカ、とオレが涙声でなじっても、ロイはくすりと笑っただけだった。 オレの肩が規則正しい呼吸の揺れを見せはじめて、それに気付いたロイが、またオレの顔を覗き込んだ。お互いの髪の毛で二人の顔が翳って、お互いの吐息が届くぐらい近く、鼻などはどちらかが顔の向きを変えたら、ぶつかってしまうだろう。 「目、赤い」ロイがオレの涙痕を指でなぞった。 「おまえのせいだ」 「ごめん」 「おまえのせいだからな」 「ごめん」 「おれは、なきたくないんだからな、あんまり、人前で、かっこわるく、」 「ごめん」 そう言って何度かロイはオレの髪を気まぐれに手で梳いて、そのまま頭をおさえて、唇を重ねようとした。オレは焦って身をよじる。 「だっ、おれは、や、やだって、そういう、」 そういうオレの抗いも、まるで無視される。まだ涙声がなおりきらない。 バカヤロー、と、心のうちで、大声で、叫ぶ。口ではもう、叫べないからだ。 カチン、と硬くなったオレの身体をそうっとロイが腕で支えて、最初は、軽く唇が触れ合うだけだった。ロイの口唇はことさらにリップをつけているわけでもないのに、綺麗だった。オレのは大丈夫だろうか、もしかしたら荒れてたかも、なんてことを思って、その後に、おいこらオレのバカ!そんなこと考えてる場合かよ!っていう喝がどこからか飛んで来る。わけもわからぬ、何やら二つが激しく相克を見せ、鎬を削っている。 軽く触れ合って、そこでお互いの位置を確かめ合ったら、つぎは啄ばむような、唇で甘噛みするかのようなキスがくる。なんだかんだ言って、これで五回目のキスになるのに、オレは相変わらず訳も分からず、むしろ前回よりもどんどん頭が混乱してくような気もして、頭がぐるぐるする。地面がぐらりと揺れる。重力がいかれている、そしてそれに乗っているオレも、たぶん、相当いかれている。またじわりと目元に熱いものが滾っていく、心臓のこれまたいかれた早鐘はきっとロイに届いてしまっていて、それにも、情けなくて、泣きそうだ。 ずっと息を止めているのは当然苦しいので、ロイがさも息継ぎをしなさいというふうに唇を一瞬はなして、それに甘んじて、はっと浅く呼吸をする。それも刹那的な間で、またすぐに塞がれてしまう。何も見えなくなる、耳に重く甘いものが詰まって何も聞こえなくなる、今オレの世界にあるのは唇から伝わる熱いあつい温度だけだ。 ロイのあつい吐息が時折オレの唇に重なり、ピリ、と背筋に妙な痺れが走る。ぞくりと粟だって、疼くみたいな、この不慣れな感覚が何かくらい、わかった。どうかしてる。 ロイの唇が離れた。今度は息継ぎ用じゃなくて、しっかり、離れた。 「エド、」 不器用な呼吸を繰り返して上下するオレの肩に、ロイがまた顔を沈めた。「・・・ごめん、こういうの、嫌かもしれないけど、」 ロイの声はなんだか泣き出しそうで、蒼然とした彼を取り巻くオーラが、オレの耳に触れて、オレもつられて泣きそうになる。 「こうでもしないと、変になりそうで、」ロイの双肩が大きく溜息をした。 オレは何も答えず俯いて、ただ、もう一度洟を静かにすすった。オレはその態度によって、どうだ、これぐらい、泣き喚きもせずに受けられるんだ、このやろう、って意思を伝えたかったのに、 「・・・・エド?」 何かに気付いたらしくそう言ったロイが、続けて、「ごめん」と言い、何に謝ったのかわからぬオレを差し置いて、オレの足の間に手を伸ばした。 股間に手を当てられ、うぎゃ!と短い、けれども切なる悲鳴をあげたオレは、肩を聳やかす。 「・・・反応してる、」ロイがきょとんと言う。 傍若無人なその手を必死で押しやる。「ちっ、違、こ、これ、これは、」顔が熱いとかそういう次元じゃない。もう、痛い。顔も身体もどこもかしこも、火傷して、痛い。 ふっとロイを包むオーラに、花が咲いた。と思うほど、明るくなった。 フローリングには絨毯が敷いてあるけれど、その絨毯の場外に、オレはごちんと頭を打ちつけた。 「う、わっ、ロイ、違っ、これは、あの、バカっ、よせ、だ、だだ、だいたい、カリン嬢、が、」 「あ、忘れてた」 ロイはそんな呑気なことを言って、呑気にオレの口をまた塞いだ。 バカヤロー! 組み敷かれる形になったオレは、ロイの体重の重みの分、さっきよりも尚深い気のする口付けを、抗ってみたりもしながら、結局、受けた。 「んっ、ん・・・は、あ・・・ん、ぅ・・・」 ここで、参ったのは、ロイの膝がぐいぐいとオレの無様にも昂ぶった局所へ押し付けられたことだ。手を使わないのは、せめてもの遠慮なのかもしれない。 遠慮だ?ふざけんな、この、どこが、 「ん・・・は、あっ・・・ん、やっ、やだ、あっ・・・」 遠慮だ、バカ! やばい、と思った。こんなふうにキスを受けて、自分でも信じられないけれど熱くなった部分を間接的に刺激されて、何がやばいって、そんなふうにされて、びくっと背筋をしならせているオレが一番、やばい。 「ん、アっ・・・!」背筋が撓む。 や、やばい、これは、やばいって、ロイ、おい、 (気付け、バカ・・・!)オレのテレパシーなんて歯牙にもかけない。 なさけなくて、また、涙がでた。 そのとき、パンッ、と室内に響いた音はなんだろう、と思った。うつくしい程に潔く響いた。快哉を叫ぶ喚声にも似ていた。 オレが、ロイをひっぱたいた音だということに気付いたのは、三秒ぐらい遅れてからだ。 殴っちゃった、美人ネットの一員の顔を、平手で、とか諸々の問題が湧き上がってくるまえに、涙で視界が滲んだ。 「ばかやろ・・・ッ!」 カリン嬢がパタパタと風呂場から、バスローブ姿で走ってきた。髪も濡れたままで今の音にただならぬ気配を感じたのだろう、だって、まだ十時ちょっとすぎたあたりで、まだまだ風呂から出てくる時間ではないからだ。ということは、それぐらい大きな音が響いたらしい。 「ど、どうしましたの!?」 オレが殴ったほうの頬をおさえてぼうっと黙り込むロイにカリン嬢が駆け寄って、それを見届けてオレは脱兎の如くロイ宅から飛び出した。カレーの鍋も放置した。 バタンと閉じた門扉に寄りかかって、ハア、ハア、とせわしく息衝く。足腰に力が入らなくて、そのまま家に帰りたかったけれど、その場にずるずるとしゃがみこんでしまった。 綺麗な星空だった。でも、涙で滲んでしまって、台無しだ。 隣室の扉のところにある、立ち枯れた植物が視界の隅にはいった。いまのオレもあんなふうに、萎れて、扉にだらしなくもたれかかっている。 まだ情けない涙が頬を伝って、垂れた。 この涙は何も、隣の植木さえも、潤さずに、オレの心を逆に乾かしていく。 となりの植木が、肥料をくださいって言っている。水をくださいって嘆いている。 オレもそんなふうに嘆いている。 近々、その植木にこっそり水をあげようと思った。 でもしばらくは、その場でオレは脆弱に、ただただ、打ち震えていた。 2−8便です!もう8便か!第二部・・はやいなあ・・と思ってるのはきっと私だけですねはっは! 2−7と2−8で最初一話分だったんで、さすがに長いなと思いきりました くるくるまわるエドワドたまの弁舌っぷりみたいのをもっと書きたいのですがあんまり書けない…ガーン! |