吐き出す息がいちいち白くなって、鬱陶しくさえ感じられる。呼吸をやめてやろうかと脅してみせるが、それでも尚のんこのしゃあと真っ白く色付く吐息には益体なしらしい。 そよ風とはとても称することができない寒風が頬に打ちつけ、その中でも、額に滲み始めた汗を拭いもせずに、夢裡のごとし状態で一心不乱に足を前へ前へ動かす。 長距離は得手なほうではないけれど、短距離で水際立った本領を発揮する脚力を強いて、かれこれ、三十分ほど団地の周回を走り続けている。膝が痛みを騒然と訴え始めてきた。やかましい。 脇のコンクリートの塀に手をついた。うなだれるようにして前かがみになり、獣のように激しく呼吸を繰り返す。定まらない、整わない、この呼吸は、走る前からこんな調子だ。 森閑とした深夜の十一時近く、こんな真夜中に、どうしてオレが一人ジョギングなどにいそしんでいるのかは置いておいて、とりあえず、一歩誤れば嘔吐でもしそうなほど苦しい息衝きを整えることに集中する。 ここでやっと額の汗を拭った。乾ききった唇を乾ききった口内で舐めて、どうにか潤す、けれども、仮借なく吹き付ける突風の前にはそれも闇の錦のごとし、である。 相変わらず地面がぐらぐらと頼りない。底なし沼の上に立っているのではないかと思う。 ゆるやかなシーソーの動きにも似た感覚に陥落させる地面を虚ろに見つめながら、コペルニクスは、と、ひとりごちた。コペルニクスは、きっと、今のオレのような感覚になって、ああ地面が動いていると錯覚にも似た発見をしたのではないか。そのこじつけが研究の末正しいことだとわかり始めて、地動説を唱えたのではないか。だってこんなにもぐらぐら揺れている──なんて、馬鹿げた思想は路傍へ置き去りにして、その後に、オレ倒れそうなのかな、と茫々と考える。 息が少しずつ安定したリズムを見せ始めた。その場にしゃがみ込んだ。寒い。 太陽中心説。コペルニクスは、当時一般論として世間に浸透していた地球中心説とはまるで逆の持説を手にして、どんな心境だっただろうか。自他共に驚嘆し、まさか、というような理論を考案し、どんな境地だったんだろう。自分でさえよくわからない、信じられない、そういう感覚も、今のオレとよく重なった。 一般論とはまるで逆の、イレギュラーな、マイナーな、アブノーマルな、普遍性の欠如した、つまり、 (おとこどうし) つまり、変な。 酷く寒い。でも、身体がやけに火照っているのは、だいぶ走ったからなのか、それとも。 世界人口の14パーセントが同性愛者であるって聞いたことがある、だけど、そんなことは関係ないな、と思う。世界規模の話なんてオレには全く以て興味索然とした対象であり、いまオレが対象にしているのは、オレという人間内の話だけだ。オレという人間内と、百歩譲って、例えば濃度の高い霧が辺りに充満していてもギリギリ可視範囲に属するような、それぐらいの、オレを中心とした半径5メートル程度以内の、そういう狭隘な範囲だけの話だ。それはものすごくエゴイズムな話。 そう、要は、天動説なんて関係ないのだ、と、コペルニクスは言うのだろう。彼は自分の感覚にのみ盲目的だった。オレもそうありたいとおもう。 そして、コペルニクスを是認したガリレオ・ガリレイは、地球中心説を肯定していた人間達を前に、高言する。 それでも地球は動く、と。 そういうことだ。 --第九便-- 先刻、勢いあまってロイを張り倒して飛び出して、しばらく枯渇した隣室の植木を見るともなく眺めながらその場に座り込み、立ち上がり、走り出し、今に至る。 それは決して、ハワイのフルマラソン出場を決意したわけでも、ロイに易々と組み敷かれてしまう痩躯を鍛える気になったわけでもなく(それも叶えば一石二鳥というやつではあるが)、ただひたすら、下半身の無様に昂ぶった煩悩を沈める為だ。 寒さに反応して垂れた洟をすする。寒気が侵入してツンと鼻孔の奥が痛くなった。 なんなんだ、と思う。叫びたいほど強烈に、突きあがってくるように浮かび、頭を占拠する疑問。こんなに焦燥に駆られて、こんなに苦しんで、なんなんだ。オレはどうしたいんだろう。ロイを叱咤したいのか、蔑視したいのか、上滑りに挙がってくるのは全部マイナスな、否定的なロイへの対応なのに、心底ではそれを全く欲していないんだとわかっている。全然、違う。 何にイライラしているのか。自分にだ。まごついている軟弱で優柔不断な自分に、地団駄を踏んで、苛立っている。 くそう、と思う。ちくしょう、と吐き捨てる。一本だけ歯の折れた歯車のように、全部が上手くいかない、歯痒い、そんなかんじだ。 胃がキリリと痛んで、なにやってんだ、と自分を冷静に見直して、立ち上がった。どうにか煩悩の収束した足腰を確認して、ほっとする。 しっかり立ち上がって塀に手をつくのに、地面は相変わらずぐらぐらしている。 しっかり立ち上がって塀に手をつくのに、それでも地球は動く、なんてガリレオの真似をして呟いて、自嘲する。 『こうでもしないと、変になりそうで、』 蘇るロイの声で耳が濡れる。 「・・・・ばかやろ」小さく悪態をついた。 変になりそうなのは、こっちだ。ばかやろう。 白くなってすぐに消えていく吐息も、頼りない不安定な重力も、何食わぬ顔で今日もまわる地球さえ、恨めしい。 だけどここでオレが倒れてみたところで、まわる地球が止まる道理は無い。今ばかりは頼りないけれども、いつもは強力な重力という瞬間接着剤によって、どうにか宇宙に振り落とされもせずに地球にくっつくオレは、そんなちっぽけな存在だ。 オレが地球をまわしているわけではない。 地球はオレのためにまわっているわけではない。 だけどそんな矮小なオレを好きだとか言う奴がいて、だから地球はまわるのだろう。オレのためでも、ロイのためでもなく、きっと、そんな馬鹿げた二人を繋ぐために。 *** まだ記憶に新しい、例の、始業式の一件の後、しばらくの間お互いに顔を合わせなかったのは、すごく辛かった。けれども、今となって、それはそれで吉であったのかもしれないな、と思う。 と、言うのも、 「おはようございます」 からりと晴れ渡った空の下、けろりとしているロイが、けろりとオレのアパートの前へチャリで迎えに来て、さらりと言い放つ。おはようございます。 けろりと振舞うロイに、げろりとしたオレは返す。ええ、おはよう。 だって、始業式の一件のときだって、こうしてさらっといつも通りに振舞われて、微笑まれたら、すんなり許してしまうだろうと思ったからだ。いくらなんでもあれは、ロイに反省してもらわねばならぬ一件であるのにも拘らず、こうしておはようございますと挨拶されたら、ええ、おはよう、と、きっとオレは返してしまうのだ。 「昨日は申し訳ございませんでした。失礼しました。品位をわきまえてなかったです。すみません」 その平謝りにもオレはあからさまにぶすっと唇を尖らせて、憮然とした表情を晒す。オレは許してないぞ、怒ってるんだぞ、と暗に示唆する。しかしながら、今日ロイの鼻は日曜日らしく、そんなオレが必死に臭わせている不穏当なアトモスフェアも、軽くスルーしてくれる。素人の放った渾身の一球を、大リーガーのトップバッターに容易く打ち返されるようなあっけなさだ。鳩に豆鉄砲。カキンと耳を突く快音。逆転でもない満塁サヨナラホームラン、結果は30対0。完全なる敗北。まるでアリとアリクイ。そんなかんじ。 それでもまだ、溜飲を下げるわけにはいかなかった。引かれ者の小唄、確かそんなことわざがあった筈で、引かれ者だって小唄を歌うわけで、オレだって、薄弱にも食い下がり、ありったけの怒気オーラを放出するのだ。しかし今日のロイは、その慧眼も日曜日らしい。而してオレの痛憤極まるオーラも見えないフリ、見ないフリ。このやろう。 「さあ、学校ですよ、エドワードさん、荷台へお乗りになって」 「変態の荷台には乗らん!」 オレの決死の抗いにロイはやはり、はは、と、颯颯と笑った。「既にそんな扱いですか」 「そんな扱いだ!」 ぷいっとそっぽを向いて歩を進め始めた。チリンと背後で鳴ったのは自転車の呼び鈴。オレを小馬鹿にしていやがる。でも、オレが引っ叩いたロイの左頬は腫れたりしていないようで、そこにはしっかり安堵していた。美人ネット法第一条(一条というだけあって、たいへん一義的な法であるに相違ない)、美人ネット会員の顔を傷付けた場合五年の以下の懲役または五十万円以下の罰金、とかで牢にぶちこまれるんじゃないかとか多額の罰金を請求されるんじゃないかとか、懸念していたからだ。 ともあれ、徒歩と自転車では当然自転車が勝るので、オレが無心に捷歩で、たまには小走りで前進してみても、すぐに追いつかれてしまう。 ロイはオレを腹立たしくも悠々と追い越し(追い越す際にご丁寧にチリリンと呼び鈴を鳴らす、それが腹立たしいったらない)、前方三メートルあたりで停車し、遅れて来るオレを待つ。 「・・・先に行きゃいいだろ!あんぽんたん!」オレは前方の嫌味な自転車に吼えた。 「俺の勝手でしょ」一メートル先にまで近付いたロイが口ずさむように返す。「あんぽんたんなんて罵倒の仕方をする奴初めて見た」続けてせせら笑うように肩を揺らす。「それ、面白いな、新手のギャグなわけ」 「うるせえ馬鹿アホしね!」叫びながら、ロイの脇まで歩いて、これまた憮然と足を止めた。「・・・カリン嬢は」 「俺の家。まだ居る」 「いつまで居るって」 「さあ?あいつの気が済むまで、だろうな。無茶苦茶だろ」 「美女は無茶苦茶でも道理にかなうんだよ」 「そうなの?」 「そうなの」 オレ達の間ではもはや有る図な、「そうなの?」、「そうなの」、の会話キャッチボールだったが、ロイが「そうなの?」側に回ったのは初だな、とぼんやり考えた。いつもはオレが「そうなの?」側、ロイがそれにシニカルに返す「そうなの」側だった。え、そんなことどうでもいいって?気が合いますな、オレもちょうど今そう思っていたところです。 それはさて置き、そのアホ面で、そうなの?とか喋っているロイを今一度睨みつける。暫し無言で、睨む、睨む、睨む。それでも、そんなオレの薄ら弱い睥睨も素知らぬ顔で、颯爽としているロイに、終ぞ屈する。 「揺らすなよッ!オレ筋肉痛なんだから!」昨日走った所為だ。どうやら相当運動不足らしい。 そんな訳で、そう文句を垂れてから、結局、自転車の荷台に乗った。悔しいので、わざと車体を揺らすように、バーバリズムな勢いで乗る。ひゅう、とロイが軽快に口笛を吹いた、「ワタクシはいつでも安全運転ですわ」。 人生勝ち組な奴ほど、こうして、さも無欲恬淡そうな、のらりくらり飄々としている人種が多いものなのだ。 「・・・・なんでいつも通りなんだよ、ばか」自分でも気付かないくらい小声で、呟いてしまっていたらしい。 「え、何?」 ロイが首をひねって間抜けに言う。その言葉は当然、無視し、代わりに言った。 「前を見て運転しろ、あんぽんたん!」 そしてまた、ロイの楽しげな笑い声が、明澄な空に溶けていった。 「ところで、なんで筋肉痛なわけ?」 *** CDプレーヤーは場違いな曲を垂れ流し始めていた。クラシカルな老舗そば屋のテーブルに、よく磨かれたフォークとナイフ、それからナプキンまでもが整然とあつらえてあるような、そんなおかしな雰囲気が教室を包む。 そんな奇矯なCDプレーヤーの横で、ぼうっと、床の木目の数を漫然と数えている、奇矯なオレ。ごじゅうよん、ごじゅうご、ごじゅうろく・・・・ 「おい!エド、曲違う!次15番!」監督を担っているブロッシュがこちらに尖り声を投げた。 へっ!とオレは肩を揺らし、手元に戻ってきた意識で、慌てて15番に曲を合わせる。慌てすぎてボタンを押しすぎ、17番まで曲を進め、泡を食って2つ戻した。音響だってなかなか気が抜けない、さぼり甲斐があると思って挙手した役割だったのに、素晴らしく期待はずれだった。 聖倫祭は明後日に迫っていた。今日は教室での最後の調整で、明日は本番さながらの大講堂での予行演習が入っている。 その予行演習では、予行演習だけあって、予行演習ですからね、本番の通りにやるわけで、例のキスシーンも実際にやるんだそうで、たいへん、よろしいな。よろしい、よろしい、いいんじゃない、いいとおもうよ、うん、などとぶつぶつ言っているうちに、オレは床の老獪な木目を黙々と数え始め、CDプレーヤーなど意識のはるか外へ駆逐し、そんな訳で、音響係が放棄した音響によって、舞台を模した練習の場で、場違いなBGMが流れ出てしまった。 わりーわりー、とオレがおざなりな謝罪をブロッシュにしているところで、衣装合わせを終えたロイが教室に入ってきた。 かぼちゃパンツに白タイツを希望された方、申し訳ない。現在、王子役であるロイは、黒を基調としたクールなスーツを身にまとっている。何故かと言いますと、本来王子は白馬に乗って登場するものであるが、むろん白馬など用意できないので、ならばいっそ通りすがりの超絶美形なサラリーマンかなんかにしよう、だってロイのやつかぼちゃパンツはやだって言うし、などなど、という若年層特有のハチャメチャな提案と辻褄合わせにより、こうなった。ちなみに、サラリーマンと言うと身も蓋も無いので、超やり手の実業家、なんておよそ建前だけの、能書きじみた意味不明なオプションもついている。ブロッシュ曰く、白馬に乗った王子だけが運命の人なわけではないのである、ゆきずりのサラリーマンだって運命の人である可能性は大いにあるのだ、だそう。 「・・・・変?」 ロイが不安げな様子で、控えめに問う。それに対して、クラスが異口同音に放つ。「全ッ然」 どこからか拍手まで巻き起こっている。制服と大差もないような、たかがスーツ姿に。横分けにされた前髪によってまた印象ががらりと変わったのが、嘖々好評の所以なのかもしれない。感嘆の吐息がそこここから洩れる。 ひょいとオレにその横分けにされた前髪を向けたロイが言う、今度はピンポイントでオレに。「どう?」 おうっ?と突然向けられたその顔に驚いて一歩退いたオレは、 「い、いいんでない」しどろもどろ頷きながらそう返す。「悪徳の実業家っぽくて」 「全然良くねえじゃねーか」 そんなやりとりをしつつ、内心で美人ネットを再度嫉み、それと同時に、美人ネット会員を選び出す人間の(そんなものがいるかどうかさえわからないが)穎脱したセンスに感服する。こりゃ、選ばれますよ、選ばれて当然。 「いやいや、似合いすぎてますよ」一旦ひねくれてみた後、やっとこさ、ちょっと素直に。真意とやらが奥深くに仕舞いこんであるオレの体内の部屋には、重厚な鍵が掛かっていて、そう容易に開きはしないのだ。「なんか、ほんとに弁護士っぽい」 これにはロイの奴も肩透かしを食らったような、バツの悪そうな顔をした。弁護士がどうのという話、要するに将来の夢がどうのという話を持ち出されるのは不得手らしい。そんな様子のロイに、優勢に立ったオレは鬼の首でも取ったかのような心地になる。ふふふ、こういうやつにも苦手な話題のひとつやふたつがあるもんなんだな。 「・・・・そりゃ、どうも」ロイは案の定苦い顔をしながらそう言った。「理知的に見える、というように解釈しておく」以後発言には重々気をつけるように、と目顔だけでロイがオレを咎めている。 弁護士の卵であることは公にはなっていないので、そんな言葉運びでロイはオレの不適切な発言を取り繕ってから、机の上の台本を手に取った。それを尻目に、オレはふふふ、と奇怪な笑みを浮かべている。 しかしその奇異とした笑みも長くは続かなかった。 ロイが練習の準備に入ったところで、その笑みはさっと剥がれてしまった。ロイが出てくるシーンということは取りも直さず、キスシーンの直前のところだ。そういや、ロイのやつ、まだ台本を右手に持っているけど、台詞覚えたんだろうか。 設定上では毒林檎を食して昏倒しているはずのアルダーは、相も変わらず制服を着用していて、相も変わらずキスシーン間近になると体をかたくしている。心なしか眉間に皺も見える。 オレはアルダーの、床に直に寝そべっているせいで肩あたりに埃が付着している制服を見て、ブロッシュに言った。「なあ、アルダーの衣装は?」 「あー・・・まだ、できてない」と頭の後ろを掻いて、監督。 「大丈夫なのかよ?あさってだろ?」とオレ。 「大丈夫、大丈夫。今急ピッチで手芸部にやってもらってるから」頼りない監督である。 「ふうん」 言いだしっぺのオレはさほど関心も示さずにそう返答して、今は椅子代わりになっている机の上に座りなおした。CDプレーヤーの21番をまわす。キスシーン用のBGMが、静寂と少しの緊張感を孕んだ教室を彩る。 「ああ、通りすがりのおうじさま!どうか白雪姫をたすけてください!」小人役の一人が言う。“小人”役のくせに、姫のアルダーよりも遥かにでかい。あまつさえ、王子役のロイともおっつかっつの身長だ。 「は?王子?俺べつにそんなんじゃないんだけど」別に芝居がかっているふうでもなく、まさしく普段どおりの、やる気というものの欠如した風情でロイが返す。 「もうこの際美形なら誰でもいいんです!」 他の小人が音吐朗々と放つ。なんて無茶苦茶な脚本なんだ。一人一冊配布された手元の台本を見ながら、オレは心の中で矛先の曖昧な悪態を吐く。 ロイは台本通り、もう一度、「はあ?」と言い、「俺、急いでるんだけど。七時から大事な会議が」と続ける。 「会議と姫の命、どちらが大事なのですか!」小人の反抗。 「え、会議」このロイの、外連味もないあっけなさ。 「もういいから、王子は黙ってください!」終ぞこうなる。 ブロッシュへの、お前脚本家にだけは絶対なるなよ、芸人以上に才能が無いからな、という忠告の必要性を、オレはひしひし感じる。明日あたり、伝えておこう、善は急ぐべきなのだ。 ロイは腑に落ちない様子のままずるずると小人たちに姫のところまで引き摺られていく。本番ではこのあたりで、会場がさぞ色めき立ってくることだろう。 眉を顰めながらもロイは、不承不承姫の傍らに腰を下ろす。 「オオ、なんてウツクシイひめぎみナノダロウ」聞いているオレも、そして多分ロイ自身も、激烈なサブイボを感じる台詞だ。そんな甘美な台詞を放っているはずのロイの顔は渋面。 「ロイ、なんだその棒読み!」すかさず、ブロッシュが吼える。 練習開始直後は、臭い台詞も流暢に喋っていたロイだったのに、本番が近付くにつれて渋々そうな雰囲気が滲み出てきている。ロイ曰く、なんかだんだん萎えはじめてきた、だそう。 その棒読みを終えて、ロイがアルダーの強張った顔に唇を近づける。 オレは無意識にふいっと目をそらした。 それは、たまたま、次に流す曲を準備しようと思ったからであって、深い意味は、たぶん、ない。 次は24番だ、姫が目覚めた後に流す曲──。 でもオレは練習場面から目をそらしていたから、どのタイミングで流せばいいのかわからず、ロイの「おめざめデスカ、ひめ」という棒読みを耳に受けて、24番に合わせた。 壮大なクラシックが教室の情緒をガラリと一変させる。こういうとき、こんな裏方でも大事な役割を担っているんだなあ、と頭のすみで考える。 王子(まあ、正しくは、超絶美形の実業家サラリーマン)と姫が手を取り合って、ステージのセンターまで歩き、王子が姫の腰に手を回して観客に一礼し、小人たちが後ろからわいわいと紙ふぶきを舞わせて、舞台は終了する。 脚本の良し悪しはどうあれ、舞台としてはなかなか、上出来だ。それなのにオレは、「王子は黙ってください」のところから最後まで、ロクに見ていなかったので、拍手喝采が巻き起こるはずの場面をイメージすることができなかった。そして、音響係なんてこんなものなのだ、と自己完結をしておく。 「はい、カットォ!」ブロッシュが爽やかに言い放った。 その言葉を受けて、お疲れー、なんて言い合いながら、クラスメートたちが帰り支度を始める。オレもCDプレーヤーの「停止」を押して、コードを引き抜いた。退屈なオレの任務も終わりだ。 ご苦労なことに、また制服に着替えに行ったロイを待つ。横分けにした前髪ももどしちゃうのかな、と思った。あれはちょっと似合っていた。生真面目さが五割り増しだけど、美形というのは得てして女タラシに、基本的にチャラっぽく見えるものだから、あれぐらいがちょうどいいのではないでしょうか(しかしながらロイのやつは、そんなジンクスにもあまり当てはまらず、そんなにチープな男に見えもしないのだ。それは唯単に、そんなジンクスも超越するほど顔がいいからなのか、それとも、知的でノーブルでちょっぴりお堅い中身が伴っているからなのかは定かではない)。 机の上に無作法に座り、足をぶらぶらさせながら、ちらりと、背中に付いた埃を友達にはたいてもらっているアルダーを見る。 姫役のアルダー。王子の相手。明日と明後日に、二回、ロイがキスをする相手。 ロイが、ロイのくせに、オレじゃなくて、あいつに。二回も。 ロイのくせに、 「ろいのくせに、」そんな、誰かの声が聞こえた。誰の声かと思ったら、自分の声だった。あまりに暗然とした声だから、わからなかった。 ああ、オレ、今すごい嫌なやつだ── 「俺のくせに、何?」 制服に着替え終えたらしいロイが後ろに立っていた。うぎゃ!とオレは、掛け値なしに三センチほど飛び上がって、背後を振り返った。そこでは、ロイが不敵な笑みを湛えている。 「何、また一人で俺の悪口言ってんの」 食えない笑いをちらつかせながら、ロイが言う。前髪はまだ横分けにされたままだった。悪徳の実業家再び、だ。 「そうそう。ロイのくせに、このオレ様を待たせるなんて、なんたる由々しきこと!と嘆いていたところだよ、君」 「なんだ、そんなこと」少しは疑えよ、ばかやろう。 横分けも似合うな、なんて、絶対、言ってやらん。 じゃーな、とオレのアパートの前でロイと別れた。 すいすいと暗闇の中を縫って進んでいく自転車の後姿を、すこしの間、見ていた。夜道に光る蛍光のランプのようなものが、徐々に闇に埋没していく。 ロイは、未来のお嫁さん、もとい、カリン嬢の待つ自宅へ帰っていく。そうして明日は、未来のお嫁さんが居るアパートを出て、学園祭の予行練習に出て、明後日の本番の日も勿論そうで、劇中で姫役とキスをしたら、またお嫁さんのところへ帰っていく。 はっぽうふさがり。 ぽつりと思う。 その一連の、ロイの明日からのスケジュールの中で、オレはすっかりのけ者になれ果てている。そのスケジュールの中の重要な項目には、どこにも、オレの名前は出てこない。“友達”という地位は、こんなにも低いものなのか、と思う。恋人や、姫役や、ましてや許婚なんてものには、手も足も出ない。当然だ。当たり前だ。わかりきっていることだ。 何を今更。 (自分で選んだくせに) 自転車の安全光も完全に見えなくなって、自分の指の先が冷え切っていることに気付いて、アパートに戻る。 あっけないな、と思った。 “友達”を越えたものが現れると、こんなにもあっけない。 くやしい。 だけどそんなふうにしたのは、オレで、どうしようもない。 手も足も出なくて、歯も立たなくて、そんなの、どうすればいい。 『なんだ、そんなこと』 少しは疑えよ、バカ。 部屋の中は凛と冷えていて、窓外の空は暗くなっていた。 今日も地球は、時速1700kmのスピードで回転して、こうしてちゃんと夜がきた。 もしも、コペルニクスが生きていたなら、今のオレならこう言うだろう。 やあ、今日もちゃんと地球は回っているよ。 本当に無意味なことを発見してくれて、どうも、ありがとう。 明日か、とつぶやいてみた。 明日もきっと、地球は同じ速度で回転して、同じようにやってくるのだろう。 それでも、明日は酷く遠かった。 それは神のせいでも、コペルニクスのせいでも、ガリレオ・ガリレイのせいでもなく、オレが単純に、明日を遠ざけていたからにちがいなかった。 |