暗雲が地上にばらまく雨は、窓に鋭い爪を立てる。 ああ、冬にも、雨は降るんだっけ。 そんな雨の中、フジバカマが扉を激しく叩いた。 ああ、花も、ドアをノックすることができたんだっけ。 --第十便-- 「あ、」 雨だ。 窓の外のすっかり暗くなった景観を、無数の水滴がざくざくと裂いていく。一気に莫大な数の鋏で切り込みを入れられた外の景色は、別に切り込みを入れた折り紙みたいに芸術になるわけでもなく、不恰好に部屋の中を騒然とした雨音で満たしただけだった。ざあざあとしたこの音が、オレはあんまり好きじゃない。むなしい音だった。からっぽの音だった。 空が泣く、なんて、いまどき奇抜でもなんでもない喩えが思い浮かんだけれど、陳腐すぎたので、すぐ打ち消した。 ああ冬にも雨は降るんだっけと思いすぐにそりゃそうだと思いなおして猫の額みたいなベランダへ出て既にずぶ濡れになった回避能力も防御能力も持っていない無能な洗濯物たちをさっさと取り込んでいるうちにオレまで濡れてはははオレも大した無能だなとおもう。 そういや、空手やら柔道やらを習っていたときのオレの座右の銘は、「攻撃は最高の防御」だった。つまり、もとよりオレにはまともな防御能力も回避能力も備わっていないということだ。笑えてきた。 静かだなあ。 身体もロクに拭かないで、濡れそぼった洗濯ものと一緒に床に寝そべった。ガラス一枚を隔ててくぐもった雨の音以外、何も聞こえない。と思ったら、耳の奥で、金属音のようなものがして、その音が却って静寂をより一層絶対的なものにした。 それは異様なまでの静けさで、隣室の奴らは何しているんだろうと考える。下手くそなギターでも弾いたりしないのか。六弦で明日への大志でも謳歌してほしい。それだけでオレはしばらく笑うことができるだろう。 テレビをつけようかなと思い立ったが、寝そべっていてその上動く気が毛頭ないオレの、手の届かないところにリモコンが置き去りにしてあったので、諦めた。 「あ」と、言ってみる。 わずかに、静寂が怯んだ、けれどもすぐに戻る。オレの掠れた声で空気が震えて、静寂が一瞬だけ破られて、はい、終わり。深閑とした空間が、満足ですか、とオレに問いかけているような気がした。うん、ちょっと満足かな。 オレが、オレ自身が喋らない限り、ずっと、静か。一人っていうのは、孤独っていうのは、こういうものだ。よく知っていた。 シンとした空間で、瞼を下ろした。このまま死ぬのかも、と一瞬思って、飢餓状態でも凍えているわけでもないのに、それはないな、と冷静に考え直した。 こういう瞬間は嫌いだった。静かな場所は嫌いだ。 考えたくもないことばかり、考えてしまう、たとえば、あしたのこと── そしてここで、激しく部屋の扉が無遠慮に叩かれたものだから、 「ぎゃ!」飛躍ではない、オレは心臓が五拍は止まって、本気で死ぬかと思った。 さっきの茫々とした予測は、あながち、はずれではなかったということだ。 「ヘイ!ちょいと、開けてくれ!」扉の向こうから声がする。ロイではない。 ロイではない、って、なんだそりゃ、と思いながらよたよたと起き上がって扉までありついた。開く。 「サンクスソーマッチ!」ブロッシュだった。 静寂はたしかに寂しかったけれど、こりゃ、ちょっとうるさすぎるものが来やがった。 「いや、すみませんねえ」 そう吐きながらも全く反省の素振りがないブロッシュは、大きめのトートバッグを遠慮会釈もなしに床にどんと置いた。傘をさしていたようだが、バッグもブロッシュも少し濡れていた。でも室内にいたはずのオレの方が濡れていたので、ブロッシュは当然のように眉間に皺を寄せていた。 「・・・なんでエドちゃんが濡れてんの?この家そんなに雨漏りすんの?そりゃ、やばいよ、いくら学生アパートだとしたって、安普請が過ぎる」 「濡れた洗濯物を取り込んであげたら、オレが濡れたの」 「へえ。ところで、オレさ、思うんだけどさ、やっぱり一部分なにかに秀でた人間ってさ、絶対他のどこかが欠落するんだよね、例えば、勉強ができても洗濯物が取り込めない人とかさ」 「お前喧嘩売ってんの?」 「高いよオレの喧嘩は、二億ぐらいするよ、おひとついかが」 「いるかよ」オレはとりあえずブロッシュ用とオレ用のタオルを持ってきて、渡した。「なんの用だよ、こんな時間に」 時計は九時ちょっと前を指している。高校入学前にホームセンターで母親が買ってきた、秒針の音が鳴らないとかいう壁掛け時計で、そういう訳で、さっきの静寂では秒針の音さえなかった。ちなみに、オレンジ色の縁がどうにも女性物仕様に見えて、オレはこの時計があまり気に入っていなかった。 「いやー、ちょっと親が揃って旅行に行っててさ、今晩オレ一人ぼっちで、オレってば寂しがりやだからさ、泊めてよ」 「はあ?」 随分唐突だな。まあ、こいつに脈絡というものがあった試しはないが。 ブロッシュはオレの諾否も確認しないうちに床に座り、タオルで身体を拭き始めていた。オレもそれに倣ってしとどに濡れた髪を拭く。 「別にいいけど、オレの家はなんにも無いぞ」言葉通り、突然の客人を饗応できるようなものは、うちには何も無い。「だったらオレの家なんかよりも、ロイのほうに──あ、ごめん、今は、だめだ」カリン嬢がいる。 丹念に、腕の部分にタオルを擦りつけていたブロッシュが疑問符を点して、相手が疑問符を点すのも当然な発言をしたオレを見た。 「なにが?」ブロッシュの髪は湿気で少しクセっていた。 オレは返答にまごつく。前髪から一滴、雨露が床に垂れた。「えっ、あー、なんか、昨日から、客人がいるみたいで」 「客人?」ブロッシュの眉間の皺が、一層深くなっていく。客人、という単語を聞いたことがないはずはないのに、まるで生まれて初めて聞いた言葉だとでもいうように、オウム返しにする。 「うん、そう、お客様」 「男?女?」語尾には少し険悪な色彩が塗られていた。 「お、」オレはまず、二択であるのにも拘らず、見事にどちらか判断しかねる一文字を吐き出してから、続けた、「んな」。それから、「“絶世の美女”」体内辞書からそのまま引用してきた言葉を付属させた。 「な」これにはブロッシュの奴もいささか目を見張った。「なんだよ、それ」 「ロイの許婚なんだってさ」然程関心も無いかのように、事も無げに言う。「ね、笑えるでしょ、完璧すぎて」 「なんだよそれ!」 ブロッシュが突然声を張り上げたので、オレはびっくりしてタオルを落としてしまった。その甲走った声も、ブロッシュの険しい表情も、どうしてか、怒気にまみれていた。こんなふうに本気で怒号を撒き散らした彼をオレは初めて見た。以前の、ロイとの隔絶期間で、オレが倒れて保健室へ運ばれたとき、ブロッシュがロイに対して「頭冷やせ!」って怒鳴ったらしいことを思い出し、きっと今のこんな感じだったんだろう、と結論した。ブロッシュは普段へらへらしているだけに、いざってときにこうして凄んでくると、こちらはおもわず身が竦んでしまう。こりゃ、カレーをオレに届けたくもなるな、ロイ、と、保健室にぽつんと置かれていた福神漬け抜きのカレーを思い返しながら、ロイに同情した。 「な、なに、いきなり」しばらく驚いて声が詰まっていたが、ようやく渋滞していた咽喉が通って、音を発した。しかしながら、その声も、渋滞に苛立って掻き鳴らされたクラクションのように、平静な語気ではなかった。それから床に落ちたタオルをぎくしゃくと拾い上げる。 「どうすんだよ、なにしてんだよ、エド」 ブロッシュ語調はまだ怒気を引き摺っている。峻厳とも言える彼の情調が、オレを我知らず怯ませる。 「な、なにしてんだよ、って、」なんのことだ。「え、一応、今は、タオルで、身体を」 「そうじゃなくて!」はー、と長く、呆れたふうな溜息をついたブロッシュが、一度は浮かせた腰を再度沈め、俯いて眉間に手をやった。「・・・・ごめん、怒鳴ったりして」 え、いや、ううん、とオレは首を横に振る他ない。ほとんど白旗状態だ。 「どうすんだよ」ブロッシュが繰り返した。 それでも尚、その言葉の真意をオレは量りあぐねている。小首を傾げて、遠慮がちに濡れている腕を拭く。「どうすんだよ、って、何が」 本当、何が、だ。 「エドはそれでいいのかよってこと」 いつもはちゃん付けの呼称を、今だけやめるなんて、なんか、お前、ずるいな。怖いだろ。 「いいって、何が」抑揚の失せた声で尋ね返す。雨音がしとしとと、また静けさを取り戻しつつある室内を侵食し始めていた。 オレのその空気の抜けた風船のような萎れた声を聞いて、ブロッシュがわざとらしい溜息混じりで首を横に振る。「・・・エドちゃんな、それ、鈍いを通り越して、痛いぞ、もう。痛い、イタい」 「な、」今の言葉によってオレがけなされた、という事実だけはどうにかブロッシュの言葉から探り当てたので、オレは生来の直情型精神によって、とりあえず何かしら反駁しようとする、が、この歴然たる劣勢を覆せるような文句は何一つ浮かんでこなかった。「・・・・な、なにが、だよ」結局、ただの疑問口調に成り下がった。なさけない。段々強くなっていく雨脚がオレをせせら笑っている。 「とぼけんな」 「と、とぼけてって、何」 「ロイはエドちゃんに惚れてんだろ」 「えっ、」 硬直、それと、狼狽、というのはこんなときのために用意された言葉だ、そうに決まっている。硬直した身体はまばたきも忘れ、呼吸も、心臓の動きすら危ぶまれた。身体がかっと熱を持ち、耳まで熱くなり、オレが何も言わずともその態度だけで、オレは肯定の意を全面的に打ち出しているに違いなかった。 「な、なんで、知っ、あ、ロイに、聞いたの、」 「そんなもん聞くか。ロイがエドちゃんにベタ惚れなのなんて、目隠ししてても一目瞭然」 目隠ししてても一目瞭然って、矛盾してるだろ、と思いつつも、切羽詰ったオレにはそんな粋な言葉などせりあがっては来ない。 「えっ、嘘っ、」呂律があやしい。身体を拭くために持っていたはずのタオルは、いまや驚駭を沈下するために握るだけのものと化している。そしてそのタオルは、じきに、オレが恥ずかしさのあまり顔を覆うためだけのものになっていくだろう。 「この前君たちが大喧嘩してたのも、後になってから、その辺のいざこざだったんだろうなと思ったし」 「そ、それは」否定すべきかと考えたが、呂律のあやしいオレには結局出来ずじまいだった。 「それともうひとつ言えば、」言わなくていいよ、というオレの制止が出る前に、「君たちが相思相愛なのも、一目瞭然ですな。ま、見る限り、今んとこ表面上はロイの一方通行、ってとこだろうけど」 さあ、タオルで顔を隠そう、と思ったけれど、身体が動かなかった。咽喉が急激に渇いた。 「そ、それは」この国へ来てまだ一週間の片言外人だって、ここまで同じ言葉を繰り返すのは躊躇うだろう。「そ、その、それは」 何を弁解しようとしているのかすら、判然としない。ただひたすら、どこかもぐりこめる穴が無いかと目だけで探し、溶けて液化しそうなほど熱くなった顔をもてあましている。手にかいた汗を握った。そこにはなにもなかった。オレが始めようとしている弁解の意図も、ブロッシュの慧眼の所以も、オレのロイへの気持ちさえ、そこにはなかった。頼りにもならない。 「明後日は学園祭、アルダーだってかなり可愛らしい顔してるし、大勢の前で舞台を演じたら、次の日からは聖学の姫君はアルダーにバトンタッチかもな」 オレは返す言葉も無い。いや、言葉はある。なんだよそれ、何が言いたいんだよ、このやろう、お前なんかに何がわかる、とかもうめちゃくちゃにブロッシュを罵倒したかったけれど、心臓は苦しいし息もし辛いしで、うまくいかない。 「それで、何だって?ロイの家には許婚って?それも相当の美女ときた」ブロッシュはオレから視線を外して、また身体を拭き始めた。「エドちゃんな、一個、言っておくけど」言わなくていい、という、オレの無音の制止を聞けよ。「誰だって、待つばかりの恋愛なんて嫌だぞ」 わかってるよ。 オレは唇を噛んだ。そうでもしないと、情けない雨露が今度は瞳から、落ちてきそうだったからだ。髪の毛の雨露は乾き始めて、どうやら、それが瞳のほうへ降下してきたらしかった。 「ロイだって仏じゃねーんだ。呆れもすればうんざりもするし、飽きたりだって、心変わりだってする」淡々と告げるブロッシュは、それでも、どこか苦しそうだ。わかってやれよ、という声が、言外に匂っている。「来ないとわかっているバスを、バス停で待つ奴がいるかよ」 わかってるよ。 そうしたたかに反論したかった、でも、オレにはそんな権利はない気がした。正論の前に瑣末な意地なんて、風前の塵だ。 「バスが来ないバス停で待つよりも、他に車があるなら、そっちに乗って行っちゃうのが、人間の普通の心理なんだよ」 オレは、ぐうの音もでない。 「エドちゃんはな、お堅く考えすぎなんだ」 ブロッシュの口調は、いつの間にか穏やかになっていた。 「恋人なんて、友達にプラスアルファしただけの存在だって、そうお気楽に考えてればいいんだよ。全く違うものなんていう考え方だから、そうやっていつまでもまごついてる」ぽい、とタオルを投げ捨てた、拭き終えたらしい。「ほんと、恋愛偏差値ってやつが低いね、エドちゃんは。まさしく、基礎力も応用力もゼロ」勉学の方に全部持っていかれちゃったんだな、とブロッシュは先ほどの洗濯物の取り込み方云々と似たようなことを言って、誰にともなく一笑する。 「ま、そこがいいんだろうけど、ロイにとっては、ね」返す言葉も無いオレなど、素知らぬ顔だ。「本当、ロイって物好き」 「・・・・う、うるせえな」 わかってるよ。ロイが物好きなことぐらい。 肩をすくめて縮こまりながら、オレはやっと口を動かした。 「お、やっと喋ったね。ロイがけなされると、怒るんだ」ブロッシュは破顔し、ふふふ、と卑しい笑いをした。「嘘うそ。いい趣味してるよ、ロイは」 「なっ、」もう、どこから怒ればいいのか、わからない。タオルをぎゅっと握り締めた。 「ロイが好きなんだろ?」まるで明日の天気を聞くみたいに、さらり。 何度か目をしばたいてから、オレは唇をなめた。 心臓がすごく、いたくて、細い糸でぐるぐる巻きにされているみたいに、息苦しい。咽喉の奥に何か、重いものがたくさん詰まる。息ができない。なみだがでる。視界がくもる。外なんかよりずっと、大雨だ。おれのうじうじした気持ちの暗雲ばかりだ。いやになる。じぶんがだいきらいだ。 どうしてこうも、すなおじゃないんだ。 すなおじゃなくて、ごめんね。 おれはうじうじしてて、よわくて、もろくて、だめなやつで、そういうやつで、どうしようもなくて、じしんがないよ、でも、 (わかってるよ) ろい、いっぱいまたせて、くるしめて、ごめんな。 わかってるから。 もうちゃんと、わかってるから。 だいすきだよ、オレの相棒。 役割をころころと変えるタオルは、最終的にはオレの涙を拭う役目になった。洗い晒して、吸水性が抜群になったそのタオルで、乱暴に顔をぬぐった。こんなふうに、ロイとの、友達以外の、友達以上の話になると、涙が際限なく出てとまらない、なんでだろう、 (きっと、かなしいんだ) “友達”が終わってしまうのが、かなしい。こんなにすごかったオレたちの関係が、変わるのは、かなしい。よくなるにしても悪くなるにしても、やっぱり、かなしいんだ。 かなしいよ、さみしいよ、 (でもろいがすきなくせに) 結局、おれは矛盾ばっかりだ。 おれはよわいから、ばかだから、とんまだから、すべてを合理化したりだとか辻褄合わせてみたりだとか、そういうの、うまくできない。ロイに任せてばっかりでごめん。ロイをいつも、待たせてばっかりで、ごめんな。 ロイは最初から、なんにもわるくなかったよ。 おれがのろまなだけだったね。 (ロイはいつだって正しかった) いつもロイはオレがうんって納得しちゃうようなことをさらっと言ってそれがいつだってオレの答えだった。ロイの喋ることが、することが、全部そのままオレの答えだった。 ずっとオレの側にいてよ。 ロイがいなくちゃ、オレまちがえてばっかりだから、 (一人で座ることも、できないから) たよりなくて、だめでばかなおれを、いつもうしろで支えててよ、 (ねえ、) さいしょでさいごの、 (おれのあいぼう) だけどオレにだって言い分があったわけで、例えば、今まで友達だったロイが恋人になるっていうのは、今まで実の母だと思っていた人間が義理の母だったとかそういう衝撃的な告白をされる感覚と似ていて、うまく馴染めるか、うまくなれるか、そういうのばっかり不安だった。友達でいることに慣れすぎた。友達でいることが長すぎた。オレがひとりで、信じすぎてた。 でも、友達でいるときから、いや、もっと、ずっと前から── 『抗体物質はあんたか!』 『は?』 お互いの名前も知らないあのときから、予感めいたものは、きっと、あった。 きっとずっと好きだった。もしかしたら、ロイよりももっと先に、好きだったのかも、しれない。 「・・・・まあ、ロイなら、待つだろうな、」 あいつも大概、馬鹿だから。 ブロッシュが、そう言う。 「バスの来ないバス停で、ずっとバスを待つような、あいつも大した馬鹿だ」 なんだよブロッシュ。 これ以上、オレを泣かせんな、バカ。 ロイも、ブロッシュも、みんな、いじわるだな、 (だいすきだよ、ばかやろう) ブロッシュはフジバカマだな、と思った。そしてロイは、クロッカスだ。 「行けよ」 オレはゆっくりと、でも、力いっぱいはっきりと、うなずいた。 オレがあんまり好きじゃない、オレンジ色の縁の時計を見た。十時になろうとしているところだった。 カリン嬢は、いま、お風呂だ。 だって、ロイが嘘を言うはずない。 涙で前方が見えにくいけれど、オレはどうにか立ち上がった。 傘のかわりに、鍋を持った。ブロッシュの不思議そうな顔は、無視した。部屋を出る直前に、そのフジバカマを振り返る。 「・・・ありがと」涙声で、格好はぜんぜんつかなかったけれど。 フジバカマの花言葉は、“他人の恋の相談役”だ。 そしてロイのクロッカスは、 (“あなたを、待っている”)。 バスは、いまいくよ。 *** 外は驚くほど雨脚が強かった、ただでさえ涙で視界があやふやなのに、輪をかけて可視範囲を狭めてくる。でも、大丈夫、ロイの家へと続くこの道は、目を閉じたって、進める。 (今、いくから、) あとすこしだけ、あとちょっとだけ、まってて、 (走っていくから、) すぐにいくから。 おれがいくから。 風でアパートの前の自転車が倒れていた。そんなものには目もくれないで、階上への鉄製の階段をかけあがる。息せき切りながら、鍋に蓋をする。これは口実だ。こんな夜中に、ロイの家に訪れるための、口実。こんなものしか、オレには思い浮かばないから。 臍を固めたつもりだったけれど、やっぱり、扉の前で少し立ち止まった。 この扉が開いたら、きっと、終わる。 友達が終わる。そうして、始まる。 「さよなら、ロイ」つぶやいた。友達だったロイに。 そして、 (はじめまして、) はじめまして、相棒。 そういや、こんな挨拶、入学のときもしなかったな。 扉を強く叩いた。 一回は止まった涙がもう、ぶりかえして、なんだかもう、よくわからない。 扉が開く。開いた。 「ん、エドか?」待ちぼうけクロッカスが、頭を出した。 (おまたせ、ロイ) ごめんな。 ありがとう。 「わ、エド!おい、なんでお前、そんなずぶ濡れ、あれ、鍋?カレー?あ、そういえば、エド、昨日鍋置いていっただろ、」 「これ、嘘・・・」鍋を落とす。もう力が入らなくて、もてなかった。がらん、と大げさな音をたてて、鍋が足元に転がる、中身はもちろん、空っぽだ。「うそなんだ・・・っ」 「は?え、エド、なんで、泣いて、」 「うそなんだよ・・・っ」 どうして、うまくしゃべれないんだ、明日から一週間、声がでなくてもいい、だから、いまだけはしっかり喋りたかったのに。 もう、粋な言葉なんて、ぜんぜん、見付からない。 ごめん、格好いい台詞なんておれにはとっても言えないけど、つたない言葉で、だけど、全部の思いを込めて、ちゃんと、言うから、聞いてて、 「・・・すき・・・っ」 ロイ、 「ロイがすき、」 声をだすって、こんなにくるしい作業だ。くるしい、顔が熱くて、全身の水分が全部、蒸発しそうで、だけど、それでも構わないとおもう。血が逆流して、どうにかなりそうだ、ぜんぶ、ろいのせいだ。 心臓が身体中をどんどん叩く、息ができない、だから、声をだすしかない、 「ッ・・・・キス、とか・・・っ」口元を手でおさえた。六回、ロイとキスした口元。「・・・して・・・ほしい・・・っ、ほんと、は、」 目の前のロイの服を握った。うまく立てない。頭を胸にうずめて、その頭を、ロイのタイプじゃないオレの金の髪を、ロイが抱えた。 「・・・他のやつ、なんかに、するなよ・・・!」嫉妬で狂いそうだ。「おれだけにしてよ・・・っ」 「・・・エド、」 「やだよ、やだ、」こどもみたいな、わがままばっかりで、自分がほんとに、嫌になるけど、「ロイ・・・っ」ロイのことが誰よりすきだよ。 ロイの手とか足とか指とか爪とか髪とか声とか、ロイを構成するすべてを静かに息づくロイの細胞すべてを、ぜんぶぜんぶオレのものにしたかった。頭上の少し乱れた呼吸も、そのまばたきひとつひとつまで、ぜんぶオレのものであればよかった。 だけどそうじゃないから、それはぜんぶ、やっぱりろいのものだから、 (きもちなんていうよわよわしいもので、つなぎとめるしかない) おれたちはよわい。 愛なんてものはよわい。友情なんかよりもよっぽど、よわよわしくて、もろい。 だから、きれいなんだとおもう。 おれには、世界でいちばんたよりになる、だいすきな、だいすきな相棒がいます。 「・・・・エド、びしょぬれだ」ロイの声には含み笑いが乗っていた。穏やかな、あまやかな響きだった。「・・・泣きやんだ?」 涙でぐしゃぐしゃの顔を見られるのは嫌だったから、俯いたまま、洟をすすりながらも、小さく頷いた。 「・・・・こし、ぬけた、」 緊張の糸がぷっつり切れて、足腰が軟弱に崩れ落ちかけた。小さく笑いながら、ロイが慌てて支えてくれる。「緊張した?」 「っ・・・、ほんとに、しぬかとおもった、」 それを聞いてまた笑ったロイのトレーナーの裾は、オレが強く握りすぎて、よれてしまってきていた。 「緊張したのに、頑張って、言ってくれたんだな」ロイがオレの頭を撫でて、それから、抱き寄せた。「ありがとう」 オレはそのやさしい声に、情けないけれど、また涙腺がゆるむ。ありがとうって、言いたいのは、こっちだったのに。 ありがとう、オレを好きになってくれて、オレをずっと待っていてくれて、ありがとう。 それから、ごめんとか、いろいろ、言いたいことはあったけれど、もうどうでもよかった。たぶん、ちゃんとオレの気持ちが伝わって、ロイが笑ってくれたから、それでいい。オレにはそれで十分だ。 「あんまり、泣くな」ロイがそっと、オレのまなじりの涙を指で拭った。「美しいお顔が台無しでしょう、姫」そう言って、ほんの少しおどけた感じで、口元だけで笑む。オレは、ずるい、とおもう。 「白雪役は、急遽変更なわけだ」 「あ、そ、それは、」そりゃ、そういうことに、なる、けど、「だ、だいじょうぶかなあ・・・こんなに、直前になって」 「大丈夫だって、クラスのやつら喜ぶぞ、きっと」肩を竦めて、まだうまく立てなくてロイの服に縋り付くオレを、ロイはちょっと笑ってみせてから、「俺も含めて、な」と言った。 「えっ、あ、そ、そう、それは、ど、どうも」 「なんだそれ」こんなにオレが切羽詰っているのに、ロイは緊張感の“き”の字もないような風情で、いつも通りにへらへら笑う。 それがちょっとはくやしいけど、まあ、それがロイ・マスタングという男だから、もう、諦めることにする。くやしいけど、オレはこのむかつく男がどうにも、すきらしいから、降参だ。 「じゃあ、もう、キスしても怒らないんだ」 さっきの笑いをまだ口角に残らせたまま、ロイがオレの顔をゆっくり上げさせた。どくん、と心臓がひときわ大きく跳ねる。 「怒らない?」もう一度、繰り返す。 そ、そんなこと、聞くかよ、ふつう、お前な、オレが言ってたこと、ちゃんと、聞いてたのかよ、ばかやろう。 やっぱりお前は、最低最悪のばかやろうだ。 「や、やっぱり、怒る!」 ああ、オレの、ばか。またくだらない意地を張った。 でも半分は、ロイのせいだからな。 「なんだよ、それ」ロイはまた表情を緩ませた。「ま、怒られてもいいけど、もう慣れたし」 「え、ちょ、」 なんだよ、もう、結局、オレの意思なんて関係ないってことなのか。 眠ってたって、眠ってなくたって、勝手にキスをされて、つまりオレは、いつだって白雪姫の状態ということだ。俎上の鯉、ならぬ、俎上の恋、なんて、な。ざぶとん、一枚。 委細構わぬ身勝手な王子に、同情するよ、白雪姫。 「っ・・・・ん・・・」ロイの唇はいつもより熱かった、それはオレの唇が雨で冷え切っていたからなのか、そうではないのか、ちょっともう、判断しかねる。 びしょ濡れのオレの身体をきつく抱き寄せて、ロイの服まで濡れ始めていた。だけどロイはそんなこと全然お構い無しに、更に腕の力を強くする。 そりゃ、今までだって、本当に恥ずかしかったけれども、こういう展開になってからするのでは、まったく違う種類の恥ずかしさがあった。オレは、ロイのことが好きとか、言っちゃったし、つまりこういう、キスとかだって、嫌がってみせたって怒るぞって言ってみせたって、やっぱり大なり小なり肯定の気持ちはあるということで、そういうのがもう、わけわかんなくなるぐらい恥ずかしかった。否定しきれない、嫌がりきれない、拒みきれない、これはもう、この身勝手王子はどんどん調子に乗るに決まっている。 「・・・はっ・・・、ん・・・っ」 これで、七回目だ。ラッキーセブンだ、と靄のかかる意識の中で、どこまでもうっすらと考える。 これでもう、数えるのはやめにしよう。これからはもうきっと、数え切れなくなってしまうだろうから。 緊張が一気に解れて弱まった足腰に、やっと力が少し入り始めてきていたのに、今度はロイのせいで、それがまた殺がれていく。ロイの背中に腕をまわそうかな、と思って、少しだけ腕を動かしてみたけれど、そんなのは恥ずかしくて、やめた。 ロイはオレに喋る間も与えないように、ずっと唇を重ねていた。オレは呼吸のタイミングがわからなくて苦しくて、浅い呼吸を繰り返している。それに対して呼吸だってほとんど乱れていない涼しい顔のままのロイは、オレの濡れそぼった服の裾から、手を差し入れた。身体が冷え切っていたオレは、その手の熱さでただならぬ雰囲気にすぐ気がついて、目を見張って身体をびくっと震わせた。顔から火が出る、と本気で懸念するほど、かっと頬が熱くなった。 オレが顔の向きを変えると、唇はすぐにはなれた。反射的に、潜ってきたその手を制止する。 「あ、わっ・・・!そ、そういうのは、」 あ、あの、としどろもどろするオレの言葉を、「・・・・まだ、おあずけ?」わがままな王子が代わりに継いだ。 「・・・ま、まだ、」ロイの手を制止している、オレの手が、震える。「まだ・・・あの・・・、ま、まって・・・」 あの、ほんとに、待たせてばっかりでなんだけど、こ、こればっかりは、 「か、カリン嬢も、いるし、」そんなのこじつけなんだけど。 ち、とロイが舌打ちして、風呂場のほうを睨んだ気がした。 「わかった」ロイがうすく笑う。どんな表情だって、腹が立つほどきまっている。「待つよ」 ロイがそんなにやさしいから、オレは甘えちゃうんだって、ロイは気付いていないんだ。 「今日は嬉しかったから、キスで辛抱します」 ぽん、と頭に手を置かれて、「そ、それで、よろしく、おねがい、します・・・」オレは意味不明なことを口走った。 今日の今日で、いくらなんでも、そこまでの勇気はオレにはないので、またロイを待たせる結果になってしまったけれど、勘弁してほしい。 今度のロイは、来ないバスじゃなくて、時刻の不明な、だけど必ず来るバスを待っているということで、ご勘弁を。 それだけでも、ロイの気分が、いくらか楽になってくれればいい。 「あ、オレ、も、もう行くよ」 「カリンも風呂から出るしな」カリン嬢の話題を出すときのロイの顔が、日に日に険しくなっていく。 「う、うん」なんか、秘密の逢瀬のようで、複雑な心境だった。「また、明日」 「明日から忙しいぞ、学祭の準備」 そう言ってロイが笑ったのを見届けて、オレは、いつの間にか小雨になっていた外へ出た。 ぱらぱらと雨がしたたる空を見上げて、おもわず口元がゆるんだ。それに気付いて、やばい、やばい、と手で頬をたたき、顔をきりりと戻した。 カリン嬢、アルダー、どっちも、ごめんなさい。 だけど、ロイだけはわたせないよ。 あら、ロイ、服が濡れてますわよ、という声が、後ろの扉から漏れてきた。 ああ、十時四十五分になったんだな。 だって、ロイが、嘘を言うはずない。 気長なクロッカスは今日もバスを待っている。 *** 「おかえり」 部屋に入ると、ブロッシュが座椅子で寛いでいた。ちょっと顔が合わせづらくて、目をそらした。 「ロイに、言ってきた?」 まったく、どいつもこいつも、デリカシーってものがないな! 「う、うん・・・」床にオレが投げ捨てたタオルを拾って、頭にかけた。 「そりゃよかった。はい、着替え」人様の家だというのに、どこから勝手に取り出したのか、オレの薄地のトレーナーを差し出す。 「ど、どうも・・・」素直に受け取る。寒くて、オレは震え出していた。 「あと、これ」 そう言ってブロッシュが、自分で持ってきたバッグから取り出したのは、小さな袋だった。 「なにそれ?」トレーナーに腕を通したオレが、頭を拭きながら、尋ねる。 「恋愛成就のお祝い」 一拍オレは間を置いて、その一拍の間に、デリカシーのないブロッシュを再三内心で罵倒してから、言った。「へ?」 「まあ、開けてみなさい」 半ば強引に渡されたそれを、おそるおそる開いてみた。袋の上部は金色の小さなシールで留めてあった。ミニサイズの紙製の袋を逆さにしてみると、カサ、と音をたてて、中身がオレの掌上に落ちてきた。 「・・・・ピアス?」 しかも、青だ。 「赤、黄色、ってきたら、次は普通、青だろ?ざぶとん、百枚ってところでしょ」 色を失っているオレに、ブロッシュが立て続けにバッグから物を取り出す。今度は、オレが学校に置いてきた、白雪姫の台本だ。「ほい、これも!」 投げられたその紙の束を受け止めて、なんでこんなもの持ち歩いてんだこいつ、と思い、気付いた。 「ぶ、ブロッシュ、お前、最初からこのつもりで──!」 「あったりまえデショ。キミタチのいざこざで、10組がロイエド党に殲滅させられたらたまったもんじゃないものね」白々とブロッシュは肩をすくめ、両手を広げた。 「て、てめえ、騙したな!」オレを説得したあんな良さげな言葉が、ブロッシュの口からぽんぽん飛び出したのは確かに不可解だったんだ。 「明日、ポスターの白雪役のところ、剥がしとかなくっちゃ!それに予行練習も中止だな。生ちゅーのお楽しみは本番に取っとかなくっちゃ」 「な、」オレの意に反して、オレの顔はどんどん赤らんでいく。 そういえば、宣伝ポスターでは、白雪姫役のところが紙で厳重に隠されていた。あそこには最初から、「シタン・アルダー」なんて、書いていなかったわけだ。端から、アルダーに役をやらせるつもりなんて、なかったんだな、くそう! あのポスターに騙されていたのは、10組以外の全校生徒ではなく、オレとロイの、たった二人だけだったということだ。 アルダーだって台詞を完全に覚えているわけじゃないし、アルダーの衣装は出てこないし、なんかおかしいな、とは思っていた。 「アルダーは、エドちゃんが帰った後、ちゃーんと音響の仕事もこなせるように、曲順とかも覚えてくれてたんだぜ、まったく、感謝しろ」 「な、そ、そんな、」むちゃくちゃだな、もう! 「そんじゃ、オレは帰るから。お幸せにー」 そう言うとブロッシュは早々と靴を履きはじめる。 「お、おい、お前、親が旅行とかって・・・!」 「あんなの嘘に決まってるでしょ」 「な、」 ほんとうに、もう、ぐうの音もでない。 その場に不甲斐なく立ち尽くすオレに、扉を出て行く寸前、ブロッシュがこちらを振り返った。 「あ、本番、明後日だけど、台詞、入るか?白雪は結構、多いんだけど」 それを聞いて、ブロッシュのばかやろう、と無音で罵った。 恋愛偏差値が低い分、勉強の方に傾いた、とか、散々喚いてたのは、誰だ? 「お前、たったいまから、この場で、聖書まるまる一冊複写してやろうか」 オレは久しぶりに、口端をつりあげるようにして、笑った。 ああ、まるごと暗記してたんだっけ、とブロッシュが、もはや呆れたような顔でこちらを見た。 「不要な心配でしたな。失敬」 「トーゼンだ。オレを誰だと思ってる」 全国トップの難関校、聖倫学園の首席様の、エドワード・エルリック様だ。 それじゃ、お邪魔しました、とフジバカマが扉を閉めた。 まったくもって、今日はフジバカマの独壇場だったな、とオレは我ながら呆れた。 植物は水分が大好物だからな、人間が憂鬱になるこんな天気の日は、きっと元気なんだろう。 まあ、騙されていたとしたって、今日ばっかりは感謝、なんだろうな。 オレは青ピアスを手にとってちょっと眺めた後、台本を広げた。 『お目覚めですか、姫』 オレは、ロイのこの台詞のとき、卒倒しないだろうか。 また無意識的にゆるんだ口元をつねって、時計を見た。十一時過ぎだった。 オレの好かないオレンジ色で音の出ない時計は、今日もせっせと静寂を乱さぬように、時を刻んでいた。 雨の止んだ外の景色を見て、明日は晴れるな、と思った。 オレには、世界でいちばんたよりになる、だいすきな、だいすきな恋人がいます。 おおおなんとかくっつきました!笑 次回でとりあえず第二部は終わりそうです〜 長々お付き合い有難うございました・・///偶然にも第一部と同じ数になりますね! 本当にいつもたくさんの感想、ありがとうございます・・!! 一言でも本当に嬉しいです!><//何よりの木下の励みですので・・* お暇なときにでも読んだよ〜と声をかけてやってくださればほんとに幸せいっぱいです^v^// 最終話もなんとか・・がむばります・・!!* |