青、と辞書で引いてみた。
浅葱色だとか赤銅色だとかそういった、響きがやたらと難解で華美な色については辞書を引いたことがあったけれど、三原色のうちのひとつ、つまり衆知の最も基礎的な色のひとつを辞書で引くことが、この天才の人生の中に於いてあろうとは、夢にも思わなかった。
辞書のペラい紙面上には、こうあった。
「七色の一。また、三原色の一。みどり色にもいう」
もちろん、恋人関係を暗に示唆する色だ、なんて、そんな馬鹿げた説明は記載されていなかった。期待もしていなかったし、よしんば記載されていたところで、オレは赤面してその説明箇所を確認するかしないかといった早さで、辞書を閉じてしまうに違いなかった。
分厚い辞書の紙面上には雁首を揃えて、しかつめらしい、お堅い説明書きがずらり羅列している。つまらんな、まったく。諧謔という言葉を知りたまえ。
だけど、「青」の項目の末尾には、こうあった。
「晴れた空のような色」

ほう、なかなか、ロマンチックなことを言ってくれるではないの。


★三毛猫ヤマト★ U
--第十一便--
(第二部最終便)



今朝は台本に顔を伏せた状態で目を覚まして、オレンジの壁掛け時計を確認すると、既に七時半を回ろうとしていた。飛び起き、痛憤極まる様子でオレは自宅の電話を睨む。ロイのやつ、またモーニングコール忘れやがったな!
例によって刑法云々の勉強でもしてたのか、カリン嬢がいるというのに美女を放って勉強机に向かうなんてなんたる由々しきことだ、と、悪態を吐露しているのも束の間、オレが単純に電話を留守電状態にしたままだったということに気付き、内省する。一件留守録が入っている。言わずもがな、ロイからだった。朝七時きっかり、さすがはロイ、謹直な一面を持っている。ワイシャツのボタンを留めながら、髪もぼさぼさのままで、再生ボタンを押す。時代の利器から、くぐもった声質が流れ出てくる。それは、聞きなれた声、
『電話機の向こうにいる阿呆に告ぐ。朝だ』
前言撤回。聞きなれた、ではなく、聞き飽きた、にしておく。
『ハロー、お目覚めかい、ハニー』
にやつくロイの表情が目に浮かぶ。ずっと前に冗談として交わした記憶のあるモーニングコールの一連の戯れを彷彿とさせる台詞で、オレに追い討ちをかけようとしていやがるのだ。
オレはちっと舌打ちした。客観的に見ればそれが舌打ちなんだと辛うじて推定できる程度のものだった。顔が赤くなるのは堪えられない。鉄仮面が欲しいなとぼんやり思う。苛立ちながら乱暴に再生を止めた。
今までは冗談として言い合っていた戯れ言が、今ではちょっと、洒落ではなくなるわけだ。このやろう、死んじまえ、ばかやろう、と道理の通らない野次を電話機に向かって飛ばす。この不条理な野次が届いて、あいつがくしゃみでもしたら、万々歳だ。そんなささやかな抵抗しか、オレの手中にはない。いつからこんな劣勢に陥ったんだ。勉強も、五十メートル走も、学生という範疇の仲で競い合うフォーマルな戦いではいつも僅差でオレが勝っていたはずなのに、どうしてこうなんだ、くそう。あいつの持つ不可視の何かに、オレは完全に敗北を喫している。それはなんだ、顔か、背丈か、否、それらは可視だ。もっとこう、不可視で、曖昧で、渾沌とした、むかつく何かだ。それが絶対的にオレは劣っている。ちくしょう・・・・。
洗面所の鏡の前に、赤、黄色、青の信号色ピアストリオがお行儀よく並んでいる。少し悩んでから、青に手を伸ばしかけて、一旦やめて、手はおずおずと赤へ、その後黄色へ、そして結局、青を掴んだ。ちっ、と、また辛うじて舌打ちかと判断できるような音を口にした。その舌打ちがスイッチであるかのように、また顔が赤らんで、いらついて、さっさとピアスを嵌めてから顔を水でばしゃばしゃと洗った。内々では、くそう、なんなんだ、と無意味に呟き続けている。
「はあ・・・・」好きな人間と、俗に言う、恋人同士とかいう関係になれて、こんなに鬱屈とした溜息をつく人間なんて、世界中探してもそうそう居ないだろうと思う。
あ、いや、あの、決して嫌なわけでは、ないんだけど、今日から恋人として、のこのこロイの前に出て行くのがとてつもなく恥ずかしいってだけでして、それ以上もそれ以下も、他意も含意もない。
洗面所の前にしゃがみこみながら、
(今日、休もうかな・・・)ロイとどんな大喧嘩したときも、一度だって選択しなかった“欠席”という選択肢を、いまごろになって何故か選ぼうとしている。
ロイに会いたくないわけじゃないのだ。でも、「恋人」としてオレの傍らに存在するロイには、あまり、会いたくない。恥ずかしいのだ。ひたすら、恥ずかしい。ひたすら、それだけ。
鏡にうつった、青いピアスを眺めてみる。顔を粗野な仕草で洗った拍子に、ピアスに水が跳ねてしまったらしい。今日はこの青ピアスの片割れを、ロイに渡さなければならない。それはオレにとって極刑にも値する行為に思えた。ハイ、これで、晴れて今日からオレたちは恋人同士です、その証だよ受け取ってね、といった、まさしく羞恥極まる動作を強いられるわけだ。
(おおう・・・・!)なんてことだ、と悲嘆する。なんてことだ!
顔を両の手で覆う。その場にしゃがみこむ。
オレの住んでいるこの国が英語圏なら、オレは間違いなくこの瞬間に、こう呟いているだろう。「オーマイガ!」
その台詞に値するような言葉が、この国の言語になかなか見付からなかったことが、非常に悔しかった。



朝の支度を整え、玄関の薄っぺらい扉を一度開いてはみたものの、結局外へ足を踏み出す勇気が出ず、オレはベッドへ後戻りした。ネクタイを締めていない未完成の制服のまま、まだ温もりの残る毛布へ潜り込み、猫のように丸まる。制服の状態で身体を丸めたりするといたるところが窮屈だけれども、気にしないことにする。遅刻はほぼ確定だろう。
ロイはきっといつも通りなんだろうな、と考える、あいつはそういう奴だ。友達が恋人に変化していくというその一連の変容も、彼にとっては、サナギが蝶に孵化するように自然な事柄であるのだ。
だけどオレなんかは、全然違う。サナギから蝶だって?とんでもない。サナギから人間のような足が生えて歩き始め、「これが最終形体なんです」と肉声で宣言されるような違和感とか突飛さが伴っているのだ。
ブロッシュは、恋人なんて友人関係にプラスアルファしただけの存在だって、言っていた。でも、あいつはわかってない。その「プラスアルファ」が、オレにとってどれだけ重大で、どれだけ現実味を帯びていないのか、わかっていない。その「プラスアルファ」によって、元々あった部分すら全く違うものに変貌するんだっていうことを、わかっていない。だって、三に一を足せば、四になるのだ。イコールで繋がれた先にある答え、それは決して、三ではない。変わっている。体内にその三を内在させたというだけの、四という全くの別物になっている。そういうことを、ブロッシュはわかっていない。あいつ、数学は得意科目のはずなんだけどな。
大体、プラスアルファってなんだよ、とこの期に及んで思う。なんだよ、それ。
悩んでみる、考えてみる。
というのは嘘だ。嘘だ。
そんなことぐらいは、わかっている。オレはこれでも、一介の、健全な男子高生でして、友達同士ではしないけれども世の中の恋人たちが睦まじく行為する事ぐらい、一応知識として備えているつもりです。
わかっている。だからこういう状態になっている。こういう状態──つまり、遅刻覚悟で布団に潜り込み、ブロッシュの言葉の真意を一人悶々とあげつらい、今日から「恋人」なんていうものに昇格(否、降格という可能性も高い)したはずの相手に顔を合わせられないというこの、純情ぶった、しかし悲惨な、笑えない境地。おカタすぎる貞操観念。溜息をついた。はあ。
ここで、第一男同士なんて、ど、どうするんだ、と、最も着手したくなかった問題にぶち当たる。
(や、役割の、ぶ、分担、とか・・・・)
答えが出たわけでもないのに、オレは泣きそうになっている。
(やっ、やっぱり、オレが、その──・・・)
だって、今までの流れに基づいてみるとさ、とオレがそこまで愚考をめぐらせたところで、部屋の門扉が思いっきり何度も叩かれた。昨日のフジバカマがフラッシュバックしたオレの心拍は何秒か停止し、ああ、このベッドがオレの墓場になるのか、まあ、悪くはないな、とまで思った。
「おい!」扉の向こうから、声がする、持ち主はすぐにわかった。
まだ寝てんのか、と持ち主は文句を垂れている。俺まで遅刻だろ、という声も、ドアを隔てて精細に伝わってきた。だったら先に行きゃいいだろ、とオレは布団の中で愚痴る。
絶対布団から抜け出すもんか、とオレが腹を据えた直後、ガチャリと部屋の扉が開いた。あれ、鍵はどうしたんだ、とオレはたじろぎながらも、つい先ほど自分で家を出ようとした際に開錠していたことを思い出す。オレのバカ、と顔を顰めた。ロイはといえば、無用心だななどとぶつぶつ言っている。鍵を開けっ放しにしていたオレにも非はあるだろうが、不法侵入を堂々とやってのけるお前にも問題があるんだぞ、とオレは自分が過去幾度もロイ宅に不法侵入したことは棚に上げて、ロイを心中で指弾した。
「エド」臆面もなくズカズカと室内へ侵入してくるロイの声が、だんだん近くなる。「さっさと起きろ、俺の手を煩わせるな」
俺の手を煩わせるな、だと・・・・!お前が勝手に入ってきてお前が勝手に起こしてるんだろ、と叫びたい思いが強烈に湧き起こる。が、オレは今眠っているということになっているらしいので、ぐっと堪えた。
ここで、オレが防空壕よろしく逃げ込んでいる毛布を剥ごうとするなんらかの力が加わろうとしたので、オレも布団の淵を掴む手にぐぐ、と力を込めた。
均衡する力と力に気がついて、不法侵入者は言った。「なんだ、起きてるのか」
オレが起きていると察されるのは時間の問題だということは初めから予見していたので、これについて焦りはなかった。
「起きてるなら早く出てこい、何やってんだ」
ここまで不法侵入者が捲くし立てたところで、ひとつわかったことがある。やはり、こいつは昨日と様子が何一つ変わっていない。その反応はまさしく、サナギが蝶に孵化しただけの、驚きも奇抜性もない変容を遂げたというようなものだ。否、いっそ閉塞的なサナギからの解放感で、清清しそうでさえある。自然の理どおり、しっかり蝶へと変貌したらしい不法侵入者は、調子という名の風に悠々と乗りながら大空を高翔している。そして、サナギから足が生えるようなエキセントリックな感覚を苦々しく味わっているオレを、上空からにやりにやりと見下ろしているのだ。
地上に取り残されているオレは半ベソをかきそうな状態で、防空壕に逃げ込む。上空からオレを襲撃するミサイルでも投下されそうだからだ。
「出てこい」布団を引き剥がそうとしていた手を一旦離して、厳然と、ロイがもう一度放った。オレは抗う。
「い・・・・いやだ」布団に吸収されてロイまで届かないのではないかというぐらい、か細い声だった。
「具合でも悪いのか」
「悪い悪い、もう超悪い、死にそう、しぬ、今にもしぬ」
「嘘をつくな」
なんだよ、もう!なんの根拠があって嘘だと思うんだ。
「なんの根拠があって嘘だと思うんだ!」苛立ちをそのまま口に出してみた。布団の中なので、声に怒気を孕ませてみても、くぐもってしまい、益体なしだ。
「本当に死に掛けているやつに、ほうら今にも死ぬ、なんて言える余裕がある筈ない」
オレは閉口しつつ、『ほうら』なんて言っていないぞ、と胸の中で一矢を報いる。
まったく、とロイは溜息をつく。その眉間に深い皺が刻まれているだろうことは、容易に推測できた。けれども、ロイが次に起こした行動を、オレは到底予測することができなかった。
「ぎゃ!」オレは呻く。
布団をぎゅうっと掴んでいた手の、外側に露出している部分に、何かが触れたのだ。それがロイの唇であることはすぐにわかった。一瞬、どころではなく、立ち直り不能なほどオレはそれに怯んで、布団から手を離してしまった。防空壕に逃げ込んでいたのに、オレを襲撃するミサイルはしっかりオレに届いてしまったわけだ。オレが怯んだスキをロイが逃すはずはなく、あっという間に布団を引き剥がされる。
オレは真っ赤になりながらもとりあえずオレの足元へ追いやられた布団を元に戻すことに専念して、上半身を起こし、二つに折りたたまれた布団に手を伸ばす。
「捕まえた」ロイはそんなオレの身体を後ろからがっちりと抱え、固定した。「もう着替えまで終わってるのか」ロイはオレをからかうために、わざと耳元の近くで囁いている。そうに決まっている。「ネクタイ以外は」
顔を真っ赤にして身体をガチガチに固め、そのくせ心拍の動きは激しくなっているオレの様子に、ロイは気付いているはずだ。気付いているはずなのだ。それなのに身体を支離しようとはせず、そんな様子のオレを揶揄しようともしない。つまり、そういうロイのしらっとした素知らぬ対応がオレにとって一番辛いんだということまでも、ロイは全て掌握しているのだ。
ああ、これか──と、思った。
オレがロイに完全に敗北を喫している部分は、こういう部分か。相手の隅の隅までを知悉しているという、この洞察力とか観察力。そういったものに長けたロイに対して、寝たフリや嘘だって三秒以内でバレてしまう、オレの演技力と頓知、奸智の乏しさ。
嘘のつけない性分が、必ずしも善とは限らない。上手い世渡りには、残念ながら、適度な奸智や嘘が必須なのだ。
「あ、すげー」
いきなりロイが後ろから声をあげたので、オレはまたびくりと肩を揺らした。
「もう青いのつけてる」そう言ってロイが、オレの耳朶に手をやった。ピアスのことを言っているのだ。「用意周到」彼の声色は嬉々としている。
耳朶にロイの手が触れて、その部分がぞわりとした。昔から耳は弱いのだ、だけどここまで、まるで脈打つようなどくどくとした感覚がしつこく残ったのは初めてだった。そんな感覚に陥ったことを悟られないように、オレは極力自然な動きで顔をひねってロイの手を耳から離した。
「こ、これはっ」声はほとんど裏返っている。
「俺の分は?」喜悦千万といったような表情で、オレの裏返り声にも耳を貸さず、ロイは問う。
「これは、ブロッシュが、」
俺の分はどこ、というロイの質問は一切無視し、オレは主張を続けた。お互いにお互いの言葉を無視するという、まったく会話が成立していない状態だけれども、青ピアスはオレが用意したのではないという事実をとりあえず性急にロイに伝える必要があることを猛烈に感じていたので、会話の不成立については気にしないことにする。
「ブロッシュ?」ロイが途端にいぶかしむような顔になった。
「ブロッシュが、置いていって、昨日、だから、オレでは、決して」
無茶苦茶な文法で饒舌を繰り広げるオレを尻目に、ロイの情調はますます険しくなっていく。
「ほう、」明らかにロイは機嫌を損ねている。「ブロッシュの口添えがあったわけか、昨日のアレには」
オレの文法が無茶苦茶な説明で、真意をしっかり汲み取ってくれるロイの才能は賞賛に値する、が、今ここに彼を賞賛できるようなゆとりは微塵も無かった。
『アレ』の指し示す意味をしっかり嗅ぎ取ったオレは更に顔の熱を上げ、賞賛も後回しにして、性懲りもなく荒唐無稽な弁解をしようとする。
「だっ、だって、そんなの、」
お、男が男に告白するんだぞ、その非現実さとかマイノリティー事情をこいつは全然理解していない。しかもオレなんかは、心意気は断然かわいい女の子が好きなわけで、ゴツくてムサい男なんて全然興味もなくて、それなのに、どうしてこうなっちゃったんだっていう半ば良心の呵責や制止とも言えるような感情を抱きつつ、恥ずかしくて堪らない言葉を口にしなければならなかったわけで、そんなの、誰かの口添えだとか強要とも称せるような後押しでもない限り実行に移すなんてことは到底、不可能だったのだ。
『オレも男で相手も男だけど、好きだから、まあいっか。愛があればオールオッケー!』なんて、そんな軽くて短絡的で尚且つ美しい割り切りなんて、そんな芸当、オレにはなかなかできない。『すごく好きだけどオレは男で相手も男だから絶対駄目だ、無理だ、とんでもない、これは一瞬の気の迷いだ若気の至りだ』という思想の方が、よっぽどオレに向いている。
だけど、結局オレは、こうなっているのだ。絶対駄目だ、無理だ、とんでもない、と切に思ったことが、こうしてオレのすぐ隣で実際に具現化している、継続している、存在している。それが不思議でしょうがないけれど、後悔の念はこれっぽっちも無いから、もう、すべてがよくわからなくて、混乱しそうだ。
オレの肩に後ろから顎を乗せて、まあいいけど、と難色を示して唇を尖らせながら、全く良くはなさそうな風情で呟いている男の横顔をちらりと見る。
かっこいいよなあ、と思う。その後すぐに、ちくしょう、と思う。悔しいけれど、認めざるを得ない。非の打ち所がなさすぎて腹立たしい、というやつに出会うのは、こいつが最初で最後に違いない。
ロイがその気になれば、砂糖に群がる蟻の如く、女なんて星の数ほど寄ってくるのだろう。そのくせ、こうしてロイはオレの肩に顎を乗せて、むうと不機嫌な顔を呈している。オレに青いピアスを要求し、やっぱりオレの後ろでオレを支えながら、今日からはオレの恋人として、そこに存在している。だからつまりその砂糖は、オレだけに用意された甘味なのだ。
馬鹿なやつだな、なんて勿体無いやつだ。そうロイを胸中で罵る。そのくせ、オレの口元は勝手に緩む。
星の数の女を顧みもしないで、オレを起こしにくるのだ。なんて、ばかなやつ。
オレの腰あたりに巻きついたロイの腕に、手を置いた。顔の朱はまだ引いていないけれど、「・・・・・おはよ」
「お目覚めですか、姫」少しおどけながら、ロイは微笑む。
オレは、うぅ、と呻く。
胸の高鳴りをいやでも感じた。
オレだけに用意されたとっておきの砂糖は、ちょっとあまりにも、甘すぎる。

***

自分を暖かく見守る目が、ここまで鬱陶しく感じられるなんて、ほんとうに、人生何が起こるかわかったものではない。
こんな視線を投げられるぐらいなら、冷然とした蔑視を受けるほうがまだマシだった。
大凡の事情を察して表情を曇らせるのはロイ、耳に光る青ピアスは輝きがない。逃げ場のない攻撃を一心に食らうのはオレ、にやついた視線を跳ねのける術はない。
悉皆の事情を知り尽くしているものだけが「にやついている」と判断できるぐらいの、ノーマルな笑顔と妖しいにやつきを天才的に相半ばさせた笑みを湛えるブロッシュが、オレ、そしてロイと対峙している。二対一の冷戦、人数では勝っているものの、こちら側は既に敗戦ムードである。オレなどは敗残兵のごとく、早々と自宅に撤収したく思う。
「おはよう」
明白な上からの傲岸不遜な目線で、ブロッシュは朗々と言い放った。たとえば次に彼が、おもむろに葉巻を制服から取り出しくわえてみたならば、オレは「未成年が喫煙をするな」と詰ることもできず、それどころか、はっ!という威勢の良い返事と共にすぐさまその葉巻にライターで火を点さなければならなかっただろう。
「おはよう」と、気まずい色を声に塗りたくって、オレ。
「ございます」と、苦虫を噛み潰したような顔で、ロイ。
するとブロッシュは顔からにやつきを完全に払拭させた。そこには純粋な笑みだけが残り、オレが少しほっとしたのも束の間、続けてブロッシュが吐きだした言葉に、絶句せざるをえなかった。
「蓼食う虫も好き好き、って、いい言葉だよね」
瞬間、頭の中に白のペンキをぶちまかれたオレは、「・・・・・そ、そうですよねえ」と間抜けた返事をし、脇で吐かれたロイの溜息も、聞こえやしなかった。
そうして、ひとしきりオレとロイに対して嫌味の豪速球を投球してきたブロッシュは、気が済んだのか、途端身体を翻して、オレの身体に腕を回した。突如としてブロッシュの、やわくも剛腕でもない腕に身体をすっぽり包まれ、抱きしめられて、オレは奇声を発する以外の行動を起こすことはできなかった。
ひっ!と甲高い音を咽喉から発し、オレは腕をピーンと伸ばしてその場に立ち尽くした。ロイはそんなオレの様子を無関心そうに見遣っている。
「なっ、なんだよ、ブロッシュ・・・・!」
頭が錯乱しているオレの身体に巻きついた腕は、すす、と徐々に下方へ向かってゆるやかに動き出した。そして、ひぎゃあとかうぎゃあとか、騒然と奇声をあげ続けるオレの腰と臀部の中間あたりまで腕が移動したところで、ブロッシュはオレを解放した。
「な、なな、何やってんだ、おま、お前、へっ、変態・・・・ッ!」背筋に残る悪寒をまざまざと感じながら、オレは訥弁ながらもブロッシュを難詰する。
しかしながらブロッシュはオレの文句など耳も傾けずに、ロイのほうへ目を向けている。
「・・・・・反応ナシ、」ブロッシュがロイを軽く睨みつける。しかし、ロイは事も無げに、ん?と小首を傾げるだけだ。
ブロッシュの情調はますます険しくなる。「ほう、余裕から成る業か」
迂回しながらほのめかしている彼の言いたい事は、いくらなんでもオレにだってわかった。今日から、いちおう、恋人なんていう名目でロイの隣に存在しているオレがブロッシュに腕を回されたりして、そんな状況を直視したロイが、何かしらのリアクションを起こすことを期待しているのだ。そう、要するに、妬く、とか──。
けれどもロイはご覧の通り、あっけらかんとしている。
オレは、馬鹿だな、と思う。ブロッシュの馬鹿め。血液の代わりに、体内が「余裕」と「自信」、それから年不相応の「矜持」なんていうもので満ち溢れているロイに、そんなささやかな攻撃、きくわけがない。
たとえば、たとえばの話、ここでブロッシュがオレを押し倒して服を剥ごうとしたら、ロイはさすがに止めに入るだろう、入るだろうけれども、制した理由はきっと、のんびりとこう言うのだ。『ここは公共の場だから、な』。やるなら他の場でやれ、と。
つまり、ロイに「嫉妬」なんていう低俗な感情を引き起こさせるのなんて、オレとブロッシュがそれぞれ百人ずつ束になっても無理だということで。
ロイはひとつあくびをした。のんびりとした、大きなあくびだった。「すげー眠い」
ああそう、と、なんとなく肩を落としたオレは、どうしてロイが今眠いのか、言い換えればどうして昨晩よく眠ることができなかったのか、その理由を考えようともしないでいたのだった。

学園祭の前日ということで授業はなく、急遽姫役が変更された我がクラスは簡単な打ち合わせと最終確認のみで解散となった。この10組のヤル気のなさ、というよりは、あとは姫役王子役にお任せ、ということなのだろう。客寄せは困らないだろうし、まあそれなりに力抜いてやればいいだろ、結局客が見たがっているのは姫と王子のキスシーンだけだしな、というような心構え。嘆かわしいな、と悲嘆したいところではあるが、そんなことよりもオレは台本に対して必死だった。
と、いうのは、そりゃ台本の内容を記憶するのなんて動作ないけれど、この台本をどうしてくれようかという遣る瀬無さに襲われているのだ。
以下、台本から抜粋する。
『小人C「もういいから、王子は黙ってください!」
小人C、王子を姫のところまで連れて行く。王子渋々従う。
王子、姫の顔を覗き込む。
王子「おお、なんて美しい姫君なのだろう」
王子、姫にキス。姫、目覚める。
王子「お目覚めですか、姫」
姫「王子様・・・・私は眠っていたのかしら?」
小人たち、歓声をあげる。王子と姫、舞台の中央へ』
ここでオレの目玉が、ちょっと戻る。
『王子「おお、なんて美しい姫君なのだろう」
王子、姫にキス。姫、目覚める。
王子「お目覚めですか、姫」』
オレの目玉はもっとピンポイントな部分だけを、凝視する。
『王子、姫にキス。姫、目覚める』
自宅のテーブルに広がった台本の上に、突っ伏した。
どうにかしてくれ、と嘆く。この台本、どうにかしてくれ。
この一連の動作が交わされた後に、たった今目覚めたかのような演技をしつつ、「王子様・・・・私は眠っていたのかしら?」なんて白々と吐ける自信は、皆無だ。絶対にできないと、そう断言はできる。心の内で(もしかしたら口にさえ出すかもしれない)ホラー映画で甲走られそうな悲鳴をあげながら、瞼をばちっと開くことだけで精一杯だろう。ややもすれば、キスによって自分の命を救った王子に対して、「なっにすんだてめえ!」なんてとんでもない罵りをする可能性だってあった。
オレは、嘘をつくのも下手だし、寝たフリだって三秒以内でバレるような演技力のなさなのだ。だから、ピノキオがよかったのに・・・・とオレはめそめそと既往を咎める。まあ、ピノキオだったら、オレはサボる気満々で今でも裏方に回っていただろうけれど。
クラスの奴らには今日、やっと姫役ヤル気になったのかーとか、危うく変な党派に殲滅させられるところだったぜとか、黄色のピアスはもうやめちゃたんだ勿体ねえなとか、散々つつかれたりはしたけれど、オレとロイの関係の変化について気付いている様子はなさそうだった。ブロッシュも他言していないのだろう、その部分は、有難い。聞くところによれば、ブロッシュがどうにか自分の力でエドに姫をやらせるから、ポスターの姫役のところはエドの名前にしておけ、という無謀な指示を出していたんだそうだ。
自分の力で、ね・・・・とオレは皮肉る。
ブロッシュはロイの気持ちとかそういうのを知悉していて、それを利用して、オレをどうにか姫役にさせた。その手腕は、悔しいが、天才的だな、と思う。
ロイがあっさり王子役に決まったとき、ブロッシュが何かロイに耳打ちしていた。その内容をロイに尋ねて、「王子で損はしない」と、囁かれていたことを知ったわけだが、オレはそんなの絶対嘘だと思っていた。でも、アレは真実だったんだろう。そのときのロイの瞳は確かに、嘘をついているような輝きではなかったはずだ。
王子で損はしない、ね・・・・オレは泣きそうになる。
畢竟するにブロッシュは、王子をやったらお前らの恋のキューピッドになってやるぜ、ということを暗に匂わせていたのだろう。なんてやつだ。オレもロイも、すっかりはめられていたわけだ。
どうなる、学園祭、どうなる、オレ。
『王子、姫にキス』のくだりが視界の隅にチラつくたび、オレは大きな溜息をついた。
学園祭の成功を祈る。否、訂正。学園祭からの生還を祈る。
ただ、ひたすらに。

***

女性は大変だ。
オレは顔の周りに桃色の粉を舞わせながら、盛大に噎せた。コショウなんかが側にあると、すぐにくしゃみしてしまう性質なのだ。
す、すみません、と即座に頭を下げた隣のメイク係の女の子に、「いや、ぜんぜん、だいじょうぶ、です」と全然大丈夫じゃなさそうな風情で告げた。
オレの身体のサイズに驚くほど合致する白雪仕様のドレスを身に纏いながら、髪には軽くカールを巻かれ、睫毛を妙な器械で上げられ(瞼あたりの肉を挟まれないかとオレがビクビクしたのは言うまでもないが、そんなオレを尻目にメイク係の子たちは一様に、すごーい、睫毛ながーい!と感激していた)、頬にはオレンジとピンクのチークとやらを付けられ、そのときに、オレは情けないけれども盛大に噎せてしまったわけだ。
スカートで足はスースーするし、チークとかいうものを付けられれば噎せるし、瞼あたりの肉を変な器械に挟まれそうで怖いし、とにかく、オレは生まれ変わっても絶対にまた男になってやると決意する。そういうのは自分の意思でどうこうできるものでは無いということぐらい分かっているが、磐石たる強固な意志があれば、どうにかなるような気もするのだ。
そうしてできれば、こんな姫役なんかもやらずに済むような、筋骨隆々とした体躯をもつ男になりたいです。
それはさておき、開演一時間前だというのに、既に大講堂は人で埋まりつつあった。そのほとんどがカメラを手にしている。佳境の、オレが最も鬼胎を抱いている部分のシーンでは、夥しいフラッシュが焚かれるのだろう。空恐ろしい。
メイクの為に、半ば強制的にクラスメートに座らされた椅子から、腰を上げてみる。高いヒールに戸惑って数秒よろけてから、しゃんと目の前の鏡を直視した。そこには、艶やかに化粧を施されてはいるが、表情はこの上なく引き攣っている、ドレス着用の、強靭とは口が裂けても言えないような体躯を呈した男が立っている。たまに、よろめき、噎せながら。これが自分の姿だと認めるのには、相当の勇気が要った。
超綺麗ですよ!と勝手に喜んでくれているメイク係の女の子たちには愛想笑いを返しながらも、内々では、そうかなあ、いっそ気持ち悪いだろう、とオレはうじうじと卑下している。断然、カリン嬢の方が美しいだろうと思う。彼女なら、こんな華々しいドレスもまるで普段着のように着こなし、オレがよろけてばかりのこの靴だって、まるでスニーカーか何かのように軽々履きこなし、化粧など要らぬ美顔であるくせに、化粧をしたならしたで一層その美しさを増し、ましてや化粧品で噎せかえっているようなオレとは、雲泥の差だ。
悪癖だな、と呟いた。カリン嬢と自分をすぐ比較するのは、悪い癖だ。
第一、 叶うわけない。というかそれ以前に、土俵が違う。オレは男で、カリン嬢は女だ。
(・・・・やっぱり、)
やっぱり、女もいいかもな、と優柔不断なオレはぼんやり考える。
でも、まあ、いいか。
もうすぐ、例によってオレを起こしに、オレの王子がやってくるんだから──なんて、ここまで思考をめぐらせたところで、オレは一人肩を震わせて笑ってしまった。全然、ガラじゃないっつーの、な。
パチン、と軽く両の頬を叩いた。淡いピンクに染まった爪が鏡に映った。
しっかりやれよ、オレ。しっかりやれよ、白雪。
間違っても奇声とか罵声とかを発さないようにしなくちゃ、だ。

化粧をしてもらった部屋を出て、10組全員の前に、不慣れな靴によろめきつつ、ふらふらと出て行き、衣装姿をお披露目する。すぐさま、「結婚してくれ」と、五人程度に申し込まれた。
それらの冗談をいなしながら、ロイを視界におさめた。人垣からロイの姿を見つけ出すという分野では、オレは群を抜いてその才に長けているだろう。
「・・・・おそろしいぐらい似合ってる」ロイが曖昧な表情で言った。
「オレも自分で自分がおそろしいよ」
「結婚するか」
「言ってろ」
はは、とロイが笑った。「けっこう、マジなんだけど」
オレは言い返す言葉もなく、チークなんて必要なかったな、と無音でボヤいた。ロイがオレへ向けて冗談のひとつでも言えば、オレの頬は勝手に朱色に染まりあがってしまうのだ。この上なく、情けないことではあるが。
そう一通り嘆いた後、やっぱりロイは横分けも似合うな、と静かに惚気るオレは結局、ただの馬鹿なのだろう。

オレが舞台上に現れたと同時に堂内に囂然と渦巻いた歓声だけでもオレは相当げんなりしていたのに、オレが一歩足を前に踏み出す度に、数十箇所でフラッシュが焚かれるので、歩いただけだろ、どうして写真を撮るんだ、とぶつくさ言ってしまう。それでもなんとか台本通りに、拙劣な演技を続ける。
眼前には、大講堂の収容人数の二倍近い人々が、立錐の余地も無い状態で犇き合っている。学園内にいる人間のほとんどがここへ集結しているので、講堂の外はかなり閑散としてしまっているほどだ。
この人数を前に舞台に立つときに生じるだろう、ある程度予測していた緊張感というのは、オレを出迎えた喧しい歓声がきれいに払拭してくれた。というよりは、緊張などしていられない。鼓膜の安否を懸念してしまうようなこの歓声に、顔を顰めないように努めるだけで精一杯だからだ。
序盤は順調に事が運ぶ。すらすらと脳から流れ出てくる付け焼刃な台詞を、流暢に口から発する。演技に於いては動きこそ硬いけれど、台詞記憶の完成度については満点だ。
魔女役のクラスメートが、大袈裟に腰を丸めながら、毒林檎という設定の、普通の林檎をオレに差し出した。
「お嬢さん、おひとつ、いかがかな」無理なしゃがれ声だ。
「まあ、なんて美味しそうな林檎」まあ、と言いながらオレが口元に手を持っていくときのぎこちなさといったら。
オレが林檎を受け取ると、観客席から、だめー!とか、あぶない!とか、そういったオレの身体を案ずる類の声が飛来する。お前らはオレが倒れて、その先の救済のシーンが見たいんだろ、とオレは唇を尖らせる。
林檎を一口齧る。なかなか美味だった。そういえば、今の時期は林檎が旬だなあ、とどうでも良いことに思いを馳せながら、ガクリと舞台に膝を付く。むろん、ぎこちない倒れ方ではあるが、致し方ない。観客席から案の定、きゃー!という声。目の前の魔女役はニヤリと笑む。そんな卑しい笑みをこっそりここで浮かべたって、観客には見えないだろうに、と魔女役の細やかすぎる演技に文句を垂れながら、オレは床の上に倒れこんだ。巻かれた自分の髪の毛が顔に当たってくすぐったい。
仕事から帰ってきた、という設定の、小人達に、遣っ付け仕事で作られた寝台のような場所へ運ばれ、横たえられながら、オレは眉間に皺が寄ってしまうのを堪えられない。
間もなく、王子が現れるときのBGM、トラックの15番が流れ出すだろう。アルダーはしっかり音響の仕事を円滑にこなしているらしい。一概に感謝とも言えないような複雑極まる感情が胸に湧き起こる。複雑だ。
ああどうしよう!と過剰な演技で悲嘆する小人Bを横目で見ながら、徐々に異常な心拍を打ち始める心臓あたりをこっそり、ぎゅっと手でおさえた。
やばい、かも、しれない。ひとつ深呼吸をした。すう、はあ。変な汗が出そうになる。
顔をちょっと観客席から背けた。既に逆上せあがりそうな顔を、見られるわけにはいかなかった。
もうひとつ深呼吸。もうひとつ。もうひとつ。四回ほど深呼吸を行ったところで、ああ、これは深呼吸ではなくて普通の呼吸なんだということに気付く。一見連続した深呼吸にも見えるオレの呼吸は、たいへん忙しない事態になっているらしかった。
CDトラック15番のBGMが、堂内を占拠した。オレの心臓が今一度跳ね上がった。
スーツ姿で前髪横分けの、ヤリ手実業家サラリーマンが上手からいそいそと出てくる。オレの記憶が確かならば、彼は大事な会議に向かっているという設定だった。けれどもそんなことは今のオレにとっては、本当に、どこまでもどうでも良いことで、オレはとりあえず連続した深呼吸にも見える忙しない呼吸を落ち着かせることだけに躍起になっていた。
ひとまず、ぐっと息を止めてみた。しかし問題のキスシーンまでは、王子と小人たちによるまだかなりの台詞のやり取りがあるので、それらが終わるまで息を止め続けていたら、オレは天国でおはようございますの挨拶をしなければならなかった。呼吸を再開する。
オレは姫役のみならず全員の台詞まで丸暗記していたので、『王子、姫にキス』のくだりまで着々と台詞が進んでいく様子が手に取るように分かった。その思わず妨げたくなるような進行を耳に受けながらも、オレはこのどうしようもない状況下に拍車がかかっていくのをただ静観するしかない。
王子と小人のやり取りの間では、何度か堂内が笑いに包まれていた。脚本家の才が皆無だと思われたブロッシュだったが、存外、そうでもないのかもしれない。
「会議と姫の命、どちらが大事なのですか!」小人Cが言い放った。
ああ、もうすぐだ、とオレはもはや半泣きの心地だ。
「え、会議」
あっさりと答えるロイに、また暫しの笑いが堂内を占領した。ロイ様ー!などという黄色い声にいたっては、途絶える兆しが一向にない。
「もういいから、王子は黙ってください!」
と、小人Cがロイの語尾を遮ると、オレは我知らず身を硬くする。
ロイが小人たちに引き摺られて、オレが横たわる寝台の横に立った。
不意打ちでキスをされるのもすごく辛いものがあったけれど、こうして完全に予定された口づけというもののほうが、ずっと辛いかもしれない。しかも今は、逃げ場が無いのだ。
喧騒で満ち溢れていた講堂内が、途端、しんと静まり返った。ちょっと待ってくれよ、とオレは叫びたくなる。わいわい騒いでもらっていたままの方が、まだいいのに。
ヤリ手の実業家サラリーマンが、つまりロイが、オレの巻いた髪があたる頬のあたりに、そっと手をやった。それだけでオレはビクッと肩を揺らしてしまって、ここがもし本当に童話の中だったとしたなら、姫は気まぐれな寝たフリで周囲を心配させたと、こっ酷く叱咤されることだろう。そしてオレとしては、叱咤されたほうがまだ良かった。でも、残念ながら、ここは童話の中でもなんでもなく、聖倫学園の大講堂、二千人弱の人間が見守る、舞台の上なのだ。寝たフリがまかり通ってしまう場所なのだ。
「・・・・・美しい姫、」
ロイがぽつりと言った。それはまるで演技がかっておらず、本音が口からうっかり漏れたというような、そんな響きだった。これが演技だったとしたなら、ロイは出色の演技力を備えているということになる。
そんな、外連味もない台詞の響きは、むしろオレをもっとドキドキさせた。それを分かって、わざとロイはそうしているのだ、絶対に。いやなやつだ。大嫌いだ。
「うつくしい」
台詞が違うだろ、全然違うだろ、とオレはロイを咎めたくなる。ロイの手は弄ぶようにオレの頬の上をまだ這っていて、ときおり、巻き毛にも触れる。完全に焦らしの態勢だ。オレは然ることながら、観客席にいる人々全員と、固唾を呑んで見守る10組のメンバー全員までも、焦らしているのだ、こいつは。完全なる焦らしの態勢、完全なるロイ・マスタングの独走体勢。
次の瞬間、瞼を閉じている状態の視界が翳った。オレは両の手を握り締めて、近付いてくる実業家サラリーマンの顔に心拍をこれ以上ないというぐらい高鳴らせる。
観客席から一斉に、莫大な数のフラッシュが焚かれた。どデカい落雷でもあったかのように堂内は光に満ち溢れた、が、それらのカメラを現像に出したとき、カメラの持ち主はさぞがっかりするだろう。
「お目覚めですか、姫」
ロイのその言葉に、オレは、へっ?と返したくなるのをどうにか堪えた。
キスは、したフリ、だった。拍子抜けした。唇は一切、触れなかった。
オレは体内のアホを全面に打ち出しながら、唖然とする。そうか、ここは、寝たフリも、キスのしたフリも、まかり通る場所か。
ぽかんとしたまま、ロイに促されて上半身を起こした。「・・・・あ、っと・・・・」あらゆる物が洗い流された脳内から、必死に次の言葉を模索する。なんだっけ、おはようじゃなくて、こんにちはじゃなくて──
「真珠のような肌、星のような輝きを放つ髪、」
ロイが淡々と続けている。そんな台詞は、台本のどこにもない。
オレが間抜けな顔でロイの方を見ると、ロイの長い指がオレの首元あたりに巻きつき、くいっと力を込められた。
体勢を崩したオレの唇を、いつもロイは、盗むみたいにして、奪っていく。恋人であろうが、そうでなかろうが、それは不変らしい。オレの心臓をいちいち脅かすことを、楽しんでいるのだ。
オレが目を閉じる暇も与えず、唇はすぐに離れた。オレと同様不意を衝かれた観客席から、フラッシュはひとつも、焚かれなかった。
「ハロー、」睫毛と睫毛が触れ合うような、まだそんな至近距離で顔を留めて、ロイはにやっと笑った。「お目覚めかい、ハニー」
お目覚めよダーリン、なんて洒落を返せる余裕なんて、ないっつーの、あんぽんたん!
一拍遅れて、客席からキャーという、耳を劈くような喚声があがった。
「へ、変態王子・・・・!」オレは頭をクラクラさせながら、渾身の力でロイを罵倒する。
これじゃまるで、オレとロイが推敲を強要した、ブロッシュの脚本の草稿そのままの変態っぷりだ。
「写真なんか撮らせない」気分屋の王子は戯れる。「減るからな」
何が減るんだよ、とオレは喚き散らしたいけれども、頬は紅潮しているし心臓は尋常な様子じゃないし脳味噌の回路はちぐはぐな状態なので、そうもいかない。
小人達が両手を挙げて歓喜しながら、寝台の周りに群れた。おめでとう!だとか、おはよう白雪姫!だとか、自由に放言している。
ここでやっと、思い出した。次の台詞。
『王子様・・・・私は眠っていたのかしら?』だったはずだけれど、このタイミングでは、あまりに不意気すぎる。
だから、結局、こう言うしかなかった。いつだってオレは、ロイの思うがままなのだ。
眉間に皺を寄せながら、「・・・・お目覚めよ、ダーリン」。
「そりゃ、良かった」ロイが笑った。
いやなやつだ。ほんと、大嫌いだ。

***

劇はなんとか大成功に終わり、その後長蛇の列を成した数百人と有料での写真撮影会があって、カメラの前に何時間も座らされて固まりつつあった顔の筋肉を揉み解しながら、やっと帰路につくことができた。撮影会で集まったお金は、部費やら学級費やらに充てるらしい。良い仕事してるな、まったく。勉強のできる奴らは得てして、奸智にも長けるってわけなのだろう。そのくせ、どうしてオレはこうなのだろうか。泣けてくる。
ロイがちんたら運転する自転車の荷台に、いつも通りぼうっと乗りながら、頭にガツンと衝撃がくるような、公演後の大拍手を思い返していた。
「・・・・・ああいうのは、いいね」独り言なのかそうではないのか、オレ自身判断しかねる声色で呟いたので、ロイは当たり前のようにレスポンスをくれなかった。「思ったよりは、感激したかも」
両手を叩くという、たったそれだけの単純な行為だけど、それを大勢が一度に行うと、脳天に痺れるような感覚が走る。わりと、いいもんだな、と思った。あの盛大な拍手を姫役としてじゃなく受けることができていたら、尚良かったと思うけれど。
誰から頂いたのか、差し入れとして教室に置いてあったマフラーを顎まで捲し上げた。「寒いなあ」
マフラーは二本、同じものが差し入れられていた。ロイとペアで巻けということなのだろう。それは言うまでもなくあまり有難い配慮ではなかったけれど、病以外のものは全て頂くという自分のモットーに従って、遠慮せずに頂戴した。そんな訳で、ロイも同じものを首に巻きつけている。巻き心地はなかなか、よろしい。
オレが勝手にだらだら喋ることに、ロイは全然反応をくれないけれど、自転車は寒空の下を、ちんたら、のろのろ、今日は遅すぎるぐらいのスピードで、走っていく。遅鈍な動きを見せる自転車を漕ぐ運転手のロイも、どうやら大層お疲れのご様子らしい。
「お疲れ、おつかれ」
オレと背中合わせでバランスを取り合っている運転手を、労った。この広い背中は、あたたかくて、もたれているとすぐに眠くなってしまうのが難点だ。「眠いなあ」
「寒いとか、眠いとか、わがままばっかりだな、お前は」
口を開いたと思ったら揶揄とか詰りばっかり吐き出すロイのことは無視して、携帯で時計を確認した。
「ただいま、五時四十五分」朗々と高言する。「本日のスーパー特売は、六時までです、隊長」
自転車のスピードがぐんと急速に上がったので、オレはうおっと言いながら慌てて後ろ手でロイの身体に掴まった。それからへらへら一人で笑った。


このそわそわ感──例えば、なかなかお化けが現れないお化け屋敷の入口付近を歩いているときのような、ああいうそわそわした落ち着きのなさ。何かが欠けていて、何かが物足りない、こんな居心地の悪さ。これはもう、完全に電池切れならぬ「ロイ切れ」の状態であるのだということは、すぐに分かった。
久方ぶりのこの感覚に陥って、ひっきりなしに自宅の時計を確認してしまう。クッションを抱く手も、ひとところに留まっていない。
別に、行けばいいのだけど。理由なんてなしに、手持ち無沙汰でロイの家に参上したってロイは怒ったりしないだろうし、それで済む話なのだけれど。なんとなく、煩わしい虚栄心というか所謂プライドというか、そういった諸々が蜘蛛の糸のようになってオレの身体に纏わりついて、なかなか足を前に出させてくれない。殊更な理由もなしに相手の家に突然赴いて、事も無げに図々しく居座るなんて、そんな、恋人同士みたいなことはできやしない。とても、できやしない。
だからカレーでも作ろうかと思い立つけれど、いかんせん面倒だし、あまりに常套手段で面白みもないし、なにより、今日スーパーで肉の安売りがなかったので、カレー用の肉を買ってきていなかった。もっとロイ宅へ赴くための口実のレパートリーを増やす必要があるななんて茫々と思案しながら、ベッドに力なく横たわった。エネルギーを補給するために人間は横になると思うのだが、今のオレはその横になる行為さえ、電池切れのためにかなり億劫だった。
恋人と友達で異なる点のひとつに、「理由の有無で会うことができるかできないか」というのがあると、いつか聞いた。恋人だったら理由なんて無くたって会えるけれど、友達の場合は何かしらの理由が必要だ、ということなのだろう。でも、オレの場合は真逆のように思えた。恋人だからこそ、理由もなしに会いにいくのは、なんか、気恥ずかしいというか、驕り高ぶっているというか、そんな気分になってしまう。友達であったほうがまだ、暇だからなんていう理由で会いに行き、「よっ」と挨拶のひとつでもして、何時間も居座れるような気がするのだ。
そんな調子でうんうんと暫く唸って、
(アホらし!)やっぱり、起き上がった。
そうだ、「暇だから」という理由は、最もオーソドックスで、妥当だ。それでいいではないか。
それでも敢えて、カリン嬢がお風呂に入っている時間帯を狙って家を出たのは、他でもない、単にオレが小心者だからだ。

夜道に己の裸体をさらけ出す変態親父が出現するのも相当身が竦むが、この場に絶対にいないはずの美女が突如として暗闇から出現するほうが、よっぽど身が竦む思いがするのだということを、オレは初めて知った。
オレがロイ宅へと向かう道中、あとロイ宅まで五メートル程度という所に、彼女はいた。ここへ初めて来たときに携えていた旅行バッグを脇に提げている、そこから察するに、彼女はご帰還あそばされるらしい。そんな彼女を見つけ、オレは思わず足を止め、どうしてか、脇を走り抜けたスクーターをかっぱらってまで、即行に、逃げ帰りたくなった。
時刻は、夜の十時少し前。ロイの言葉通りであるなら、カリン嬢は完全に入浴中のはずだ。それなのに、彼女はいた。オレの行く手を阻むように、前方三メートルあたりでオレの姿を認め立ち止まっている。そしてその姿にいとも容易く行く手を阻まれたオレもまた同様に、この有り得ない邂逅を前に、暗がりの往還に立ち尽くした。
「奇遇ですわね」カリン嬢は妖艶に笑った。否、いつも通りに笑っているのかもしれないが、この暗がりの中で見せ付けられた笑みにオレが、勝手な解釈で隠微な面を付け足してしまったのかもしれなかった。
カリン嬢は続ける。「今日は、お疲れ様、ですわ」
ああ、学園祭来ていたのか、とオレは呑気に胸中で思い、
「あなたとロイは、たいへん仲がよろしいようで」
次の瞬間、あっ、と、愕然とする。目をこらして、こらして、やっと、カリン嬢の笑顔から、極少の棘を発見できた。
「あ、あの、あれはっ」エドワード様お得意の、下手くそで拙い弁解を始めようとする。「きゃ、脚本、通りに、ですね、」この一言で、全てをブロッシュに責任転嫁した。
「言い訳は不要ですわ」ふう、と綺麗な形をした唇の隙間から吐息を漏らして、「大凡のことは、既に、ロイから聞きましたわ」カリン嬢は明白に呆れを打ち出した声を出す。
「大凡のこと」って、一体なんだよ、とオレは頭がぐらぐらしてくる。
「・・・・こういうのを、失恋というのかしら、」カリン嬢は虚空をぼんやりと見つめ、言葉を丁寧に紡ぎ出していく。「未知ですわ」
そりゃそうだ、と思うのと、ロイは一体何を話したんだ、と思うのが同時だったので、オレの頭の中でその二つが衝突し、火花を散らしながらお互いに相殺されたので、最終的には何も残らなかった。そういう、何一つ考えられない状況でも、顔だけはしっかり熱くなるので、いっそ大したものだなと感心してしまうぐらいだ。
「あ・・・・えっ、と」
上手い言葉が見当たらずまごついているオレなどに全く構わず、彼女は言葉を継ぐ。
「あーあ」冷たい夜風に、しなやかな褐色の髪が靡いた。「振られちゃった」
オレは、あれ?と思い、きょとんとする。
「けっこう、頑張ったんだけど」カリン嬢は言いながら、星の瞬く空を、つまらなそうに見上げた。
お、おや、なんだか、口調が──・・・
「許婚なんて、親が冗談半分で言ってただけで、それに私が勝手に縋っていただけで」
そう言って自嘲する彼女は、そう、強いて言えば、化粧を完全におとしたすっぴん、という感じだった。飾り気がない。
「ですわ、なんて、いまどき流行るわけないのに」睫毛を伏せて、すこし俯いた。「ずっと昔にロイが、ですわ口調を自然にできるぐらいの淑女が良い、なんてふざけて言ったから、それを馬鹿みたいに実行して、時間にルーズな女は嫌だって言ってから、お風呂の時間も絶対に崩さないようにしたし、料理だって裁縫だって、必死になって覚えた」
綿々と捲くし立てるカリン嬢を前に、オレはなんとなく申し訳ない気持ちになってきていた。不可解な入浴時間も、古風な口調も、箱入りお嬢様には似つかわしくない器用な手先も、全部、ロイのためだったということなのだろう。すごいな、と思った。感嘆はした。だけどそれでも、はいじゃあその努力に免じてロイはあなたに差し上げますよ、とは言えなかった。オレはそこまで、できた人間じゃない。
「努力は十年、終わりはたったの、三分」
カリン嬢はもう一度自嘲の笑みを零してから、旅行バッグをコンクリートの上にドン、と置いた。オレはそれを見てぱっと顔をあげる。
彼女はオレのほうへ早々と歩を進め、オレの目の前まで来て、足を止めた。オレより彼女の方が、わずかに、背が高い。それだけで吐きそうなほどの敗北感。
「さ、歯を、食いしばって」
「・・・・・へ?」
え、まっ、待って、歯って、どうやって食いしばるんだっけ──!
パニックするオレなど完璧に無視して、カリン嬢は左手を大きく振りかぶった。そして一抹の逡巡も躊躇いもなしに、オレの右頬を思いっきり平手打ちした。
夜の帳に響き渡った快音。
オレはその場に片膝をついて、引っ叩かれた右頬を押さえながら、ひたすら脳内を占拠するはてなマークを処理することに専念している。え、なんで、どうして、おう、結構、かなり、痛いもんだなあ。
「娘の嫁ぎ先の婿には、嫁の父親がこうして、一発殴ったりするものなんでしょう?」
いや、その思想は、もしかしたら「ですわ」口調よりも、クラシカルのような気がしますけれど。
よ、嫁って、嫁ぎ先って、婿って、なにからなにまで違うような気がするが、確かにシチュエーションとしては、許婚とその恋人ということで、似通っているのかもしれない、三百歩ぐらい譲ってみれば。
ここでオレの目的地であったアパートから、ロイが血相を変えて飛び出してきた。「エド!」さっきの、夜空に響き渡った音が届いたのだろう。
「だ、大丈夫か」ロイがオレに駆け寄って、尋ねた。
オレは結構じんじんと痛んでいる右頬を見ないフリして、左手を弱弱しく挙げ、「だ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と男気を見せた。「で、でも、叩かれた理由はぜんぜん、わからない」はてなマークの処理が、まだ全然完了していないのだ。
「これは、嫁いだ嫁の分で、」嫁いだ嫁、つまりそれは、オレが殴られている立場なのだから、ロイのことなのだろうな、とカリン嬢の言葉に隠された謎を推理する。「もう一発、ロイを引っ叩いた分があるのですけれど」もはや、カリン嬢の独壇場だ。「それは綺麗なお顔がかわいそうだから、勘弁してさしあげますわ」
お、オレが以前ロイを引っ叩いたのは、正当な理由があるからなのに、とオレは主張したいが、そのもう一発は勘弁していただけたようなので、無駄な抗弁はしないことにした。下手に喋れば、だまらっしゃい!ともう一度バシンと叩かれそうな気がしたからだ。
「・・・・・それと、」
まだあるのか、とオレは絶望にも似た気持ちでカリン嬢を見上げた、が、そこに彼女はいなかった。正面ではなく、オレの真横に回っている。オレがカリン嬢の位置をぎりぎり確認できたあたりで、叩かれていないほうの左頬に、触れるだけのキスをされた。オレは叩かれたときよりももっと頑丈に、硬直した。今のオレの身体を使えば、釘だって打てる。
「なっ・・・・」と、絶句し、憤ったのはロイだ。「カリン!」
「これは、ロイへの仕返し、ですわ」
もう彼女は、「ですわ」を楽しんでいるらしい。
「サヨナラお二人、末永くお幸せに、ですわ」
カリン嬢はたおやかに身を翻して、振り返りもせずに、さっさと歩いていってしまった。
それから三分ぐらい経っただろうか、オレはやっと声を発することが出来た。
「・・・・・め、めちゃくちゃだな・・・・」
「美女はめちゃくちゃでも道理にかなう、って言ってたのは誰だ」
「お、オレだけど」
「あいつは昔からめちゃくちゃなんだ」
確かに、彼女の愛情表現もめちゃくちゃだったな、と、はてなマークをほとんど処理し終えた脳内で呟いた。
オレの前に突然に現れ、そして突然に去っていった「絶世の美女」の後姿は、やはり艶美だった。
横で難色を示すロイをちらっと見遣って、ほんとう、勿体無いやつだな、と思う。だけどそれは、オレにとってはすごく幸せなことだ。
ロイの肩に、こつんと頭を乗せた。「けっこう、痛い」右頬はまだ押さえたままだ。
結構、痛い。でも、安いもんだ。


久しぶりだな、とロイが言った。やわらかな声で言った。
うん、とオレは答えた。ぎこちない答え方だ。
ロイのベッドで二人並んで眠る、なんて、これまでに幾度となくしてきた事なのに、オレはロイと上手く目も合わせられずに、それならさっさと寝てしまおうと瞼を閉じた。
「もう寝んの」ロイは、納得いかないと言わんばかりだ。
「だ、だって、眠いし」瞼を閉じたまま返答する。
「まだ十時半だけど」
「良い子はじゅうぶん、寝る時間」有無を言わさぬ態度で、オレは意志を貫き通す。
「良い子って?」
「オレだ、オレ」
「良い子はよく寝る?」
「よく寝ます」
「寝る子は育つはずなんだけどね」
目を開いた。「・・・・なんでそう、喧嘩売るかな、君は」
「俺が喧嘩売るから、うまく育たないのか、ごめん」
オレは歯軋りさえしそうな風情だ。「あと一回言ったらな、まじ、怒る」
「俺としては、姫役より、小人役のほうが絶対、良かったと思う」
「お、お前という奴は・・・・!」オレは布団から勢いよく起き上がった。「もう怒った!オレは帰る!」
そんなふうにオレがいきり立っても、ロイは綽綽余裕で歯を見せたまま、憤怒するオレの腕を掴んで軽々と引き倒した。
「どわ!」ロイの胸の上に倒れこみながら、絶対に近々身体を鍛えてやる、と決意する。
「可愛いから、怒らせたい」
オレは一時言葉に詰まるけれど、オレの逆鱗をわざと逆撫でしたロイを、まだ許すわけには行かない。「うるせえ!離せよ、馬鹿!オレは帰るんだ!」
ロイの腕の中でじたばたもがくけれど、その必死の抵抗も、ロイがオレの額に軽くキスをするだけですぐに停止してしまう。情けない。
オレの抵抗が止んだのを見計らって、ロイは悠然と、今度は唇にキスをする。オレは耳元で乱れ鳴く心臓の音を聞きながらも、目をきつく閉じて、布団をきゅっと掴んだ。
顔がそっと離れて、ロイがオレの顔を覗きこんだ。「どうやったら、そんなにすぐ赤くなるわけ」ロイは楽しそうだ。
「・・・・・う、うるさい」
オレは腕で顔を隠そうとする。だけどそれをロイによって制止されてしまった。「隠しちゃ駄目、見たい」
「あ、あくしゅみ・・・・」抗う声にも張りがない。
「それはどうも」
あとはもう、ロイにされるがまま布団を掛けなおされて、ロイの腕の中に大人しく収まらざるを得なかった。
「・・・・・簡単にこうされて」
「へ?」オレは聞き返す。
「ブロッシュに」
「あ、昨日、の」
「そう」ロイは刺々しく喋る。「あれ、寸法測ってたらしいけど、ドレスの」
「あ、そうなの」
「だからって、今度はただじゃ置かない、ブロッシュめ」
「あ、や、妬いてんの、もしかして」
「当然だろ」オレの背中に回る手に、力がこもった。「カリンにもキスされて、何やってんのお前、スキがありすぎだ」
「そっ、そんなの」どこがどうなってオレのせいになるんだよ!
「心臓に悪い」
そんなロイの子供みたいな言葉を聞いて、身体中にじんわりと温かいお湯が染み出したかのような感覚をかんじた。
ああ、こういうものか、と思った。
人を好きになるって、こういう感じか。
もっとはやく、気付けばよかった。
「エド」
飽きもせずに、ロイはオレの名前を呼ぶ。そして飽きもせずに、オレはその言葉を耳にするたび、狂おしい切なさに見舞われる。
「おやすみ」
そう言ってロイがオレの髪に口付けを落としたら、その狂おしい切なさは、やっと愛しさに変わる。
すん、とオレはひとつ鼻を鳴らした。なんだか、甘い匂いがした。
甘いあまい匂いがした。



息を切らして、無心にオレは走っている。
すぐに夢だとわかった。濃紺の霧があたりを覆い、絶壁の道がひたすら続いている、あの夢だ。ロイが初めて遠くに感じた、あの夢。
オレは走って、走って、ロイの背中はもう、すぐそこまで来ていた。膝からは血が流れている、どこかで転んだのかもしれない。
向こう側に身体を向けているロイを、大声で呼んだ。「ロイ!」
走る足がもつれて、だけど、持ちこたえる。
ロイが静かに、こちらを振り返った。その身体に、転ぶみたいにして飛び込んだ。温かい腕がオレを包む。その温かさに、涙が出かける。
「おせーよ」ロイの声には含み笑いが乗っている。
「・・・・・ごめん、」
息を整えながら、ロイの服を強く掴んだ。
「嘘」ロイがオレの頭を撫でた。「ありがとう」
涙はやっぱり、我慢できなかった。うん、とオレは頷くだけで精一杯だった。
また同じ道を、一緒に歩いていけるかな。
「手、繋ぐ?」
ロイがオレに手を差し出す。格好悪く泣きながら、オレは、うん、と答える。
オレはいつも迷子になったり、立ち止まったりしちゃうから、ずっと、しっかり繋いでいよう。
オレが手を取ると、ロイは優しく微笑んだ。
オレとロイの耳たぶには、小さな青。

晴れた空のような色。

*第二部 END*





お、おわ、終わりました・・!第二部完結、です!
最後の手を繋ぐシーンが、第二部最初の夏祭りのあたりとこう・・リンクしているかんじですと・・う、嬉しいなと思いながら書いておりました・・*

長文お付き合い本当に有難うございました//*
(この最終話ですけれど二話分以上の長さがあります・・orz す、すみません・・)