--第一便-- 拝啓、アルフォンス・エルリック様。 留学中に手紙を送ってくることを、なんていうか知っているかな、我が弟よ。 筆忠実?殊勝?兄想い?どれも外れだ。正解は、暇人。随分有閑なドイツライフを送っているんだな、まったく。 なんて言ってるけど、手紙がくるというのは、まあ確かにちょっとは嬉しいものですな。ドイツさんに留学中だというのに、どうもわざわざ有難う。お久しぶりです、お元気でしたか、あなたの兄です。 返事が遅れて申し訳ない。こっちも色々忙しいんだ。 しかしお前は相変わらず、超がつくほど生意気だな。ドイツ語で手紙なんて書きくさって!母国語を使え、母国語を。まさか忘れましたとか言うんじゃねえだろうな、お前、母国語忘れたんなら、帰ってくるなよ、オレは国に受け入れんぞ。ドイツで母国語を勉強してから戻ってこい。ドイツで母国語の練習、っていう、そういう至極不毛なことをしろ。我が国民の風上にも置けぬ奴だな。 さて、便箋に記されていたドイツ語に滅入りながらも、まあ、ちゃんと読みました。 ジャガイモ嫌いだったお前が、今はジャガイモばっかり食っているというのは、なんだか想像し難いな。奇妙と言ってもいい。まあ主食だから、不可避の存在なんだろうな。(十七世紀頃までは、ドイツはパンが主食だったはずだけど)いや、そういう順応の早いところは、兄としても尊敬する。お前は昔からそうだったな。よく言えばタフ、悪く言えば自分が無いっていうところだが、アルのそういう面は、オレは肯定的に評価している。たとえばオレが牛乳しかない国に行ったとしたら、二日で帰国するか、二週間ぐらいで、飢餓状態で強制搬送されてくると思う。ややもすれば早々と天国でカレーを食べているかもしれない。 話は変わるが、ガールフレンドができたというくだりを読んだときは、危うく手紙を燃やすところだった。(しかも三人目?お前な、何しにドイツ行ってんだよ。母国語を覚えていたとしても、もう帰ってくるな) ガールフレンドね。ふん、ほっほー、なるほどね、まあ、たいへん、いいじゃないですか。(今、かなり無理をして笑顔を作っているオレがいる)ドイツは本当に美人が多いよな。(今、シャーペンの芯を五回連続で折った)近いうちに、誰か紹介してください。ひとつよろしくお願いします、アルフォンスさん!兄としての自負心なんて捨てて媚びる。 いやいや、そう言うけど。そう言うけどだな?オレもモテない訳ではないんだぞ、勘違いするなよ。っていうか、モテすぎて困っちゃってるから、ほんと。おい、なんだ、その怪訝な目は。お前、兄を疑うのか、この偉大な兄を。 両手に花、両足に花、腹にも背中にも花、っていう状態ですよ。ハーレムっていうかひとつの国だな、もう。そのうち自治体とか形成されてくると思われるぐらいだ。けど、なんていうかな、恋愛対象としてオレを見ていないというか、そういう数多の視線たちなんだな、どれも。ブラウン管の向こう側の人間を見るみたいな感じかな、下手すれば動物園の檻の向こう側にオレがいるみたいな、いや、それはちょっと喩えが卑下っぽいな。(別に餌を投げられるわけでも、自分の小便を客に掛けるゴリラなわけでもないし)ま、結局、オレのようなスター性・アイドル性を備えている人間共通の悩みなんだよな、これは。ふふん。 同封されていた写真も見た。ちょ、待て、お前、またでかくなったんじゃないのか。お前の隣に立っていた、茶髪の比較対象の男の身長が分からないから推測の域を出ないが、なんか、醸し出してる雰囲気がでかい。長身の人間のオーラと類似したアトモスフェアが漂ってるし、お前を取り巻く世界が、なんか、ミニチュア。ちくしょう、お前の写真なんかこれっぽっちも見たくないから、お前の彼女の写真を送れよ。気が回らないやつだな。何が悲しくて、十五の男が、年子の弟の写真を郵送してもらわなきゃならねーんだよ。しかも海を越えて、だ。ふわーい我が弟アルフォンス君の写真が、海を越えてやってきた!って、欣喜雀躍しろと?無茶言うな。オレが欲しいのは美女の写真だ、美女の。次の機会に是非ひとつ。 ふう、ま、これだけ書けば暇潰しぐらいにはなるか。左手が痺れてきたから、もうやめるぞ。第一、シャーペンで書いたのが失策だったな、左手の側面が真っ黒だ。ちょっとボールペンにするな。 左利きはだから嫌なんだよな、横書きだとすぐこう黒くなる。右利きの人間が縦書きしているときに味わう、あの手の汚れだが、普段生活しているときは、圧倒的に横書きの機会のほうが多いもんな。っていうか、世界的に横書きが普遍化しているのには、この手の汚れが関係しているんじゃないかとオレは思う。左利きはやっぱりイレギュラーだからな、右利きの人間のしやすいように世界の常識は変容していく。え?共通語の英語が単に縦書きじゃやりづらいからだろうって?馬鹿言うな、それは昔からの惰性としてそう見えるだけだ。大昔から縦書きだったら、違和感なんてないの。だってお前、こっちじゃ何年か前から物の値段が税込み表示になっただろ。あれだって最初は、ものすごい違和感あったけど(税込み表示なのに、その値段に更にプラスして税を計算している自分がいたぐらいだ)最近はもう慣れたしな。 結局さ、慣れなんだよ、慣れ。男女が当たり前のように恋愛しているのに、男同士だとか女同士が恋愛するのに躊躇いや背徳感があるのは、やっぱり慣れのせいっていうか、太古からの惰性のせいなんだよな。そりゃ、子孫繁栄・種の保存っていうのに相反する存在であることもひとつの原因なんだろうけど、同性愛が一般的ではないとされるのは、オレはもっと単純明快で馬鹿げた理由からだと思う。惰性に反するものは世界や摂理に反する、みたいな、そういう世界の先入主っていうか、まあ勿論そういう偏見を持っていない人もいるけど、うーん、難しいけどな、こればっかりは。うまく言えん。 まあ、いいや。長々とすみませんでした。ほんとにもうやめます。 それじゃ、また。成長したお前(精神的にも、肉体的にも)に会えるのを、心から楽しみにしていませんので。 敬具。 君の偉大な兄、エドワード・エルリック様より。 追伸。 えーと、悪いんだけど、もう少し我慢してくれ、な。 たとえばの話をする。いや、ほんと、たとえばの話な。たとえば、の意味わかるか?例えをあげることだぞ。仮の話ね、仮の。 上に、同性愛が云々って話が出たけど、たとえば、たとえばさ、たとえばだぞ。 オレの恋人が、男だとすれば、アルはどう思いますか。 たとえばの話! っていうか、オレの友達が、っていうか、オレの友達に、そういう性癖の人がいて、あ、やっぱり、なんでもない。 忘れてください。 でもさ、男から見ても腹立つくらいに格好良くて、そういう奴にぐいぐいモーションかけられたら、ふらりとそういう道に連れ込まれてしまった、ってことも、あるよな?わかるよな、そういう心境って。お前なら、わかってくれるよな? あっ、わかってくれるよな、って、まるでオレがまさにそうなったみたいな書き方になったけど、そういうんじゃなくて、飽く迄第三者の一意見として聞いているのですよ。あれ、第三者だなんて書いたけど、べつにオレが当事者とかそういうんじゃないから!局外者だから、オレも! いやほんと違うんだって。まじで。まじで。たとえ話だから。もはや寓話だから。もはやファンタジーだから。御伽草子、御伽草子。 ほ、ほんとに、もうやめます。なんか混乱してきた。 忘れてください。ほんと忘れて。忘れろよ、いいな。忘れろって言うぐらいなら消したいけど、ついさっきボールペンに持ちかえちゃったんだよ!修正液なんて持ってないんだよ! 追伸おわり! じゃあな! ──言うまでもなく、追伸の部分は綺麗に切り落としてから、後日ポストに投函しました。 *** いてて、と漏らしながら、間断なく文を記し続けていた左手を左右にぶらぶらと振った。痛みというものが液体化するなら、その「ぶらぶら」によって水分が弾かれ、痛みは消え失せていくだろうけれど、世の中そんなに甘くはない。痛みは物質化しないので、こんな気休め程度の「ぶらぶら」をしてみたところで、何一つ変わらないのだ。 そう。世の中そんなに甘くない。惰性に反するものは、許されない。甘くない。 手紙で、左利きはイレギュラーな存在だから不便だ、という話から、同性愛の話に持っていったのは我ながら無理があったなと思うけれど、一応、弟の意見を参考にしたかった。昔からオレは、嘘と演技と隠し事が不得手だった、と溜息をつく。左手首がまだじんじんと疼いている。 何度も言うけど、何度だって言うけど、オレは別に男が好きなわけじゃないです。から。そこんとこ、ひとつ、ご理解よろしくお願いします。可愛い女の子大好きです。なんて言うと、ロイの機嫌を損ねるから、声を大にしては言えないのだけれど。ほんと、狭量なやつなんだ、あいつは。ほんと、嫌なやつ。オレほんと、あいつ嫌い。 封筒に封をして、あれ、海外に手紙を送るにはどうすりゃいいんだっけ、と悩んだ。昔からオレは、嘘や隠し事をする能力と、演技力と、それから常識に欠ける。男気にも欠ける。ん?じゃあオレには何が十分にあるっていうんだ。精精、記憶力ぐらいか。我ながら、なんていうセールスポイントのなさだ。ひとしきり落ち込む。 部屋の隅にある、勉強机から立ち上がった。都心のお洒落なカフェからかっぱらってきたんじゃないかと思うほど意匠に凝ったもので、とてもじゃないが勉強用には見えない。それでも造りつけの棚には、例によって司法試験関係の資料がぎっしりと犇きあっていた(弁護士を志しているということはもうオレにバレてしまったので、隠す気もないらしい。かなり堂々としている)。 家具のセンスも良いよな、とオレはロイを恨めしく思う。なんなのだ、あいつは。あの、ロイ・マスタングとかいう男は。ロイの美点を見つければ見つけるほど、あいつが嫌になる。 なんだって、こんなに差があるんだ。同じ年代生まれ、同じ男、同じ哺乳類、同じホモ・サピエンス、同じクロマニョン人の末裔、染色体の数だって、一緒だ。それなのに、なんだってこうも異同が生じるのかが、わからない。神は二物を与えないだなんて最初に言ったのは誰だ、否、たぶんオレの先祖とかだろうな。まさに、今のオレのような境遇に陥って、負け惜しみ半分で言ったに違いない。人類皆平等?ふざけんなよ、という心地だ。そんなことを高言しているのはみんな、水準以上の幸福を持ちえているやつらだけなのだ。 今度、ロイに聞いてみよう、と思った。「人類は皆、平等だと思うか?」 あいつは絶対こう答えるだろう。「そりゃ、まあ、そうなんじゃねーの」 死んでしまえ。 その、人類皆平等を信じてやまないだろう腹の立つ男は、まだベッドの中で寝息を立てていた。オレがロイより先に起き出すなんていう珍妙な事態は、ロイと出会ってから、まだ二、三回目ぐらいである。でも、今までのケースは、トイレに起きたりだとか鼻血が出て起きたりだとか、そういう一種のアクシデントを伴ったためにオレが先に覚醒した、というようなものだけだったが、今日はなんとはなしに、オレの方が早起きだった。理由もなく。アクシデントもなく。尿意もなく。鼻血も出ていないのに。 目が覚めた後、ロイの発するだろう第一声を想像してみた。 「今日は学校を休んで、家にいたほうが良いな」そして眠気眼をこすりながら、こう続ける。「今日の天気はたぶん、晴れときどき槍、だ」 想像するだけでむかついた。胃がむずむずと痒みを感じ、ありとあらゆる内臓や小器官が炎症を起こすような、そういうやり場のない腹立たしさに襲われる。 同時に、オレのセールスポイントをひとつ発見する。『想像力』。そう思いついた直後、今どき想像力の有無で恋人を選ぶ女子がいるだろうか、と考え、いるわけがない、という結論に至る。「わたしエドワード君が好きなんだよね」「えー、どうして?」「だって彼、想像力に富んでいるじゃない」、昨今の女子高生の間で、こんな会話がありえるか?常識的に考えて、ありえない。ひとしきり落ち込む。 はー、だからオレは駄目なんだよ、と日に日に自虐的になっていく自分にも気が付かないまま、ふと、勉強机のわきに置いてあるダンボールに目がいった。そこには夥しい量の手紙が収まっている。これで何箱目だっけ、とオレは茫々と記憶を手繰った。 ダンボールの中に手を差し入れてみる。理由は、暇だったから。とりあえず、そういうことにしておく。 オレ宛、ロイ宛、と最初は丁寧に分けて収納していたのだが、今はすっかりひとつの箱に混在している。むろん、その内のほとんどが、学園内の奇怪とも言うべき党派たちからのものだ。その内の、ほとんどが。ほとんど、ということは、例外もある。そのアウトロー的な手紙を探している。 ちら、と一度ベッドのほうを確認した。ロイが目を覚ます気配はない。だって、まだ五時半になったばかりだ、オレが目覚めたのは四時頃だった。瞼を開き、時刻を認め、なんでこんな時間に起きたんだろう、と原因を考えてみて、すぐに緊張のせいだ、とわかった。 ロイの隣りで眠ることに、緊張を感じる日が来ようとは。オレはロイの身体から二メートルほど距離のある床に座り込んでから、愕然としていた。愕然というよりは、感動に近かったかもしれない。光あるところには必ず影があると知ったかのような、無知という迷宮から解脱したときの感動、みたいな、いや、そりゃちょっと大袈裟だな。 なんて、そんなことをぼんやりと思案している間に、オレはダンボール箱からお目当ての封筒を探し当てた。乱暴な開け方とはいえ、これだけ、封が開いている。なんだよ、無関心そうだったわりには、ちゃんと読んでるんじゃねーか。複雑な心境で、オレは顔をしかめた。 可愛らしい桃色の封筒に暫しうっとりしてから、もう一度ロイのほうを見て、中から便箋を取り出した。 指紋がつかないように手袋を持ってこようかと思ったが、これは単なる興味というか、好奇心というか、そういうものなので、盗み見とか、断じてそんなんじゃないのだ、だから指紋がついたってオールオッケー、という考えによって、手袋案を打ち消した。そもそも、ロイのものはオレのものであり、オレのものもオレのもので、あ、知ってます?オレ、ジャイアンのファンなんですよ。 ぶつぶつと言い訳しながら、丁寧に折りたたまれた便箋を開く。まるでいっぱいに膨らんだ蕾が、きたる時を待って開花したかのような、そういう開き方だった。ふわり、と甘い芳香が漂ってきたように思えたが、それはオレの錯覚だろう。 『親愛なる、ロイ・マスタング様』 親愛なる! その手があったか!と、オレはそれだけでノックダウンした。案に違わぬ、流麗且つ可憐な筆致。これをもしパソコンのフォントにすることが可能なら、爆発的にヒットするに違いない(オレなら当然のように手に入れ、後生そのフォントしか使わないだろう)。 『ご無沙汰しています、カリンです』 本文の一行目でオレに襲い来る波状攻撃。もう駄目だ、なんだってこんなに素敵な女性が存在するんだ。そして、なんだってこんな素敵な女性を振る男が存在するんだ。全くもって、このオレでさえ、理解不能だ。そんな男は、死ねば良いさ(自虐的になればなるほど、なんだか嗜虐的にもなっている気がする)。 白状しよう。ダンボールを漁った理由は、退屈からじゃない。 『だって、ロイったらわたくしが手紙を出しても音沙汰無しで、夏休みに帰省したと思ったらわたくしが会いにいく前に帰ってしまうんですもの』カリン嬢が以前そんなふうに漏らしていたことを思い出したのだ。 それは別に、内容が気になるだとかそういう事ではなくてですね、ただ、カリン嬢の字をフォント化することが可能かどうかを確認するためだったんです。と、弁明する自分を思って、再三にわたり、自分の嘘の才能のなさに、がっかりした。 内容は、当たり前だけれど取り立てる程のものでもなく、他愛もない、それでいていじらしい、そんな文章がこちらに微笑みながら延々と並んでいた。ついつい、オレも釣られて微笑んでしまう。 そちらの学校生活はどうですか、こっちの高校の規則は厳しすぎて嫌になってしまいますわ(ここで、カリン嬢も高校生なのだということを知った)、足を怪我していたおじい様はもうすっかりお元気ですわ(おじい様、という部分に十秒は見惚れていた)、等々、純真可憐な彼女の日常が、ピンクの便箋の上で軽やかに踊っている。この手紙をお湯で煮て、ソースでも掛けて食せばオレにもこの可憐さが手に入るだろうか、と真剣に悩む。 オイオイ男に可憐さなんていらねえだろ!と見えない誰かに突っ込んだところで、 「・・・・良い趣味だな」声がした。 びく、と両肩を聳やかした拍子に、手の中の手紙を少しぐしゃっと握りつぶしてしまった。しまった、と天使の手紙を、開花したばかりの桃色の花を、傷付けたことを自責する余裕もない。お、起きてきやがった。なんてタイミングだ。 「盗み見の趣味があるとは、初耳だ、覚えておこう。単語帳の表に『エドの趣味は?』、裏に『盗み見』と書いておかなくちゃだな、テストに出そうだ」 「・・・・ち、違うって」恐ろしさのあまり後ろを振り返れないまま、肩を縮め、答える。 「これが盗み見じゃないとすれば、双眼鏡で向かいのマンションに住む女性の着替えを覗いたって、合法だな」 「お前の喩えはスケールが違うだろ!」カチンときて、ばっとロイのほうを振り返った。 「なんでお前が怒るんだよ、立場が逆だ」 振り返った先には、いつもより輪をかけて白い顔のロイがいた。低血圧だから、起き抜けのロイは顔色が悪い。かと言って、オレを詰ったり説き伏せたりするロイの滑らかな弁舌は、朝だろうが夜だろうが大差ない。 「・・・・でも別に、大したことなんて書いてないだろ」 オレの手の中の手紙を覗き込みながら、ロイが言った。立場が逆だ、なんて言っていたけれどロイは別に怒っているふうでもなく、まだ夢の残滓があるような目で、手紙を見ている。「他愛も無い手紙、というのは世界で一番扱いに困るよな」なんて返事をすれば良いのか、さっぱり分からないだろ、とロイは言い詰めた。 「おっ、お前、カリン嬢のお手紙になんて言い草だ」 「おっ、お前、それを盗み見した奴がなんて言い草だ」オレの口調を真似て、ロイが言う。 オレの内臓が唐突に炎症を起こす。まさしくそんなふうにして、腹が立った。目の奥にカッと火が灯るような気がした。「うっさい!」 「だからなんでお前が怒るんだよ」ロイはあっけらかんと笑ってみせ、その笑いがおさまると、勉強机の上に横たわっていた封筒に気が付いたらしい。「ん、手紙?誰かに出すのか」 まだ目の奥の火が消火しないまま、「・・・・弟」とすげなく答える。 「あ、そういやエド、弟いたんだっけな。ドイツさんに留学中の」 「そう、ドイツさんに」どうして二人とも、ドイツにさん付けすることに対して突っ込まないのか。 「ドイツに留学してんのどいつ?」 「美形は駄洒落を言ってはいけないという法律があるのを、お前は知らないのか?」 「一応弁護士の卵なんですけど、そんなの見たことないですなあ、第何条?」 「『美人ネット』の法律だよ」 「だからなんなの、それ」 腹が立つし、むかついてしょうがないけれど、そうやってへらへらと笑うロイを見ると、まるでオレが犯してきた些細な罪や後悔、あとは自責の念だとか自罰的な自分なんかが全て「いいよ」って許されたような気持ちになって、快い。なんでだろう、と思うけれど、こればっかりは一生解けない謎だろう。少なくともオレには、解けそうもない。 さて、とロイが背伸びした。冬眠を終えた啓蟄の虫たちのような清清しさで、身を覆っていた殻を破るように、腕をいっぱいに上へ伸ばす。そうしてから、疑問口調で言った。 「おはようのキスでも、しますか」 ゴン。ぐしゃり。 オレは後ろの壁に頭をぶつけ、手の中の手紙を、開花したばかりの桃色の花を、もう修復不可能なぐらいに握りつぶしてしまった。 「・・・・ふ、」オレは何がなんだか分からぬ感情に打ち震えながら、弁護士の卵に問う。「ふざけたことを言う奴は、殺しても良い、っていう法律は、あ、あるかな?」 「多分ないと思うなあ」 ロイはいけしゃあしゃあと笑った。 *** 箸で人を指すんじゃねえよ、というオレの難詰は、ブロッシュが発した質問によって封じられた。 「ねえ、君らってもう合体してんの」 オレは財布を持って立ち上がる、かと思った。『モラル』というものがどこに売っているのか、海外へ手紙を出す方法も知らないような常識知らずのオレには到底予測もつかなかったけれど、それでも財布を持って、すぐにでも世界中の売店を駆け回れるぐらいのパワーに変換できる、焦燥があった。それから、羞恥もあった。どこかで慌ててそれを買ってきて、ブロッシュに押し付けなければならなかった。 オレは財布を持って立ち上がるかわりに、手に持って口に当てていたお吸い物入りのお椀を落として、カレーの中にぶちまけた。同時にワイシャツにも、お吸い物と皿から跳ねたカレーが嬉々として飛びつく。白い手袋と赤いズボンを身につけたネズミがたくさんいる遊園地で、そのネズミの着ぐるみに群がっていく子ども達のようだった。 そんなオレのあからさまな挙動に、食堂中の視線がこちらに集まる。 「あっ」と不機嫌そうな声をあげたのは、隣りに座るロイだ。「お前、人が洗濯してやってるワイシャツを、無闇に汚すんじゃねーよ」 「洗濯してるのはお前じゃない、洗濯機だ」ブロッシュの不躾極まりない質問を無視して、そんなことを呑気に心配できるお前の神経が理解できない、と思いながら、オレは皮肉る。 「洗濯機も碌々まわせないようなやつが、皮肉を言う資格はない」口うるさいロイは言い返してくる。 「ねえ、君らってもう合体してんの」箸でオレのほうをピッと指したまま、ブロッシュは繰り返す。 「二回言うなー!」オレは眼前の、モラル皆無の学生に向かって吼える。「二回言うなー!」オレも負けじと、二回叫んだ。 「やっぱりさ、お尻を使うのかな」ブロッシュは、小学生がなぞなぞを解き明かすような楽しげな顔で、回答を求めている。そして、「ひえ、いったそッ」とわざとらしく顔を歪める。 そのブロッシュの歯に衣着せぬ物言いが引き起こした激しい眩暈に、オレは嘔吐さえしそうだった。「は、は、吐きそう・・・・」オレは『モラル』というものが著しく欠如したものに接触すると、吐き気を催す、という新発見をした。 お吸い物に溺れるカレーから目を逸らした。食べ物を見ていたら、本気で吐きそうだ。 「今度は吐瀉物で汚す気かよ、洗うのは俺だぞ、否、洗うのは確かに洗濯機だが、まわすのは俺なんだからな、耐えろ!」 この三人のちぐはぐな会話はなんなのだ。 「だ、だれか・・・・も、モラルを恵んでくれ、」この目の前の男に。オレはパンを乞う餓死寸前の人間のような、重苦しい声をあげた。 「女役はどっち、って聞くまでもないかしら」ブロッシュはそんなオレなど見てみぬふりで、続ける。どうやらオレを殺そうとしているらしい。 ロイはオレがこぼしたお吸い物を台ふきんでせっせと拭いている。主婦か、お前は。 「お前、あんまりエドをいじめるなよ」台ふきんを机の隅に寄せて、ロイはブロッシュのほうを睨んだ。「エドがそういう経験に乏しいの、知ってんだろ」 ロイは、オレを庇っているように見せかけて、ブロッシュに加担している。誰か、オレにナイフを与えてくれ、人二人刺しても大丈夫な仕様の、鋭利なナイフを。 「やっぱりまだかあ」ブロッシュは残念とも歓喜とも取れぬような曖昧な表情で言った。「まだおあずけ食らわされてるのね、可哀相に、ロイ君・・・・我慢強いな、君は。偉いよ」 「お、オレ、きゅ、休養室、い、行ってもいいかな」ぐらぐらと揺れる視界に鞭打って、テーブルに手をつきながら、オレは立ち上がろうとする。濡れたワイシャツが肌に付着して、気持ち悪い。そもそも、お吸い物をこぼして熱かったはずなのに、全然そんな感じがしなかった。感覚が麻痺しているらしい。 「おい、大丈夫かよ」ロイがオレを支えようとした。「病的な初心だな」もはや天然記念物だぞ、とロイは悪びれもせずに呟く。 その言葉に、怒りによってオレが半泣きになり、ブロッシュがけらけらと笑い、囃す。「可愛いな、可愛すぎるね。送ってけ、ロイ!初合体は休養室っ、うーん、実にマニア向けで、いいんじゃない」 なんなの、こいつら。 オレはわなわなと拳を震わせ、赤らんでいく顔を制止しようと躍起になっている。もうヤダ、もうヤダ、と心中で念仏のように唱え、登校拒否にもなりかねない心境を持て余している。 休養室はともかくとして、その場を辞そうと席を立ったオレの背後から、ロイがオレを支えるべく手を回す。その自然な動作があまりにも紳士的で、主婦なのか、紳士なのか、お前はよく分からん奴だな、とオレはやるせない苛立ちを覚える。 「触んじゃねえ、変態共ッ!」オレは敵愾心をぎらぎらと剥き出しにした尖り声を発しながら、ロイの身体を肘鉄で殴った。「死ね!一秒でも早く死ねッ」 オレは本気で怒っているのに、ロイやブロッシュはどうしてそこで、笑うのか。心の底から、不思議でならない。 大好きなカレーも置き去りにして、オレは食堂を飛び出した。 『モラル』を買いに出たわけじゃないけれど、それの著しく欠如した物体から、距離を置きたかったからだ。 『モラル売り場』なるものが存在するならそこへ無心で走っていったのだが、そういうわけにもいかず、行くアテがなかったので、やっぱり休養室に訪れた。 どうしてこの学校は「保健室」ではなくて「休養室」なのだろうな、設備的にはほとんど変わらないのに、と疑問に思いながらも、覚束ない足取りの自分を叱咤しながら、扉をくぐった。「病院」と「医院」の違いとか、そういうことなのかな、とどうでもいい事を考える。確か、ベッドの数で「病院」と「医院」が区別されるはずだった、と、これまたどうでもいい知識を引っ張り出す。 もういや!っていうぐらいに事務的な、くすんだ灰色をしたデスクに向かっていた保健医が顔をあげた。オレの存在に気が付いたらしい。「あら、エドワード君・・・・どうしたの、すごい顔色よ」 はあ、とオレは溜息とも肯定とも取れないような返事をする。 「今日はマスタング君が一緒じゃないのね」それは、オレが一人で学園内を歩いていると、必ず五回は他人に言われる台詞だった。オレはまた、はあ、と今度こそ溜息と化した声を出す。 「どうしたの、気分が悪いの?」 「・・・・モラルが足りなくて」真実を伝えたのに、 「ちゃんと質問に答えなさい」怒られた。「昼食は食べたの?」 「・・・・モラルの欠如した物体に、食事を中断させられました」これも真実だった。 保健医はオレがふざけていると思ったのだろう、それなら横になりなさい、とおざなりな促しでオレの背中を押し、文句あるか!っていうぐらい事務的な、教師用のデスクに戻った。オレはその促しに抗いもせずに、ふらりふらりと、足が藁にでもなったかのような頼りなさでベッドへ向かいながら、モラルを、モラルを、と鬱々と念仏を唱えている。 しかしオレはよくここへ来るよな、と自分の不健康さや不運さ、虚弱さにうんざりしながら、湿気もないのに何故だか湿っているベッドに潜りこんだ。頭の上に聳える壁には、『かわいい子、誰かヤろうぜ!絶対イカす』といった己の性衝動を抑圧できていないらしい奴の台詞やら(その文のわきに携帯番号が書いてあったようだが、薄れてしまって解読できない)、ガチャピンが左、ムックが右に記してある相合傘(これは、気持ち悪くも愛らしいカップルだ)、『大好き、でも嫌い、でも好き』という詩的な、それでも不毛且つ矛盾だらけの葛藤を表現した文字(結局どっちなんだよ、とオレが突っ込んだことは言うまでもない)なんかが落書きとして刻まれている。 オレも付け足そうかな、と考え、ペンを探すが、なかったので諦めた。ペンが側にあったなら、むろん、こう書いた。『神よ、モラルを』。 壁の落書きを見つめるのにも飽きて、布団を頭まで掛けてしまうと、保健医が衝立の向こうで、「あら、マスタング君」と言うのが聞こえた。 布団がめくれ上がるんじゃないかと思うほどオレは身体を震わせて、布団の淵を掴んだ手に力を込める。お、追いかけてきやがった。 保健医は続ける。「やっぱりあなたたちはいつでも一緒なのね」ご満悦そうな声音だ、そういえばこの保健医もロイエド党なる不可解な一派の一員の可能性があったんだった。 その保健医の言葉を受けて、「エド、来てますか」とロイが確認する。ちょっと息が切れている、走ってきたのだろうか。オレはもう一度ペンが欲しいな、と思う。こう壁にごりごりと記したかった。『廊下を走るな、恥ずかしいやつめ!』。 「そっちのベッドよ」という保健医の声がこちらまで届く。きっとオレが寝そべっているベッドを指差してでもいるのだろう。保健医は優雅に、「どうぞ、ごゆっくり」と言い詰めた。何をだよ、とオレは布団の中でいきり立つ。 ベッドの側にある衝立がカラカラと動いた。オレはベッドの底が抜けるんじゃないかと思うほどに飛び上がる。目だけを布団から覗かせる、そこにはやはりロイが立っている。 「・・・・見つけた」やはり少しだけ息を切らしているようだ。 「・・・・見つかりました」オレは声に悔しさを滲ませる。 「おめでとう」 「ありがとう」いとも容易く、見つかりましたよ。 たとえばオレが海で漂流したり、山で遭難したときに、真っ先にオレを見つけ出すのはロイに違いないだろうな、と思う。捜索隊なんかの専門的な捜索方法とか器具とかを用いなくても、ロイは易々とオレを探し当てるだろう。そして、「見つけた」と言って笑うのだ。 そこで沈黙が流れた。別に気まずかったりする沈黙ではなく、単にロイがオレの言葉を待っているような、そんなものだった。何も言わぬまま、ロイはベッドサイドの椅子に腰掛ける。 何も言わないロイにオレばっかりが焦って、何を言えば良いのかとうろたえて、布団をひたすら握る。友達じゃなくて、恋人の場合は、こういうときに、どんなことを言えば良いのだろう。さっぱりわからなかった。だって、オレは常識知らずだから、しょうがない。 オレがまともな言葉を探し当てられないことを察したのか、口を開いたのはロイだった。 「ブロッシュのことは、気にするなよ」 やっぱり話題になるのはそこかよ、とオレは泣きそうになる。だけど、気にするな、と言う言葉を耳に受けて、ほっこりと心が温まるような、じんわりと心が効能のある温泉に浸かったような、そういう安堵感も感じた。 「あいつはあいつなりに、応援してるつもりなんだろ」たぶんな、と付け加えたロイは、物凄く寛大な解釈で、ブロッシュの言葉を理解しているようだ。「俺は待つから、って言ったろ。そんなに俺だって焦ってないから」当たり前だろ、と呆れたような声で、ロイは言う。 どうしてこんなに違うんだ。オレは今のロイの言葉と、『かわいい子、誰かヤろうぜ!絶対イカす』と落書きしただろう人間を、比較した。どうしてこんなに違うんだ、同じ男子高生なのに。 「ただでさえ経験無いのに、初回が男同士なんて、そりゃ思い悩んで当然だ」今度は、含み笑いを乗せている。 ロイはオレが怒るように仕向けたのだろう、そんなことぐらい分かっているのにそれでもやっぱりオレは怒って、ガバリと上体を起こした。「けっ、経験、な、無いとか、言うなよ!」 「だって実際ないでしょ」ロイはあけすけだ。経験者の見せるなみなみとした余裕が、そこにはある。 うぐっ、とオレは詰まるが、負けるか、と意地を見せた。「あるさ、ありまくりだな!ありまくりでイチイチ喋るのも面倒なんだな!手の指足の指その上髪の毛だって駆使しても数え切れない、それぐらいには、あるな!」 はは、とロイが我慢しきれない、というふうに笑う。そうなんだ、ごめん知らなかった、そりゃ大ベテランだ、とオレを小馬鹿にするように言った。むかつきながら、オレはまた身体をベッドに倒す。 「可愛いなあ、エドは」笑いを引き摺りながら、ロイが何気なく漏らした。 蜂が蜜を求めて花にとまるように何気なく、さも当たり前というようなその言葉に、オレは全身全霊で、照れた。なんでそういうこと、さらっと言うんだろう、こいつは。オレほんと、こいつ嫌い。 『大好き、でも嫌い、でも好き』の落書きを再度思った。どっちだよ、とオレは突っ込んだけれど、なるほど、今ならよく分かる。 嫌いだけど好き、好きだけど嫌い、矛盾しているようで、とてつもなく正しい、そんな心境だ。よく分かる。よく分かるから、なんだか、どうしようもなく泣けてくるのだ。 布団からおっかなびっくり、顔を出した。井の中の蛙が、初めて井から抜け出して外界を目の当たりにするかのような仕草で、ロイの方を見る。ロイは、あまりにも眩しくてもしかしたら使用回数とか使用期限とかがあるんじゃないかと思うような笑顔を、惜しげもなくオレに向けている。きっとロイの一生のうち一万回位しかすることを許されない、そんなまばゆい笑顔を、オレは一体どれほど独占してきたんだろうか。 オレはずるい奴だな。 ロイが井から顔を出した蛙、つまりオレに気付いて、上半身を前にもたれた。ぐっとこちらに顔を近づけて、目を裂けそうなほど見張るオレに微笑んで、オレが硬直したのを見届けたら額に口付けをして、言った。 「お前が可愛くてしょうがないよ、」そうして、オレの瞼を触る。「お前が好きでしょうがない」 そんなことを言われるオレは、どうしようもないです。 オレだって、嫌なわけじゃない。ロイと、恋人同士みたいな、いわゆる、ブロッシュの言うところの、が、合体(ブロッシュの奴はなんて言語に対するセンスが無いんだ)、とか、そういうの、嫌なわけではない。そっ、そりゃ、そう。だって、もう友達同士じゃないんだ、もの。 だけどそんなこと言ったら、ロイはまた有頂天になってオレをいじめるに決まっているから、やめておく。お前も、ちょっとは苦しめ、とオレは心の中で唇を尖らせる。 「ば、ばかじゃないの・・・・」オレは布団の中へ戻る。外界のあまりの輝かしさに耐え切れなくなって、井の中に舞い戻った蛙だ。「そ、それ、どうなの、」真っ赤になった顔はいつだってオレに、意味不明な発言をさせる。「ど、どれぐらいなの」 どれぐらいなの、というオレの意味不明な言葉を、どれぐらいオレが好きなの、と勝手に解釈したらしいロイは、いつもみたいに含み笑いを孕んだ声で、答えた。 「そんなの言葉にしなくても、ベッドの中でなら、いくらでも伝わると思うけど」 ロイはいけしゃあしゃあと笑った。 追伸、アルフォンス・エルリック様。 ドイツに、『モラル』は売っているでしょうか。 できれば、二人分の。 そう書き足して、ポストに投函しようと思ったけれど、そういやもう封筒に封をしちゃったんだ、と思い出した常識知らずなオレは、ベッドの中に潜ったままあんまりにもモラルに欠けたオレの恋人らしい男に、ひたすら悔しさを噛み締めて、半べそをかくしかなかった。 お前の偉大な兄さんは、こんな情けない状況下にいます。 敬具。 第三部始動です〜!やっとこさ・・!一年以上掛けてやっと第三部までたどり着いた、という感じです・・! これも偏に皆様のあたたかい励ましのお陰です・・!// 本当にありがとうございます! 完結までなんとか突っ走りますので、どうぞ最終部もお付き合いいただければ幸いでございます・・!^v^* |