えぐっ、と右隣に腰を下ろすエドが奇怪な声を零す。彼の手にはティッシュ、そして彼の前にも無数のティッシュ。エドの涙と鼻水を吸い込んだ湿気二百パーセントのティッシュたちが、テーブルの上に堆く積まれている。
そしてエドの隣に座っているロイは、エドの手に握り締められたティッシュが「もう限界」と涙に溺れかけそうになる頃合を見計らって、絶妙なタイミングでエドに新しいティッシュを渡している。まさしく阿吽の呼吸、つうかあの仲、刎頚の交わり、管鮑の交わり、莫逆の友──この二人の仲を表現するにはどんな言葉を当てはめればいいのか、ド理系のオレにとって判ずるのは困難を極めるけれども、とりあえず言えることは、エドはどんな熱心な「ロイ様党員」よりもロイにぞっこんだし、ロイはエドを狂信するエド様党員よりも、エドに首っ丈、まったくもって、エドしか見えていない。それはもう、見ているこっちが恥ずかしいほどに(ここで重要なのは、そのことを本人たちはわずかも自覚していないところだ)。
つまり現在、そんな冷静且つ至極的確な目線でロイとエドを考察しているオレは、エドではないし、もちろんロイでもない。
「なんでお前、泣かずにいられるんだよ……、」せっかくの綺麗な二重を腫れぼったくさせて、エドがこちらに声を投げてきた。その短い台詞を紡ぐ間にも、彼は四度鼻を啜った。「なあ、ブロッシュ」
皆様初めまして、ご機嫌麗しゅう。デニー・ブロッシュと申します。
「あのね、悪いんだけど」オレはため息混じりで、エドが目を血走らせながらごり押ししてきた「メトロ」を見ても涙できなかった理由を説明する。「字幕なしで洋画を見られても、オレには理解できません」日常英会話程度ならともかく、この映画は専門的な鉄道関係の単語が遠慮会釈もなしにぽんぽんと飛び出してくる。序盤は逐一エドに単語の意味を聞いていたが、だんだん面倒になったのだ。「君たちビックリ人間と一緒くたにしないでくれる」
「ビックリ人間とは」と、エドが言い差し、
「失礼な」と、ロイが言い詰める。
こいつらの息の合いようには、金婚式間近の夫婦も真っ青だな。

というわけで、今回は不肖ながらわたくし、デニー・ブロッシュ、またの名を「エド様とロイ様の金魚のフン」(この種々の党派からの陰口は、正しくはエド様とロイ様のフン、になるはずなのだろうが、エド様とロイ様はフンなどしないという考えから「金魚」が引き合いに出されている、らしい。まったく、異常としか言いようがない)、またの名を劣等感の塊、が皆様にハートフルなお話をお届けしようと思う。だって、そろそろ皆様も、ロイとエドの血を吐くようなバカップルぶりに、嫌気が差してきておられるはずだ。むしろよくぞここまで、お付き合いくださった。お互いしか目に入っていないくだんのお二人の代わりに、深謝いたします。
ラブイズブラインド。そういう昔からの言い伝えもあるわけですし、許してあげてくださいな。

エドみたいに器用には喋れないかもしれないけれど、もしよろしければ飛ばさずに、お時間拝借いただければと、存じます。

 
★三毛猫ヤマト★ V
--第二便--
 

朝番組で占いのコーナーを担当しているロスというキャスターがとても可愛いので、オレは毎朝チェックするようにしている。ロスキャスターが告げた本日のオレの運勢はなんと最下位、たいへん嘆かわしい。しかしながら最下位だけには、鬱勃とした気分から浮上させるためなのか、その日のラッキーアイテムが与えられる(だから、最高に朝から気を塞ぐ羽目になるのは、得てしてビリ2、つまり十一位の星座だったりする)。
今日のラッキーアイテムは、流れ星! キャスターの可憐な声音を思い出す。流れ星って「アイテム」っていうのか? というささやかな疑念は見ないことにする。ロスキャスターの言うことに、間違いはないのだ。
だが、窓枠で切り取られた小さな今日の空は、午後を過ぎた辺りから雨模様だった。この曇天では、どうやら流れ星は見られそうにない。ドンマイだ、ロスキャスター。こういう日もあるさ。
下校時間と共に降り出したら厄介だな、なんて茫々と思考しながら頬杖をついた、瞬間、因数分解のコツについて冗長なご高説を披露なさっていた教員に、次の解答を名指しで求められた。デニー・ブロッシュ、というあまりに聞き慣れた、自分を意味する固有名詞を突然に告げられ、安定を保っていた頬杖は崩壊しかけた。
脳味噌をフル回転させて解答を導き出す、数学は得意分野だ。オレが医者であれば、患者に荒治療と嘆かれるような解答の出し方だったが、幸運にも正解だったらしい。たとえ荒治療でも、病気が治ればそれで良いのだ。たぶん。

下校時間まであと三十分程度。エドは寝ている。ロイも寝ている。教師はもはや彼らに何も言わないし、言ったところで聞き入れなどしないだろう。それは決してロイとエドが、若さという世界一素晴らしく、世界一人を馬鹿にさせる要素のせいで、教師に反抗の牙を剥き出しにしているからというわけではない。彼らは、本当に眠いのだ。心から眠く、眠いからこそ、眠るのだ。退屈だから寝る、というときもあるにはあるらしいが、それで本当に睡魔がやってくることは賞賛に値する。
教師に粗暴な振舞いで食ってかかって反発するなど、そんなくだらないことに彼らは労力を費やしたりしないのだ。ロイもエドも優秀さで言えば国内トップクラスなのだから、そんなことをしても無益だなんてことも当然承知の上である。目上の人間に従うことは、詮無き争いを避けるための最重要項目だ。だけど、睡魔には勝てない。「だって眠いんだもん」。理由はそれだけだ。
入学当初は、そういった二人の授業態度や、品行方正とは口が裂けても言えない二人の素行を快く思っていないクラスメートも、むろん存在した。日がな机に伏して寝ている、遅刻は日常茶飯事、課題なんていう単語が教師の口から発されるや否や、彼らの耳は突如として有給休暇をとる。それでいて、あくせく泥まみれになってガリ勉に勤しんでいるやつらでも、ひとたびテストになれば一向に二人に歯が立たない。更に言えば、ギャグのような美形。運動神経も抜群。笑っちゃうでしょ? そんなやつ本当にいるのかよって思うでしょう。これが、いるんですよ。しかも、二人も同時に。世の中ってのは広いね。オレもこの目で見るまでは、信じていなかったし、信じたくもなかったんだけどさ。
さて、考えてもみてくださいな、そんなやつが実際あなたのクラスにいれば、僻みの対象になることなど火を見るより明らかでしょう。それは人間という美しくも卑しい生き物の、もはや自然ともいえる連鎖なのだ。赤ん坊に飲ませる母乳には、嫉妬という言葉が混ざっているのだ、間違いなく。だから、スーパーで売っている牛乳のように、母乳は美味ではないのだ。
そりゃ、オレたちが今血眼になって努力していることを、彼らはどこかで済ませてきているはずである。生まれた瞬間から因数分解が解ける人間なんて、それこそ夢物語だ。残念ながら母乳には、因数分解の公式などは溶けこんでいないのだ。本当に残念だが。
彼らは、オレたちの見知らぬところで、言い換えれば、オレたち凡庸な一般人とはもっと違う次元で、血の滲むような刻苦を重ねてきた奴らなのだ。だからあんなに悠然としているのだろうし、だからテストだって出来るし、字幕なしで映画を見られるし、だから教師だって彼らを認めている。
そういうことにからくも気がつくことができて、嫉妬という陰惨なトンネルをくぐり抜け、彼らを芳しくは思っていなかった奴らの視界に、ようやく「尊敬」という景色が見えてきたのは、本当にここ最近の話だ。僕たちだって頑張っているけど、あいつらだって、頑張ったやつらなんだ、というなんとも当たり前なことを悟るのに、随分と大層な時間を要したけれど。
ロイもエドも、クラスメートがわからない問題を尋ねにくれば、どんなに眠そうでも、起き抜けでも、乗りたい電車の時間が迫っていても、必ず懇切丁寧に問いに答えてくれる。「オレの特技は勉強くらいしかないからさ、役に立てたなら嬉しいよ」なんて謙遜まで、熨斗をつけて渡してくれるのだ。こちら「凡庸な一般人」サイドはもう、僻みや嫉みなんていう感情を一瞬でも覚えた自分に対して、慙愧に堪えないという心境になってくる。
出来た奴らなのだ、本当に、いい奴らだ。どんな母乳を飲んで育ったんだ、と問いたくもなる。ややもすれば、あいつらの母乳には本当に、嫉妬の代わりに因数分解の公式が溶けていたのかもしれなかった。
やっぱり牛乳みたいに美味いのだろうか、と思いもするが、そういえばエドは牛乳が嫌いだった。
 
 
下校時間を知らせるチャイムが気だるげに鳴り響き、生徒たちは気だるげに席から立ち上がる。幾つもの頭が立ち上がろうとするその景色は、雨後の筍のようにも見えた。そういえば、嫌な予感どおり、雨がしとしとと遠慮がちに降り出している。雲の陰気な色合いを見る限り、雨脚は強まりそうだ。雨水をたらふく食べてずんぐりと肥えた、今日の雲はそんなふうに見える。
チャイムを目覚まし代わりに、ロイとエドは伏せていた頭をむくりと持ち上げる。ロイは時計を確認すると、出し抜けに瞳を爛々と輝かせ始めた。なんだ? と疑問に思って見ていると、お二方と目が合う。そのノリで、なんとなく三人で昇降口に向かって歩き出した。
げえ、とエドが荒んだ重低音を、窓に向かって繰り出す。「降り出しやがりましたよ」
「俺の言う通り、」ロイはしたり顔でエドを見下ろしている。「傘を持ってきて正解だった、エドは散々朝ぐずったけどな」
「うるせえ、人間アメダスめ」とエドは舌を出して、
「ざまあだな、ただの人間め」とロイは不敵に笑む。
とても国内トップクラスの学生同士の会話には聞こえないが、こういう、ちゃんと「バカ」しているところも彼らの美点だと、オレは思う。親近感が持てるわけだ。年がら年中李白の「静夜思」などについてしかつめらしい顔つきで語られたりしたら、凡庸な一般人サイドのオレとしては敵わない。
「ハイハイ、喧嘩しないの」仲介役のオレは宥めすかす。
取留めもない憎まれ口を叩きあいながらも、お二方はつい先日、見事に恋愛を成就させた。ご周知の通り、わたくしデニー・ブロッシュの華麗な暗中飛躍のおかげで。
まだ<それらしい>展開にはなっていないようだけど──とオレがここまで愚考を巡らせたところで、昇降口に到着した。地面に敷かれたスノコ板が、湿気でぞっとしない音を立てている。
「そういや、」エドが陽気な口調で切り出した。「今からオレたち、新作の映画見に行くけど、ブロッシュも行くか?」
ロイの目が燦然と輝いている理由がわかった、彼が私淑する映画監督の新作なのだろう。オレは笑顔を作って首を横に振る。「お誘いは有難いけど、ちょっと今日は図書室で調べ物があるからさ」
そうなのか? とエドは少しだけ眉毛を斜めに下げた。「じゃあ、また明日な」
お二方が、凡庸な一般人サイドの人間にはあまりに眩い微笑を浮かべながら、こちらに手を振って去っていった。二人の身長差は十五センチ強だろうか。お似合いだ。お似合いすぎる。
世界広しと言えど、あいつらに釣り合うのは、あいつらしかいない。

「オレも大概お人好しだよな。エドを想う気持ちを誰にも気付かれないように押し殺して、ロイに譲ってやるんだから。その上二人が上手くいくように助力までしてよ。オレってホーント、オヒトヨシ」
オレは泡を食って背後を振り返った。今の長ったらしいモノローグは、オレの口から漏れ出したものではない。オレの背後にいる何某が、気随気儘にこのデニー・ブロッシュにアフレコしたのだ。聞き覚えのない声質だった、だが、肝要なのはその点ではない。
エドを想う気持ちを押し殺して、と何某は言い放った──一瞬にして血の気が引く。
オレの心が真に誰に向いているか、それを誰にも悟られないように微に入り細を穿ち、心を砕いてきたつもりだ。全ては、一目瞭然で想い合っているロイとエドの間に、余計な波風を立てないためだ。せめてオレが、エドにとっての「二番手」でいられるように。
冗談混じりで想いを伝えたことは幾度となくあった。でも、エドは端から冗談だと思い込んで額面通りにオレの言葉を受け取りはしなかったし、オレもまたそれを望んでいた。それでいいと思っていた。たとえ、捌け口を失って持て余すばかりのこの気持ちを、彼に真摯に伝えてみたところで、彼がオレに振り向いてくれる可能性など一パーセントもなかったからだ。たったの一パーセントも、だ。
オレは理系なので、そんな非生産的で、確率という唯一の希望にも見放されたような行動を起こしはしない。絶対にしない。だったら現状維持、それで十分だ。
エドが、幸せになってくれるなら、それでいい。オレには、彼を幸せにできないのだ。
「エドが幸せになってくれるなら、それでいいのだ、とでも思ってんのか?」
背後に仁王立ちしていたアフレコ男とは、一寸たりとて面識がなかった。お前誰だよ、なんでオレのことを知ってるんだよ、どうしてオレの考えてることがわかるんだ、と滾々と頭に湧いて出てくる疑問と格闘しているオレを尻目に、男は構わず言葉を継ぐ。
「本当、馬鹿のつくお人好しだよな、お前欲とかないのかよ」
男の呼気からは、明らかにニコチンの臭いがした。
「調べ物なんて、本当はないんだろ?」

そいつは彗星のように唐突に、オレの前に現れた。外は大雨、なのに、流れ星。ロスキャスターの言うことは、間違っていなかった。

しかしながら、とオレはキャスターに無音で問いかけた。
こいつが、ラッキーアイテム? ご冗談を、キャスター。

◆◆◆

辞譲、という有難い言葉がある。辞書から意味をそのまま引用してみれば、「謙遜して他人に譲ること」。我が国の、美しき国民性、旗印の一つだ。グレイト。
偶然か必然か、その辺の神様の匙加減などは知る由もないが、オレはこの国に生れ落ち、この国の酸素を吸って、自分の産出した二酸化炭素でちょっとこの国の空気を濁らせながら、とりあえず今日までは幸い凡そ健康、そんなふうにして生きてきた。
これといって特筆すべきような取り柄もないオレだったが、人より少し勉強は出来た。得意科目は、今も昔も変わらず数学。でも中学レベルの問題であれば、全科目それなりに得点できた、見栄じゃなくて、本当に。一応これでも、聖倫ゴールデンクラス(十組のことを、世間はこう呼んでいるらしい)の末席を汚す立場ですから。エドやロイみたいなビックリ人間と比較されたらたまらないが、「凡庸な一般人」のカテゴリーの中では、勉強はできるほうだと自負している。
現に、中学時代はずっと主席を維持してきた──中三の、夏ごろまでは。

あの時のことは、今でも鮮明に記憶している。
その年の夏はやたらと涼しくて、なにが地球温暖化だよ、と気まぐれな太陽を、地球上の人々がこぞって睥睨していた。じゅうぶん寒いじゃねーか、と。ビアガーデンやプールの経営者などは、殊に太陽のサボタージュを憎憎しく思っていたことだろう。それでも当時のオレ達にとっては、怠慢な太陽の罷業ぶりも、温暖化という地球規模の環境問題も、もちろんビアガーデンの奮わない売り上げも、全て瑣末な事柄だった。
受験戦争、真っ只中である。オレが通っていた進学校の生徒たちは一人残らず、学習室か自宅という防空壕に籠り、どうにか自分は「不合格」という被爆から免れるようにと、盾の代わりにシャーペンを抱えて震えていた。
オレだって勿論その内の一人だったので、空調の利きすぎた学習室で聖倫の過去問と対峙していると、隣の男子が小声で話しかけてきた。「おい、ブロッシュ」
声の方へ目を向けると、その男子は、オレの前に座っていた生徒を顎で示した。小柄で、銀縁の特徴的な眼鏡を掛けていたその生徒は、ミスターメガネと呼ばれていた。
「ミスターメガネが、どうかしたのか?」オレも潜めた声を出し、隣の男子の方へ身を寄せる。
ミスターメガネの右手は忙しなく問題集の上を這っていた。まるでなにか霊的なものに憑依され、呪詛を紙面に延々と書き連ねているようにも見える。その呪詛を刮目すれば、まあ、単なる数学の解式なわけだけれど。
「カンドウだってよ」
「は?」脈絡も突拍子もない単語に、オレは顎を突き出した。カンドウ、という音をどう変換するか、悩む。感動か、勘当か。
「今度のテストで一位になれなかったら、カンドウなんだと」親から死刑宣告出されたらしい、と彼は大袈裟に肩を竦めた。受験戦争で神経を尖らせているのは、学生だけではないということだ。変換を「勘当」に確定し、オレは脳内でエンターキーを押した。
ミスターメガネは、いつもオレに次いで二位の位置にいる生徒で、二宮金次郎も真っ青の勤勉家として人口に膾炙していた。二宮金次郎は薪拾いのときにも勉学に勤しんだ、とは有名な逸話だが、ミスターメガネはトイレで用を足すときでさえ、英単語を頭に叩き込んでいる。彼の掌には、常時数個の英単語が書かれているのだ。
「あ、そうなの……」とオレは言う他ない。「勘当とは、穏やかじゃないですネ」
「お前も辛い立場だな」隣の男子の声は唾を路上に吐き捨てるようだった。

親から勘当されるだなんて、最初は冗談、もしくは尾鰭のつきまくったデマゴギーだろうと高を括っていたが、定期テストが近づくにつれ、ミスターメガネの両目が血走っていく様子や、ペンを持つ彼の手がしばしば震えていたりするのを見ると、おちおち笑ってもいられなくなった。あれは、武者震いのたぐいではないだろう。
親から「勘当」されると、子は一体どんな冷遇を受けるのかなどは見当もつかなかったが、ミスターメガネが相当な危機的状況に瀕しているらしいことぐらいは分かった。
だからと言って、オレに、どうしろと? 自問した。否、ミスターメガネの両親に問うていたかもしれない。
勉強というものにはそもそも大前提として得手不得手があるのだから、勉強してもできないのならしょうがない、他の特技を探そう、と割り切って考えられないのは何故なのだろう。学歴社会という、チープなヒエラルキーのせいか。
超がつく、というよりも馬鹿がつく美形で、運動神経も抜群、頭脳明晰、それでいて「特技は勉強くらい」と驚くべき謙遜を見せるエドワード・エルリックのようなビックリ人間はともかく、オレはそれこそ「特技は勉強くらい」の人種だった。文字通り、言葉通り、なんの見栄も謙遜もなく、そうだった。他に履歴書に胸を張って書けるような取り柄はない、強いて言えば、ちょっとテトリスと麻雀が上手いくらいだ。性格は悪くないとは思うが、八方美人なところがあるのは自覚している。
とにもかくにも、当時のオレは、ちょっとだけ勉強ができて、額にできるニキビに悩み、気まぐれに髪にワックスを塗りつけ、女の子に興味だってある、そういう凡庸な中学生だった。
だから、そんなオレから、「勘当」という脅迫にも似た手法で、唯一の取り柄である「勉強」を奪ってしまうなんて、あまりに酷い話ではないですか。今一度、ミスターメガネの親に胸中で訴える。「勉強」を奪い、「無個性」を押し付けてくるなんて、酷すぎる、と。

定期テストが目睫に迫っていた。オレは全科目のテスト範囲を三回ほど復習し、既にそれなりの準備を終えていた。刀を研磨し、兜の緒を締め、歯を食いしばって、チョコレートを飲み込み、戦場に赴く。テスト当日はいつだってそんな心境だ。
テスト一日目、最初の科目は数学だった。得意分野ではあったが、なんとも不思議なもので、勉強をしていればしているほど、テスト用紙を目の前にすると緊張感が増す。なにか見落としていたのではないか、覚え忘れていたものはなかったか、と途端に暗澹たる不安が頭を擡げてくるのだ。
たまたま隣に座っていたミスターメガネはといえば、今にも泣き出しそうな風情である。シャーペンを三本、消しゴムを四個も机上に出して、膝の上で拳をつくっている。しゃちほこ張り、肩を怒らせ、あからさまに乱れた彼の呼吸は、オレの耳にも届くほどだった。
開始を告げるチャイムが鳴り、全員が一斉にシャーペンを掴み、一心不乱に駆動させ始める。オレはいつも通り何回か深呼吸をしてから、取り掛かった。
どの問題も、幸いそれほど頭を抱えることなく解き進められ、あとは最後の二問を残すところとなった。次にオレの前へ聳然と立ちはだかったのは連立方程式に関する問題で、問題文を目にした瞬間、ほとんど間髪を置かずに頭から計算式が流れるように滑り出してきた。その計算式を書き殴り、導かれたxとyの解を記そうとしたところで、ミスターメガネのシャーペンが止まっていることに気が付いた。
彼のシャーペンが鳴らしていた軽快なタップは、オレが現在解いていた連立方程式の問題を前にして、まごつき、足を止めてしまったらしい。まるでタップダンサーが、芝生の上で踊れという無理難題を出されたかのようだった。無茶言うな、という嘆きが、今にも聞こえてきそうだった。
手を止めた彼の肩は、一分ほどの間を置いてから、今度は小刻みに震え始めた。その振動は彼の握り締めるシャーペンの先にまで伝わり、芯がボキリと折れる。あまりにも強い握力で掴まれた、ミスターメガネの震えるシャーペン──溺れる者が藁を掴む瞬間は、きっとあんな感じなのだろう、と頭の隅でオレは思案した。
xとyの解は、それぞれ「6」と「8」だった。その解は問題文に当てはめても矛盾なく一致するから、間違いはないだろう。「x=6」とオレはまず書き、その後で、もう一度ミスターメガネを見た。彼の問題用紙に、水滴の染みが丸くできている。それが涙であろうことはすぐに理解した。
雑念を払拭するように、頭を振った。こんなところで情けをかけて、どうする。それが、彼の為になるはずないだろ。そもそも「情けをかける」だなんて、オレは何様だと言うのだ?
親から勘当される? 知ったことか。こっちだって、必死なんだ。受験という戦時下にいることは、オレも彼も変わりない。
「y=」、と記した。
答えは8だ、8だ、8だ。
分かっていた。嫌というほど。でも、オレはこう書いた。
「y=7」。


解答を知っているのに敢えて誤答する。そんな経験は未曾有のことで、「y=7」と記した瞬間は、足元が崩れ落ちるような感覚がした。ずっと信頼してきたものに突き放されたような感じだった。たとえば、明澄な朝がきて、太陽が高く昇った昼が過ぎても、一向に夜はやって来ず、また次の朝が顔を出してしまったような、違和感だった。
そんな言いようもない違和感を抱き続けながらも、オレは何度か同じことを繰り返した。英語ではスペルミスをし、漢字の書き取りでは空欄を作った。お前は何様だ、と言われてしまうとそれまでなのだが、これがミスターメガネの為になるのなら、と自分に念仏のように言い聞かせた。
まるで自分自身や、あるいは神様に許されない嘘をつくようなその後ろめたさも相当骨身にこたえたが、最悪なのは、その後だった。テストの結果が出た日の記憶は、今でも脳内の箱に色褪せることなく収まっている。その「嫌な記憶を入れる箱」を開けたら、おそらくその記憶が一番初めに目に飛び込んでくるだろう。

オレは見事に、二位だった。感動的でさえあった。
ミスターメガネはオレと十点ほどの差をつけて、順位表の頂にその名を輝かせていた。順位表に黒山を成して群がる生徒たちは、口々に「政権交代」などという言葉を発している。
「ブロッシュもちょっと調子に乗りすぎだったんだよ」「ブロッシュ君が必死に勉強してるとこなんて、見たことないもん」「女ができたって聞いたぜ」「聖学を第一志望にしてるくせに」「大体よ、やる気出ねーんだよ、あいつに毎回一位持っていかれると」「これくらいショック受ければ、ちょっとはいい薬になったんじゃねーの、天才クンには」
デニー・ブロッシュ本人がすぐ傍にいるというのに、ちっとも憚るような様子もなく、周囲の生徒たちは胸の奥に仕舞いこんでいた本音を、ここぞとばかりに吐き出していた。ゴミ捨て場に異臭を放つ生ゴミを投げ捨てるような、そういう言い方だった。
オレは数多の白眼視と罵詈雑言を全身に受けながらも、毅然とそこに立ち続けられるような野太い神経の持ち主ではなかったので、黙って踵を返し、走り出した。ねっとりと身体に纏わり付くような白眼視が、執拗にオレの背中を追ってくるのが分かる。
リノリウムの廊下を駆け、近くにあった男子トイレの個室に飛び込んだ。
施錠し、顔で手を覆い、その手が涙で濡れるまで、五秒程度しか時間はかからなかった。
うっ、と漏れそうになる嗚咽を、ギリギリと食いしばった歯で噛み殺す。
それなら、どうすれば良かったというんだ? オレはどうすればよかった? オレは間違っていたのか?
わからない。

せめて、と思った。せめて、ミスターメガネだけでも、笑顔でいてくれはしないだろうか。じゃなきゃ、オレという犠牲は水泡に帰してしまう。
涙を流すのは、オレだけでいい。

***

「誰だよ、お前」
彗星のように唐突に、そして鈍く光る六等星みたいに野暮ったく現れた眼前の男に、オレは棘だらけの台詞を投げつける。これでもかと敵愾心を剥き出しにしているオレを、まるで反抗期の我が子を見るかのような余裕綽綽の視線で見下ろしてくる時点で、オレはたいへんその男が気にいらなかった。
こいつとは相容れない。即時に直感した。目が合うだけで、直線的な苛立ちが胃の辺りに広がる。
「誰なんだよ、お前は」オレはドスを利かせた声で繰り返した。
「俺を知らないのか?」
男の驚き方は、まるでオレが現在の内閣総理大臣を知らないかのような哀れみの色を含んでいた。
「この学園で、知らないと他人に驚かれる名前は、エドワード・エルリックとロイ・マスタングだけだ」学園長の名前よりも有名だ、とオレは補足する。「お前の名前を知らないところで、驚かれる道理はない」
「敵を前にすると、そんな話し方をするのか」
なんだ? とオレは眉根を寄せる。先ほどから、やけに親しげ、というよりも、まるでオレのことを知悉しているかのような口ぶりだ。秘密裏に自分を調べつくされたようで、気分はよろしくない。そもそも、身辺を調査される理由がない。犯罪に手を染めた記憶もないし、浮気という嫌疑を着せられた夫というわけでもないのだから。
「俺はハボック」ジャン・ハボックだ。男は偉ぶった口調で放つ。
確かに、聞いたことはあるな、とオレは靄のかかった記憶の中から、「ジャン・ハボック」という響きを掘り起こそうと試みる。ジャン・ハボック、ジャン・ハボック、と口ずさみながら掘り進めると、目標のブツに到達した。そういえば朝礼でよく耳にする。その名前が何度も表彰されていたのを、聞くともなく聞いていた。確か、陸上か何かの大会で、優秀な成績を収めていたはずだ。
「なんでオレのことを知ってる」なんでオレに構うんだ、という表現のほうが正しかったが、言い直しはしなかった。
オレの顔と名前を一方的に知られていても、おかしくはなかった。ロイとエドの「金魚のフン」的な存在として、オレの名前もそれなりには学園に知れ渡っているからだ。「……なんで、エドのことを」おかしいのは、これだ。
エドのことを、なんてオブラートに包みすぎて意図の汲み取れないような発言になったが、ハボックと名乗る男は、オレの言葉の真意をすぐに理解したらしい。オレの心がエドに向いているということを、何故知っているのだ、という真意を。
「お前は調べ物なんてない。これから、図書室に行く予定もない。そうだろ?」
ハボックの声は大空を飛翔する鷹の如く、悠然としていた。たとえその羽を猟銃で撃ちぬいたって、「それで終わりか?」と飄々と空を舞い続けそうな、そういう揺ぎ無い自信に満ちている。怖めず臆せず、といったようなハボックの高翔はとどまる気配がない。
「何故嘘をついたのか、といえば、ロイとエドの仲を邪魔しないため。その一語に尽きる。ようやっと関係が落ち着いた二人のお邪魔虫にならないように、なんて配慮してる。本当は付いていきたいくせに、だ」
これぞまさに立て板に水。口を挟もうとするオレを高圧的な語気で制して、ハボックは得々と、淀みない弁舌で述べた。
「さっきもそうだったけどな、去っていくロイとエドの背中を見つめるお前の眼差しは、まるで捨てられた猫だ」
「ニャーオ」むかついたので、挑発のつもりで淡々と言った。
「お前が、あの二人のどちらかに気があるなんてことは、少し見てりゃすぐ分かる」
「少し見てりゃ?」オレはハボックの台詞の、聞き捨てならない部分を繰り返した。「なんでお前はオレなんか観察してるんだよ、ストーカー予備軍め」
ロイやエドのストーカー予備軍ならこの学園にいくらでも蔓延っているだろうが、あのお二人の「金魚のフン」に焦点を絞るような珍無類な人間などいる訳がない。そこまで考えて、ああ、そうか、とようやく煮詰まった。ロイか、あるいはエドを観察するオマケとして、オレを見ていたのか。あの二人を日常的に眺めていれば、否が応でもオレの姿が視界に飛び込んでくるはずだ。なんたって、金魚のフンですから。ちなみにオレは、陰で囁かれるこのニックネームが嫌いではない。
「自分の胸に手を当てて、考えてみろよ」
ハボックが命令口調で言ってきやがるので、オレはコンマ一秒で自分の胸に手を当て、すぐに一言、吐き捨てた。「わからない」自分の動悸がやや乱れていることだけは、わかった。
「お前は、捨てられた猫みたいな目で、好きな奴の背中を見つめてたんだろ」ここで、男の声のトーンに微細な変化が見て取れた。ギャグのテイストを抜きにした、シリアスな香りがオレの鼻孔に届き、オレは身構えた。ハボックは相変わらず、怖めず臆せず言い放つ。
「絶対に振り向いてくれない人間の背中を見つめるお前と同じように、」ここで、まるでオレにその言葉の意味を咀嚼し、嚥下する時間を与えるかのように、ハボックは一息置いた。
「俺もまた、お前の背中を見ていた」

外は篠突く雨。眼前に立つこの厄介な彗星は、どうやらそんな雨空に輝く、風変わりな星らしい。こんな横着者に、明日もお目にかかるなんて、勘弁してほしい。
だから明日は晴れるといいな。どうにかならないかな。

なあ頼むよ、キャスター。


*TO BE CONTINUED*





すみません書いちゃいました…!デニー・ブロッシュを幸せにしよう運動です…(※孤軍奮闘)
捨て猫ヤマト、まだ続きます…!2〜3話でまとめたいなあとは思っています!
皆様はきっとロイエド目当てでうちに遊びにきてくださっていると思うのですが…よろしければ飛ばさずに、見てやっていただければ嬉しいです!//どきどき!
エドサイドからは見えなかったお話の側面も描けていけたらいいなあと思っています^^* 捨て猫〜ではブロッシュとハボック氏のラブのほかにもう一つ書きたい部分があるので、それもちゃんと描ければいいなあと願いつつ…!
ていうかまだ全然ラブじゃないよね…うちの文はいつだってこう!涙 がんばります!