★三毛猫ヤマト★ V
--第四便--
 

むしゃくしゃしているときは、数学に向かうに限る。オレの至上のストレス解消法だ。
数学が不得手な人々には倦厭されがちな因数分解や展開なんて、もう大好物である。とりわけ、今日のようなアンハッピーな日には、ひねもすやっていたいと思う。単調な作業に没頭すると、無心に帰れるからだ。
放課後の図書室。大学受験を目睫に控え、無我夢中で参考書と対峙する三年生達に包囲されながら、肩身狭く数学に勤しむオレ。もうどうにかして、この惨めな現実から目を逸らさないことには、厭世的になりすぎてナイアガラの滝に紐なしバンジーでもしかねない。
蛇蝎を見るような目つきで参考書を睨む三年生が視界に入り、オレはふと「ミスターメガネ」を想起した。オレにとっては苦い思い出である、「y=7」の定期テストのときから、オレはずっと二位に位置づけていた。ミスターメガネはどうやら親の勘当からは免れたようだったし、今思えば、事勿れ主義を標榜するこんなオレの消極的な性格が、唯一人の役に立てた出来事だったのかもしれない。良い思い出と言ったら嘘になるが、まあ、そう悪くもない。
カリカリと机を蹴飛ばすシャーペンの音が、図書室を覆う静寂に拍車をかけている。自分の部屋に掛けたら絶対に笑われるが、図書室には最高にお誂え向きの壁掛け時計に目を遣る。一切の余計な装飾を排した、朴訥な時計の針が告げる時刻は五時半。うっ、と低く呻きそうになるのを、辛うじて堪える。あと三十分、と考えるだけで気が塞ぐ。
どうしてあんなニコチン野郎の言いなりにならなければならないんだ、そもそもまだ知り合って二日だぞ、あいつの尊大極まる態度はなんなのだ、ばかやろう、くそったれ、筋肉バカ、と、あいつを脳内で冷罵するのにも、もう飽きた。と言うよりも、疲れた。心身ともに、疲労困憊だ。まだ火曜だというのに。

四時半ごろ、下校時刻を告げるチャイムが鳴った。席を立ってロイとエドのほうを見ると、二人とも早々と昇降口に向かって歩き出していた。そして、エドは思い出したようにこちらを振り返り、「セイ、ハロー、トゥー、ミスターハボック」、ハボックによろしくと、わざと下手糞な発音で放つ。憎たらしい。
「いや、待たねえし!」オレは躍起になって声を荒げる。
「明日、話聞かせろよ」
ロイにまでそう言われたら、オレはもう白旗を揚げるしかないではないか。ロイの言葉には何故だか、人を絶対的な力で説き伏せるような静かな迫力がある。たぶん、ロイの前世は孔子か何かだ。この外堀を埋められていく感じは何なのだろう、とオレは項垂れる。
ガンバ! とおどけてウインクしたエドと、淡然とこちらに手を振ったロイを見送る。全ての授業を終えた教室は、ものの数分で、腹の中に収めていた数十名の生徒たちを吐き出してしまった。学園祭の準備など特殊な状況でもない限り、教室にいつまでもだらだらと居残るような奴はいない。優秀な生徒は切り替えが早い、とどこかの予備校の教師が高言していたのを、一人になった教室で思い出す。
話し相手もいない教室に未練がましく残っていたって仕様がないので、これ以上ないというほど不覚ではあったが、オレはハボックの命令通りに図書室へ来てしまった。ええい帰ってやる、と自棄気味に一度は思い立ったのだが、冷静になって考えてみると、正門へ向かうためには陸上部のトラックのすぐそばを通らなくてはならない。そんなところをあのニコチン野郎に見つかったら、と想像するだけで背筋に悪寒が走った。ので、やめた。ニコチン野郎は意外に周到なやつなのかもしれない──否、周到というよりも、狡猾、だ。

シャーペンが食い溜めていた芯を全て使い切ったので、オレはとりあえずペンを置いた。右手が腱鞘炎を起こしそうだった。構うものか。
太息をゆっくりと吐き出しながら前方に顔を向けると、前に座る生徒が乱雑に傍らに置いたバッグから、蛍光緑のケースに入ったワックスが覗いていた。グリーンアップルの香り、とオレは胸中で呟く。オレも持っていたやつだった。元々はロイが使っていて、エドが「このワックス超いい匂い!」とロイの髪の匂いを嗅ぎながら目を輝かせていたのを見て(ロイは心底鬱陶しがっていたが)、こっそり真似たのだ。二人はきっと知らないけれど、一時期密かに使っていた。
でも、今はもう手元にない。
オレはちょっとセンチになりながら、少しだけ過去を追懐した。

***

眠っていた記憶を揺り起こし、学園祭の二日前にまで遡及する。
その日は、弱まったり、にわかに激しくなったりと、気まぐれな雨が絶えず降り続いていた。オレにとっても、ロイやエドにとっても、大きな一日。思い出はいつの日も雨、と歌った高名なアーティストに、その通りだ、とオレは握手を求めたい。

「ロイが好きなんだろ?」
まだ記憶に新しい、オレがエドに向けて放った台詞。この重量のある台詞を、オレはどれだけ平静を装って発言できたのか、覚えていない。
親が旅行に行って寂しいから、と我ながら無理のある、こじつけじみた言い訳でエドのアパートに上がりこんだあの日のことを忘れるのは、オレが記憶もあやふやなじいさんになって、自分の名前すら思い出せなくなる頃だろう。ややもすれば、自分の名前のほうが先に忘れるかもしれない。それくらい、鮮烈なインパクトのある一日だった。
どう捲くし立てれば、エドが重い腰をあげてロイに想いを打ち明ける気になるか、一生懸命、会話の内容を練ってきた。国語には滅法弱いオレのことだから、本当に、真剣に悩んだ。ロイのフィアンセの登場によって、練り上げた脚本の大部分は急遽改変されることになったが。
そして最終的には、「行けよ」というオレの一言に背中を押され、エドは雨中へ駆け出していった。オレに、「ありがと」と、花のようにはにかんでから。その控えめな、照れたような彼の笑みに、危うく涙腺が緩むところだった。だけど、オレは勇ましい笑顔でエドを送り出した、はずだ。自信はないが。
それから、エドとロイがうまく事を運んで(ここで、「うまくいかない」という可能性は、ゼロだった)、幸福で今にも脳が蕩け出しそうなエドが帰ってくるまでは、ただひたすら床に横たわり、念仏のように同じ言葉を繰り返していた。これでいい、これでいいんだ、と。
あいつらは、出会うべくして出会い、惹かれあうべくして、惹かれあった。それはしょうがないことだ。神様が決めたことなのだ。凡人、犬豚の筆頭であるようなオレのちっぽけな力では、その二人のさだめを捻じ曲げることなんて、できやしない。
これで良かった。良かった。おめでとう、ロイ、
「おめでとう、エド」
自分の声が震えていたのは、絶対に、寒さのせいだ。

帰宅したエドの表情は硬かった、気恥ずかしかったのだろう。それでも、その表情の裏側に、隠しきれない歓喜が見え隠れしている。エドがロイに振られるはずがないなんていうことは無論、わかってはいたけれど、オレは心からほっとして微笑んだ。
それから、台本と青色のピアスを渡し、「友人、デニー・ブロッシュ」としての役目を全うした。その日のオレの働きはなかなかのものだった筈だから、エドの「友人ランキング」の中では、きっとオレはかなりの躍進を見せただろう。不動の一位だったロイがランキングから消えたから、もしかしたら、繰り上げ一位になれたかもしれない。
エドと二人きりで話せる機会などそうないから、本心としては、もう少しここへ留まって、色々と他愛もない話をしたかった。ロイとの初デートはどうするんだよ? なんて、からかうつもりでもいた。
だけど、もう涙腺が限界で、オレは足早に彼のアパートを去った。声が薄弱に震えだす前に。エドに「何か」を察されてしまう前に。

外に出て、造り付けの赤銅色の階段を下り、数十メートル早足で歩いたら、ようやくそこで、涙腺の緊張を解いた。視界が途端に、涙と雨で滲む。片膝を地面についたら、水溜りだった。でも、もう構わない。傘をエドの家へ忘れてきていた。でも、もう戻れない。
殺しきれない嗚咽は、騒然とした雨音が掻き消してくれた。

好きだった。好きだった。これ以上ないほど、憧れていた。

どんなにオレが手を伸ばしても、届かないところにいる。小細工なんか無しで、オレがどんなに本気を出しても、敵わない。中学時代の辛い記憶を埋めてくれるような、そんな存在だった。オレが本気でぶつかっても、全然敵わないやつがいる。それだけで、オレの日常は輝いた。力が漲った。遥か遠くにある目標に、嬉しくなった。
中学では前に進むどころか、後ろに何歩も下がって、人身御供にでもされたような気分で、途方に暮れていた。前進することを許されなかった両足は、まごついて、困窮して、使いものにならなかった。
そんなオレに、広く開けた道を与えてくれた。エドはそういう、本当に神様みたいなやつだった。オレからずっと遠いところで、「ほら、追いついてみろよ」って笑っている。前に前に進んでも、一向に辿りつかない。追いつかない。それがオレにとって、どれほど幸福だったか、きっと彼はいつまでも知らずにいるだろう。
目標やゴールのある日常は、いつだってきらきらしている。
そのきらきらを、輝きを、彼はいとも容易く、オレにくれたのだ。

感情が沸騰し、オレは突き動かされるように思い立ち、自分のバッグを漁って、蛍光緑の丸いケースを取り出した。ロイの真似をして購入した、あのワックスだ。
みっともない、猿真似だ。オレは唇を噛んで、前方の淀んだ水溜りに、思い切りそのワックスを投げつけた。馬鹿らしい。こんなもので、ロイに近づけるとでも思ったか、凡人め。
うっ、うっ、という妙にリズミカルな嗚咽と連動するように、肩と喉元がひっきりなしに痙攣した。二度と規則正しい呼吸に戻れなくなるのではないかと思うような、継続的な痙攣だった。
(オレだって、ロイのように生まれたかった)
エドの隣に並んでも、ちっとも遜色がない、そんな人間に生まれたかった。
どうしてオレは、デニー・ブロッシュなんかに生まれたのだろう。誰を恨めばいいのかすら、わからない。自分が大嫌いだ。
どんなときでも、「一番」が似合わない自分が、心底嫌いだ。

***

しとどに濡れそぼった状態で帰宅すると、当然、母親は両目をひん剥いた。「好きな子にでも振られた?」オレの両目が真っ赤なのを見て、不安そうな声を出す。
オレは、うーん、と低く唸ってから、「……振られに行った」と答えた。大儀そうなオレの声音を聞いて、母親は心中を忖度してくれたのか、それ以上の言及はしてこなかった。風邪ひかないように着替えなさいよ、とだけ言い、キッチンに戻っていく。
何故か、そんな何気ない母親の言葉に、涙がぼろぼろ出た。
オレなんか、って思ったりしてごめん、母さん。その小さな身体で、死ぬような思いで、腹を痛めて産んでくれたのに。
ロイのようにはなれなくても、オレはオレなりに、頑張るよ。


そんな情緒不安定を極めていた自分も、目が腫れてエドたちに怪しまれないようにと、一晩中目を冷やすことに専心していた自分も、今となっては、懐かしい。まだ、ほんの一ヶ月前の話だけれど。
しみじみと回顧の念に浸っている間に、時刻は六時を二十分も過ぎていた。オレのこめかみに、即座に青筋が立つ。あのくそ野郎と無音で罵るのと、怨憎を込めた舌打ちをするのと、どっちが先だったか自分でもわからない。たぶんほぼ同時だったろう。
オレが荒々しく席を立ったことについては論を俟たない。帰ろう。今すぐにでも。第一、こんな時間まであんなクソ野郎を待っていただけでも、ノーベル賞ものだと思う。きっと釈迦だって無理だ。
机上に散乱していたペンやノートをまとめ、トートバッグに詰め込んで、深閑とした廊下へ出た。図書室へと通ずるこの廊下は、どうしてかいつも薄暗い。暖房の利いていた場所から抜け出した為、突如として空気の冷たい手がひやりとオレの首筋をなぞり、オレは肩をすぼめる。秋の背中に負ぶわれて、着々とこちらへ近付いてくる冬に顔を顰めた。

薄紅に色づき始めた木々に目をとられながら歩いていると、凛々たる寒気を切り裂くような、「パン」という快音が響き、驚いたオレは足を止めた。音のほうへ顔を向けると、数名の陸上部員が疾走していた。スタートを告げる合図の音だったのだろう。
スタート直後は肩を並べていた選手たちだが、コーナーに入るあたりで出色したスピードを見せ、群から飛び出す者がいた。ハボックだ、とオレは我知らず声を零す。
オレは無意識のうちにフェンスのほうへ近付き、疾駆する陸上部員たちを眺めた。みるみる他の選手を後方に置き去りにしていくハボックの走り方を見ていると、とてもじゃないが、オレと同じ生き物であるとは思えなかった。チーターのようにしなやかだが、馬の蹄が土を叩くような剛健な迫力もある。全身の筋肉が、刹那的に伸縮を繰り返すその様は、ひとつの芸術作品のようにも見えた。

「……やるじゃん……」オレは釈然としないながらも、彼の陸上の才能に於いてのみ、一応、認めてやることにした。
ふと、オレは頭の中で、こんな構図を思い描いた。ロイとエド、オレ、そしてハボックが、四人で横に並んだ図だ。いや、順番を変えよう。この順序だと、ロイとエド、オレとハボック、という、ぞっとしない組み合わせを連想しかねない。ハボック、ロイ、エド、オレ、の順番に変更する。
左から見ていこう。ハボック、どうやら陸上の才能有り、しかも全国レベルという情報も勘案すれば、天才といっても過言ではないかもしれない。ロイ、とりあえず天才。エド、超天才。オレ、超凡人。
嗚呼、とオレは悲愴な面持ちで呻いた。こりゃ、酷い。痛々しい。
「まじで鬱する五秒前……」てんでくだらない洒落をひとりごちたくもなる。
百メートルを走りきった後でも、綽綽余裕な感じで首を回していたハボックがこちらに気が付いた。ぎくり、と思い切りバツが悪そうな顔をしたオレを見て、あにはからんや、ハボックは、笑った。たかだか笑っただけで「あにはからんや」とは大袈裟だと思われるかもしれないが、その笑い方が異様だったのだ。命令を忠実に実行した下僕に見せる、満足気な卑しい笑い方だとすればオレも納得がいったが、先ほどの笑みは、もっと穏やかで、爽やかで、それこそ愛しの恋人の為にこさえたような、至福の微笑みといった感じだった。
ハボックに見付かったら、三十六計逃げるに如かず! と猛ダッシュで下校するつもりだったのだが、オレはその予想外な、イノセントな微笑に拍子抜けし、おそらく三十六計のどこにもないであろう「棒立ち」という兵法を実行する羽目になった。
「悪ィ、すぐ行く」悪い、と言いながらも全く悪びれていないハボックに、
「あ、うん」と情けない返事をする自分が、情けない。

結局、部活が終わり、汗をすっかり拭いたハボックが着替え終え、やっとこさ二人で正門を出たのは七時近くだった。六時まで待っていたことで既にノーベル賞ものなら、今のオレは一体どんな賞を頂けばいいのだろうか、とオレはフェンスに凭れながら考えた。オレは天才ではないが、寛大さでは釈迦より優れている、と決め付けた。
そして、寒々しい陸上用のジャージから制服に着替えた、一昨日まではまるで赤の他人だった人間と、オレは同じ歩調で歩き出す。どうしてこんなことに? という疑問は浮かんだ。少なく見積もっても、百回は浮かんだ。それでも答えは出なかったので、オレはその問いを封印することにした。行雲流水と昔の人が言ったように、流れには身を任せてしまうのが一番だと、そう思うことで自分を納得させた。昔の人が言うことに、まず間違いはないのだ。人々を圧倒あるいは魅了するような輝きを母親の子宮の中に置いてきてしまった、「エトセトラ」の代表格であるようなオレなどは、尚更だ。「エキストラ」でも良い。
いつだって「主役」になれない人生。卑屈なのはわかっているが、真実なのだからしょうがない。だから縁の下の力持ちとして、頑張るわけだ。主役は、彼らを照明で照らす裏方がいて初めて輝くのだ──と、それくらいの存在価値でいい。

「甘いのとしょっぱいの、」隣を黙々と歩いていたハボックが、やにわに声をあげた。「どっちがいい」
えっ、とオレは三秒ほど静止してから、「……あ、甘いの」としどろもどろ答える。一時間ほど夢中で数学の問題を解いていたため、脳が糖分を欲していた。
おう、とだけ言い、オレになんの断りもなく、ハボックはコンビニへ入っていった。え、え、と困惑しながらも慌てて後を追うと、さっさと会計を済ませたらしいハボックは、「やるよ」とオレに何かを手渡した。温かいな、と思って見ると、中華まんだった。表面がつるんとしているので、あんまんだろう。確かに甘いな。
「待たせたしな」
「さ、サンキュ」
飢えに苦しむ人々の前に現れたイエス・キリストの如く、寒がりのオレのかじかんだ手に救世主として参上したあんまんを、ゆっくり掌で包んだ。その優しい温もりに顔が綻び、数時間待たされたことによるハボックへの余憤を、うっかり鎮めてしまうところだった。認めたくはないが、ハボックの言っていた通り、オレは元来「馬鹿のつくお人好し」なのだ。
「……お前って、安上がりな奴だな」ハボックはオレの胸中を見抜いたのか、肉まんを齧りながら呆れを内在させた声色で言った。
「悪ィかよ」
「いや、」と言ってから、もう一口、悠然と肉まんに噛み付き、「そういう所が、お前の良さじゃね?」そうして、ウマイ、と恬淡とした口振りで続ける。
三度パチパチと瞬きをしたオレは、反論の言葉が見付からず、間の悪さを取り繕うようにあんまんに舌鼓を打った。ウマイ、とオレも小声で呟く。
ところで、刑罰や権威・志操などが厳しくおごそかな事のたとえに、秋霜烈日──秋の霜と、夏の暑い日、という二つの熟語を並べた言葉がある。「烈日」の対極にあたるのが、「冬の雪」ではなく敢えて「秋の霜」であるように、秋の寒さというのは本当に骨身にこたえるものがある。冬の笑えるような寒さはいっそ清清しい気もするが、秋の時点ではまだ、夏を乗り越えてきた身体が寒さに慣れていないのだ。
そういうわけで、この寒気の厳しい中で喰らうあんまんは、殊に美味である。数時間もオレ様を待たせたハボックの野郎に思いのほか腹が立っていないのは、あんまんのお陰なのだ。
あんまんのお陰。絶対にそうだ。

***

二また道に差し掛かり、オレが自宅の方へ曲がると、ハボックは逆の方へ身体を向けた。ハボック宅はそちら方面なのか、とオレは推察し、「じゃあ、ここで」また明日、とハボックに手を振る。すると、
「あ?」と返された。
「は?」とオレは顎を突き出す他ない。

そういうわけで、とまとめたいところだが、出来ない。これこれこういう訳で、と筋道を立ててお話できないのは心苦しいが、クレームはハボックの野郎へお願いします。オレは、悪くない。全ては、無軌道ここに極まれり、という神のお告げを受けたとしか思えないハボックのせいだ。
とにかく、経緯はオレにも不明だが、オレは今、ハボックの家に閉じ込められている。「泊まりに来るだろ」「へ?」「泊まりに来るんだよ」、という会話をしたことは、覚えている。彼は一体なんの権力を行使して、オレに「泊まりに来るんだよ」などという言葉を吐けるのか、凡人のオレには理解できない。エドには理解できるのだろうか、否、たぶん無理だろう。
なんでこんなことに? 一度は封印したはずの疑問が、再度頭を擡げる。
なんでこんなことに、とぶつくさ言いながらも、母親にメールを打っているオレがいる。「今日は先輩の家に泊まる」。先輩、を一度、クソ野郎、と打ったが直した。辞書の「不憫」という欄に、オレの名前がないのはおかしい、と泣きそうになりながら、送信ボタンを押す。
ハボックの家は、案に相違せずというか、予想通りというか、煩雑に散らかっていた。部屋の隅に、何故か綺麗に磨かれたバイクのタイヤが二つ積んである。バイクなどにさっぱり興味のないオレには、あのタイヤは1Kのただでさえ狭小な部屋に拍車を掛ける要因にしか見えない。
部屋の中央に配置された、風呂敷くらいのサイズのテーブルは、空になったペットボトルで埋め尽くされている。ハボックの不摂生を保障するかのように、炭酸飲料ばかりだ。ペットボトルの群れに埋もれるように、灰皿も置かれていた。吸殻が芋洗いといった雰囲気で犇き合っている。
なんだか埃っぽいので、窓を勝手に開けた。安アパート二階からの夜景は、当然大したものではない。夜景どころか、目の前には電柱が立ちはだかっている。ボルトと目が合い、こんばんは、と思わず挨拶したくなるほど、コンクリの電柱の堂々たる風情。
そして、タイヤの逆サイドにあたる部屋の隅には、賞状やらトロフィーやらが、タイヤよりも遥かにぞんざいな置き方で並んでいた。その数に感嘆するよりも先に、タイヤよりもそっちを大切にしろよ、とハボックを詰った。冷たい床の上に正座させられている賞状やトロフィーたちは、さぞや狼狽していることだろう。え、保管方法違くね? おれたちってもっと丁重に扱われるべきじゃね? というかんじで。無理無理、とオレは賞状達を諭す。ハボックの非常識ぶりは、身をもって体験済みだ。
さて、そのハボック氏はと言えば、帰宅するなり風呂場へ直行した。部活で汗をかいたからだろう。初めて訪れる場所で一人置き去り、という<最上のおもてなし>を受けながら、オレは「わかりました。先輩にご迷惑おかけしちゃダメよ」という母親からの返信を読んでいる。迷惑をかけられているのはこっちだ、という嘆きは、悲しくなるので呑み込んだ。

「あれ……綺麗になってる」
髪を粗雑に拭きながら、Tシャツにジャージという出で立ちで風呂から戻ってきたハボックが、間の抜けた声をあげる。テーブルに密集していたペットボトルのラベルを剥がし、ビニール袋に詰め込み、灰皿の吸殻を捨てただけだったが、テーブルの使用が可能になる程度には片付いた。風呂場から聞こえてくる鼻歌に、もちろん数回は殺意が湧いた。
「こんなきたねー部屋で寝れるかよ」
「寝かせるつもりはないんだけどな」
ガタッ、とオレは後方に置いたペットボトル詰めの袋に身体をぶつけた。「な、何だと……!」
「嘘だって」大して笑いもせずに、ハボックは冷蔵庫から、性懲りもなく炭酸飲料を取り出した。ペットボトルの袋を指差して、「それ、燃えるゴミ?」と問うてくる。
「燃えるけど、燃やすなよ」資源回収に出せ、とオレは剣突を食らわす。
「シゲンカイシュー」口ずさむように言いながら、炭酸飲料を驚くべき速度で飲み干した。
このペットボトル達が燃えるゴミの日に出される方に、オレは千円賭けてもいい。


ハボックの作ったチャーハンを食べ(家事の才能は皆無に見えたが、料理は下手ではなかった)、毎週欠かさず見ている連続ドラマを見て(主演女優が、これまた可愛いのだ)、風呂を借りて(浴槽に張られた湯には、桃色の入浴剤が溶けていた)、夜の帳が下りるのを待った。
ソファが見当たらないので、客用の布団はあるのか、と尋ねたら、寝袋なら、と返ってきた。その憚りのない声から察するに、どうやら、客を寝袋で寝かせるというのが、彼なりの正しい饗応の仕方らしかった。この暴戻の帝王には、むろん初めから期待などしていなかったので、その返答にも「はいはい寝袋ね」、とオレは溜息をついただけだった。
早く寝袋出せよ、と強請るオレにハボックは眇めた目を向けて、「ベッドは必ずしも、一人用じゃないんだけどな」
寒心に堪えないオレは両腕をさすりながら、「いや、一人用だろう」シングルサイズだし。
そうかい、と気乗りしなさそうにハボックが取り出してきた寝袋を、オレは早々と広げた。紺色の寝袋に潜り込み、うずくまる。ハボックの野郎が変な気を起こさないうちに、眠ってしまうのが一番だ。そんなオレがお気に召さなかったらしいハボックは、オレの寝袋を一度軽く蹴飛ばした。
「なにすんだよ」眉を吊り上げてハボックを睨むと、
「蹴つまずいた」飄々とした声が降ってきたので、オレは歯噛みする。
眠いし寒いし床は硬いし身体は痛いしムカついたので、「死ね!」とオレは叫んだ。それに対するハボックの言葉は、「おやすみ」とあまりにあっさりしているので、張り合いがない。

部屋の電気を落としたハボックが黙然とベッドに寝転び、1Kの六畳間に分厚い沈黙が下りる。
ベッドの上からは規則正しい呼吸が漏れてくる。オレもそれに倣ってゆっくりと息を吐き、瞼を閉じたが、寒いせいか硬い床のせいか、睡魔はなかなかやってこなかった。雑然と散らかった1Kの六畳間には、睡魔というものはやってこないのかもしれない、とも思った。たぶん、サンタもやってこないだろう。
暇だったので、暇だったから、「……おい」とベッドの上へ声を投げてみた。そうすると、「ん?」という声がベッドの上から落ちてきた。まだ起きていたらしい。
暗闇に静寂、視覚も聴覚も休息に入るような状況になると、その他の部分が急に活発に動き始めたりする。脳味噌なんかはぐるぐるとフル稼働で、昼間には思いもつかなかったような疑問を産出してみたりする。たとえば、
「……なんで、オレなわけ」とか、だ。
「なんで?」ハボックの空とぼけたような声が、休息に入りかけていたオレの鼓膜を揺らす。
「オレの隣には、ロイとか、エドとか、ああいうキラキラしているような奴らがいるのに、なんでわざわざ、オレなわけ」声帯という楽器が鳴らしたオレの声は、ハーモニカの音みたいにちょっと震えていた。「これといった才能もないし、見た目も普通だし、お前みたいに、速く走れるわけでもない」凡人という言葉がなかったら、オレの人となりを的確に言い当てる単語を見つけるのには苦労しただろう。「そんなオレの、どこが良いわけ」
「そういうところ」見上げると、ベッドの上で頬杖を付きながら、ハボックがこちらを見下ろしていた。「そういう、驕らないとこだな」
「ロイもエドも、ちっとも驕ってなんかねーよ」
「みんながみんな、ああいう完璧人間に惚れるわけじゃねーだろ」
「それは、そうだけど、」気張って食い下がってはいたが、抗いようのない正論を前に、言いよどむ。「……オレは、お前が思っているような人間じゃないよ……」
──もっと卑劣で、最低だ。凡人なんてものじゃない、もっともっと、それ以下だ。
ほお、とハボックは片眉を上げる。オレはフローリングの床を見つめたまま、途切れ途切れに声を捻り出した。
「……オレはさ……ずっと、エドのことが好きで、」
「知ってる」
「でも、何もアクションなんか、起こせずにいたけど、」
「知ってる」
「ロイとエドが、大喧嘩したとき……オレ、今しかないかもって……チャンスかもしれないって……」
エドに、普段以上に優しくしたり、一人のところを昼食に誘ったり、そんな、小賢しい真似をした自分を思い出した。本当に、思い出したくもない、最高に自分を嫌いになれる、最悪の記憶だ。
「エドに、へんに優しく、したりして……最低だろ、オレ……」床の上で、ハボックに背を向けるようにして、寝袋ごと丸まった。「っ……友達なのに……」ロイもエドも、友達なのに、友達の不幸を一瞬でも喜んで、利用しようとした。「友達、なのに……最低だ……!」
エドが体育で倒れたとき、ロイはエドを助けに行こうか悩み、尻込みしていた。エドを手に入れることができる立場のくせに、それなのに、躊躇い、もたついているロイに、腹が立って、オレは怒鳴り散らした。エドが助けを求めているのは、オレじゃない。オレじゃなくて、ロイなのだ。だけどロイは、その、オレがどんなに欲しても届かない立場を、まるで無下にするかのようだった。その立場を、どんなに望んで、必死に足掻いたって、手に入れられない奴がいることを、彼は知らない。その高尚ゆえの無知に、一人で腹を立てて、ロイに痛棒を食らわせた。ロイには何一つ、非などないというのに。

ロイとエドの二人が上手くいくようにと、オレがまさしく献身的に働きかけたのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。友達の不幸を、一瞬でもチャンスにしようとした最低な自分を、慌てて偽善じみた行為で塗りつぶそうとしたのだ。そういう、どうしようもない、救いようのない、愚かな自分を知っていた。
「……最悪だろ……っ、」最悪すぎて、涙も出ない。ただ、ただ、そんな自分が悔しくて、情けなくて、不甲斐なくて、大嫌いで、握った拳が震えていた。「なあ……?」
オレはもう、全身を丸裸にされるよりももっと恥ずかしい、自分の醜悪な部分をハボックに明かしたつもりだった。だから、なあ、と賛同を求めて彼のほうに目を遣るのには、相当な勇気が要った。向けられる蔑視を覚悟して、恐々と、ハボックを見る。
と、そんなオレの勇壮な覚悟を鼻であしらうかのように、ハボックは大きな欠伸をかましていた。そうして、眦に涙を浮かばせながら、言う。
「言いたいことは、それだけか?」
オレは予想を裏切るハボックの反応に、きょとんと目を丸くした。「……それだけ、ですけど……」
「あ、そ」
言うなり、ハボックは突然身体を起こし、オレの寝袋のファスナーを開け、たじろぐオレを身体ごと持ち上げた。うわわ、と喧しく喚くオレはベッドの上へ運ばれ、狭いシングルベッドに二人、身体を並べる体勢になった。
「ね、寝袋で結構!」
泡を食ってベッドを下りようとするオレの腕は、壮健な五本の指に捕まる。
「ちょっとは黙れよ」
後ろを振り向くと、今度はオレの両目が、獰猛な肉食獣を思わせる、強い眼差しに捕まる。その鮮やかな碧眼に、両目だけじゃなく、意識ごと、捕まった。息を詰めた。
ロイの静謐な瞳とは真逆をいく、気勢に満ちた瞳。獲物をとり逃したことなどありはしない、敢為な気性を持つ百獣の王、そんな凶暴さが点る。でも、少しだけ下がった目じりがどこか優しげだから、怖くはなかった。
優しげな獣──なるほど、最高に、性質が悪い。

ハボックはオレの頭を引き寄せ、自分の胸元に連れ込む。そのまま布団を被るので、オレは頭のてっぺんまで羽毛の柔らかさに包まれた。
「俺は馬鹿だからよ、そんな細けー事はどうだっていいんだよ」ぎゅう、とオレの頭を抱える腕に、力がこもる。「俺の天才的な直感が、お前がいいって言ってんだ」
「天才的っていうか、動物的」オレは肩を揺らして笑う。「お前、ばかだもんなあ」スポーツ推薦を受けた者たちは、入学試験の筆記が免除されるのだ。
なんだとコラ、とささくれたハボックの声は聞こえたけれど、オレは彼の胸元に頭を埋めたままだった。くだらない皮肉を吐いたのは、泣いていることを隠したかったからだ。
小刻みに揺れるオレの肩に気がついたのか、ハボックはひとつ小さく息をつき、未だ顔を上げられずにいるオレの髪を撫でた。
「オレだって……っ、あんなふうに、なりたかった……!」涙としゃっくりに阻まれながら、絶え絶えに話す。
燦然と輝く双星みたいな、ロイとエドが羨ましかった。いっぱい憧れて、いっぱいひがんだ。才能に恵まれた運の良いやつら、と世の中の不公平を、彼らのせいにしたことだってある。いっそ彼らを嫌いになって、あんな煌いた人種から、遠ざかったところで生活すれば良かった。引き立て役になるのは、目に見えていたのだから。
いっそ嫌いになりたかった。
「だ……だけど、二人とも……いいやつらで……っ」聞き取りにくい、オレの幼稚な喋り方に文句も言わず、ハボックは黙っている。「ほんとに、いいやつらだから……っ、自分が、ほんとに、嫌だった……!」
オレの頭を撫でていた手は頬のほうへ移動し、オレの顔を上向かせるようにした。睫毛に涙の水滴がたくさん付いた、いつにも増して格好悪い顔を見られ、カア、と両頬が熱を持ったのが分かる。絶対笑われる、馬鹿にされる、そう思うのに、こういうときに限ってオレに揶揄を飛ばさないハボックは、かなりずるい奴だ。
「お前はそうやって、卑屈になって、次点に甘んじて、溢れんばかりのコンプレックスと仲良く肩組んで、生きてきたんだろうな」
抗弁の余地はなさそうだったので、オレは口を噤んでいた。際限なく目から零れ出てきた涙は、いつの間にか止まっている。
「『みんなが幸せならオレは二番でいい』、そういうご立派なポリシー背負って、表舞台ではピエロみたいに笑ってんだ、そうだろ?」
ハボックが、一体いつからオレのことを見ていたのかは、わからない。けれど、オレが十何年もこの身を賭するようなつもりで隠し通してきたことを、こいつはものの数ヶ月で、あっさり見抜いてしまった。誰も知らないところで流したはずの涙を、どうしてか、こいつは知っている。
「俺が、お前を一番にしてやるよ」
その台詞は、衝撃的だった。感動的と言ってもいい。一体こいつはなんの権利があって、「一番にしてやる」なんて大言できるのだろうか。傲岸不遜以外の、何物でもない。大ほら吹きだ、勉強のできない、馬鹿なやつの言いそうなことだ。
(……なのに、)なんでこんなに、心に響くんだ。

「俺の中の一番は、お前にやるよ」
そう断言して、ハボックはオレの頭を抱き締めた。
ハボックが静かに寝息を立て始めるまで、オレは泣いてばっかりで、嗚呼、もうこれ以上は、恥ずかしくてお話できそうにない。

狭いシングルベッドの上で、明日ロイとエドにどんな嘘の報告をすればいいか、オレは懸命に構想を練っている。


*TO BE CONTINUED*





やっとハボブロっぽくなってきた……かなあ……!先が見えねえええ
捨て猫が終わったらすぐにがっつりロイエドに戻すことを、ここに誓います(※申し訳なくなってきた)