粘土? と思って目の辺りに触れたら、自分の瞼だった。蜂にでも刺されたかのように腫れている、昨晩、泣きすぎた。起き抜け早々、ハボックから「瞼が臨月だぞ」というご丁寧な朝の挨拶を戴く。 「……誰の子供だよ」 「今名前を考えてる」 くだらない冗談を朝の透明な空気に溶かすように、ハボックはゆるりと唇を湾曲させた。その唇の間に白い筒を挟み込み、グラマーな裸婦を模した形状をしたライターで、その先端に火を点す。ふう、と紫煙を編みこんだ大息を吐き出しながら、 「あっぱれ、ジャン・ニコ大使」とハボックが歯を見せる。 「誰だよ、それ」誰、という漢字は、早朝の会話に二度も用いられるべきではないと思う。 「子供の名前案」 うそつけよ、そもそもつまんねーよ、とオレは粘土製の瞼をもう一度閉じた。 --第五便-- 消臭スプレーを制服に満遍なく吹きかけ、煙草の臭いと、それに伴う不良のオーラを掻き消す。不逞の輩に成り果てた、と人様に勘繰られるような状態で、登校するのも帰宅するのも御免だった。 「お前、タバコ、やめろよな!」優等生の香りを纏った制服に腕を通す。「一応、アスリートのはしくれなんだろっ」 ハボックはこちらを一瞥してから、「……誰のせいだと思ってんだか」 「何っ?」ここで本日初めて、ハボックと目を合わせた。昨晩のことを考えるとどうにも面映く、なかなか合わせられずにいたのだ。 オレの懇ろな忠告を受けて、ハボックはこれ見よがしに煙草のフィルターから、思い切り煙を吸い込んだ。オレが苛立ちによって右眉を引き攣らせたのと同時に、ハボックは灰皿に煙草を押し付けて、消火する。 「わかった、」承諾のその声は、諦観が滲んでいるでも、オレをいなすような浮薄な響きを孕むでもなかった。「やめる」 「ほんとかよ?」こいつの「わかった」は、悪徳不動産屋の「すばらしい物件」という言葉と同じ位、胡散臭い。「ヘビースモーカーにしちゃ、えらい安請け合いだな」 「その子供ためにもな」ハボックが愉快そうに、オレの腫れぼったい瞼を指差す。 「だから、くどいっつうの」 誰のせいだと思ってんだ。 外に出ると、白濁色の空が視界に飛び込んできた。青いはずの空が、厚めの白雲で覆われている。白いコートで空も防寒対策か、とぼうっと考えた。 白っぽい空は、泣き腫らした両目には曲者だった。眩しさに、思わず目を眇める。粘土製の太りじし瞼は、眇めるのも一苦労だ。 翌日にここまで引き摺るほど泣いたのは、久方ぶりだった。けれど、臨月の瞼とは裏腹に、気分はどこか軽かった。背負っていた荷物をおろしたような気楽さに、かえって戸惑う。「背負っていた荷物」の存在に、そもそも自分自身、気付いていなかったからだ。仲睦まじいロイとエドを前にしながらも、日常的に笑顔を作っていたことや、劣等感、卑屈な自分、その他諸々が、やっぱり「荷物」になっていたのか、と目ウロコで感じ入った。 涙の洪水から生まれた川にその荷物を流して、しゃんと背筋を伸ばす。その荷物が川で洗濯をするおばあさんに拾われて、山へ柴刈りにいったおじいさんに見せびらかされて、大いに笑ってもらってもいい。 ちら、と横に立つハボックを黒目だけで見上げる。こいつのお陰、か? 「なんだよ」頭上十数センチから降ってくる、ドリアンのように棘だらけの語気。「おい、目やに付いてるぞ」 「えっ」慌てて目元に指をやった。 「うっそー」言うなり、ハボックは事も無げに歩を進めていく。 死ね! とオレが後方から叫喚をぶつけると、「かわいくねー口癖だ」と馬鹿デカい背中が言った。 こいつのお陰? とんでもない。むしろ、厄介な新しいお荷物だ。 『言いたいことは、それだけか?』 欠伸まじりの、人を食ったような口振りの台詞を、反芻してみる。こんな醜悪な自分の側面は誰にも明かさず墓場まで持っていこうと決意していたような、そういうオレのおぞましい部分を披露されても、ハボックはのんこのしゃあとしていた。 人に話すにはひどく勇気のいる言葉を歯節へ出すことに、もたもたと二の足を踏んでいる咽喉に鞭打って、からくも紡ぎ出すことができた、そんな激しい難産だったオレの話。ハボックはそんなオレの言葉を、ソースでも掛けてむしゃむしゃと平らげてしまうようだった。そんなに美味いかよ? と問いたくなるほど、豪快に。 ひとつ分かったことは、そういうオレのどうしようもなく愚かな側面を見せ付けられても、オレに対して愛想を尽かさないくらいには、ハボックは本気らしい。 物好きな奴だ。 (……変なやつ……) オレは寒がりだけれど、今日の空気の冷たさは、どうしてか不快じゃなかった。 横断歩道に差し掛かり、信号が青なのを確認してから前進すると、軽快な電子音のメロディが右手から鳴った。見遣ると、信号が青の時間を延長するためのボタンを、ハボックが何気なく押していた。速い歩行が困難な高齢者や障害者の方々のために設けられているボタンだが、全国の高校生の内でも随一の脚力を誇るハボックからは、最も縁遠い設備のように思える。 なんで、とオレが尋ねようとする前に、視界の端っこにその理由がチラついた。オレたちの後方三メートルほどの地点を、杖をついた高齢の男性が歩いていたのだ。思わず手を差し伸べたくなるような心許ない歩き方をする男性の目線は、コンクリートの地面に突き刺さっている。おそらく、彼は今、自分が小さな親切を受けたということにも、気付いていないだろう。 ハボックはボタンを押したきり、振り返って男性の様子を見ることもなく、すたすたと取り付く島もないような風情で横断歩道を渡りきる。そこがまた、偽善者ぶっていなくて、憎たらしい。 オレはなんとなく納得がいかない。ぶす、と唇を突き出し、なんだよ、と思う。「……ちょっと、いいじゃん……」ちょっと、いい奴じゃん。 あ? とハボックは不良のお手本のような声を出す。「なんか言ったかよ」 「こっちの話」取り繕うように、語尾を間延びさせる。「……変なやつ」 あ? ハボックが繰り返した。 ハボックの朝練のため、オレ達はだいぶん早く出発した。まったくなんであいつのせいでこんなに早起きしなきゃいけないんだ、絶対誰もまだ来てねーよ、とぶつくさと不平不満を並べながら十組の教室に入ると、いるはずのない人物が、そこにはいた。 「おはよう」二つの声が、早朝の張り詰めた寒気の中で、綺麗に重なる。 ロイとエド、の二人が、天文学的な数字の確率を乗り越えて、早朝の教室にいた。 オレは思わず漏らす。「今日、傘持ってきてないって」 「雨は降らねーよ、」エドがこめかみをぴくつかせた。「槍もだ」 槍なら傘があっても意味ないな、と言おうとしたが、これ以上喧嘩を売っても仕様がないので、口を噤んだ。お二人の目元にはどす黒いクマが滲んでいる。 「昨日、寝てないのか?」オレの問いには、 「ちょっと、考え事がな」低血圧を絵に描いたようなロイが答えた。 二人して? といぶかしむオレを見、エドがロイの言葉を継いだ。「ブロッシュとハボックの行く末が心配で」 「またまた、」オレは、ありえない、と大袈裟に肩を竦めた。「どうせ、朝方までいちゃついてたんだろ」 ちっ、と金きり声を甲走らせたのは、もちろんエドだ。「ちっげえええッ!」 「別に、恥ずかしがらなくても」 エドをひやかしながら、あれ、とオレは脳の片隅で違和感を覚えた。それは決してマイナスのオーラを纏ってはおらず、言うなれば、あたたかく健康的な、ゆるやかな違和感。 ロイやエドの仲睦まじげな様子に茶々を入れたり、揶揄を飛ばしたりするときは、必ず小さなトゲのようなものがチクリと胸を刺した。オレがいつも目を逸らして、見ないフリをしていたトゲだ。 でも今日は、 (……さらっと言えたなあ) それはとても些細な変化。だけど、大きな一歩。 *** 昼休みを告げるチャイムと同時に、オレの携帯が身体を震わせた。その携帯の姿は、届いたメールの内容に怯えているようにも見えた。 臆病な二つ折り携帯を開き、受信ボックスに入ると、「ハボック様」という登録した覚えのない名前を網膜が捉えた。オレにはバイブレーション機能など備わっていないはずだが、心なしかオレの身体もぶるぶると震えた気がした。勝手に登録しやがった、とオレは表情を曇らせる。 「屋上にいる」。 文字数にして五文字。絵文字ひとつないシンプルな文面に、だから何だよ、とひとまず突っ込んだ。「このメールを十人以上に転送せよ、さもなくばあなたは死ぬ」みたいな不幸のメールよりもよっぽど悪質に思えるこのメールの内容をNTTに報告すれば、ハボックから二度とメールが届かなくなるだろうか、と真剣に考えた。 NTTへの迷惑メール報告の方法を尋ねようと、そばにいたロイに向かって声を投げた。多知多識で名高いロイなら、きっと知っているはずだ。 「……屋上って、どこから行くんだっけ」 あこぎなこの口め。 横着者で見栄っ張りで強がりのこの口は、いつだって脳味噌の指令通りに動かない。 食堂で購入した、テイクアウト用のプラスチック製パッケージに収まったカレーを片手に、屋上を目指して埃っぽく薄暗い階段を上がった。「立ち入り禁止」という黄色いテープがオレの侵入を阻んでいたので、屈みながら進む。「屈み入り禁止」とは書かれていないからだ。完全なる、こじつけだ。わかってはいるが、十五年間「優等生ロード」を驀進してきたオレが、立ち入り禁止の場所へ足を踏み入れるには何らかの言い訳が必要だった。 ところどころ赤く錆びた扉を押し開けると、まず強い風がオレの顔に当たった。思わず閉じた瞼をおっかなびっくり開けると、遠くに見えた海の青さに顔が綻んだ。 隅の方で仰向けになっていたハボックがこちらに気付き、よう、と片手を上げる。然したる驚きも見られない、奴はオレが来ることをまるで当然のように思っているのだろう。オレは、自分の子供がこんなふうに育ってしまったらどうしよう、と漠然とした不安に駆られた。 「気持ちいいだろ、遠くに海も見える」ハボックが出し抜けに相好を崩す。 「馬鹿はおしなべて高い場所が好きだ」 オレはむっつりと眉根を寄せながら、ハボックから二メートルほどの距離を置いて、地面に腰を下ろした。 「人の携帯、勝手にいじりやがって」カレーの蓋を開けながら、ハボックに冷眼を向けた。 「メアドを『I-love-havoc』にされなかっただけ、良かったと思えよ」 本当にやりかねないから、こいつの洒落は笑えない。「オレはお前が嫌いだ」 唐突だな、とハボックは噴出すように笑う。「一口くれよ」言って、艶やかな湯気をあげるオレのカレーを指差した。 「スプーンが一本しかないから、無理だ」オレがそっぽを向くと、 「実は、スプーンは二人でも使えるんだ」ハボックの声がオレの頬を追いかけてくる。 「お前と間接キスなんか、冗談じゃない」 「間接キス!」弾けるようなハボックの笑い声が、オレの耳朶を乱暴に蹴飛ばした。「いまどき、小学生のガキだって使わない単語だ」 こいつと会話していても腹が立つばかりなので、オレはまともに取り合わないことにした。苦手な人参を避けながら、黙々とカレーを平らげることに専念する。スプーンの曲面に映りこんだ自分の顔は不機嫌そうに歪んでいて、逃げるように空を仰いだ。大きな、大きな青が、とても近い。天高く馬肥ゆ、という表現がまさにぴたりだ。真っ青な画用紙の上に、出来損ないの綿菓子みたいな雲が貼り付いている。 「朝は曇ってたけど、晴れたな」 硬質のコンクリの地面を物ともしない、筋骨隆々たるご立派な身体を横たえて、ハボックが呑気な台詞を吐く。うん、とオレは頷きながら、いちごミルクのパックをポケットから取り出し、ストローを刺す。いちごミルクを見ると多くの男友達が、げえ、と舌を出すが、オレは「うだるような甘さ」と言うか、この鬱陶しいほどの甘味が好きなのだ。 「今日はけっこう暖かい」季節では秋が一番好きかもしれないな、なんて心地良い微風の中で考えた。 「お前、まだエドが好きなのか?」 藪から棒どころか、藪から槍を突き出された。その脈絡のない言葉に「わ!」と背中を叩かれ、驚いたいちごミルクがオレの喉元で躓いたので、盛大に噎せた。甘ったるい香気が口元に広がる。液体が気管に滑り込んで、オレの噎せ返りはなかなか治まらなかった。 ハボックが唐突に切り出した会話は、明らかに、天気の話題と肩を並べるべきものではない。その無理やりな話題の転換は、寺の住職が瀟洒なカフェでマカロンを齧っているくらいの、つまりは相当な違和感を伴った。 二の句が継げないオレは咄嗟に後ろを振り返って、会話に於けるセンスというものがまるで欠如した男を見遣る。その顔は予想以上に真剣だったので、困惑したオレは瞬きの回数が増えた。うるせえな関係ねえだろ、と乱暴に突き放せるような雰囲気でもないので、オレは一気に乾燥した下唇を噛むように舐めた。 なんと答えればいいか、一秒、悩んだ。それから、一秒でも悩んだ自分に、びびった。 どうして悩む必要がある、オレはエドが好きで、それはかなり強い想いで、そう簡単には変わらないことで──そう簡単には、変わらない、はずだ。 だって、ロイとエドが両想いになったって、諦めきれたわけじゃなかった。それくらい、未練がましい、粘着質な、死に損ないの感情だった。命からがら、這う這うの体、それでもまだ、死にきれない。それくらいの、しみったれた、見るに堪えない、うらぶれた感情。 「……あ、当たり前だろ」 その言葉を吐き出すのと同時に、ハボックから目を逸らしてしまった。何故だ? そうかい、とハボックは恬淡とした声を出す。オレをからかうでも、なじるでも、励ますでもない。すると、オレの鼓膜はどこか物足りなさを感じる。オレはどんな返答を期待していたというのだ? 自分自身、わからない。 「お前は、やっぱり、悔しいのかよ」オレはスプーンを持つ右手と、いちごミルクを持つ左手を静止させ、床に置いたカレーに視線を落ち着かせながら、下手くそな話し方で言葉を投げる。「お、オレが、エドが好きとか、言うと」 「悔しい? 悔しいというか、ぶん殴りたくなるな」 「な、何を」 「お前を」背筋が寒くなったオレの背後で、ハボックは続ける。「いや、自分か?」 「お前に殴られたら痛そうだ」率直な感想だった。 「痛くないってことはないな」 殴られたらたまらないので、オレはいちごミルクとスプーンを手に立ち上がる。どちらもハボックの拳を弾き返す盾にはなりえそうもない、脆弱な装備だ。 「人の気持ちってのは、そう簡単には変わらないんだよ」ハボックに背を向けたまま、努めて冷静な口調で断言した。「焦って、変わるもんでもない」 そうかい、とハボックは再び言う。「俺はあんまり気が長くねえからな」 「だったらオレなんかじゃなくて、他をあたれよ」 「とりあえず十年くらい待ってみて、お前に飽きたらそうさせてもらう」 オレも相当素直じゃないが、ハボックの野郎もかなりのひねくれ者だ。 十年って、結構、長いんだぞ。わかって言ってるのか、この馬鹿は。 八十まで生きると仮定すれば、人生の八分の一に相当する。誰かに人生の八分の一を捧げられるだなんて、オレはそんな高貴な人間でも、大層な人間でもないように思えた。 「十年って、人生の八分の一だぞ」一応、忠告してみた。ハボックは馬鹿だから、それすらわかっていない可能性がある。「そんな大層なもんを、オレに捧げてどうすんだよ」 お前の人生が薄っぺらくなるのを、くれぐれもオレのせいにするなよ、と虚勢を張った声音で続ける。 「如何せん、それくらいしか捧げられるものがねーんだよ」 ドク、と自分の心臓が、その言葉に反応した。そのことに焦る。やばい。やばすぎだ。 ハボックは、真摯とか熱心とかいう単語から最も掛け離れているような雰囲気の、要するに淡然とした声音で、そんなことを嘯く。そう、「嘯く」だ。てんで本気なんかではない、空とぼけるような大言壮語、大風呂敷を広げるようなもんだ。絶対に、そうなのだ。 からかっているのだ。オレはからかわれている。ハボックの言葉に信頼性を見出しかけている自分に、慌てて言い聞かせた。落ち着け、デニー・ブロッシュ! お前はからかわれているのだ! オレみたいに特筆すべき取り柄もないような奴を掴まえて、美辞麗句を駆使して浮かれさせ、飽きたらぽいっと捨てていく。そういう悪趣味なやつはきっと世間にごまんといる。現実っていうのは甘くない。それくらい、いやというほど知っている。特筆すべき取り柄もない、だからこそ、そういう辛酸をたくさん嘗めてきた。オレにはあって、ロイやエドにはない、数少ない知識のひとつ。 頭を冷やして、ジャン・ハボックについて邪曲のない考察を試みる。 オレ個人としてはこいつがいけ好かないし、傍若無人な性格に虫酸が走るが、不偏の立場に徹してみれば、まあ、勉強ができないといっても運動神経は抜群だろうし、容貌だって、精悍な面魂が滲み出ている、男らしい、人好きのする顔だろう。たぶん、女性にもモテる。童貞でもなさそうだ。総合点で見れば、少なくともオレよりは上だ、遥かに上。 だから、こういう奴がオレに夢中になっているだなんて、そんな事態はおかしい。不自然だ。意味がわからない。 「おい、」 ハボックの、いつもどこか怒っているような声が後ろでしたかと思うと、オレのふくらはぎが力強く掴まれた。カタカタとジャン・ハボックデータを脳内のパソコンに打ち込んでいたのを突然邪魔され、しかも掴まれたふくらはぎに驚いて、「うひゃ!」とオレは奇声をあげる。 なんだよ、とハボックの語気がやや険しくなる。「ここ、性感帯か?」 「うっ、う、うるせえんだよ!」こんなに下品な言葉遣いをするやつは初めてだ!「くたばれ!」 「それ、一口くれよ」 立ち膝の状態で、オレを上目遣いで見上げながら、今度はいちごミルクを指差した。こいつはA型か? とオレは思う(A型はすぐに「一口ちょうだい」と人のものをねだる奴が多い、気がする)。限りなくBっぽいけどな。 「絶対にお前の味覚には合わねーよ」いちごミルクをハボックから遠ざける。「そもそも、ストローも一本しかねーんだよ」 「アスリートは糖分が命なんだよ」 ハボックはそう言い切ると、オレの制服のジャケットを引っ張った。重力とはまた種別の違う、下方へ働きかける高圧的な力を受けて、オレは当然バランスを崩す。その拍子に左足首を捻り、オレの身体の均衡は完全に瓦解した。 そのまま自分を引っ張る力の方向へ身体を傾けながら、倒れこむ。両手はスプーンといちごミルクで塞がっていた。重力という地球の熱烈な抱擁を受けるまでのコンマ数秒の間に、ファーストキスはコンクリート相手か、嫌だな、なんて茫々と考えた。 ガチン、といういただけない音がした。瞬間的に痛みが走ったのは、口元。 おいおいがっつきすぎだぜコンクリートさんよ、と顔を顰めながら、いつの間にか閉じていた目を開く。そこには、無機質なコンクリではなく、有機的という言葉を象徴するような、人の顔があった。 ガチンという音がしたはずなのに、今口元には妙に柔らかいものが当たっている。柔らかいコンクリート、なんていう表現をしたいわけじゃない、太宰だってそんな奇の衒い方はしないはずだ。 コンクリートはそう簡単に柔らかくはならない。酸性雨が降るとコンクリートが溶ける、というのは聞いたことがあるが、本日は気持ちがいいほどの快晴である。 ──以上、こんなにまわりくどい説明をしたのは、目の前にある現実を受け入れたくなかったからだ。本当は、目を開いた瞬間、口元に当たった硬さの正体はわかっていた。 歯だ。 幾つもの酷薄な偶然が重なって、重なって、最終的に、オレという世界の中で最も重なってはいけなかった唇と、オレの口元が重なってしまった。 むろんすぐさま、そのあまりにも薄情な偶然の連鎖から離脱しようと試みたが、ハボックが短兵急にオレの後頭部を手で押さえたので、オレの頭は世界一むごいサンドウィッチの具に成り果てた。 「ん……ぅ……!」オレの口になんの枷もついていない状態であれば、ギャー! と断末魔の叫びをあげただろう。 最悪だ、最悪だ、最悪だ。 「間接キスじゃなくて、口移しがよかったのか」二センチ下にある顔は、顔色ひとつ変わっていない。「案外大胆だな、お前も」 こいつにはヒトの血が通っていないのではないか、とオレは肩で息をしながら真剣に懸念した。「そ、そ、そんなわけ、そんなわけ、」 「いちごミルクも美味かったし、ハボック様、丸儲け」 二センチ下にある顔が、端整に並んだ歯列を覗かせて、笑った。 心臓が、ぎゅっときつくなる。 ほんと、最悪だ。 *** 午後は終始ブルーだった。どうした? と友人に心配されても、真実を話せないのがもどかしい。ちょっと胃もたれが、とその場凌ぎの愛想笑いを作る。嘘ではなかった、実際、昼休みの出来事を思い返すと、胃を構築している成分が突然変異を起こして鉛になる。もちろん、カレーといちごミルクという突飛な組み合わせの昼飯メニューのせいではないし、蠕動運動にもなんら支障はない。ただただ「鬱」が惹起している、キャべジンでも治りそうにない厄介な胃もたれが、身体の中心に収まる臓器に執拗に纏わりついていた。 あんな性悪なクソ野郎にファーストキスを奪われるために、オレの唇はこの世に生を受けたわけじゃない。エドと、なんて贅沢は言わないが、せめて性別は雌であってほしかった。この際、ヒトの雌じゃなくたって構わない。あんなクソ野郎に比べれば、雌牛に唇を舐めとられたほうがまだマシだ。 中背中肉、サえない容姿、何につけても凡庸、あまつさえ、ファーストキスは男。どう頑張ったって、オレの能書きはこの程度だ。オレが裁判官だったら、「世界になんの貢献もせず、そのくせ、己の産出する二酸化炭素で世界の空気を汚す」という罪状で、自分を有罪にするところだ。 はあ、と何回目かわからない溜息を吐き出す。出しても出しても、飽くなき精神で鉛の胃からせり上がってくる溜息。オレはいつの間にこんなに息を食い溜めていたのだ、と思う。 そもそも、とひねくれた皺を脳味噌に寄せて、考える。 そもそも、あいつは根っからの男好きなのか? オレみたいなサえない男とも平気でキスできるような、筋金入りのゲイなのか? 不幸な偶然の五重塔が織り成した、事故からなるキスを嫌がるどころか、オレの後頭部を押さえつけて、逃がしまいとしてまで──と、ここまで思案したとき、心臓が特殊な拍動をした。胃を強く圧迫するような、息をしづらくさせるような、どくり、という心拍だ。 同時に、本能的な危機感。 いや、違うのだ、とオレは必死にかぶりを振る。 これは胃もたれなのだ。やっぱり、カレーといちごミルクのせいで、胃がもたれた。そういうことにする。 頬が熱いのは、インフルエンザ、は時季じゃないか、だから、つまり……。 うまい言い訳を探しているうちに、授業終了を告げるチャイムが鳴った。 「ブロッシュも今日はもう帰るだろ?」というオレの女神、つまりエド、の一言で、三人で正門を目指して歩き出した。 樹海の奥深くに悠然と寝転がるしゃれこうべを目撃したような、こういう鬱々とした心境のときは、エドの邪気の無い笑顔が本当に心に染み入る。オレのささくれた心に、優しく軟膏をぬってくれるような天使の笑顔を前に、顔が緩まないように努めるのに必死だ。 いつもならロイとエドのお邪魔虫にならないようにと、何かと理由をつけて離脱するのだが、今日ばかりはエドの笑顔に甘えよう、と決めた。オレの自宅と二人が目指す駅へ続く分かれ道まで、お相伴にあずかることにする。ロイという正客に陪席させていただくつもりで。 そんな、ささやかな自分へのご褒美は、「ちょっと、いいですか」という聞き覚えのない声に呼び止められたことによって、お預けを喰らう羽目になった。ちょうど、陸上のグラウンドのそばを通りかかったときだ。その声のほうへ目を遣ると、声と同様に全く面識のない顔の女子が立っている。 「お前、モテ期か?」ロイが、冗談なのか本気なのか判じかねる声を出す。年齢とモテ期をイコールで結べるロイに言われる筋合いはなかった。 「よっ色男!」とオレを囃し立てるエドには、微塵も罪の意識などないのだろう。オレの気持ちも知らないで、と我ながら身勝手だとは思うが、若干の腹立たしさを覚える。 「二股はいかんぜよ」という、にやつき混じりのエドの言葉をそこへ置き去りに、お二方は正門へ向かって去っていった。 さよならご褒美、と悲壮感に打ちひしがれながら、目の前の生面と向き合った。彼女の険しい表情を見る限り、ロイとエドは何やら勘違いをなさっているようだ。眉間にご立派な渓谷をお持ちですね、と言いそうになる。どう転んでも、これから彼女の眉間の渓谷が消え失せ、ロマンチックな展開になるとは考えにくかった。 今日は厄日だな、と確信し、今朝ロスキャスターの占いを見逃したことを思い出した。まあ、間違いなく最下位だったろう。見るまでもない。全国のさそり座の方々に謝罪したい、と思った。きっとさそり座の運勢を下げているのはこのオレだ。 「ブロッシュさん、ですよね」 彼女は声に滲む敵意を隠そうともしない。化粧っ気はないが、鼻筋の通った、整った顔立ちをしている。けれど、かなり細めに切りそろえられた眉が少々キツい印象をこちらに与えた。真冬の極寒にも屈せず花をつけるけし科の花みたいな、そういう芯の強さが隠微に揺らめくブラウンの瞳から垣間見える。 オレは、はあ、と気の抜けた返事をする。美人に睨まれると肩身が狭くなる、というのは、全国の男児共通だろう。早く帰りたいな、と地団駄を踏みたくなる。 私は一年のアデルといいます、陸部のマネです、と彼女は簡潔な自己紹介をしてから、オレに向き直るようにして本題を切り出した。「単刀直入に言います」 単刀直入というのは、あんまり快い言葉ではないよな、とぼんやり思った。その四字熟語に続いて行進してくるのは、えてして厭わしい話題だ。 「ブロッシュさんは、ハボック先輩のことをどう思っているんですか」 やっぱりね。 オレは辟易する。 「別に、どう思うも何も──」 男同士だし、知り合ってまだ二、三日だし、というオレの不明瞭な説明を遮るように、彼女は鋭い舌鋒で食いかかってきた。美女と舌戦を交える気概など、オレにはないというのに。 「なんとも思っていないなら、潔く振ってあげてくれませんか」 彼女はオレを実験台にして、視線だけで人を刺殺できるか否かを試しているようにしか見えない。お門違いだ、とオレは泣きたくなる。美人の敵はなるべく作りたくない。 「ハボック先輩は、全国行きが決まる大会を目前に控えています。陸上部のエースとして、絶対に全国に行ってほしいんです。先輩は、十年に一人の逸材と謳われるほど才能のある、聖倫陸上部期待の星なんです」 そりゃ、大したもんだ。オレはゴボウのように頼りない己の両足をちらりと見て、頭を掻く。五十メートルを走りきるのに、八秒は要するだろうゴボウの足。ささがきにでもして鍋で煮込んでやろうか。 「ハボック先輩が、ブロッシュさんのことを好きだっていうのは、知ってます。部内では、有名な話ですから」 ちょっと待ってくれ、という悲痛の叫びを、オレは僅かな理性でどうにか押し殺した。高校三年間、陸上部には絶対に彼女ができないだろう。 「ブロッシュさんがちゃんとハボック先輩を諦めさせてくれたら、先輩も練習に専念できると思うんです。それに──」 開いた口が塞がらなかったオレだったが、彼女の声のトーンが変わったことには気がついた。なんとなく、オレも身構える。 「私、以前ハボック先輩とお付き合いさせていただいてました。好きな人ができたって、振られちゃいましたけど、」 その「好きな人」が自分であることくらい、鈍感に足が生えて──しかもゴボウの足──歩いているようなオレでもわかった。更に元カノという単語によって、ふたつの疑問が解消した。ひとつは、彼女がオレに異様なほど厳しい視線を浴びせる理由。そしてもう一つは、ハボックが生粋のゲイではないらしいということ。 「今度の大会のとき、私もう一度先輩に告白するつもりなんです」 唇をきゅっと結ぶようにして、彼女は凛呼たる姿勢で言い放った。どうやらこっちが本音らしい、陸上部のエースだの練習に専念できるだのというのは、もったいぶった建前だ。オレにハボックをしっかり振ってほしいという、陸上部のマネージャーの仮面に覆われた、彼女の一人の女性としての、隠然たる本音。 はっきり振ってほしいって? 何を言う、そんなの、端からそのつもりだ。あんなむさくるしい、無骨な男なんて言うまでもなく願い下げである。まして、オレには別に、好きな奴がいるんだから。 「私なら、大会に向けての体調やスケジュールの管理もこなせます。一番近くで付き添って、先輩をバックアップできるんです」 まなじりを決して話し始めた彼女の語調は、オレを叱責するような色合いを帯びていた。 「……先輩が、どうしてブロッシュさんを選んだのか、正直、疑問です」 あ、痛、とオレは呻きそうになった。心臓のあたりがチクリと痛かった。刺すような、純銀のフォークでえぐるような、不細工で、不透明な痛み。 よりによってどうしてオレなのか、そんな疑問は、オレが一番初めに抱いたことだ。誰の目にも当然そう映るだろうことは、わかりきっていた。それなのに、その彼女の言葉は、随分と重く、耳から心臓へ直下するように響いた。「やっぱり? 謎なのはそこだよね」と調子よく気褄を合わすことすらできなかった。 愛想笑いは、数学よりも得意なのに。 ほらね、釣り合うわけない! 遠くで誰かの笑い声が聞こえた。 *NEXT* |