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粘土?
と思って目の辺りに触れたら、自分の瞼だった。蜂にでも刺されたかのように腫れている、昨晩、泣きすぎた。起き抜け早々、ハボックから「瞼が臨月だぞ」というご丁寧な朝の挨拶を戴く。
「……誰の子供だよ」
「今名前を考えてる」
くだらない冗談を朝の透明な空気に溶かすように、ハボックはゆるりと唇を湾曲させた。その唇の間に白い筒を挟み込み、グラマーな裸婦を模した形状をしたライターで、その先端に火を点す。ふう、と紫煙を編みこんだ大息を吐き出しながら、
「あっぱれ、ジャン・ニコ大使」とハボックが歯を見せる。
「誰だよ、それ」誰、という漢字は、早朝の会話に二度も用いられるべきではないと思う。
「子供の名前案」
うそつけよ、そもそもつまんねーよ、とオレは粘土製の瞼をもう一度閉じた。


★三毛猫ヤマト★ V
--第五便--
 

消臭スプレーを制服に満遍なく吹きかけ、煙草の臭いと、それに伴う不良のオーラを掻き消す。不逞の輩に成り果てた、と人様に勘繰られるような状態で、登校するのも帰宅するのも御免だった。
「お前、タバコ、やめろよな!」優等生の香りを纏った制服に腕を通す。「一応、アスリートのはしくれなんだろっ」
ハボックはこちらを一瞥してから、「……誰のせいだと思ってんだか」
「何っ?」ここで本日初めて、ハボックと目を合わせた。昨晩のことを考えるとどうにも面映く、なかなか合わせられずにいたのだ。
オレの懇ろな忠告を受けて、ハボックはこれ見よがしに煙草のフィルターから、思い切り煙を吸い込んだ。オレが苛立ちによって右眉を引き攣らせたのと同時に、ハボックは灰皿に煙草を押し付けて、消火する。
「わかった、」承諾のその声は、諦観が滲んでいるでも、オレをいなすような浮薄な響きを孕むでもなかった。「やめる」
「ほんとかよ?」こいつの「わかった」は、悪徳不動産屋の「すばらしい物件」という言葉と同じ位、胡散臭い。「ヘビースモーカーにしちゃ、えらい安請け合いだな」
「その子供ためにもな」ハボックが愉快そうに、オレの腫れぼったい瞼を指差す。
「だから、くどいっつうの」
誰のせいだと思ってんだ。

外に出ると、白濁色の空が視界に飛び込んできた。青いはずの空が、厚めの白雲で覆われている。白いコートで空も防寒対策か、とぼうっと考えた。
白っぽい空は、泣き腫らした両目には曲者だった。眩しさに、思わず目を眇める。粘土製の太りじし瞼は、眇めるのも一苦労だ。
翌日にここまで引き摺るほど泣いたのは、久方ぶりだった。けれど、臨月の瞼とは裏腹に、気分はどこか軽かった。背負っていた荷物をおろしたような気楽さに、かえって戸惑う。「背負っていた荷物」の存在に、そもそも自分自身、気付いていなかったからだ。仲睦まじいロイとエドを前にしながらも、日常的に笑顔を作っていたことや、劣等感、卑屈な自分、その他諸々が、やっぱり「荷物」になっていたのか、と目ウロコで感じ入った。
涙の洪水から生まれた川にその荷物を流して、しゃんと背筋を伸ばす。その荷物が川で洗濯をするおばあさんに拾われて、山へ柴刈りにいったおじいさんに見せびらかされて、大いに笑ってもらってもいい。
ちら、と横に立つハボックを黒目だけで見上げる。こいつのお陰、か?
「なんだよ」頭上十数センチから降ってくる、ドリアンのように棘だらけの語気。「おい、目やに付いてるぞ」
「えっ」慌てて目元に指をやった。
「うっそー」言うなり、ハボックは事も無げに歩を進めていく。
死ね! とオレが後方から叫喚をぶつけると、「かわいくねー口癖だ」と馬鹿デカい背中が言った。
こいつのお陰? とんでもない。むしろ、厄介な新しいお荷物だ。

『言いたいことは、それだけか?』
欠伸まじりの、人を食ったような口振りの台詞を、反芻してみる。こんな醜悪な自分の側面は誰にも明かさず墓場まで持っていこうと決意していたような、そういうオレのおぞましい部分を披露されても、ハボックはのんこのしゃあとしていた。
人に話すにはひどく勇気のいる言葉を歯節へ出すことに、もたもたと二の足を踏んでいる咽喉に鞭打って、からくも紡ぎ出すことができた、そんな激しい難産だったオレの話。ハボックはそんなオレの言葉を、ソースでも掛けてむしゃむしゃと平らげてしまうようだった。そんなに美味いかよ? と問いたくなるほど、豪快に。
ひとつ分かったことは、そういうオレのどうしようもなく愚かな側面を見せ付けられても、オレに対して愛想を尽かさないくらいには、ハボックは本気らしい。
物好きな奴だ。
(……変なやつ……)
オレは寒がりだけれど、今日の空気の冷たさは、どうしてか不快じゃなかった。

横断歩道に差し掛かり、信号が青なのを確認してから前進すると、軽快な電子音のメロディが右手から鳴った。見遣ると、信号が青の時間を延長するためのボタンを、ハボックが何気なく押していた。速い歩行が困難な高齢者や障害者の方々のために設けられているボタンだが、全国の高校生の内でも随一の脚力を誇るハボックからは、最も縁遠い設備のように思える。
なんで、とオレが尋ねようとする前に、視界の端っこにその理由がチラついた。オレたちの後方三メートルほどの地点を、杖をついた高齢の男性が歩いていたのだ。思わず手を差し伸べたくなるような心許ない歩き方をする男性の目線は、コンクリートの地面に突き刺さっている。おそらく、彼は今、自分が小さな親切を受けたということにも、気付いていないだろう。
ハボックはボタンを押したきり、振り返って男性の様子を見ることもなく、すたすたと取り付く島もないような風情で横断歩道を渡りきる。そこがまた、偽善者ぶっていなくて、憎たらしい。
オレはなんとなく納得がいかない。ぶす、と唇を突き出し、なんだよ、と思う。「……ちょっと、いいじゃん……」ちょっと、いい奴じゃん。
あ? とハボックは不良のお手本のような声を出す。「なんか言ったかよ」
「こっちの話」取り繕うように、語尾を間延びさせる。「……変なやつ」
あ? ハボックが繰り返した。


ハボックの朝練のため、オレ達はだいぶん早く出発した。まったくなんであいつのせいでこんなに早起きしなきゃいけないんだ、絶対誰もまだ来てねーよ、とぶつくさと不平不満を並べながら十組の教室に入ると、いるはずのない人物が、そこにはいた。
「おはよう」二つの声が、早朝の張り詰めた寒気の中で、綺麗に重なる。
ロイとエド、の二人が、天文学的な数字の確率を乗り越えて、早朝の教室にいた。
オレは思わず漏らす。「今日、傘持ってきてないって」
「雨は降らねーよ、」エドがこめかみをぴくつかせた。「槍もだ」
槍なら傘があっても意味ないな、と言おうとしたが、これ以上喧嘩を売っても仕様がないので、口を噤んだ。お二人の目元にはどす黒いクマが滲んでいる。
「昨日、寝てないのか?」オレの問いには、
「ちょっと、考え事がな」低血圧を絵に描いたようなロイが答えた。
二人して? といぶかしむオレを見、エドがロイの言葉を継いだ。「ブロッシュとハボックの行く末が心配で」
「またまた、」オレは、ありえない、と大袈裟に肩を竦めた。「どうせ、朝方までいちゃついてたんだろ」
ちっ、と金きり声を甲走らせたのは、もちろんエドだ。「ちっげえええッ!」
「別に、恥ずかしがらなくても」
エドをひやかしながら、あれ、とオレは脳の片隅で違和感を覚えた。それは決してマイナスのオーラを纏ってはおらず、言うなれば、あたたかく健康的な、ゆるやかな違和感。
ロイやエドの仲睦まじげな様子に茶々を入れたり、揶揄を飛ばしたりするときは、必ず小さなトゲのようなものがチクリと胸を刺した。オレがいつも目を逸らして、見ないフリをしていたトゲだ。
でも今日は、
(……さらっと言えたなあ)
それはとても些細な変化。だけど、大きな一歩。

***

昼休みを告げるチャイムと同時に、オレの携帯が身体を震わせた。その携帯の姿は、届いたメールの内容に怯えているようにも見えた。
臆病な二つ折り携帯を開き、受信ボックスに入ると、「ハボック様」という登録した覚えのない名前を網膜が捉えた。オレにはバイブレーション機能など備わっていないはずだが、心なしかオレの身体もぶるぶると震えた気がした。勝手に登録しやがった、とオレは表情を曇らせる。
「屋上にいる」。
文字数にして五文字。絵文字ひとつないシンプルな文面に、だから何だよ、とひとまず突っ込んだ。「このメールを十人以上に転送せよ、さもなくばあなたは死ぬ」みたいな不幸のメールよりもよっぽど悪質に思えるこのメールの内容をNTTに報告すれば、ハボックから二度とメールが届かなくなるだろうか、と真剣に考えた。
NTTへの迷惑メール報告の方法を尋ねようと、そばにいたロイに向かって声を投げた。多知多識で名高いロイなら、きっと知っているはずだ。
「……屋上って、どこから行くんだっけ」
あこぎなこの口め。
横着者で見栄っ張りで強がりのこの口は、いつだって脳味噌の指令通りに動かない。

食堂で購入した、テイクアウト用のプラスチック製パッケージに収まったカレーを片手に、屋上を目指して埃っぽく薄暗い階段を上がった。「立ち入り禁止」という黄色いテープがオレの侵入を阻んでいたので、屈みながら進む。「屈み入り禁止」とは書かれていないからだ。完全なる、こじつけだ。わかってはいるが、十五年間「優等生ロード」を驀進してきたオレが、立ち入り禁止の場所へ足を踏み入れるには何らかの言い訳が必要だった。
ところどころ赤く錆びた扉を押し開けると、まず強い風がオレの顔に当たった。思わず閉じた瞼をおっかなびっくり開けると、遠くに見えた海の青さに顔が綻んだ。
隅の方で仰向けになっていたハボックがこちらに気付き、よう、と片手を上げる。然したる驚きも見られない、奴はオレが来ることをまるで当然のように思っているのだろう。オレは、自分の子供がこんなふうに育ってしまったらどうしよう、と漠然とした不安に駆られた。
「気持ちいいだろ、遠くに海も見える」ハボックが出し抜けに相好を崩す。
「馬鹿はおしなべて高い場所が好きだ」
オレはむっつりと眉根を寄せながら、ハボックから二メートルほどの距離を置いて、地面に腰を下ろした。
「人の携帯、勝手にいじりやがって」カレーの蓋を開けながら、ハボックに冷眼を向けた。
「メアドを『I-love-havoc』にされなかっただけ、良かったと思えよ」
本当にやりかねないから、こいつの洒落は笑えない。「オレはお前が嫌いだ」
唐突だな、とハボックは噴出すように笑う。「一口くれよ」言って、艶やかな湯気をあげるオレのカレーを指差した。
「スプーンが一本しかないから、無理だ」オレがそっぽを向くと、
「実は、スプーンは二人でも使えるんだ」ハボックの声がオレの頬を追いかけてくる。
「お前と間接キスなんか、冗談じゃない」
「間接キス!」弾けるようなハボックの笑い声が、オレの耳朶を乱暴に蹴飛ばした。「いまどき、小学生のガキだって使わない単語だ」

こいつと会話していても腹が立つばかりなので、オレはまともに取り合わないことにした。苦手な人参を避けながら、黙々とカレーを平らげることに専念する。スプーンの曲面に映りこんだ自分の顔は不機嫌そうに歪んでいて、逃げるように空を仰いだ。大きな、大きな青が、とても近い。天高く馬肥ゆ、という表現がまさにぴたりだ。真っ青な画用紙の上に、出来損ないの綿菓子みたいな雲が貼り付いている。
「朝は曇ってたけど、晴れたな」
硬質のコンクリの地面を物ともしない、筋骨隆々たるご立派な身体を横たえて、ハボックが呑気な台詞を吐く。うん、とオレは頷きながら、いちごミルクのパックをポケットから取り出し、ストローを刺す。いちごミルクを見ると多くの男友達が、げえ、と舌を出すが、オレは「うだるような甘さ」と言うか、この鬱陶しいほどの甘味が好きなのだ。
「今日はけっこう暖かい」季節では秋が一番好きかもしれないな、なんて心地良い微風の中で考えた。
「お前、まだエドが好きなのか?」
藪から棒どころか、藪から槍を突き出された。その脈絡のない言葉に「わ!」と背中を叩かれ、驚いたいちごミルクがオレの喉元で躓いたので、盛大に噎せた。甘ったるい香気が口元に広がる。液体が気管に滑り込んで、オレの噎せ返りはなかなか治まらなかった。
ハボックが唐突に切り出した会話は、明らかに、天気の話題と肩を並べるべきものではない。その無理やりな話題の転換は、寺の住職が瀟洒なカフェでマカロンを齧っているくらいの、つまりは相当な違和感を伴った。
二の句が継げないオレは咄嗟に後ろを振り返って、会話に於けるセンスというものがまるで欠如した男を見遣る。その顔は予想以上に真剣だったので、困惑したオレは瞬きの回数が増えた。うるせえな関係ねえだろ、と乱暴に突き放せるような雰囲気でもないので、オレは一気に乾燥した下唇を噛むように舐めた。

なんと答えればいいか、一秒、悩んだ。それから、一秒でも悩んだ自分に、びびった。
どうして悩む必要がある、オレはエドが好きで、それはかなり強い想いで、そう簡単には変わらないことで──そう簡単には、変わらない、はずだ。
だって、ロイとエドが両想いになったって、諦めきれたわけじゃなかった。それくらい、未練がましい、粘着質な、死に損ないの感情だった。命からがら、這う這うの体、それでもまだ、死にきれない。それくらいの、しみったれた、見るに堪えない、うらぶれた感情。
「……あ、当たり前だろ」
その言葉を吐き出すのと同時に、ハボックから目を逸らしてしまった。何故だ?
そうかい、とハボックは恬淡とした声を出す。オレをからかうでも、なじるでも、励ますでもない。すると、オレの鼓膜はどこか物足りなさを感じる。オレはどんな返答を期待していたというのだ? 自分自身、わからない。
「お前は、やっぱり、悔しいのかよ」オレはスプーンを持つ右手と、いちごミルクを持つ左手を静止させ、床に置いたカレーに視線を落ち着かせながら、下手くそな話し方で言葉を投げる。「お、オレが、エドが好きとか、言うと」
「悔しい? 悔しいというか、ぶん殴りたくなるな」
「な、何を」
「お前を」背筋が寒くなったオレの背後で、ハボックは続ける。「いや、自分か?」
「お前に殴られたら痛そうだ」率直な感想だった。
「痛くないってことはないな」
殴られたらたまらないので、オレはいちごミルクとスプーンを手に立ち上がる。どちらもハボックの拳を弾き返す盾にはなりえそうもない、脆弱な装備だ。
「人の気持ちってのは、そう簡単には変わらないんだよ」ハボックに背を向けたまま、努めて冷静な口調で断言した。「焦って、変わるもんでもない」
そうかい、とハボックは再び言う。「俺はあんまり気が長くねえからな」
「だったらオレなんかじゃなくて、他をあたれよ」
「とりあえず十年くらい待ってみて、お前に飽きたらそうさせてもらう」
オレも相当素直じゃないが、ハボックの野郎もかなりのひねくれ者だ。
十年って、結構、長いんだぞ。わかって言ってるのか、この馬鹿は。
八十まで生きると仮定すれば、人生の八分の一に相当する。誰かに人生の八分の一を捧げられるだなんて、オレはそんな高貴な人間でも、大層な人間でもないように思えた。

「十年って、人生の八分の一だぞ」一応、忠告してみた。ハボックは馬鹿だから、それすらわかっていない可能性がある。「そんな大層なもんを、オレに捧げてどうすんだよ」
お前の人生が薄っぺらくなるのを、くれぐれもオレのせいにするなよ、と虚勢を張った声音で続ける。
「如何せん、それくらいしか捧げられるものがねーんだよ」
ドク、と自分の心臓が、その言葉に反応した。そのことに焦る。やばい。やばすぎだ。
ハボックは、真摯とか熱心とかいう単語から最も掛け離れているような雰囲気の、要するに淡然とした声音で、そんなことを嘯く。そう、「嘯く」だ。てんで本気なんかではない、空とぼけるような大言壮語、大風呂敷を広げるようなもんだ。絶対に、そうなのだ。
からかっているのだ。オレはからかわれている。ハボックの言葉に信頼性を見出しかけている自分に、慌てて言い聞かせた。落ち着け、デニー・ブロッシュ! お前はからかわれているのだ!
オレみたいに特筆すべき取り柄もないような奴を掴まえて、美辞麗句を駆使して浮かれさせ、飽きたらぽいっと捨てていく。そういう悪趣味なやつはきっと世間にごまんといる。現実っていうのは甘くない。それくらい、いやというほど知っている。特筆すべき取り柄もない、だからこそ、そういう辛酸をたくさん嘗めてきた。オレにはあって、ロイやエドにはない、数少ない知識のひとつ。

頭を冷やして、ジャン・ハボックについて邪曲のない考察を試みる。
オレ個人としてはこいつがいけ好かないし、傍若無人な性格に虫酸が走るが、不偏の立場に徹してみれば、まあ、勉強ができないといっても運動神経は抜群だろうし、容貌だって、精悍な面魂が滲み出ている、男らしい、人好きのする顔だろう。たぶん、女性にもモテる。童貞でもなさそうだ。総合点で見れば、少なくともオレよりは上だ、遥かに上。
だから、こういう奴がオレに夢中になっているだなんて、そんな事態はおかしい。不自然だ。意味がわからない。
「おい、」
ハボックの、いつもどこか怒っているような声が後ろでしたかと思うと、オレのふくらはぎが力強く掴まれた。カタカタとジャン・ハボックデータを脳内のパソコンに打ち込んでいたのを突然邪魔され、しかも掴まれたふくらはぎに驚いて、「うひゃ!」とオレは奇声をあげる。
なんだよ、とハボックの語気がやや険しくなる。「ここ、性感帯か?」
「うっ、う、うるせえんだよ!」こんなに下品な言葉遣いをするやつは初めてだ!「くたばれ!」
「それ、一口くれよ」
立ち膝の状態で、オレを上目遣いで見上げながら、今度はいちごミルクを指差した。こいつはA型か? とオレは思う(A型はすぐに「一口ちょうだい」と人のものをねだる奴が多い、気がする)。限りなくBっぽいけどな。
「絶対にお前の味覚には合わねーよ」いちごミルクをハボックから遠ざける。「そもそも、ストローも一本しかねーんだよ」
「アスリートは糖分が命なんだよ」
ハボックはそう言い切ると、オレの制服のジャケットを引っ張った。重力とはまた種別の違う、下方へ働きかける高圧的な力を受けて、オレは当然バランスを崩す。その拍子に左足首を捻り、オレの身体の均衡は完全に瓦解した。
そのまま自分を引っ張る力の方向へ身体を傾けながら、倒れこむ。両手はスプーンといちごミルクで塞がっていた。重力という地球の熱烈な抱擁を受けるまでのコンマ数秒の間に、ファーストキスはコンクリート相手か、嫌だな、なんて茫々と考えた。

ガチン、といういただけない音がした。瞬間的に痛みが走ったのは、口元。
おいおいがっつきすぎだぜコンクリートさんよ、と顔を顰めながら、いつの間にか閉じていた目を開く。そこには、無機質なコンクリではなく、有機的という言葉を象徴するような、人の顔があった。
ガチンという音がしたはずなのに、今口元には妙に柔らかいものが当たっている。柔らかいコンクリート、なんていう表現をしたいわけじゃない、太宰だってそんな奇の衒い方はしないはずだ。
コンクリートはそう簡単に柔らかくはならない。酸性雨が降るとコンクリートが溶ける、というのは聞いたことがあるが、本日は気持ちがいいほどの快晴である。
──以上、こんなにまわりくどい説明をしたのは、目の前にある現実を受け入れたくなかったからだ。本当は、目を開いた瞬間、口元に当たった硬さの正体はわかっていた。
歯だ。
幾つもの酷薄な偶然が重なって、重なって、最終的に、オレという世界の中で最も重なってはいけなかった唇と、オレの口元が重なってしまった。
むろんすぐさま、そのあまりにも薄情な偶然の連鎖から離脱しようと試みたが、ハボックが短兵急にオレの後頭部を手で押さえたので、オレの頭は世界一むごいサンドウィッチの具に成り果てた。
「ん……ぅ……!」オレの口になんの枷もついていない状態であれば、ギャー! と断末魔の叫びをあげただろう。
最悪だ、最悪だ、最悪だ。
「間接キスじゃなくて、口移しがよかったのか」二センチ下にある顔は、顔色ひとつ変わっていない。「案外大胆だな、お前も」
こいつにはヒトの血が通っていないのではないか、とオレは肩で息をしながら真剣に懸念した。「そ、そ、そんなわけ、そんなわけ、」
「いちごミルクも美味かったし、ハボック様、丸儲け」

二センチ下にある顔が、端整に並んだ歯列を覗かせて、笑った。
心臓が、ぎゅっときつくなる。
ほんと、最悪だ。

***

午後は終始ブルーだった。どうした? と友人に心配されても、真実を話せないのがもどかしい。ちょっと胃もたれが、とその場凌ぎの愛想笑いを作る。嘘ではなかった、実際、昼休みの出来事を思い返すと、胃を構築している成分が突然変異を起こして鉛になる。もちろん、カレーといちごミルクという突飛な組み合わせの昼飯メニューのせいではないし、蠕動運動にもなんら支障はない。ただただ「鬱」が惹起している、キャべジンでも治りそうにない厄介な胃もたれが、身体の中心に収まる臓器に執拗に纏わりついていた。
あんな性悪なクソ野郎にファーストキスを奪われるために、オレの唇はこの世に生を受けたわけじゃない。エドと、なんて贅沢は言わないが、せめて性別は雌であってほしかった。この際、ヒトの雌じゃなくたって構わない。あんなクソ野郎に比べれば、雌牛に唇を舐めとられたほうがまだマシだ。
中背中肉、サえない容姿、何につけても凡庸、あまつさえ、ファーストキスは男。どう頑張ったって、オレの能書きはこの程度だ。オレが裁判官だったら、「世界になんの貢献もせず、そのくせ、己の産出する二酸化炭素で世界の空気を汚す」という罪状で、自分を有罪にするところだ。
はあ、と何回目かわからない溜息を吐き出す。出しても出しても、飽くなき精神で鉛の胃からせり上がってくる溜息。オレはいつの間にこんなに息を食い溜めていたのだ、と思う。

そもそも、とひねくれた皺を脳味噌に寄せて、考える。
そもそも、あいつは根っからの男好きなのか? オレみたいなサえない男とも平気でキスできるような、筋金入りのゲイなのか?
不幸な偶然の五重塔が織り成した、事故からなるキスを嫌がるどころか、オレの後頭部を押さえつけて、逃がしまいとしてまで──と、ここまで思案したとき、心臓が特殊な拍動をした。胃を強く圧迫するような、息をしづらくさせるような、どくり、という心拍だ。
同時に、本能的な危機感。
いや、違うのだ、とオレは必死にかぶりを振る。
これは胃もたれなのだ。やっぱり、カレーといちごミルクのせいで、胃がもたれた。そういうことにする。
頬が熱いのは、インフルエンザ、は時季じゃないか、だから、つまり……。
うまい言い訳を探しているうちに、授業終了を告げるチャイムが鳴った。

「ブロッシュも今日はもう帰るだろ?」というオレの女神、つまりエド、の一言で、三人で正門を目指して歩き出した。
樹海の奥深くに悠然と寝転がるしゃれこうべを目撃したような、こういう鬱々とした心境のときは、エドの邪気の無い笑顔が本当に心に染み入る。オレのささくれた心に、優しく軟膏をぬってくれるような天使の笑顔を前に、顔が緩まないように努めるのに必死だ。
いつもならロイとエドのお邪魔虫にならないようにと、何かと理由をつけて離脱するのだが、今日ばかりはエドの笑顔に甘えよう、と決めた。オレの自宅と二人が目指す駅へ続く分かれ道まで、お相伴にあずかることにする。ロイという正客に陪席させていただくつもりで。
そんな、ささやかな自分へのご褒美は、「ちょっと、いいですか」という聞き覚えのない声に呼び止められたことによって、お預けを喰らう羽目になった。ちょうど、陸上のグラウンドのそばを通りかかったときだ。その声のほうへ目を遣ると、声と同様に全く面識のない顔の女子が立っている。
「お前、モテ期か?」ロイが、冗談なのか本気なのか判じかねる声を出す。年齢とモテ期をイコールで結べるロイに言われる筋合いはなかった。
「よっ色男!」とオレを囃し立てるエドには、微塵も罪の意識などないのだろう。オレの気持ちも知らないで、と我ながら身勝手だとは思うが、若干の腹立たしさを覚える。
「二股はいかんぜよ」という、にやつき混じりのエドの言葉をそこへ置き去りに、お二方は正門へ向かって去っていった。

さよならご褒美、と悲壮感に打ちひしがれながら、目の前の生面と向き合った。彼女の険しい表情を見る限り、ロイとエドは何やら勘違いをなさっているようだ。眉間にご立派な渓谷をお持ちですね、と言いそうになる。どう転んでも、これから彼女の眉間の渓谷が消え失せ、ロマンチックな展開になるとは考えにくかった。
今日は厄日だな、と確信し、今朝ロスキャスターの占いを見逃したことを思い出した。まあ、間違いなく最下位だったろう。見るまでもない。全国のさそり座の方々に謝罪したい、と思った。きっとさそり座の運勢を下げているのはこのオレだ。
「ブロッシュさん、ですよね」
彼女は声に滲む敵意を隠そうともしない。化粧っ気はないが、鼻筋の通った、整った顔立ちをしている。けれど、かなり細めに切りそろえられた眉が少々キツい印象をこちらに与えた。真冬の極寒にも屈せず花をつけるけし科の花みたいな、そういう芯の強さが隠微に揺らめくブラウンの瞳から垣間見える。
オレは、はあ、と気の抜けた返事をする。美人に睨まれると肩身が狭くなる、というのは、全国の男児共通だろう。早く帰りたいな、と地団駄を踏みたくなる。
私は一年のアデルといいます、陸部のマネです、と彼女は簡潔な自己紹介をしてから、オレに向き直るようにして本題を切り出した。「単刀直入に言います」
単刀直入というのは、あんまり快い言葉ではないよな、とぼんやり思った。その四字熟語に続いて行進してくるのは、えてして厭わしい話題だ。
「ブロッシュさんは、ハボック先輩のことをどう思っているんですか」
やっぱりね。
オレは辟易する。
「別に、どう思うも何も──」
男同士だし、知り合ってまだ二、三日だし、というオレの不明瞭な説明を遮るように、彼女は鋭い舌鋒で食いかかってきた。美女と舌戦を交える気概など、オレにはないというのに。
「なんとも思っていないなら、潔く振ってあげてくれませんか」
彼女はオレを実験台にして、視線だけで人を刺殺できるか否かを試しているようにしか見えない。お門違いだ、とオレは泣きたくなる。美人の敵はなるべく作りたくない。
「ハボック先輩は、全国行きが決まる大会を目前に控えています。陸上部のエースとして、絶対に全国に行ってほしいんです。先輩は、十年に一人の逸材と謳われるほど才能のある、聖倫陸上部期待の星なんです」
そりゃ、大したもんだ。オレはゴボウのように頼りない己の両足をちらりと見て、頭を掻く。五十メートルを走りきるのに、八秒は要するだろうゴボウの足。ささがきにでもして鍋で煮込んでやろうか。
「ハボック先輩が、ブロッシュさんのことを好きだっていうのは、知ってます。部内では、有名な話ですから」
ちょっと待ってくれ、という悲痛の叫びを、オレは僅かな理性でどうにか押し殺した。高校三年間、陸上部には絶対に彼女ができないだろう。
「ブロッシュさんがちゃんとハボック先輩を諦めさせてくれたら、先輩も練習に専念できると思うんです。それに──」
開いた口が塞がらなかったオレだったが、彼女の声のトーンが変わったことには気がついた。なんとなく、オレも身構える。
「私、以前ハボック先輩とお付き合いさせていただいてました。好きな人ができたって、振られちゃいましたけど、」
その「好きな人」が自分であることくらい、鈍感に足が生えて──しかもゴボウの足──歩いているようなオレでもわかった。更に元カノという単語によって、ふたつの疑問が解消した。ひとつは、彼女がオレに異様なほど厳しい視線を浴びせる理由。そしてもう一つは、ハボックが生粋のゲイではないらしいということ。
「今度の大会のとき、私もう一度先輩に告白するつもりなんです」
唇をきゅっと結ぶようにして、彼女は凛呼たる姿勢で言い放った。どうやらこっちが本音らしい、陸上部のエースだの練習に専念できるだのというのは、もったいぶった建前だ。オレにハボックをしっかり振ってほしいという、陸上部のマネージャーの仮面に覆われた、彼女の一人の女性としての、隠然たる本音。

はっきり振ってほしいって? 何を言う、そんなの、端からそのつもりだ。あんなむさくるしい、無骨な男なんて言うまでもなく願い下げである。まして、オレには別に、好きな奴がいるんだから。
「私なら、大会に向けての体調やスケジュールの管理もこなせます。一番近くで付き添って、先輩をバックアップできるんです」
まなじりを決して話し始めた彼女の語調は、オレを叱責するような色合いを帯びていた。
「……先輩が、どうしてブロッシュさんを選んだのか、正直、疑問です」
あ、痛、とオレは呻きそうになった。心臓のあたりがチクリと痛かった。刺すような、純銀のフォークでえぐるような、不細工で、不透明な痛み。
よりによってどうしてオレなのか、そんな疑問は、オレが一番初めに抱いたことだ。誰の目にも当然そう映るだろうことは、わかりきっていた。それなのに、その彼女の言葉は、随分と重く、耳から心臓へ直下するように響いた。「やっぱり? 謎なのはそこだよね」と調子よく気褄を合わすことすらできなかった。
愛想笑いは、数学よりも得意なのに。

ほらね、釣り合うわけない! 遠くで誰かの笑い声が聞こえた。

***

後頭部の髪をいじっている自分の左手に気が付いて、いかん、と慌てて手を髪から離した。集中力が欠けている時に出る癖だ。
右手にはシャーペン。自室の机上には、至上のストレス解消法であるはずの数学の問題集。これにも集中できないとなると、オレにはもう為す術がない、お手上げ状態。オレから数学を取ったら何が残るのだ、と思いもするが、たぶん髪をいじる悪癖だけが残るのだろう。あと、ゴボウの足か。最悪だな。
勉強のお供として頻繁に使用する中枢神経興奮剤を口にする。甘党のオレにとってはちょっと苦めの、優れた眠気覚まし。まあ、ただのカフェオレだ。
カフェオレはカフェオレなのだが、いつものと違う商品を買ったので、今日のやつはことに苦かった。超苦い。ちっとも美味くない。この会社のカフェオレは二度と買わない。
まずすぎる。

携帯が大袈裟な音を立てて、机の上で震えた。開いてみると、液晶には「筋肉馬鹿」という文字が表示されている。ハボック様、という勝手な登録名をオレが変更したのだ。
数秒悩んだが、無視するわけにもいかず、通話ボタンを押した。「なんだよ、筋肉馬鹿」
それが登録名か? という笑い声が電話から漏れてくるのを予想したが、外れた。
「今日、なんか言われてただろ、あいつに」筋肉馬鹿の声は妙に切迫していた。
「あいつって誰だ? ジャン・ニコ大使か」オレは顎を掻きながら空とぼける。
示唆された人物は特定できたが、「あいつ」というやけに親密感が伺える呼称に何故かいらつき、皮肉った。
「アデル」ハボックの声に棘が生える。
「元カノ」オレの声も負けじと尖った。
「今、お前の家の前にいる」
ストーカーを常に付き従えているような美女ならともかく、平々凡々を座右の銘にしているようなこのオレに、そんな言葉を掛けられる日がこようとは思ってもみなかった。はっ? と咽喉を痙攣させるようにして叫び、二階にある自室のカーテンを乱暴に開ける。眼下には、携帯を耳に押し当てたハボックの姿。なんでオレの家知ってんだよ、と聞いたら、陸部の後輩に聞いた、と悪びれもなく返ってくる。職権乱用だ、とオレは苦肉の反論を吐いた。
「出てこなくていいぞ、寒いから」ハボックの口の動きと、携帯から流れ出てくる声がぴったりと一致する。
「……言われなくとも、出ねーよ」
「随分可愛い部屋着だな」
その言葉にはっとして、カーテンで自分の上半身を覆い隠した。赤チェックの羽織を着ていたのだから、確かにからかわれてもしょうがなかった。ハボックがこれを着ていたら、オレでも間違いなく小一時間は馬鹿にするし、半年はハボックのことを赤チェック野郎と呼ぶはずだ。「姉ちゃんのなんだよ!」と、照れを抹殺する気持ちで声を荒げた。
「あいつに何言われたか知んねーけど、」窓越しにハボックと目が合う。いつだって真っ直ぐ、オレめがけて飛んでくる、グングニールみたいな視線。とても苦手な視線。いやでも心を乱される。「絶対、気にすんなよ」
「気にする? なんでオレが」つい、そのグングニールから逃れるように顔を背けてしまう。代わりに、スパンコールみたいな星屑を見つめた。「別に、お前のことなんて、どうだっていいんだし。元カノだろうが元サヤだろうが、関係ないし」
仲睦まじいロイとエドの様子に茶々を入れる時に感じた、ぼやぼやとした、腐敗した水の蒸気が咽喉に溜まるような感覚が、すっと過ぎった。真実に目を逸らした感覚。虚勢を張ったときの感覚。自分自身に嘘をつく、悲しい感覚。
どうしてブロッシュさんを選んだのか疑問です、という、彼女の忌憚のない声が脳裏で繰り返し鳴っている。鬱陶しいほどのエコーとビブラートの掛かった、鼓膜に纏わりつくような声。脳味噌に、がんがんと五寸釘を打たれているようだった。
何故オレを選んだのか疑問、だって? こっちが聞きたいぐらいだ。
(誰か教えてくれよ、)なあ、誰か。

そうか、だからオレを選んだのか、って丸まる事情を納得できる、そういう確やかな理由が欲しかった。そしたらオレは、どんなに楽になるだろう。そしたらオレは、この狭隘な檻の中から、きっと救われる。
(……いたい、)
悔しい。
なんだって、思い通りにいかない。
オレはそういう星の下に生まれた。
(今ほど、それを痛感したことはない)
何故、今だ?

ハボックの顔を見下ろせない。だから、真っ暗な空に煌めく星の数を数える。天には、黒と金の、絶妙なコントラスト。
ああ、
(ロイと、エドみたいだなあ)
天だって認める。あいつらは、そういう二人だ。
オレとは違う。
オレは窓から、こんな汚れた小さな窓から、天に瞬く二人を見上げるだけだ。二人はとても、とても高いところにいる。どんなに手を伸ばしたって、爪の先でだって、さわれもしない。
空は、こんなに高いのだ。

「お前には、ああいう子がお似合いだよ」オレが喋ると、窓が息で少し曇った。
「そんなの、俺が決めることだろ」
違う、とオレは泣き喚きそうになる。お前が決めるだけじゃ、駄目なんだ。お前みたいに、才能のあるやつは、オレなんかじゃ駄目だ。周囲も得心して賛同するような、「あの人となら」と皆に祝福されるような、そういう奴じゃなきゃ、駄目だ。
駄目なんだよ、オレじゃ。
「みじめなのは、オレなんだよ……っ」
有能なやつらには、わかりっこない。
と、突然電話が切れた。オレは驚いて、夜空からハボックのほうへ目を落とす。ハボックが、左手を大きく横に動かして、窓を開けろ、というジェスチャーを送っている。オレは眉を寄せ、唇を不機嫌そうに突き出しながら、不承不承指示に従った。
「みじめだなんて、今度言ってみろ」ハボックの張り上げた声が、ぴんと張り詰めた寒気を引っ掻く。「デニー・ブロッシュの素晴らしさを、全校生徒一人一人に吹聴してやる」
渋みが塗られたオレの眉毛は開き、呆れの下斜め三十度に変わる。「それは恥ずかしいから、やめてください」
こうやって、いつもこいつは、ちっとも優しくない声で、優しいことを言う。

「今度の大会、応援に来い」
ハボックが話すと、一秒、白い呼吸が空気に残る。その潔白の色が、ハボックの言葉に一層の重みを持たせているように見えた。
「それで俺が全国を決めたら、付き合え」
強引にも程がある。無茶苦茶だ。勿論そう思いはしたが、なんといっても天上天下唯我独尊、ジャン・ハボック様のやらかすことなので、もはや、何も言うまい。
「……応援に、行かなかったら?」だけどオレにだって、選択肢を増やすくらいの権利はあるはずだ。
「諦める」
あきらめる。その五文字は、そのまま五本の針となって、オレの心臓を突いた。
あきらめる。諦めて、元サヤか?
あ、また痛い。
「俺がお前を好きなことに文句を言う奴がいるなら、片っ端からぶっとばすっつうの」
言って、ハボックはポケットからチュッパチャップスを取り出した。青のパッケージ、コーラ味だな。器用に剥いて口に銜え、ハボックは唇からはみ出た白い棒を指差す。
「煙草のかわり」片方の口端を吊り上げるようにして笑み、また明日な、とハボックは踵を返した。

『お前、タバコ、やめろよな!』朝、そう言った。オレが。
窓を、カラ、と黙って閉めた。施錠し、カーテンを元の位置に戻す。
机上に立っていた不味いカフェオレを、もう一度飲んだ。
あれ、なんだ。
美味いじゃん。

***

異変に気付いたのは、やはり、目敏いロイだった。
あれ? と唐突に素っ頓狂な声をあげたかと思えば、ロイはオレのほうを振り返った。「今日、陸上部は大会かなんかか?」
なんでオレに聞く、という突っ込みはおそらく鬱陶しがられるので、控えた。陸上部所属のクラスメートが全員欠席であることから導き出した推測だろう(全員と言っても、十組に在籍する陸部はたった二人だ)。大した慧眼だ。ロイの爪の垢を煎じてエドに飲ませたら、あまりの効験新たかさに、噎せ返ってダウンするだろう。
ロイの言葉に、そうらしいよ、とオレはお茶の代わりにいちごミルクを濁す。一限終了後の休み時間である、大会はもう始まっているだろう。
「ハボックも当然出てるんだろ?」エドはロイにネクタイを結ばせながら、煮えきらないオレの返答に焦れているようだ。
「……全国が決まる大会だってさ」
オレがすげなく補足すると、ガタッ、と木製の椅子が二つ倒れた。ロイとエドが急に立ち上がったからだ。
「なんで応援に行かないんだよ!」
前のめりで激越な怒声を張ったエドは、喫緊の事態だとでも言わんばかりの顔つきだが、首元にぶら下がる完成途中のネクタイのせいでいまいちキマっていない。
そういうとこが可愛いけど、と脳内で惚気ている場合でも、どうやらないらしい。
視線を虚空に彷徨わせるオレの口元で、チュー、とストローが間の抜けた音を出している。


言い訳をしたいわけじゃないが、オレだって、悩んだ。
ハボックがオレの家へ訪れた一昨日の晩などは、それこそ夜通し、枕の上で煩悶していた。真剣に自分を想ってくれているらしい人間に対して、真剣に悩んでみせるくらいの礼儀は、オレにだってある。
ハボックが帰路へついた後、陸部の知り合いにメールで尋ね、大会は明後日なのだと知った。明後日! とオレが愕然としたことについては論を俟たない。
デイ・アフター・トゥモロー。今から数えて、大会まで四十八時間もない。あまりにも時間がなさすぎやしませんか、ジャン・ニコ大使よ(ニコチンの由来になった方だそうですね、ええ、もちろんエドとロイに聞きました)。
相手は男で、オレも男。オレの人生を根底から大きく揺るがすかもしれない決断を、たったの二日であいつはしろと言う。無軌道とか非道の話ではない。エドは常識がないというだけだからまだ可愛らしいが、ハボックの野郎は常識に逆行している。
たったの二日。セミだって一週間は生きるし、もやしだって三日はもつぞ、と訳のわからない僻みを呟いた。

さて、正直に言おう。
オレが大会に行かないとする。ハボックはオレを諦め、元カノと見事復縁(一部憶測を含むが、これは高確率で的中するだろう)。
オレのインテリぶった脳髄は、「ああそう、だから?」とお高くとまっている。けれど、直情型の他の細胞は、未曾有の疼痛に呻いている、ことを、オレは知っている。
痛みや苦悶に震える他の細胞を、インテリぶった脳でもって丸め込むのは、オレの御家芸だ。それでも、その専売特許も形無しというくらいに、心臓を中心とした臓腑の痛みがあまりに強烈だった。
正直に言おう。冗長な弁解口調になるのは、オレの悪い癖だ。
「……嫌だ、」
寂寞たる深夜、永久に日の目を見ることがないだろうその言葉は、オレを頭まで覆う分厚い羽毛布団だけが聞いていた。おいお前、誰にも言うなよ、とオレは布団のやつを抓るように握り締める。言ったら、ハサミでお前の中の羽毛、全部抜いてやるからな、と布団を脅迫した。これから本格的な冬の到来だ、さぞ寒かろう!
「やだな……」自らの独り言で、こんなに顔を熱くしたのは初めてだ。
嫌だ。そうさ。文句あるか。
それで、「よし、それなら応援に行こう」と果断な行動に出られないのが、デニー・ブロッシュをデニー・ブロッシュたらしめる理由だ。慎重なんじゃない、深謀遠慮に長けているわけじゃない、そう言えば確かに聞こえはいいが、とどのつまり、ただのネガティブである。
オレが応援に行けば、たとえハボックが全国を逃したとしても、あいつは確実に調子に乗るだろう。オレが応援に行くという事は取りも直さず、交際をオーケーしたも同然なのだ。そのままハボックのクソ野郎の勢いに呑まれて、恋人関係という契約を結ばされるのは時間の問題である。
それで、だ。恋人同士になれば当然、ベッド内の行為にもつれ込むこともあるだろう。やつが馬鹿力の持ち主であろうことは火を見るよりも明らかだし、おそらく抵抗の余地などない。
それが無理だ。何はなくとも、問題はそれだ。抱かれることは然ることながら、抱くのだって御免被る。
正直に言おう。相手がエドなら、歓迎した。言うまでもないことだけれど。
そもそも、あんな無骨なハボックの野郎が相手で、色っぽい雰囲気になんかなるわけない──と、ここで、はたとある記憶が発掘された。
『恋人なんて、友達にプラスアルファしただけの存在だって、そうお気楽に考えてればいいんだよ』
オレが、ロイに想いを打ち明けることにもたついているエドに向けて放った台詞だ。恋人なんて、友達にプラスアルファしただけの存在、だって? 笑わせる。
他人事というのは、驚くほど人に思い切った発言をさせる。まさかこの言葉が、オレ自身の背中に重く圧し掛かってくる日が来ようとは。口は禍の元、ってやつか? 先賢の知恵は実に偉大だ。クソくらえ。

応援に行ってハボックとしっぽりいくのも、応援に行かずに元カノと復縁するのを黙って見守るのも、嫌だ。
どっちも、嫌だ。聞き分けのない子供のようで癪だが、そうなのだから仕方がない。
だけど結局、ハボックの為になるのは、元カノのほうだ。間違いなく、そうだ。今あいつは、恋情という決河の勢いで湧き出る感情に流され、正気を保てていない。だから、オレが一番などと放言するのだ。若気の至りだ。念入りな、ただの勘違いだ。
元カノと復縁して数年もすれば、「あの時、こいつを選んどいて良かった」と思うはずだ。一時の、馬鹿な感情に流されなくてよかった、と。
そして何より、彼女のためにもなる。周囲も彼らを祝福する。ほら見ろ、オレが一歩引けば、大団円じゃないか。

そう思うだろ? オレの顔までかかる、羽毛布団に尋ねた。
じゃあ、なんで泣いてる? 羽毛布団が反問してくる。
うるせえ、ただのあくびだよ。



「「おい、ブロッシュ!」」ロイとエドが示し合わせたように声を重ねた。「「聞いてんのか!」」
応援に行かない理由をなかなか話しださないオレに痺れを切らしたように、二人が激しく詰問してくる。「いや、だって」という台詞を、オレは立て続けに三回呟いた。
ジリジリと盛夏の太陽のようにオレを焼き尽くそうとする二人の視線に白旗を揚げ、元カノの登場と、ハボックに切り出された「応援に来たときの条件」について、地下鉄のアナウンスみたいなくぐもった声で、説明した。
「それで、お前はハボックのこと、どう思ってんだよ」
全てを見透かしてしまう能力を持っていそうなロイの瞳の闇が、オレを値踏みするように見つめている。この瞳を前にしては、嘘をついても仕方ない。いやでもそう思わされる。
「いや、だって、」両手で包んだいちごミルクをぎゅっと握り締めた。「元カノとヨリ戻したほうが、絶対いいに決まってんだよ、その方がハボックのためにも、彼女のためにもなる」

「そんなこと聞いてねーんだよ」
エドがいつもと違う、ドスを利かせた声を出したので、オレは俯いていた顔を上げて彼を見た。
「お前の気持ちを聞いてんだ」
ロイもエドに倣うように、決して優しくはない目顔で、オレを睨んでいる。
こんな表情の二人は、初めて、見た。
「お前の気持ちが」とエドが言い、
「全てに優先する」ロイが続けた。
オレの体内に潜む無数の襞が、一つ残らずさんざめくような、感じたことのない心のざわつきがオレの身体を駆け抜けた。その感覚は決して不快ではなかったのに、どうしてか、泣きそうになった。
「お……オレは、」
オレの、気持ち? オレの気持ちが、全てに優先する?
(……そんなこと、)今まで、考えたこともなかった。
やっぱりこいつらは凄い。
オレの知らないことを、なんだって知っている。
「オレは……、」
視界が、何かとても熱い水で、ゆらりと滲んだ。

正直に言おう。
怖かった。オレは、怖かったのだ。
ジャン・ハボックという、流れ星みたいに前触れもなくオレの前に登場した男がいた。煙草の臭いを纏わせたそいつは、オレを好きだと言って、オレに「一番をやるよ」と言った。
その「一番」は、オレの人生で最初の、そしておそらく最後の、本物の「一番」だった。
突然、目の前に見たこともない宝物を与えられたオレは、戸惑い、そして怖がった。失くしてしまうのが、それがいつかオレの前から消えてしまうのが、どうしようもないほど、怖かったのだ。
一度は手にしたその「一番」が、オレの手から無くなってしまったら、オレは立ち直れないほど落胆し、絶望するだろう。きっともう、二度と手には入らない。平凡なオレみたいな人間が、唯一天から与えられた「一番」。それを失くしてしまったら、と思うだけで、身震いしそうだった。
中学のとき、ミスターメガネに明け渡した「一番」の記憶が、エドに想いを打ち明けられずに、ロイに持っていかれた「一番」の記憶が、オレを一層弱くしていた。
偽物の一番なら、もういらなかった。そんなもの、傷つくだけだってことを、よく知っている。知っているから、怖かった。

「二度あることは三度ある」ってよく言う。だけど、「三度目の正直」って言葉もある。
これはエドの話でも、ロイの話でもないから、不器用な、下手くそな話だ。だけど、だからこそ、どちらの言葉を採用するのか、決めるのは、オレしかいない。
これは、オレの物語だからだ。

主役はオレで、だからこそ、オレが頑張らなくちゃいけない。辛いけど、怖いけど、オレが決めなくちゃいけないんだ。
エキストラもしんどいが、主役もけっこう、辛いもんだな。
(……しょうがないな、もう)
あいつを信じてみるしか、なさそうだ。
(お前に、賭けてみるよ)
「……行きたい、」ぽろ、とオレの目から零れたものに、気付かないふりをした。「ほんとは、行きたい……っ」
オレが裏返った声で言うと、むっつりと怖い顔をしていたロイとエドが、にかっと笑った。
「「それなら、行くぞ!」」
エドが、オレの手からいちごミルクを取り上げてロイに渡し、ロイがゴミ箱へ投げた。
あっ、まだ残ってたのに。

***

少し遅れて教室へやってきた教師に、エドが「体調不良なんで、早退します!」とこの上なく元気な声を投げ、「こいつも」とロイがオレを親指で指した。当然教師は、おい、と怒気を孕んだ呼びかけを寄越したが、お二人は一向に構うことなく、エドがオレの右手を、そしてロイがオレの左手を掴んだ状態で、廊下へ飛び出した。
あ、という破裂音のような声と共に、ロイが教室を振り返り、不特定多数のクラスメートに向けて言葉を放った。「チャリ通のやつら、ちょっと二台借りたい」
その言葉を受けて、すぐさま二つの自転車の鍵がロイのほうへ投げられた。誰が投げたのかは見えなかったが、それらを拾ったロイはオレを見上げ、「ここにもお前の味方がいる」と笑った。

「泣き虫ブロッシュー!」とエドに再三馬鹿にされながら、自転車置き場に辿り着いた。ロイがまず一台目に跨り、荷台を指差してオレに「乗れ!」と指示する。「ロイのチャリ運転スキルは保障する」と肩を揺らしながらエドは二台目に跨った。
「行くぜ!」という二人の掛け声と共に、二台の自転車が疾走を始めた。
オレは必死にロイの腹部に掴まりながら、エドをちらりと見る。ここは、エドのポジションのはずではなかろうか、と。するとエドがオレの視線に気付き、目が合った。
やきもちを焼くのかと思ったが、意外にもエドは快活に笑ってみせた。「オレの荷台より、そっちのが安全だよ」
あれ? とオレは思う。心に、何か、小さな違和感。それはこの間、早朝の教室で二人と話したときにも感じた、「あたたかく健康的な、ゆるやかな違和感」と同種のものだった。
あれ。なんだろう、これは。

駅に着くと、ロイが即座にバス停の時間表を確認し、直後「このド田舎」と舌打ちした。どうやら、すぐに来るバスはないようだ。
「ここからチャリ飛ばしたら、会場までどれくらい?」
エドが、呆気にとられているオレに尋ねてきたので、空中に浮遊していた自分の意識を急いで飲み込んだ。「さ、三十分もかからないとは思うけど」でも坂道が多くて大変かも、というオレの助言を聞くより先に、二台の自転車は再度疾駆し始めた。二人がこんなに急いでいるのは、ハボックが出場する種目の開始時間が迫っていることを、オレが話したからだろう。
駅のロータリーを左に曲がると、初っ端から登り坂がオレたちの前に聳えていた。勾配こそ比較的緩やかだが、延々とはるか上まで続いている。けれども二人は微塵も臆することなく、立ち漕ぎの体勢に入る。こんな寒空の下にも拘らず、二人とも既に汗だくだ。手持無沙汰に荷台に座っていることがあまりにも申し訳なくなってきて、オレはロイに恐る恐る声をかける。
「こ、漕ぐの、替わるって……!」
「ばかちん!」と叫んだのは、ロイではなく、隣を並走するエドだった。
「これから好きな奴に会いにいくのに、汗だくになんかなるな」ロイはこちらを振り返りもせずに、真っ直ぐ坂の頂上を見つめていた。
坂のゴールを見据え、忙しなく上下する二人の背中に、胸がきゅっと切なくなった。
「ふ、二人とも、」声が弱弱しく、震えた。「なんで、オレなんかのために、」
そんなに必死になるんだよ?
ロイとエドが、ロイとエド以外の人間のために、こんなに必死になる様を、オレは知らなかった。
キュッ、と甲高い音を立てて、二台の自転車が同時に止まった。そして、二人の顔は糸で繋がれているのではないかと思うほど、これまた全く同時に、二つの顔がこちらを振り返る。

「友達だろッ!」

──晴天の秋空に響いた、この二人分の綺麗な声を、オレは生涯忘れないだろう。
なに言ってんだお前、といった感じで、ロイもエドも、オレをちょっと睨んで、すぐに自転車の動きを再開させた。
オレの目からは、数秒と置かずに涙が溢れ出た。
(オレは、本物の馬鹿野郎だ)
すごいすごいと称賛しながらも、慇懃無礼な態度でこいつらを一番舐めきっていたのは、オレだった。
ロイとエドの目には、まるっきりお互いしか映っていないんだって、決め付けていた。こいつらの世界には、こいつらしかいないんだって、思い込んでいた。
先日の二人の目元には、黒々とした隈が浮かんでいた。その理由について、ロイは「考え事が」と言い、エドは「ブロッシュとハボックの行く末が心配で」と言った。けれどオレは端から冗談だとして、まともにその言葉を受け取らなかった。だって、エドやロイが、エドやロイ以外の人間のために、夜通し思い悩むなど、考え事をするなど、予想もできなかったのだ。
知らなかったんだ。
オレがいつの間にか、こんなにも、二人の仲間に入れていたなんて。

「ごめん……」
うー、という子供みたいな嗚咽を漏らしながら、涙で濡れた顔をロイの背中に預けた。ごめん、ともう一度、謝った。
えっ、とエドが足を駆動させたまま驚く。「なんでブロッシュ、泣いてんの!」
わからん! とロイもチャリを漕ぎ続けながら、エドの問いに答える。「多感な時期なんだろ」

ずっと心にわだかまっていた違和感が、二人の言葉で、心の栄養に昇華した。

***

健闘を祈る、と激しく息急き切りながら、エドが小さく左手をあげた。二人分の重量を載せていたロイに至っては声も出ないのか、ただそのエドの言葉に頷いただけだった。
ありがとうの言葉だけじゃ、足りなかった。自転車に載せてオレをこの会場まで連れてきてくれたことも勿論だけれど、それだけじゃない。もっといっぱい、いっぱい、ありがとうだった。
オレは二人みたいに優秀じゃないから、この気持ちをうまく言い表せる言葉を知らない。だけど、二人はオレなんかよりも遥かに頭が冴えるので、きっとオレが何も言わなくたって、わかってくれるだろう。
でもせめて何か言わなくちゃ、ともたついているオレに、ロイが渾身の力を振り絞ったように「礼はいいから、早く行け!」と怒鳴った。その言葉に、またじわりと涙腺が熱を持ったが、せっかく泣き止んだばかりだったので、どうにか堪えた。
大きく頷いてから、会場の中へ駆け出した。

二階の観客席に上がると、グラウンドが俯瞰できた。数十メートル先に、首を回しながら足首をならす、見覚えのある、男の姿がある。スタート地点付近に選手が集まっているところを見る限り、まもなく始まるのだろう。
「ハボック!」
その男目掛けて、フルボリュームの声を投げつけた。準備運動の動きを止めたハボックがこちらに顔を向ける。
付き合うとか付き合わないとか、元カノとか元サヤとか全国とか、もうそんなこと、全部どうでもよかった。ただ、あいつが、いつも傲岸不遜に笑ってるあいつが、誰かに負けて地面に膝をつくところなんて、死んでも見たくなかった。
「絶対、勝てよッ!」

オレが会場に来たことに気がついても、やっぱりあいつは、大して驚かない。オレがここへ来ることを、やっぱりあいつは、当たり前のことだと思っている。
それどころか、
「遅えんだよ、来んのが」
この始末だ。

選手達が、それぞれのスタート地点につく。スタートを告げる合図の音が、秋空に鳴る。
一斉に飛び出した選手たちを見つめるオレの頭は、真っ白だった。
もう何がなんだか、よくわからない。
だけど、ハボックの野郎が、一番はじめにゴールラインを駆け抜けたら、
きっとオレは泣くだろう。

***

わさわさとオレの手元で騒ぐビニール袋から、コーラの赤いキャップが覗いている。一.五リットルのペットボトルだ。これだけでも、けっこう重い。
更にオレのもう片方の手には、同じサイズのサイダーと、二リットルの烏龍茶が入ったビニール袋。計五キロだ。別に、これでも一応健康的な男子高校生ですから、たかだが五キロの荷物にぶつくさ文句を言うつもりはない。
だが、隣を歩くハボックが、スナック菓子ばかりが入った、非常に軽いビニール袋を持っていることに関しては、まったくもって納得がいかない。お前の、その、腕についている、余分なくらいの筋肉は、なんのために、一体なんのために、存在しているのだ。
「あー、重い、すげえ重い」わざとらしくオレは肩を項垂れる。「死ぬ」
「うるせえな」
素直に持ってって言えばいいだろ、と愁眉を見せながら、ハボックがオレと荷物を持ちかえた。「おめーがまず気付けっつうの」とオレはスナック菓子の袋をハボックの太腿にぶつける。
今日はロイの家で、「ジャン・ハボック全国大会決定祝勝会」という名目の鍋パーティーだった。むろん、その名目の裏には多分に他意が含まれている。オレは今日、ロイとオレの女神と、そして隣を歩くこのクソ野郎から、どれほどの揶揄を浴びせられるのか、想像もできない。

ロイの家の近くまで差し掛かると、オレの視界の片隅に、懐かしいものが映りこんだ。道端に生えた雑草のところに、それは少し苔むしたような様子で、転がっていた。
グリーンアップルの香りの、オレが投げ捨てた、ロイとお揃いのワックスだ。
なんとはなしに感慨深くなり、口元を緩ませるオレを見て、ハボックがいぶかしむ。
「なんだよ」
「いや、」オレは笑顔を作り直す。「なんでもない」

今日のオレの運勢は一位だった。
やっぱり、ロスキャスターの言う事に間違いはない。


*捨て猫ヤマト/END*





捨て猫とりあえず終わりました…!ものすごく最終話長くてすみませんでした…!いつもの二倍以上あります…最終と名のつくものはいつもそう…!涙
次回からは三毛猫といいますかロイエドに戻ります。がっつりロイエドで頑張ります。
木下の完全な趣味にお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました…!!
以下余談ですが!
・木下はいちごみるく飲めません笑
・ブロッシュ=さそり座は木下の勝手なイメージです…
・ロイとエドは自宅→駅に自転車を利用しているので、学校にロイのチャリはなく、クラスメートに借りました。(ロイのは駅に停めてあります)
・陸上の大会の時季とかが、多分実際とはズレがあると思うのですが…木下はものすごい運動オンチなものでそういうものには全く無縁でして…いろいろ変だったらすみません…
・捨て猫ではハボブロのラブの他に、ロイエド+ブロッシュの友情的なかんじも書き表したかったので、そういうのがちょっとでも出ていれば嬉しいなあ…と願っております…!

ありがとうございました!!ご感想とかもしよろしければ一言でもちょろっといただけましたらものすごく木下が泣いて喜びます…!