ちり紙はテーブルの上に小さな山を成す。 ブロンドの髪を揺らす濃度の高い顔をした外人女性は、川に向かって銀色の鍵を投げる。 オレは、それらを前にして、間断なく頬を行進し続ける涙を拭っている。 ずびーっと、最早小さな湖ができるのではないかと思うほどの涙と鼻水をちり紙ですすり、拭い、眼前のテーブルの上に山積みにしている。 それが富士山のフィギュアのようになって、オレの視界の底辺あたりを不遜に遮るので、脇のゴミ箱に移そうとそのちり紙を鼻水啜り上げつつ腕で掬った拍子に、肘がコップに当たって水が零れ、“5”の数字しか並ばない二枚の通信簿を濡らしてしまった。 あ、やべ、と呟きながらもとりあえずちり紙を排除し、オール5の心なしか燦然と光輝を放って見える通信簿をそばにあった台布巾で拭いた──ら、その台布巾も湿っていたので通信簿はまた水気を吸う羽目になった。脳は涙の洪水で混沌の真っ只中にいるのだ。 そんな洪水の根源は、例の映画、『メトロ』である。これが、泣ける。非常に泣ける。大いに泣ける。 どんな厳つい鉄仮面をかぶった輩でも、これにはきっと屈するはずだ。ましてや鉄仮面などの片鱗さえ顔に付着していないオレなんかは、涙で釣堀が作れそうなほどの涙を流すことになる。その釣堀に生ける魚は、“感動”という名のそれだ。その上、『メトロ』はまだまだ魚を釣りあげる。まだまだ感動をオレに押し付ける。そんなすごい映画。 先日の喧嘩をしたときのくだりに、オレは初めてこの映画を見、そしてその日のうちに病みつきになった。今日でこれを見るのは三回目だが、涙の量は一向に減る兆しがない、いやむしろ増えているかのような気さえする。こんな映画は初めてです。 鼻水を何度もお下品にすすりあげながら、 「いい映画だ・・・いい映画よのぅ、ロイ氏よ・・・よ、よ?」疑問調子になったのは、オレが座椅子がわりに凭れ掛かっているロ椅子(と呼んでやって)が、寝息を立てていたからだ。 おや、とオレは口の中から出てくることができずにもごもごもたついているような声音で呟いた。 「・・・寝てらっしゃる」ここで、ひとつ鼻をすする。瞼が重くて、はれぼったい感じだ。 ロイは十回以上見たとか豪語してたから、さすがに飽きがきたのかしら、なんて考えながら夢の中で遊んでいるところを失礼して、ロイの頬をパチパチ叩いた。 「おーいこんなとこで寝ると風邪引くぞぅ」 明日から夏休みだけど、オレたちに限っては学校なのだ。 しかしながらロイは一度眠ると梃子でも起きない奴なので、仕方なくロイが背もたれにしているベッドから一枚布団を引っ張ってきて、オレに掛けた。ロイの足の間にいるから、オレが掛ければ必然的にロイにも掛かることになるのだ。 この号泣した後の、瞼の重さというかはれぼったさは、眠気に襲われたときの感覚とよく似ている、とオレは思う。 今にも台風が来そうなときに見られる、地にまで垂れ込めてくるのではないかと思ってしまうようなあの灰色の肥満気味な雲みたいに、重くて、ずっしりとしている。そうして、垂れ込めてきた雲は地平線をゆがませる。垂れた瞼によって、視界がたるむのと一緒だ。 そんな取りとめもないことを考えながら、眠りに落ちた。 どこか遠くの方で、犬の悵然とした遠吠えが聞こえた。 そしてとても近くで、ふたつの、心拍の律動が聞こえた。 --第九便-- 近頃、よく夢を見るようになった。 幼年期にも頻繁に夢を見た記憶があるけれども、一時期、ちょうど中学の間は全くと言っていいほどに夢を見なかった。どうしてこんな現象が起こるのか、不思議だ。今度調べてみようかな。 オレの夢はいつも、“ストン!”と目の前に画面が落ちてくるかのように、唐突に始まる。なんの前触れも、伏線もない、が、別に驚いたりはしない。 それで、その見る頻度の増加した夢には大抵、ロイが出てくる。まぁ、これはオレが平素、ロイの家で、ロイの布団で、とりわけ今日なんかはロイの足の間で寄り添いながら寝たりしているのだから、当然といや当然だ。こんな状況下で、夢にうつつの余波が生じないはずが無い。たぶん。 夢は、ときに楽しかったり、ときに辛かったり、嬉しかったり、悲しかったり、驚いたり、たまには怖かったり、そしてオレたちのような年代では避けがたい、ちょっとエッチなものにも出会ったりする。大概は、そのうちのどれかに分類される。 でも今日の夢は妙だった。候補のどれにも属さない、あやふやなもの。その夢に、オレ自身がどんな感情を抱けばよいのかということすら、判然としなかった。 その夢は、不可解というか、奇妙というか、変だった。うん、『変』っていう言葉が一番しっくりくる。自分の語彙の少なさにちょっと幻滅するけれども。 こんな訳のわからない夢なんかよりも、官能的に胸の谷間をちらつかせるバニーガールが、オレにカクテルなんかを飲ませて泥酔させてくれる夢の方が、よっぽど共感できるってものだ。夢を見ている間も意味がわからなかったし、起きた後にも釈然としない、そんな心だけがもやもやする感覚が残る、いやーな感じの夢だった。 とりあえず、オレとロイが、暗い一本道を歩いている。暗黒の闇の中にいるのに、どうしてか足元だけはしっかりと見えた。 両側は絶壁で、足をもつらせもしも落ちてしまったなら決して生きては戻ってこられないような、深い谷のようなものがある。その谷の下に何があるのかは、闇のせいで見えない。とにかく絶壁に挟まれた道を、オレたちは殊更注意深くもせずに、歩いていく。 二人の間には沈黙が落ちている。しかしそれは気まずかったり空気が痛かったりするものではなくて、二人がここまでの長い長い道のりをともに歩んできたという自信とか信頼とか、そういったものから生まれる絆のような沈黙だった。言葉など無くても、意思疎通には差し障り無い、と思わせるような矜持が感じられる。 それでもたまには、他愛もない談笑も交えながら、オレたちは二人でその一本道を歩いていくのだ。 たった、それだけの夢かと思った。自分が自分に対して、どうしてこんな夢を見たのだろうかと疑念を抱くような夢っていうのもよくあるもので、これもそういう類のものかと高を括っていた。 しかし、暫く──そうだな、どれぐらいなんだろう、十時間くらいかもしれないし、十年かもしれないし、はたまた十分かもしれない──歩いていって、オレが半歩後方にいたロイに話し掛けようと後ろを振り向くと、そこにロイの姿はない。それは驚くことさえ許されないほど唐突に、ロイの姿は忽然と消えてしまうのだ。 再度辺りを見回した、けれどもロイは前方にも後方にも見当たらない。 (もしかして、)と、オレの頭に史上最悪の候補が過ぎった。 もしかして、絶壁に──! ロイ、と絶叫のようにその名を呼んで、地面に手を付き谷底を覗いた。黒みがかった濃厚な紫の霧が、視界を阻んでいる。オレの声さえ、その霧に吸収されてしまう気がした。 が、その途端、オレの挙げた最悪の可能性は免れていたことを知る。オレの屈んでいるこの道から、20メートルほど距離を置いた向こうの方に、もう一本の道が出現していた。そこをロイは淡々と歩いている。 いつの間にか、道が分かれてしまっていたらしい。気付かないうちに、オレたちは違う道を歩み始めていたのだ。 ロイは真っ直ぐに前を直視したまま、迷いや躊躇いの一切灯らない毅然とした瞳で歩を進めていく。 「ロイ!」オレが再び呼ぶと、こちらを少しだけ見遣って、ロイは微かに笑った。 なんの微笑だ、と思った。 口元は笑っているのに、双眸は悲哀に満ちていたような。謝罪のようにも見えた。いや、もしかしたら苛立ちや困惑だったかもしれない。意図の汲めない微笑だった。少なくとも、そのときのオレには。 そのまま、ロイはまた正面を凛と見据えて、進んでいってしまった。もう名を呼んでも、こちらを向いてはくれなかった。 (同じ道を歩いていると思っていた) (これからもずっとそうだと思っていた) なんだかオレは悲しくなって、言いようのない不安に襲われて、どうにかして追いかけようと思い立つ。来た道を戻って、二手に道がわかれたその場所まで走って行って、ロイの背中を捕まえようとした。 でもそれは叶わなかった。 オレの後ろに広がる道は、もう途切れて、やはり絶壁だけがそこに厳しい面持ちで在る。 もう戻れない。 ロイはどんどん先に行ってしまう。 「まって・・・っ」叫ぼうとしたが寸でのところでやめた。だからひどくくぐもった、小さな声になってしまった。 オレを置いてくのかよ。 相棒を置いてくのか。 ちょっと待てよ、一人だけ、どんどん先に── 行くなよ、なあ! 「行くなよ・・・」 ロイの姿は紫の霧に埋没して、もう可視範囲の外へと行った。 オレは為す術もなく、ただそこに屈んだまま、深い渓谷の底を呆然と眺めていた。 「いかないで・・・」 オレが唇から惰性のように捨てたその声は、ムラサキの霧がやっぱり食べてしまった。 はっ、と目が覚めた。今度は夢の代わりに意識が“ストン!”とオレに戻ってきたかんじだった。 寝驚くようにして飛び起きた拍子に頭をぐっと持ち上げたので、後ろにあったロイの顎にゴツンと激突した。 いッ!と呻いたのは二つの声。オレは後頭部を、ロイは顎をおさえながら、地味な鈍痛に朝が来たと気付く。 お互い恨めしげに睨み合ってから、 「「・・・おはようございます」」朝から一発喝をどうも。 「あー夏休みだってのに学校かよ・・・うげっ、背中いてぇ」一晩中ベッドの金属部分に凭れ掛からせられていたロイの背中は相当に機嫌が悪いらしかった。ワタシをこんな風にして眠らせるなんテひどいワ!何よこの背もたれガチガチのコチンコチンじゃないノ! 「たくエドもこのまま寝るかよ・・・俺がいつもベッドに運んでやってるんだからたまには恩返しとかしてみろっつの」 「お前みたいな馬鹿でかい図体、カヨワヒオレには運べません。世界は昨今全てにおいてコンパクト化・軽量化の傾向があるんだ、この時代錯誤の図体め」 「なんだと、ひがみか?まったく醜いな。羨ましかろう、嫌というほどコンパクト化されてしまった時代先取りすぎのエドワードさんには喉から手が出るほどに」 「なんだとコラァ!」 オレが憤懣やるかたないといったふうに身体を勢いよく起こすと、テーブルの上にのっていた昨日の水入りグラスがまた倒れて、通信簿をしとどに濡らした。 あっ、と声が重なる。ロイがオレのまだ痛む後頭部をごついた。いやいや、失敗は誰にでもあることサ。 オレが昨日も濡らしてしまった上にまた水をかけたので、あの通信簿はおそらく再起不能だ。 でも中身は全部覚えているから用はない。だって全部5ですからネ!提出物は怠慢まみれとはいえ、あのひときわ秀でた成績を誇っていて、5以外の成績をつけられたらそれこそクレームもんだ。ま、当然の処置ですな。 オレは、はぁ、と悲嘆の吐息を漏らして、オレたちにとっては、“24時間営業・年中無休”のコンビニのシャッターぐらい無意味な終業式を思い出した。 式典の席順は原則的に五十音順なので、ロイは入学式と同じくオレの後ろになる(だから式の間中ギィギィしつつ倒れ掛かってくるオレの椅子を、ハラハラしながら監視する羽目にもなる)。 いつだってロイはオレの後ろに居て、黙って支えてくれている。それに甘んじて、またオレは、やっぱり今も後ろに居るロイにくたりと凭れた。連鎖のように欠伸がでた。暑苦しい、とロイがなじる。 「・・・なんか変な夢見た」ロイの胸元に当てた左耳に、鼓動の微細な音が触れた。 「へえ、どんなの」別に殊な関心も示さずに、一年前の今日の天候でも聞くかのような無関心さでロイが言った。 それがなんだか癪だったので、「・・・胸の谷間をちらつかせるバニーガールが、オレを泥酔させて口説く夢」口からでまかせ。 「ふーん、ラッキーじゃないの」 何を言っても関心を示そうとはしてくれないんだな、お前は。 たとえここで『そこでそのバニーガールがおもむろに服を脱ぎ始め、白日の下暴かれたその肌は──!』なんて脚色を入れてみたって、「ふーん」で万事休すだろう。まったく以て無欲恬淡、くわえて朴訥な奴だ。 べつにいいけどさ。 (オレが馬鹿みたいじゃねえか・・・)べつにいいけどさ! 「行きますかぁ・・・学校」オレが欠伸の副産物で滲んだ涙を拭いながら、大儀そうに言った。「あ、でも昨日風呂入ってねえや」 ちんたらちんたら風呂に入って制服に着替えて、のろのろ学校に行って、到着したのは午前9時半頃だった。 絶対今日一日で終わらせるぞ、明日まで来るなんてまっぴらごめんだ!という固い宣誓をかわし、集中力アップを図ってチョコレートをひとつ頬張った。甘い香りが口腔に広がる。 さて、いっちょやりますか。 うーんと伸びをして、「よーい、ドン!」 オレの快活な声を合図に、白紙の問題集にひたすらシャーペンを走らせる、とても長く退屈な時間が開始された。 爾来何時間ぐらい経ったか。 オレたちはたったの一言も会話を交わさずに、問題集を二冊半とプリント10枚を黒い文字で埋め尽くした。 どんな教科であろうが、こんな基礎を固めるような簡単テキストに“悩む”時間などほぼないに等しいので、数時間絶え間なく駆動し続けた手首がじんじん痛んだ。 「おっし、あとプリント15枚!」時計の針は、一時半あたりを指していた。お腹がぐぅぐぅ鳴るはずだ。 その空腹さえも集中力に物を言わせ滅却し、残りの課題に取り掛かる。オレは左利きなので、小指の脇がもう真っ黒だ。 オレはロイとプリント三枚分の差をつけて、先に課題を終えた。非日常的な労働を強いられた手首が怒っている。普段からコツコツやりなさいヨ!と怒号を撒き散らされている気がした。 (そんな教員のようなことを言ってくれるな・・・)うんざりしながら手首を擦って諂い、ご機嫌を取る。 「腹減っただろ?オレなんか生協で買ってくるよ、何がいい?」隣の席でまだプリントとにらめっこをしているロイに、できるだけ邪魔にならないように手短に聞いた。いつもロイの家のカップラーメンやらなんやらを勝手に食い荒らしているので、ロイがたとえノーブル家系の人種といえども、たまにはオレが奢ってやらねばエルリックの名が廃るというものだ。 「メロンパン」 時間にすればコンマ五秒もかかっていない、『僕はメロンパンを食べたい、だからあなたはメロンパンを買ってきてください』という(まるで英文和訳のような日本語だが)内容を伝えるには最短の、骨格だけで構成されたその声をしっかり聞きとってオレも寡黙に財布を持って席を立った。「奢り?」とも尋ねてこないあたり、オレの胸中をよく心得ていらっしゃる。 ロイはメロンパンが好きだ。 ちなみにオレはカレーパンね。メロンパンも好きだけどさ。 蛇足というか余談になるけれども、それらのパンを正義のヒーローにしようとした某アンパン漫画には、すこぶる解けることのない疑念とその斬新なイマジネーションに感服の念を同時に抱く。だって、よく考えてみると敵陣にはパン族が全然いないんだぜ、必ずパン族は正義の味方だ、どれだけパンというものの持つ正義感や倫理観を評価しているのか(そんなものあるかどうかさえ定かでないのに、つうかある筈ない、よな?)、オレにはちょっと理解しがたい。幼年期の子供たちが親しみやすいと思ったのだろうか?手足の生えたパンが? 子供も心理ってわからない。このオレにでさえ、無茶苦茶難解だ。 生協──つまりは学園内のコンビニのようなものだ──の中はものすごく涼しくて、自分が軽く汗をかいていることに気が付いた。 (あ、そういや、教室冷房付け忘れてた)ある一つのことに集中してしまうと、他が見えなくなる傾向にあるのですな。 まぁ、夏にちゃんと暑がってちゃんと発汗して、というのはとても大切な身体の連鎖反応だ。過度に機械に頼っていると、そういう器官がぶっ壊れてしまいますからな、お大事に。 さて、頼まれた通りに、メロンパンと、オレの分のカレーパンをひとつずつ、そしてお茶を二本──買おうとして、財布の中身を確認して、一本棚に泣く泣く戻した。 学生さんはお金がないの。 赤銅色の小銭が目立つわびしい財布を見て、お金振り込んでもらわなくちゃ、という家族へのノスタルジアと、福沢諭吉様々への愛情がいっぺんに湧いた。 ユキチ・フクザワ、アイミスユー・・・。 カムバァーック! 無茶を言うな、と。 オレが教室に戻ってきたところで、ロイもちょうどシャーペンを机に置いたようだった。乾杯をしたいところだったが一本しかお茶がないので、断念。 「おつかれおつかれー」言いながら砂糖のたっぷり乗ったメロンパンを渡す。受け取ったロイが、ありがと、と簡易な礼を言った。 「お茶は?」 その言葉に、オレが、てへっ、という顔をしながら独り身で連れてこられた“お〜い、お茶”を肩あたりに掲げた。「お金が・・・ネッ!」 ちょっと足りなかったのネ! 「なにそれどうすんの」顔を顰めたロイに、「回し飲みゃいいだろ!四の五の言うな!オレの金だ!」と理不尽な怒気を混入させて吐き捨てた。 じきに午後二時、努力の結晶を職員室の担任まで運んだ。ワイマールもまさか一日で提出されるとは予期しなかったようで、目を見張って驚愕していた。 「も、もう終わったのか」念を押すかのように問題集をパラパラ見ながら、しどろもどろに呟いた。 「楽勝ですヨ」不遜に重なったオレたちの声に、言い返す言葉もなかったらしい担任の男は、「・・・じゃあ、さようなら。また講習でお会いしましょう」と義務的に言った。 夏休みの後半は、午前中だけとはいえ、講習が毎日ぎっちり入っているのだ。 何年か前までは前期・後期に分かれていたらしいが、そうだと一人暮らしの生徒たちが実家へ帰るのに溜まった休みがなくなるので、色々不都合が起こるのだ。 だから実質、夏休みは二十日ぐらいしかない(そんな訳で今日一日、血眼になって課題を終わらせたのだ)。 さよーならー、と気のない挨拶をしながら職員室を出た。 下駄箱には、オレたちが今日来ることをどこで聞きつけたのか、のど飴とプリッツの差し入れがしっかりおさまっていた。以前はポッキーが主流だったのに、今日はプリッツだった、チョコレート系を避けるのはこのうだるような気温を考えてだろう。お見事だ。 「・・・有難く頂戴しますか・・・」お腹もぐうぐう鳴いているので。 お茶があれば尚よかったんだけど──なんて、我がままを言っちゃいかんですな。 熱湯の湯気が頭上から降り注いでいるのではないかと思うような暑さの中で、自転車を漕ぎながら(漕いでいるのは勿論ロイです)お茶を開けて一口飲んだ。嚥下したのが手に取るようにわかるほど、喉の奥がひんやりと冷却されてゆく。 そのペットボトルをロイに渡して、片手でかなりの量を飲み干しやがったロイに、 「あー!お、おま、飲みすぎだコラァ!」後ろからわーわー文句をつける。 「このクソ暑い中自転車を漕いでやってるのは誰だと思ってる、当然の恩だ」何かを読み上げるかのように淀みなく言いながら、オレにお茶を戻した。オレとロイで二口しか飲んでないのに、もう三分の一程度しかない。ちくしょう・・・。 「なあー、ロイは里帰りすんの?」疾走する自転車の上で会話をするときは、きもち声を大きくしなければならない。 「する。明日からもう帰るよ俺」 「ふぅん・・・そっか、ねーいつまで?」 顔にあたる風が涼しい。 「・・・三日ぐらいかな、いや、一週間かもしんねえし、ちょっとまだわからん、帰ってみないと」 「オレどうしよっかなー、帰るのは帰るけど」 「地元のバニーちゃんにでも口説かれてこいよ」 「そうね、それもいいね。泥酔しながらね」 「手後ろに回されない程度にな」 なんて他愛もないアホなことを淡々と話しながら、少し考えた。 どうしよっかな。 「ねえー、でも夏休みロイとも遊びたいよ」 「知るかよ、一週間里帰りしたとしても十分遊べんだろ」 赤信号で自転車が急停車した。オレは前のめりになって体勢を崩した。悪ィ、とロイが呟くように言う。 その殊勝な謝罪を無視して、「・・・そうね」その前のロイの台詞に相槌をした。 それもそうか。 どうしようかな。 *** 結局、オレは三日前後と決めて、翌日実家へ向かう列車に乗った。 ローカルの安っぽい椅子でないとは言え、二時間も電車に揺られるというのは結構憂鬱だった。 (ん?憂鬱?) これから家に帰れるって言うのに、“憂鬱”だってさ。散々ホームシックを訴えていたくせに、な。気の変わりやすい人種で、申し訳ないホント。 (まあ、) 誰かさんのお陰なのかもしれないけど。 そういうことにしといてやろう。 ホームで、方向の違う列車を待っている“誰かさん”に、顔の横で小さく手を振る。と、呆れたような笑みが返ってきた。たぶん『じゃあな』って、“誰かさん”の口角が動いた。 「じゃあな!」 また三日後あたりに! 久しぶりに帰ってきた我が家は、当たり前なのかもしれないけど、何一つ以前と変わらない様相でオレを出迎えてくれた。 「た、だ、い、まー」 一文字一文字区切るように、玄関先で大きく言った。この声量なら台所にいるだろう母親にまで届くと思われる。 「おかえりー」案の定母親がスリッパをパタパタ言わせながら駆け寄ってきた。「どうだった?」 「どうだったって・・・なにが?べつに普通だよ」 「ベツニフツウダヨ」オレの無愛想さを真似ているのか(全然似ていないが)、唇をつーんと尖らせながらさも不満げに、オレの言葉をオウム返しに繰り返した。つれないわね、と文句を垂れたいらしい。「何か報告しなさいよ。電話だって滅多にかけてこなくなっちゃって。行ったばかりの時はマメに掛けてきたくせに、慣れるとすぐこうなんだから男の子は」 ブツブツ悪態をつきながら、台所に母親が戻っていった。「ご飯、すぐできるわよ!」 帰りたいなぁと再三思っていた実家なのに、案外、感動が薄かったので、驚いた。 (里帰りなんて、こんなもんなのか?) 「アルは?まだ帰ってこないの?」 夕飯の食卓につきながら(さすがに、久方の母上の手料理にはちょこっと感動した)、オレの出来のいい弟の話題が上った。アルってオレの弟の名前ね。え、知ってるって? 弟は中学校の特待生としてほぼ奨励金で賄った、オレの家には一切負担のないほとんどタダ状態でドイツへの長期留学へ行っている。オレにも勿論オファーがあったのだけど、オレは面倒だったので行かなかった。外国は治安が悪そうでなんだかな・・・ってこれはおそらく偏見だけどさ。 「来年まで帰ってこないわよ。あの子も最近電話寄越さないから寂しいわ」 「ふーん・・・ドイツか」箸の先端をがじがじ無作法に噛みながら独りごつように漏らした。そういや、この前ナチスかなんかの映画見たな、と思い出す。なんだっけ── (あ、『Life is beautiful』だ!)ロイが面白いって太鼓判だったやつ。 あれも泣いたなぁ・・・。主役の人が本当素晴らしくてなぁ・・・。思い出すだけでも目頭が熱くなる。よよよ・・・。 「あなたこそどうなの、学校は?楽しい?」 「うん、楽しいですヨ」 「また中学みたいな悲惨な目にあってないでしょうね?」 例の、対抗手段云々のくだりだ。 「あ──そういや、そうだな」 入学してから、まだ一度もない。中学時代は一週間に一度や二度じゃなかったのに。 (あの抗体物質のお陰なんだろうか)駅のホームで別れた“誰かさん”を思いながら、また箸をがじがじ噛んだ。そのクセどうにかしなさい、という母親のお咎めもスルー。 (いや、ロイエド党とかいうアレの恩恵か?)それもどうだか・・・。 「友達はできた?」 これには即答した。 「うん」 「そう。じゃあガールフレンドは?」 「あー、明日雨だってさー母さん。洗濯物どうにかしなくちゃネ」 「・・・ご愁傷様ってことね・・・」 大体あんな百戦錬磨の女垂らしが脇にいて、そんなモノができるわけがない。 ああ、くそう!抗体物質であるかわりに、オレにも害だなアイツは!下卑た男どもも寄ってこなくなったが、可憐な女の子も離れてゆく。よよよ・・・。 何事も一利一害だ。 「勉強は──まあ、聞くまでもないかしら・・・」どうして私なんかからこんな天才児が生まれたのか甚だ疑問なのよねぇ、というような顔で苦笑した。 「うん、まあオレってば天才だからね。でもなかなかに食いついてくる優秀な奴も一人いるんだよ。ロイ・マスタングっていうんだけど、悔しいっつか小憎たらしいぐらいに超美形でオレと二人で学年ダントツトップを誇ってて二つの党派が──」 って、そういやさっきから、なんでこいつの話しか出てこねえんだ。げろり。幼稚園の先生のことを話す園児かオレは。 なんだか複雑な心境になったので口を閉ざした、が、 「へえ、どんな人なの?教えてよ」 まあ喋れって言われましたらねえ?喋るのが礼儀ってもんでしょう。 ん、と一息置いてから、奴の顔を思い浮かべた。いつもの凛然とした切れ長の双眸と目が合った。それぐらい鮮明に思い出せる。「まず、美形だ。背も高い」これは致し方ない。褒めているわけではなくて、ただ単にそこにある事実を捏造せずに告げているだけなのだ。 「で、甚だ悔しいが、死ぬほど女にモテる」これも一つの事実。 アイツを褒め称えてやろうなんて気は一切ないのに、褒め言葉のような台詞ばかりが喉を突いて出るということは、やはりアイツは相当できた人間らしい。 (チッ、あの女垂らしめ)箸をガジガジ。認めたくはないが、100パーセント負け惜しみだ。 「勉強もできる、運動もできる。オレの次点だけど!変なところで自堕落で変なところで几帳面」自分で言うのも難だが、かなり的を射ていると思う。 「あと映画好き。ノーブル。でもちょっとケチ。手先が器用。メロンパンが好き。辛党ではないしかと言って殊更甘党でもない。クールっていうよりも常時バイタリティーっつかモラールがない感じで、オレが何かしらからかわれるとよく笑う。あんまり怒んない。世話焼き。苦労性」 オレの綿々とした弁舌に呆気に取られている母親に気付いたので、この辺でまとめた。 「まあ──」 箸のガジガジを一旦やめた。 「いい奴だよ」 なんか、この食卓ではあいつの話しか上ってねえな。 まあいっか。 「オレはすき」 夕飯を食べ終え、四ヶ月ぶりの自室のベッドに転がった。 まだ九時だけど、寝ようかな・・・。暇だし。 瞼を閉じてみたけれど、小学生じゃあるまいし、眠れるわけもなかった。 することもなく、ベッドの上で輾転反側しながら、部屋を見回す。本屋が作れそうなほどの莫大な量を誇る使い古した参考書と問題集、そしてここ数年で買った漫画と雑誌が少し。 この本の比率が、オレの人生をよく表してるな──と、なんとはなしに思った。 なんてつまんねえ人生なんだろ。嫌になるな。 親父が死んで、と同時にオレがスパルタから開放されたのが9歳、大学に受かった直後のことだったから、それからまだ6年しか経っていない。まだ3年分、苦渋の記憶の方が多いということ。まあ、中学時代も相当な“苦渋”だったが、あの半ば虐待じみた日々に比べれば然してもない。 (つまんねえ人生送ってきてんのな・・・オレ)なんて価値のない。 “過去”は本当、やな感じだった。 (──過去なんて観賞用だ。くだらないセンチメンタルに囚われんな) ロイの台詞が頭を馳せた。たしかに、そうだ。この台詞はきっと、オレの人生に於いてのアフォリズムトップ3に食い込んでくるだろうな。 そんな訳で“今”を思い出して、その“今”を司っているだろうその金句の創造者である人物に、メールでも送ろうかと携帯を開いた。 奴のメールアドレスは、円周率が延々と連なっている。3.14159・・・アットマーク。 (あいつはアホか)肩を揺らして独り笑いをしてしまった。おっと、傍目だったらちょっとヤバイ奴だ。 その愚鈍なメールアドレスを選択して、<<新規メール作成>>画面で『よ。そっちはど』まで打って、指を止めた。 どうですか、って聞いたところでどうすんだ。 (アホくさっ) 携帯を投げ出して、枕に顔をうずめた。 しかしながらあまりに暇なので、投げ出した白と黒のわりと新機種である携帯をぼうっと眺めた。 (メール、来たら送ってやるぞ、来たらな・・・)オレから送るのはなんか悔しい。 と、まあそんな都合よく事が運ぶわけもなく、携帯は断固たる無言をキープしたままだ。 「ちえっ」屈した。 オレが送ったメールは三文字。 『超ヒマ』。 驚くほどはやく戻ってきた返信の件名は、『無題』で、内容はオレと等しく三文字。 『同じく』。 だからなんだ、とな。 これ以上返信をするのは、なんつーか、電波のムダ使いのような気がしたのでやめた(電波にムダ使いなんてあるのかなんて知らないけど、あんまりくだらないことに使うと怒られそうじゃないですか)。 「あーーーヒマヒマヒマ」 口に出すと、そのヒマ具合に拍車がかかったような気がした。失敗した、尚更ヒマになってしまった。 映画見たいな・・・。そうしてできればロイがいるとよろしい。 毎日眠る前に、布団の中でお喋りしていたのもよろしい。誰かと喋りたい。 「ヒマぁ・・・」足をじたばたさせた。ひ、ま! 不条理に蹴られたベッドが、ミシミシと不機嫌に唸った。 早く睡魔がやってくることを祈る。 睡魔の好物のアルコールをちょっと摂ろうと思って、階下へ行き梅酒を一杯飲み、早々と布団に潜り込んだ。 「あら、もう帰るの?」 その翌日、オレはもう帰り支度をして、午前九時には玄関を出ようとしていた。 「うん。宿題とか、あるし」語尾は完全に託けだ。 そう・・・、と母親が少し寂しそうな表情をした。どうやら、オレの寂しがり屋体質は、この人から受け継いだらしい。 どうせ帰ったところでロイは居ないんだけど、一人だとしてもあっちで映画を見てるほうがよっぽど有意義な気がしたのだ。 「じゃ、また連休にでも帰ってくるからー」靴を履きなおして、玄関を出た。朝から慇懃に働く日光が睫毛に刺さった。 かくして、三日前後の予定だった里帰りは、たったの一日に短縮されてしまうのだった。 また列車に二時間揺られ、昨日も見た景色が逆方向に流れていく様を見るともなく眺めながら、実家から徐々に離れていった。 何故だか昨日より今の方がよっぽどうきうきしているような気がした。 自宅のアパートなど目も暮れずに、ロイのアパートへ直行する。第一、オレの家の冷蔵庫は空っぽなのだ。母親に知れたら嘆かわしいと眉を顰められること請け合いだろう。 鍵は(ロイが持っていけばいいのに、律儀に)外から開けられる窓の側に置いてある、洗濯剤の“トップ”の箱の中にある。当然のように、まるで真の家の主のように、トップから鍵を取り出して部屋に入った。 荷物をどさっとベッドに置いて、倒れ掛かるように横になった。 「ただいま・・・」 自宅でも実家でもないのに、どこか一体全体“ただいま”なのかまったく意味不明だが、そんな言葉が喉を突いて出てしまったので、それはもう、なんていうかしょうがない。 起き上がって適当に映画をチョイスして、勝手に再生した。タイトルは『大統領のクリスマスツリー』。どえらく季節はずれだが。 その再生が始まって、「DVD」という文字がステレオタイプに出たのと、がたがたと“トップ”の最寄の窓が開いたとは、ほとんど時間的に差がなかった。 「あ」 鍵を開けて入ってきた、この部屋の主は、「あ」オレと同じように呟いた。 はは、お前、三日帰るんじゃなかったのかよ。って、オレも人の事を言える立場でない。 顔を見合わせて、二人でへらへら笑った。 てんで駄目人間だなオレたちは。 「一緒に見ましょう、“大統領のクリスマスツリー”」 オレが笑いを引き摺りながら誘うと、えらい季節はずれだな、とロイはオレが考えたこととまるで同じことを言った。 「いいじゃないですか、暑い夏に、涼しげで」 「まあな」 ロイがオレの後ろに、いつものように『ロ椅子』状態で腰を下ろした。それにやっぱり当たり前のようにオレは凭れた。 (──どうして、あんな夢見たんだろ?)オレは一昨日に見た、例の不可解な夢を思い出していた。 こんなに一緒にいるのに、あんな隔絶しているような夢、あまりに不似合いだ。変なの。 (天才の考えることというのは、いつの時代も不可解ですからな、フフン)自意識過剰に羽振りをきかせて、その瑣末な問題を処理してしまった。 “大統領のクリスマスツリー”が最大の佳境に差し掛かる頃には、オレたちは二人とも寝息を立てはじめていた。 また目が覚めたら、きっと背中が痛いと言って、ロイが文句を垂れるだろう。 そんな文句も許してやろう。 そんな文句を聞くために、オレはたぶん、此処へ戻ってきたんだし。 な、長くなってしまった・・九便です! まーだ第一部ですな・・! もうしばらく第一部お付き合いいただければ嬉しいです!// ちょっとえっちな夢とか見てしまう男の子ってもえる の です バニーガールとか陳腐だと なお萌(ほんと趣味炸裂 うちのえどたんはアホだったり天才だったり定まらないですね・・めそめそ -------------------------追記----------- “メトロ”は実在しない映画です!!!すみません〜〜!! なんだかTUTAYAまで走ったけどなかったよ!という方がおられまして・・本当申し訳ございません・・orz ここで急遽その旨を・・! や、あのでも、そんな借りに走ってくださっただなんて・・うううう嬉しくてしねそうです! 報告遅くなってすみません・・orz |