ゴホン。アー、失敬、ちょっと咳払い。
さて、この夏を振り返り、皆さんにお話しするにあたって、オレは正直、少し不安だ。
オレにとっては多分一生脳髄に染み付いて離れることのないだろう、大きな意味を持つ夏だった。偉大な夏だった。怒濤のように目まぐるしく過ぎた、そういう季節だった。
だけど、別に大掛かりなテロ事件が起きたわけでも、太陽系から今度は太陽自身が降格した、なんていうビッグすぎるニュースがあるわけでもなかったから、オレ以外の人にとってみれば、例年通りの、平穏に過ぎた夏だったのだろう。
ましてやこれはオレの個人的な恋の話で、ひょっとしたら他人が聞くには、あまりに退屈が過ぎる話かもしれない。
交通事故にあった恋人が奇跡的な生還をするわけでも、恋人が超有名芸能人であるわけでもない、言ってしまえばなんの変哲もなく、更に言えば、ただの惚気話なのだから(そう言うと本当に身も蓋もないけれど)。
そのくせ、ちょっと長い話になりそうだから、覗き見程度に、軽い気持ちで、耳を傾けていただければ、これ幸い、と存じます。
少々、お時間拝借。


夏の恋花。[一]


二人で食卓を囲むなんて、随分と久しぶりのことだった。それどころか、お互いに殊更多忙なわけでもないくせに、まともに顔を合わせる機会さえ最近はなかなか無かった。
一応、付き合い始めてかれこれ一年以上にはなるけれど、あれ、鼻のわきにホクロなんてあったっけ、と、さながら生面のような眼前の女性の新鮮さに、首を傾げている有様だ。
「おいしい」オレはテーブルの上に不遜に鎮座する酢豚の皿から、誰にでも褒められる綺麗な箸の扱い方で豚肉と人参を取り、それらを口に運んで素直な感想を漏らした。お世辞ではなかった。彼女はそれなりに料理が上手だった。「ちょっと、人参が硬いけど」
おいしい、というオレの一言で一瞬綻んだ里香(りか)の顔が、途端に明度を落とした。「素直に褒めればいいじゃない、一言多いのよ」
一言多いのよ、というその言葉にオレはいつも、一言多いよ、と思う。「ごめん」
だけどしっかり謝っておく。酢豚の噎せ返るような濃厚な香りと共にオレたちを取り巻く、険悪でも安穏でもない、どっちつかずの、この最も神経を過敏にさせるようなピンとした空気には、ちゃんと気付いているからだ。
室内には、雑音混じりのラジオが白々しく垂れ流しになっている。里香は邦楽全般を嫌うので、渋々コンポをラジオに切り替えてあった。
誰がラジオを聞くために数万もするコンポを買うと思うのだ、とオレはいつも文句を喚き散らしたい気持ちでいっぱいだが、年甲斐も無いので、やめておく。
ラジオから漏れてくる、売れっ子タレントの偏差値の低さについてだとか、ウクレレは弾くのに飽きたら部屋のインテリアにできるだとか、そんなくだらないことこの上ない雑多な情報を耳に受けながら、酢豚の隣に肩身狭そうに並んだ魚肉ソーセージのスライスを、箸でつまんだ。そして、それとほぼ同時に里香が顔を顰める。想定内の連鎖だった。
「よくそんなの、食べれるわよね」
今までに、少なめに見積もっても三十回は聞かされた台詞を、里香はまた繰り返した。彼女がこの世で最も嫌悪する食べ物は、魚肉ソーセージだった。
「・・・・おいしいよ」魚肉ソーセージを見くびるな! と魚肉ソーセージを弁護したい思いはあるが、やはり控える。
「その形とか、色とか、アレを想像しちゃって、嫌なのよ。噛みちぎるなんて、絶対無理」
それについては、魚肉ソーセージにまったく非はない、とオレは内々で呟く。想像する君が悪い、と。はは、と愛想笑いだけしてみせた。
その後はしばらく黙々と、酢豚と、魚肉ソーセージを皿から減らすことをまるで義務であるかのように機械的に行いながら、時間が過ぎるのを待った。遅い。なんて粘度のある時間なのだ、と思う。もっとさらさらと流れてくれ。
「じゃあ、別れましょ」
いつかくるだろうと覚悟していたその台詞は、この粘着質な時間の流れには不相応なほどあまりに呆気なく、嫌味なほどあまりにあっさりと、彼女の口から発された。「じゃあ」という接続の仕方が不可解ではあったけれど、そこは重要ではない。
はい、そうですね、とコクンと首肯するのもどうかと思ったので、顔を勢いよく上げ、努めて「そんなことを言われるなんて、非常に予想外だった、まさしく青天の霹靂!」とでも言いたげな表情を作りながら、彼女を見た。
すると、鼻のわきに新発見したはずのホクロが消えていた。見間違いだったか。
「全然、私のこと見てないもんね。うわのそらって感じ、まあ今に始まったことでもないけど。他に惹かれているものがあるんです、って顔に書いてありすぎ」
「なっ」そこまで見抜かれていたなんて、と今度は本当に少し驚いた。
目を見開いたオレを、彼女は冷ややかな視線で射抜きながら、立ち上がった。
「まさかとは思うけど、」彼女の眉間に、今まで見たことの無いような寄り方で、皺が刻まれた。嫌悪と怪訝が半分ずつ、という感じだ。「浩司(こうじ)じゃないよね?」
「なっ・・・・!」
今度はさっきの数倍、本気で驚いた。驚くというよりは、肝胆寒し、というような大仰な表現のほうが近い。キュッと食道を結ばれてしまったみたいに覿面に息が止まりかけ、背筋だけがフィンランドあたりの真冬の極寒を体感した。
オレは昔から嘘をつくのが下手だった。里香の言葉を理解するのに二秒、嘘をつこうか否か悩むのに二秒、嘘をつくことに決定したら、どういった内容の嘘にするか考えるのに二秒、計六秒後に、オレは次の言葉を継いだ。
「ち、ちがっ・・・・・!」
「私に嘘がつけると思ってるの?」彼女は無遠慮にオレの語尾を遮断する。「いつも嘘をつくとき、春紀(はるき)は五秒、間があくんだよね」
六秒です、とオレは無意味な訂正をする。
「確かに春紀と浩司は、良すぎるくらい仲良しだとは思ってたけど、」はあ、と聞こえよがしに里香は溜息をつき、目をすがめた。「嘘でしょ、春紀ってソッチ系だったわけ」
オレは熱を持った顔をぶんぶんと横に振る。「ちがうって!」
これは嘘ではない。だって、男だったら誰でも良いなんてわけじゃ、断じてないからだ。
へー、まあ女がダメってわけじゃないしね、と大して信じてもいなさそうな顔で、唇をいやしく尖らせながらこちらを見下げる里香を、じっと見返した。
一年と少し前、オレは確かにこの人に恋をしたし、その気持ちに偽りはなかった。確かに、オレたちは恋をしていたはずだ。
「・・・・好きだった」里香の瞳を見つめたまま、できるだけ凛然と、言った。その後、本当に、と付け加える。嘘ではなかった。
そんなオレなど歯牙にもかけず、ふーん、という人を食ったような表情を変えないまま、里香は玄関のほうへずんずんと進んでいく。
「勝手に言ってて」彼女の声は冷然としている(まあ、当たり前だが)。
「私だってね、昔は魚肉ソーセージ、食べれたのよ」
それは初耳、だった。魚肉ソーセージを見てもアレを想像せずにいられるという純粋無垢な時代が、彼女にもあったということか(まあ、当たり前だが)。
「だけど今は見るのも嫌なくらい。そんな今の私がソーセージに『昔は食べれたの』って言ったところで、ソーセージが諸手を挙げて喜ぶと思う?」
彼女は荒々しい所作で黄色いパンプスを足に嵌め、こちらを振り返りもせずに玄関のドアを押し開けた。
「『今は男の股間のアレと混同するくせに』って、腹を立てられるだけよ」
扉が閉まった。まるでオレを叱咤するかのような、破裂音にも似通った音がたった。
人は気持ちも好みも、魚肉ソーセージの独特な形態の捉え方も、時とともに変わっていくものだ(まあ、当たり前、なのか?)。

垂れ流し状態で放置されていたラジオから女性の声で、「別れはつらいですもんねえ」と間延びした声が零れ落ちた。そうでもないけど、とオレは頭の隅で茫々と否定しながら、酢豚の香りと風味が染み付いた割り箸を行儀悪く、前歯で噛んでいる。

***

「手でちぎるなよ、レシピには包丁で切るって、」
「いいのいいの、アウトドアっぽくて、素敵じゃないですか」
「それはお前の主観だ、規範に従うべきだ」
「オリジナリティがない」
「規範にオリジナリティはいらないの」たく、とオレは大きく肩を落としながら息をついた。「個性的な規範、なんて、凡庸な個性、っていう言葉ぐらい矛盾している」
「それこそお前の主観だ」
人懐っこそうで、そのくせ、真性サドを地でいくような笑顔を浮かべながら、豆腐を手でちぎる男の胸には、「榎本(えのもと)浩司」と記載されたネームプレートが揺れている。
駅前にある、全国チェーンのカラオケ店だ。夏休み突入直後ということで、人の出入りも多くなっていた。
そのカラオケ店の厨房で、オレと、豆腐を包丁で切るという能力が備わっていないらしい男が二人で、レシピ首っ引きの状態でサラダを作っている。
ついこの間、料理がうまいと噂の他のカラオケ店に対抗すべく、メニューが一新されたのだった。当然レシピも今までのものからガラリと変わったので、店員であるオレたちは新しいレシピを片手に、悪戦苦闘を余儀なくされている。
豆腐を全て手で千切り終え、皿に盛ったサラダの上に乗せたら、浩司は豆腐の水分で濡れた手を、制服であるワイシャツの腰あたりで拭った。
肩書きだけは店員達の中でリーダーということになっているオレが、そんな浩司の粗野な仕草を、おい、と咎めるのだけれど、彼は聞く耳など持ちやしない。
「やはり、手で千切ったほうがうまそうに見える」浩司は鼻を高くしながら、完全なる独りよがりと自己陶酔に耽溺しつつ、満足気に何度も頷いている。「俺の直感と料理センスに狂いはなかった。ほら、この方が包丁で切るより美味しそうに見えるだろ、な?」
「昨日、里香と別れた」
「藪から棒だ」浩司は両手を大袈裟に広げてみせた。眉の上げ方も、わざとらしくて腹が立つ。「今度、『脈絡』と『話の道筋』という二つの言葉を、お前に教えてやろう」
「それは有難い」よろしくお願いします先生、とオレも恭しく、小さく頭を下げた。
「振ったか、振られたか」
「どちらかと言えば、振られた、というほうが近い、かも」
「まわりくどいな、男なら潔く、振られちまったぜ! とか言え」
「振られちまったぜ!」
「素晴らしい、これぞ男気」
そこまで会話を済ませたら、14号室ー、と口ずさむようにしながら、浩司は豆腐サラダの皿を盆に載せて一旦厨房を出た。14号室は厨房のとなりにある受付の、斜向かいの部屋だ。失礼しまーす、という快活な浩司の声が、厨房まで響いてきた。
その快活で明朗な声とか、笑うと目じりにできる笑い皺とか、オレに対する理屈っぽくてひねくれたレスポンスとか、そういうところが良いなあとか、好きだなあとか、ぼんやりそんなふうに思ったのは初対面のときからだったけれど、もちろんそこに特別な感情はなかった。
数えればもう四年目の付き合いになる浩司は、オレにとって最も気心の知れた友人、だと思っていた。
オレが里香と付き合うことになった一年と少し前のあの日も、真っ先に報告をしたのは浩司で、良かったな、おめでとう、とここの厨房のカクテルで彼がオレを祝ってくれたことも、よく覚えている。あの時、浩司は確かに“友人”で、いつ、どこから、何故、オレの意識が変わってしまったのかは、判然としない。
ただ、ぼうっとすると、浩司のことばかりが頭に浮かんでくる。手が触れ合ったりするだけで、その触れた部分の細胞の色がまったく変わってしまったかのように、落ち着かなくなる。
何かにひたすら没頭でもしないと浩司のことが頭から離れそうになくて、空回り気味なモチベーションを持て余している。
浩司がとなりにいると、そわそわというか、ふわふわというか、とにかく、心から温かい湯が染み出したみたいにして、頭から足の指先まで、一つ残らず細胞が温まる。
これが愛情とか恋慕の情じゃないとすれば、オレは今までに自分の中で確立してきた“恋”というものの定義を、一から練り直さなければならなくなる。
定義を練り直すのは面倒だった。だから認めてしまおうと思った。どうして好きになった、とか、いつからだろう、とか、そんな詳細を明らかにするのは後からでいい。
オレは浩司が好きらしい。白旗を掲げて降参、みたいな気持ちで、一抹の諦念と共に、そう認めてしまったのは一ヶ月ほど前のことだ。
恋というものはいつだって唐突にやってくる。成就の可能性も、こちらの準備とか心構えとかも丸ごと無視して、突然オレの前に現れるのだ。
まったく、勘弁してほしい。

そんなことをぼうっと考えていた(浩司のことを考えると、すぐにこうだ)オレの耳に、「すみません」という可憐な声が届いたので、オレは泡を食って我に返った。
受付のカウンターのほうから響いた声は、最初客のものかと思ったけれど、違っていた。
ゆるいパーマのかかった、色素の薄い茶色の長髪を胸のあたりで揺らし、短めに切りそろえられた前髪の向こうから覗く大きな瞳でこちらを伺ってくる、誰に会っても「可愛い」と絶賛されるであろう女の子が、受付の前に立っていた。膝がのぞく程度の丈のスカートから伸びる細い足には、ピンクのタイツが巻かれている。いつも少し個性的な服を身につけているけれど、それを見事に着こなせているのも、生来の可憐さがあるからだろう。
「今晩は、柚原(ゆのはら)さん」
薄いピンクのリップグロスで艶めいている唇をゆるりと湾曲させ、口元にいじらしい弧を描きながら、彼女はオレに頭を下げた。
オレは接客業で培った営業スマイルを惜しげもなく披露し、言った。「浩司なら、すぐ来るよ」
浩司の恋人だ。
あ、すみません、と彼女は照れくさそうにまた頭を下げる。その小さな頭が揺れる度、甘やかな香水の芳香がふわりと舞う。ニナリッチかな、とオレは思う。里香がよく欲しがっていた香水だ。付き合い始めたばかりの頃、プレゼントした記憶がある。
オレが里香と付き合い始めた直後に、浩司と紫さんもめでたくカップルになったので、この二人ももう一年なんだな、と勝手にオレは感慨深くなる。
「お仕事中なのに、ごめんなさい」
「とんでもない、浩司も喜ぶって」
浩司の彼女はいつだって謙虚で、礼儀正しい。オレは顔の前で手をひらひらとやり、満面の笑みで、そんな彼女を歓迎した。
オレが見たって、めちゃくちゃ可愛いなあ、と感嘆しそうになる。オレの恋敵、なんて口が裂けても言えない。歯も立たないし、まず、土俵が違う。
蟷螂(とうろう)の斧、という耳慣れしない言葉が脳裏に過ぎった。まさしく言いえて妙だ。浩司にはこんな子がいる。男のオレには、逆立ちしたって、勝ち目なんてない。
「あ、浩司」彼女は14号室から盆片手に出てきた浩司に、天を仰いだボリュームのある睫毛を向け、声を掛ける。紫(ゆかり)、と浩司は彼女の呼びかけに答え、目を見張った。
邪魔者は退散ですよ、という思いで、オレは厨房に戻った。もうすぐ浩司の誕生日だし、その日の予定についてか何かだろう、とオレはぞんざいに憶測をしながら、鳴り出した電話の受話器を取り、オーダーを受けた。
また豆腐サラダかよ。オレは八つ当たりのような文句を心中で吐く。
オーダーの電話を切ってから、また性懲りも無く豆腐を手で千切るだろう浩司を想像してみた。
そうして、知らずぼうっとする。胸がじんと温まるけれど、確やかな後ろめたさがある。浩司のことを考えると、すぐにこうだ。
まったく、勘弁してほしい。

さあ理由を聞こうじゃないか。
そう言って浩司がおもむろにスツールに腰掛けたのは、店じまいを終えた後の深夜二時すぎだった。
狭い厨房に犇きあうように三つ並んだスツールに、オレと浩司と、そして浩司の彼女の紫さんが腰を下ろしている。
私もここにいて平気なのかな、という紫さんの尤もな疑問には浩司が、大丈夫大丈夫、と勝手に返答した。お前が答える場面じゃねえだろ、とオレは顔には出さずに内心でむくれる。
「理由を述べよ」浩司はさながら裁判官のような尊大な声音で、言い放つ。理由を述べよ、ではなく、動機を述べよ、と言われたほうが自然なくらいだった。
「不和」オレも負けじと、尊大に放つ。
「二文字かよ」浩司は眉を顰めた。つまらんな、とさも文句を垂れたげだ。
「恋人同士が別れる理由に、それ以外何があるっていうんだ」
オレも意地になって、唇を真一文字にする。浩司、お前のことが好きになりました、それがバレて振られました、なんて、天変地異が起きたって告白できるはずがない。
「他にもっとあるだろ。価値観の相違とか、趣味や会話が合わないとか、彼女の口に魚肉ソーセージ突っ込んじゃったとか」
「その魚肉ソーセージは、食べ物の方なのか」それとも、股間のアレの比喩なのか。
「ご想像にお任せする」浩司はにやりとする。愚か者め、とオレは小さく呟いた。もう、と紫さんも眉根を寄せる。
浩司に作ってもらったモスコミュールをぐいと呷ったら、何故だか、じわっと目頭あたりが熱を帯びた。くそう、涙が出るかも、とオレは自らの体裁を危ぶむ。
里香に振られたという事実が悲しいんじゃなくて、浩司なんかを好きになってしまって、隠していたつもりだったのに容易くそれを見破られたり、その上別れ際に指摘されたりなんかして、そんな浮ついた自分が情けなかったからだ。
テーブルに腕をのせ、更にそこへ顔を伏せ、わざとらしく「うー」と唸った。泣きそうだぞ、ちくしょう。
「まあまあ、お前のせいじゃないさ」
浩司が少しおどけるような声で、それでも半分くらいは真面目そうに、オレの後頭部を撫でながら慰みの言葉をかけてくれる。
そうさ、オレのせいではない、と思う。オレの頭を撫でる、他の誰でもない、お前のせいだぞ、と。
「元気出せ、柚(ゆず)」
無責任な慰みだ、とオレは顔を伏せたまま唇を尖らせる。
柚原、と書いてユノハラという正しいオレの苗字の読みを浩司はせず、いつもオレをユズと呼んだ。
オレの方がひとつ年上だというのに、その呼び方はまるで子ども扱いのようで最初は気に食わなかったが、今となってはすっかり心地良い響きとなってオレの耳朶の産毛を揺らす。惚れた弱みというやつか、まったくもって、忌々しい。
「ユノハラだって・・・」
だけど一応、形だけでも、上辺だけでも、上滑りでも、薄弱でも、否定はしておく。これはもはや紋きり型とも言えるような、オレと浩司の決まりきったやりとりだった。はは、とそんな薄弱なオレに対して浩司が笑う。これもいつも通り。いつも通りの、だけどオレにとっては掛け替えのない、涙が出るほど大切な、命のようなやりとり。
恋愛は惚れたほうが負けだって聞いたことがある。オレはその言葉に、深く、大きく、それでも唇を噛みながら、頷かざるを得ない。

「それじゃ、傷心のユズ坊(ぼう)を慰めよう企画、ということで今週の日曜、お祭りでも行くか」
そんな突拍子もない事を浩司が提案したのは、モスコミュールとカシスソーダを二杯ずつ空けたオレの目が据わりはじめた頃のことだった。時計の針は午前五時を回っている。
情けないことに紫さんよりも酒に弱いオレは(彼女はああ見えて、ウワバミなのである。人は見かけによらないものだ、本当に)、その出し抜けな浩司の提案を聞いて、ぐらりと不安定に揺れる頭に疑問符を点しながら、浩司のほうを見た。
心意気は『日曜日?』と言うつもりで、呂律のあやしいオレは問うた。
「ひちおうび?」
「ひつまぶし? そんな事は言っていない」
オレだって言ってねえよ。
「俺と紫と、傷心のユズ坊の三人で。今週の日曜、ちょうど大きなお祭りがあるだろ?」
オレの二倍近く飲んでいるはずの紫さんは、顔色ひとつ変えずににこやかなまま、浩司の話に耳を傾けている。その彼女の様子は、浩司の提案に肯定的であることを全面的に打ち出していた。
ユズ坊という呼称には既に再三難癖をつけたけれども、浩司は一向にやめようとしないのでもう今日のところは諦めて、とりあえずオレは今週の日曜という近い未来に朦朧とした意識を注いだ。
今週の日曜。って、「おうじのたんようび・・・」浩司の誕生日、とオレは言いたい。
「王子の誕生日! その通りだ、俺様の誕生日である。俺はとなりの惑星の王子だからな」
浩司も少なからず酔っているのだろう、言う事が輪をかけて荒唐無稽だ。
「いやいや、」オレは顔の前で手を左右に揺らした。「おふたりれすごひなさいよ」お二人で過ごしなさいよ、とオレは言いたい。
記念日は、恋人同士水入らずで過ごして然るべきだ。
いくらアルコールに狂わされた思考回路でも、そこは冷静にちゃんと、紳士的なわきまえを見せた。ここで、やったー、浩司の誕生日に一緒にいられるなんて、と考えもなしに歓喜するほど、オレは無遠慮でも無粋な奴でもない。
「いいんですよ、柚原さん」紫さんはさながら素面であるかのように、悠然と笑む。「そうしましょうよ、お祭りは大人数のほうが楽しいです」
二人も三人もあんまり変わんないよ紫さん、とオレは返答したい気持ちでいっぱいだが、このうまく機能しない呂律が情けないので、ぐっと口を噤んだ。
「満場一致、異論なし。よって、可決とする」
ここ、ここに異論ありまーす、とオレは挙手しようかと思ったけれど、何かが明白に邪魔をして、挙げられず仕舞いだった。その「何か」は、たぶん例の「惚れた弱み」である。
惚れた弱み。まったくもって、忌々しい。
オレはそう眉を顰めながらも、既に日曜のことをイメージせずにはいられなくなっている事に、うんざりしつつも、しっかり気付いている。
そんな自分。まったくもって、世話がない。



[二]へすすむ