夏の恋花。[二]


祭りは大変な賑わいだった。ものすごい数の人々と、多様な色や光や音が混淆し、違う世界に来たかのような錯覚に陥る、異様な空間を創り出していた。
そんな中でも、念入りにめかしこんだ艶やかな浴衣姿の女性達がオレの満目を埋め尽くし、視界はとても華やかだった。
立錐の余地もないような人ゴミから放出される、莫大な活気と興奮がうねりとなって夜空を覆うので、それらに気圧されただろう明日の朝は、今宵のこの熱気が冷めやらぬうちは絶対にやってこないんじゃないかと思われるほどだった。
「紫、遅いぞー」この混雑と喧騒の中でも、浩司の声はよく通る。
「ごめん、ちょっとゲタが、歩きづらくって・・・」
「そんな不慣れなものを履いてくるのが悪い」
慣れないゲタと人々の激しい行き交いに阻まれ、なかなか前進できない紫さんに、浩司はつれない態度を示しながらも、自然に手を差し出した。ありがと、と言いながら彼女はその手を自然に取る。二人とも、自然な動作だ。この自然さが、恋人を恋人たらしめる要素なのだろう。
髪をアップし、赤い花のコサージュで飾り、桃色の浴衣を身に纏った今日の紫さんには、オレでさえ数秒見惚れてしまった。
誤解を招くと困るので断っておくけれど、浩司が好きだといっても、女の子が嫌いなわけでは決してない。むしろ女の子、大好きです。健全な日本男児ですもの。
だから一体全体どうして浩司なんかに、オレと同じ男なんかに惚れてしまったのか、オレ自身が一番疑問に感じているのだ。
「かわいいね」オレより三つ、浩司より二つ年下の二十歳の彼女に、オレは半ばおっさんじみた声色で彼女を褒めた。率直な感想だった。「すごい似合う」
と、とんでもないです、と紫さんは顔を振る。そういいながらも、その頬にはさっと朱が差した。
「馬子にも衣装、だな」
そんな可憐な彼女に対する浩司の言葉は憎たらしい。もう、と拗ねる紫さんのわきで、オレは一人、何故こんな男が好きなのだ、オレも紫さんも、とがっかりしそうになる。何故なんだ。世の中は絶対に不公平だ。
そりゃ、見てくれは良い。完璧、というウェイトのある単語を持ち出しても差し支えないくらい、浩司の外見は整っている。
口を開けば憎憎しい皮肉ばかりを吐くくせに、それが妙にサマになってしまうのも、この秀麗な外見を備えているからに違いなかった。
だからヤツは調子に乗るのだ。ややもすれば、美形は何をしても許されると思っているのかもしれない。なんて奴だ。最低男だ。
そしてこんな最低男に魅入られたオレは、つまり同等、あるいは同等以下、なのかもしれない。がっかりだ、そんな自分が、実にがっかり。
「すごい人だな、」オレは人にぶつからないように注意しながら、左手で紫さんと手を繋いでいる浩司の右側を歩く。「迷いそう」
もちろん、手を繋ぐ二人に嫉妬心を抱いたりはしない──まったくの皆無なのか、と問われれば、それはまあ、言葉を濁すところだが。
だって二人は恋人同士なのだから、当たり前だ。やきもきしたところでどうする。オレはそこまで子どもじゃないのだ。
見てみぬフリも、作りたくもない笑顔を作ることも、好きな相手に気持ちを悟られないように装うこともそれなりにできる、一角の大人、とまではいかなくとも、一応『大人』の末席を汚す立場だ。
だから、浩司たちが手を繋ごうが、キスをしようが、泣き出したり喚いたりしようとは思わない。「ほんとにラブラブだな」と笑ってからかうことも、きっとできるだろう。
「あ、すみませんっ」そこまで考えたところで、オレは向かい側から来た男性に肩を思い切りぶつけてしまった。ぼうっとしていたのだろう、浩司のことを考えていたからだ。
そんなオレを浩司はチラリと横目で見て、あいていた右手で、オレの手を掴んだ。
おい、これじゃ、まるで打算的にオレが人にぶつかったみたいじゃないか。オレは焦る。そういうわけでは断じてないので、誤解はしないでいただきたい。
「男と手を繋ぐのは趣味じゃないが、」浩司は大袈裟に眉間に皺を寄せるが、「まあ、女顔だからいいか」そう言ってから、笑った。
「何ィ!」こめかみを疼かせるオレを、
「背も俺より小さいし」浩司はまるでいなすように、飄々と言葉を継ぐ。
「三センチしか変わんねえだろッ」
「ハーイ、よちよち、柚坊っちゃん、落ち着こうね」
赤ちゃんに対するような間延びした声で浩司はオレをからかいながら、一旦手を離したかと思ったら、オレの頭をすりすりと撫でた。
「オレ年上! 君よりっ、1コ! 年上!」
「俺は、『精神年齢』という言葉を考案した人間を、尊敬しているんだ」
「うるせえ黙れ!」
熱り立って、居丈高に喚き散らす柚の扱い方なんてとうに心得ています、と言わんばかりの心得顔で、浩司はさらりと笑ってみせる。
憤る素振りを見せながらもオレは、掴まれた手と笑顔の不意打ち、それから頭を撫でられるという三段の波状攻撃により、急速に高鳴り始めた胸を鎮めようと、早くも躍起になっている。
胸のあたりが締め付けられるように窮屈なのは、喚いて息が切れたからじゃない。
繋がれたオレの手が、自分だけしか分からないほどの微かなものだけれど確かに震えているのも、顔に血がのぼって頬が上気しているのも、大きな怒声を放ったせいじゃない。
肋骨の裏側で掻き鳴らされる、大いなる早鐘、大いなる警鐘、それは、
「迷子になるなよ。柚はかわいいから、油断してると連れて行かれるぞ」
皮肉の最後にうっすらと笑みながらこんな殺し文句、そういう卑怯な手法を使うこいつのせいで、打ち鳴らされている。

小さなビニールに満たされた透明な水の中で、ひらひらと官能的な妖艶さで深紅の身体を翻している生き物、簡単に言えば、金魚。
「そんなにつかまえちゃって、どうするんだよ」
オレは非常に美味な、チョコバナナクレープを食しながら(チョコとバナナ、その上、なんとコーンフレークまで入っている。なんてことだ、世界三大美味食材が手に手を取ってしまった、いくらなんでもトレビアンすぎる)、十匹近く金魚の入ったビニールをじっと見つめる浩司に声をかけた。
少し悩んでから、彼の出した答えはこう。「飼うか、食うか。二者択一だな」
博愛精神の強いオレは、反論する。「何が二者択一だ、答えはひとつだ。飼え。殺すな。そもそも金魚って美味しいのか?」
「柚原さん、最後のは争点がずれてます」紫さんが肩を揺らして笑う。
「自分にここまで金魚すくいの才能があるとは思わなかったんだ。せっかくお祭りなんだから金魚をすくってみようという、無垢で無邪気な試みのつもりだったんだ」
訳のわからない弁解をする浩司に、「だったら途中でやめれば良かっただろ、三匹くらいで」と自分的にはかなり的を射たことを言ってみる。
「柚、お前は自分の限界を知りたいと思わないのか」
「思わねえよ」少なくとも金魚すくいの才能の限界なんかは、とオレは付け足す。
「だからお前は成長しないんだ、お前は昔からそうだったな、そう、思い返せばお前のへその緒は──」
「話をすりかえるな!」オレのへその緒なんて見たこともないだろうが。
オレたちの馬鹿な掛け合いを聞いて、紫さんは笑い声を更に高くした。「ほんとに、二人って仲が良いんですね」
「「そうでもないって」」とオレと浩司の声がぴったり重なったので、それを聞き、「説得力ないー」と彼女は、今度はお腹を抱えて笑う。ひー、という音を鳴らす、か細い呼吸になってきている。
その、ひー、の音がおかしくて、今度はオレたち二人が声をあげて笑った。大丈夫? とオレが紫さんに声をかけると、彼女は笑ったまま首を何度も縦に振る。彼女のまなじりには涙まで滲んでいた。
いくらなんだってウケすぎじゃないか、とオレは彼女のタガが外れてしまったのだろうかといぶかしんだ。
「少しは気分転換になったか?」
発された浩司の言葉は、てっきり紫さんに向けられたものだと思ったので、オレは反応が遅れた。
「へ」素っ頓狂な声をあげながら、オレは浩司を見返す。
「忘れたのか、今日は『傷心のユズ坊を慰めよう企画』だったろ」
そう言ってかすかに笑む浩司に、オレは数秒おいてから、ああ、と気の抜けた返事をし、直後、肺の奥のほうが、身体の底が、じわじわとあたたかくなっていくのを感じた。
「やっぱり笑っているほうがいいな、柚は」
そう浩司が囁くようにしてから、いつもの、目を細めるような優しい笑い方で笑えば、オレは言葉が出なくなって、心臓もなんだか疼いて、ぎゅうっと痛み出す。
「ユノハラだって・・・・」と情けない声を出しながら、ああ、これはやっぱり恋なのか、と情けない再確認をする。
ちくしょう、悔しいけれどやっぱりオレは、こいつがどうしようもなく、好きらしい。
「鼻、掻いてみて」浩司が言う。
「は?」脈絡という言葉を知らないのはお前のほうだ、とオレは浩司に文句を垂れたくなった。
「いいから、指で、ちょいちょいって」
浩司に促されて、素直にオレは自分の鼻を人差し指で掻いた。と、
「あ」
自分の指先に付着したのは、クレープに入っていたと思われる、生クリームだ。紫さんは、もう死んでしまう、と叫びだしそうな様子で抱腹絶倒し、浩司は浩司で、そんなオレを見て噴き出した。
オレは一気に顔の熱を上昇させ、
「い、言えよ! 口で指摘してくれればいいだろっ!」怒鳴り散らした。
「なんでそこに生クリームがつくんだよ、」浩司もけたけたと遠慮なしに哄笑を撒き散らす。「お前は鼻から食物を摂取するのか」
「なんだとッ」
オレは恥ずかしさと怒りで顔をどんどん赤くしていく。紫さんが全然笑いやまなかった理由がわかった。
「もうやだ、オレは帰る!」
言い切って踵を返すと、浩司が後ろから行こうとするオレの腕を掴んだ。
「まあ、待てって」彼の声に未だ含み笑いがのっている事に、オレは気付いている。
細いくせにやけに力のある手でオレをずるずると引き戻すと、浩司はまた、オレの頭に手を乗せた。
「ごめんごめん」
こんなに腹が立っているのに、そう謝られて、オレが最高に弱い笑顔を向けられると、怒気なんて一気に殺がれてしまう。うぅ、とオレは呻くように息を詰まらせる。
「可愛いから、からかいたくなるんだって」
事も無げにさらりと浩司は漏らす。きっと彼にとっては深い意味もない、なにげなく漏らした一言なんだろう。
だけどオレにとってみれば、その何気ない浩司の言葉が、六十兆に細かく分散してオレの身体を構成する細胞ひとつひとつに染み渡っていくかのように、あまりに、あまりに大切な響きだ。
「な、なにが、かわいいだよ、」だけどオレはいつだって素直じゃなくてひねくれているから、素直にありがとうなんて言えやしない。「男なんだから、嬉しくねーよ!」
ムキになるオレに、あはは、と紫さんは笑いをこぼしてから、「ほんとに可愛い」と彼女まで浩司の意見に賛同している。
あれ、なんか、最初とは立場が違うような。そんな馬鹿な。形勢逆転? 否、きっと気のせいだろう。
オレが一番年上だぞ、この輪の中で。

目の前で大笑いする美男美女カップルを途方に暮れるような思いで見つめながら、オレは、やっぱり目立つなあと感心にも似た思いを抱いた。
東京に遊びに行きたがらない理由が「スカウトがうざいから」である榎本浩司サマは然ることながら、清楚且つ可憐な紫さん、そして自分で言うのもなんだけれど、一応数年前まではモデルなんかをバイトでやっていた経験のあるオレ、そんな三人が集まって、周囲の視線を浴びないはずはなかった。
こちらへ向けられる数多の視線に辟易しそうになったとき、その中から見慣れた一組の瞳を見つける。里香だった。
「あ・・・・」と小さく声を漏らしたオレに、浩司たちは気がつかなかったようだ。二人は性懲りもなくまだ笑いを口角に引き摺っている。
里香はオレの見知らぬ男と腕を組んでいた。さすが、乗換えがはやいな、とオレは驚くべき無感動を伴った思いを抱いた。
彼女がこちらに向ける視線は、まるで虐待される小動物を見るかのような、痛ましそうで、哀れみが滲むものだった。あるいは蔑視ともいえた。
里香は、オレを見ている。
どう思っただろう。里香の目にはどう映っただろう。オレは今更ながら、自分の今いる非常識的な、それでいて悲惨な状況を、考慮した。
男のくせに男に恋をしてそれが原因で恋人に振られて、その後は、彼女持ちの浩司と一緒に祭りに来て、あまつさえその彼女もご相伴で、今日は浩司の誕生日だというのに、そんな状況下でオレはへらへらと祭りを楽しんでいたりして、なんて酷い、と思った。なんて酷いことだ。
里香は全て知っている。見透かしている。オレが浩司を想っていることも、そしてその恋が、絶対に実らないということも。
オレの完全なる片思い、完全なる独りよがり、そのくせ、浩司の彼女も含めて三人でお祭りへ出向いたりして、隙あらばと、オレが虎視眈々と浩司を狙っているかのように、里香の目には映ったかもしれない。
なんて情けない。なんて卑しい。なんて不遜な、無恥な、なんて、下劣な。
オレは刹那にして内臓という内臓が焼け焦げてしまったかのように、体内に刺すような妬けるような痛みを感じ、その場にうずくまりそうにさえなった。なんだか、吐きそうだ。涙も出そうで、悪心までして、最悪だ。
何が最悪って、オレが、自分自身が、最悪だ。とんだ恥知らずめ。
恥ずかしい、と思った。たまらなく思った。顔がただれるほど熱い。常識を、身分を、わきまえろ、馬鹿な自分。くそくらえだ。
オレは浩司が好きだ。だから、なんだ。
それは心中に、そっと、気付かれないように、とどめておかなければならない想いだ。それを悟ってもらおうだなんて、ましてや、浩司に振り向いてもらおうだなんて、馬鹿げている。愚の骨頂だ。
目の前の幸福な恋人達の間に、不穏な波を立たせる権利が、仲を邪魔する権利が、オレのどこにある。愚かなオレのどこに。男であるオレの、一体どこに。
「・・・・ごめん、ちょっと、急用思い出した」
オレは俯き加減で不得手な嘘を、浩司と紫さんに披露した。もちろん例の、六秒間の「嘘をつくまでの逡巡」はしっかりあった。
え? と浩司が聞き返す頃には、オレはもう走り出している。
この場から逃げ出したい、逃げ出さなきゃ。強烈にそう感じていた。

頭上後方ななめ四十五度、巨大な花火が、地上の人々にその大きな花弁を誇示するように広がった。鮮烈な光と火と色の集合体。見ようとはしなかったけれど、その姿はさぞ美しかったことだろう。
だけど頼むから、オレを照らすな。この滑稽で、惨めで、卑しいオレを、照らすな。
目に涙が溢れんばかりに溜まって、頭を揺らせばすぐにでも流れ落ちてしまいそうだ。
オレが照らすなと願を掛けた花火は、花火らしく、一刹那で消え去った。オレの願いを呑んだらしい。優秀だ、さすがは夏の風物詩。
石ころに躓いた。ガクッと首が揺れて、同時に散った涙が地面に暗い染みをつくり、オレは嗚咽を噛み殺している。それでも漏れてしまった呻きのような嗚咽は、矢継ぎ早に打ちあがる花火の爆音が掻き消してくれた。優秀だ、さすがは祭りの醍醐味。

どうして、こんな辛い恋をした。
やめます、という宣言だけで、恋というものがたちまち、終わってしまうものならいい。
そう──たとえば、刹那で消える花火みたいに。

***

憂き悩みは一晩寝たらオールリセットできるという元来の能天気・楽観さはどこへやら、という感じで、翌日、朝がきたことに気付きムクリと身体を起こしたオレは、まず己の瞼の重さに驚いた。そしてその瞼と同じくらい重い気分にも、鬱々とする。
瞼が重いのは、昨晩オレが泣いたからで、そのときの自分の無様さといったら、きっと見るに堪えないだろう。
それから捨て鉢になって、家にあった酒を全て引っ張り出してきて空け、吐き、そのまま泥のように眠り、今に至る。「家」と言っても、安普請に毛が生えたようなアパートの一室ではあるけれど。
頭が重い。その上痛い。気分も悪い。胃の中にまだアルコールが鬱積しているようだ。最悪だ。最悪の朝。起き出したくない。でも仕事だ。
学生だったら、電話一本、欠席の連絡を入れればいいのだが。社会人になると、それが容易にできなくなるのは、どうしてだろうか。
三十回の溜息、五十回の舌打ちをしてから、布団から出た。這い出た、という表現が近い。
「あー・・・・」頭をわしわしと掻いた。そういや風呂にも入り忘れた。
柚。オレを呼ぶ浩司の声が、脳の裏側で鳴る。
頭から離れなくて、どうしたってそこに残って、煩わしい。鬱陶しい。
あんなに泣いて、あんなに辛くて、吐きそうで、吐いて、それなのに、
『やっぱり笑っているほうがいいな、柚は』
まだ、まだこんなに好きだ。
どうしようもない。お手上げ、降参、白旗だ。ギブアップ。
好きな人と結ばれる薬と、人を一人嫌いになれる薬があったら、オレは間違いなく後者を手に取るだろうな、とこれまた取りとめもなく、しかも大ホラで、なんともくだらないことを、痛む頭でうそぶいた。
 
いつも通り午前十一時、遅刻なしで「カラオケYAMATO」へ出勤し、十二時の開店までに諸々の準備を行う。今日オレは「終日」という呼び名のシフトが入っているので、閉店の午前一時まで帰ることができない。
浩司は確か午後三時からだったよな、とオレはシフトを確認する。正直、やだな、と思った。あいたくない、というよりは、合わせる顔がなかった。
昨日どうして突然帰ったのか、急用とはなんだったのか、そんな類のことを間違いなく聞かれるだろう。回答も用意できていない。またひとつ溜息をつく。今日オレがついた溜息をすべて集めれば、気球だって飛ばせそうな気がした。
なんて言おう、嘘は苦手なのにな、とオレは泣きたい気持ちで、頭も痛いし、それでも、訪れる客たちには惜しみなく営業スマイルを振りまいている。
人は、真に辛いとき、笑顔なのかもしれない。ふとそんなことを思った。
辛いことを我慢しないで顔に出せるうちはまだ楽で、辛さをおくびにも出さないように、背筋を伸ばして笑顔でいる、まるでピエロのようなそんな瞬間が最も、辛く苦しいのかもしれなかった。
誰も聞いてはくれない、誰にも、思いを打ち明けられない。にっちもさっちもいかずに、八方塞がり。オレは、どうすればいい。
沖縄へでも逃亡しようか、とおよそ実現不可能な構想を練った。
流れることを許されなかった涙はそのうち、出口を求めて、唾液にでもなるだろう。全部、飲み込んでやる。

オレが今朝から数えて推定五百回目の溜息を吐き出したとき(一日にどれだけ沈痛な溜息をつけるか、というギネスに挑戦してみようかと本気で考えた)、浩司がひょっこり姿を現した。
ひょっこり、というと出し抜けに出現した感があるけれども、もうすぐ時計は三時になろうとしていて、彼は彼のシフト通りに、現れるべくして現れたのだった。それに対してオレが勝手に驚いただけだ。
驚いた、なんてかなり穏やかに表現したけれど、オレの胸中はそんな言葉では到底表しきれないほど、乱れた。浩司の姿を認めた途端、だ。
皮膚がさながら意思を持ったかのように一斉に粟立ち、咽喉に悪質な不可視の物体が詰まったみたいにして息が止まり、もしかして一瞬世界が停止したのかもしれないとオレは真剣に思った。
心臓が何者かに絞られるようだ。訳もなく涙が出そうだ。止まっていた息が機能しだすと、今度は息切れしそうになって、もうこれは、間違いなく何かの病気なんだろう。眩暈だってしそうなのだ。
オレが接客中だったので浩司は静々と受付の奥、厨房のほうへ入っていった。
沖縄へ逃亡したい、とオレは本気で思う。頭が痛い。胸も、目の裏も、至るところが疼いた。こんなに辛いなら、もう恋なんて懲り懲りだ。

「クマ、」浩司が顔の前で、手の中の小さなテディベアの右腕を、くいっと持ち上げた。そのクマは何故かいつも厨房の棚に居座っている、誰かが持ち込んだみやげ物だった。「目の下に、ひどい隈ですけど」
熊と隈をかけているらしい。笑う気にもなれなかった。
いつも通りに接しなくちゃ、と気張れば気張るほど、いつも通りってなんなのか分からなくなる。そういうものだ。そういう訳で例に漏れずオレも、身体は強張り、粋な台詞も浮かんではこず、浩司の挨拶代わりのテディベア攻撃はとりあえず無視した。
大体、会話だとか掛け合いだとか無視だとか、そういう次元ではない。心臓は苦しいし息も規則正しくできないし、目だってまともに見れないのだ。
ふい、とテディベアから顔をそらして、オレは手を洗おうと腕を捲くった。食べ物のオーダーが入ったのだ。
「昨日の急用って何だったのでしょう」テディベアを器用に動かしながら、御多分に洩れず、浩司は言う。クマになりきって喋っているのだろう、口調と声色がおかしい。「血相変えて走り出すし、僕も紫ちゃんもビックリだったヨ」
そんなふざけた行動をしている浩司は、声色に似合わず真顔だ。だから、その真顔までがギャグなのか、あるいは意外に真剣に問われているのか、判断がしづらかった。
「一、母上が危篤に陥った。二、親戚が事故にあった。三、ものすごくトイレに行きたかった。さあ、どれだ」
クマから元通りの声に戻った浩司は、相変わらず真顔でしょうもない事を喋る。はあ、と眉間に皺を寄せため息をついてからオレは、「四、どれも違う」と答えた。
「じゃあなんだ、説明せよ。五百字以内が好ましい。簡潔に、且つ明瞭に。さあ、喋れ」
「うっさい、」オレは言い切り、“ハッピースナック盛り合わせ”をつくることに専念しようとする。「誰にだって喋りたくないことくらい、あるだろ」
「それはそうだろうが、柚にはないはずだ」
「うるさいよ、君。あるんだよ」断乎として主張しながら、ポテトチップスのわきに苺ポッキーを添えた。
もうあんまりこっちを見ないでくれ、と請いそうになる。浩司の声で鼓膜が震わせられるたび、どこが苦しいのかもうわからないほど、身体中が締め付けられる。
「なんだ、なんだ、どうした。具合でも悪いのか?」
「悪い。悪すぎて笑える」
「どこが。どんなふうに」今日の浩司はくどい。オレの様子が普通じゃないことに、もう気がついているからだろう。
 説明するのも億劫だったし、そもそもお前が原因なんだよ馬鹿野郎という気持ちも相俟って、オレは口を閉ざした。
おい、と言いながら浩司がオレの右肩を掴んできたので、そんなふうにするつもりはなかったのにオレは思わず、その浩司の手を強く振り払ってしまった。苺ポッキーが一本、床に落ちて、折れた。
その瞬間、浩司の中の「柚の様子が変かもしれない」という思いが、「柚が変だ」に昇格(もしくは、降格)したことは、彼の表情の変化からすぐに読み取れた。
「・・・柚?」
驚きに満ちた眼で問いかけてくる浩司は意識の外へ追いやり、オレは黙々と手を動かした。
「『ユノハラだって』、って今日は言わないのか」浩司は目をすがめている。
オレはもちろん聞こえないフリで、完成したスナック盛り合わせを盆に載せて、厨房を去った。柚! と後ろから痺れを切らしたような浩司の声が響いたことにも、気付かない顔だ。
今日の浩司はニナリッチの香りがした。紫さんと会ってきたんだな、とオレは気が塞ぐ。
だけど悪いのは浩司でも、紫さんでもない。悪いのは、オレだ。オレだけだ。

「柚、ほんとにどうしたんだって」飽くなき精神で浩司は、オレに迫ってくる。「今のお前は、交尾後の雄カマキリよりも、人畜無害という感じだ」
もはや苛立ちさえ感じながらオレは、「浩司は人から、『黙ってれば最高なのに』と言われたことがないのか」
「少なく見積もっても、百回はあるな」
「その百人に、オレは握手を求めたい」
「今日のユズ坊は棘だらけだ」
無視という最終手段で会話を無理矢理終わらせ、オレはパソコンに向かって打ち込みを始めた。そうしながら、人をあしらい続けるのも体力がいるんだな、と考えている。店は閉店時間を過ぎ、オレと浩司以外に人気はない。
柚、無視の理由を教えろよ、と浩司は段々ヒートアップしそうな風情だ。殴り合いの喧嘩になるなら、それでもいい。殴り合って、もみくちゃになって、修復不可能なくらい、オレたちの仲が破綻してしまえば、いっそその方がいくらか楽のような気もした。
「この内蔵の着メロっていうのは、謎だよな」浩司は半ば意地になって、そんな脈絡もない話題で徹底的にオレを構い倒すつもりらしい。「パトカーの音とかさ、そんな着メロにしたら、本当にパトカーが来たんだろうと思って、携帯をスルーしちゃうと思わないか。混同するだろ」
それはしないだろうと、オレは無視しながらも内々で否定する。
「火災ベルが鳴って建物中が大慌てしている時に、『すみません僕の着メロでした』と名乗り出る奴が続出するかもしれない」
それはないだろうと、オレはパソコンのキーを機械的に打ちながら思う。
「柚、柚大佐、応答せよ」
オレは依然として無視を一貫する。そこでようやく、浩司が諦めの滲んだ舌打ちをひとつした。
売り上げ、来客数、エトセトラの打ち込み作業を早々と終え(浩司の相手をしないでいると仕事は実に早く終わる)、オレは私服に着替える。帰宅の準備だ。長い一日だった。
「帰るのか」憮然とした表情で浩司は問うてくる。
「おつかれ」オレは財布と携帯をジャケットのポケットに入れて、手ぶらで厨房を出た。
やっと浩司の側から離れられる、と安堵しているくらいだった。身体の処々の異常が、これでやっと元通りというわけだ。
──こんなの、恋っていうんだろうか? 根本的な疑問が、頭をもたげた。
恋っていうのはもっと、鬱陶しいほど甘くて、きらきらしていて、幸福に満ちた、そういうものであるはずなんじゃないのか。
よくわからない感情だ、と合点がいかないながらもオレは結論する。ただ一つわかることは、これはとても凶暴な感情だということだった。凶暴で、陰鬱だ。

ガシ、と腕を後ろから掴まれたのは、エレベーターの前まで来たときだった。
オレの左腕を掴んできた手の持ち主は、振り返らなくてもわかった。わかったから、振りほどいた。
「なんだよッ」オレはやはり背後にいた浩司を、ギロリと睨みつける。
これ以上関わってほしくなかった。関われば関わるほど、オレは苦しくて、発狂しそうで、どうしようもないのだ。
「理由を話すまで、帰さない」浩司はもう一度、オレの腕を奪いとる。振りほどこうとしたけれど、今度は離れなかった。痛、と呻きそうになる程、強い力だ。
「どう考えても今日は様子が変だろ、どうしたんだよ」
オレは唇を噛み、言えるかよバカ野郎、と無音で叫ぶ。「なんでもないって、言ってるだろ」ぶん、と掴まれている腕を大きく揺する。「離せよッ!」
オレがそう言うと、案外素直に浩司は腕を離し、「随分、嫌われたもんだな」と両手を演技じみた仕草で広げてみせた。「こんなに怒っている柚なんて、珍しいな」
そんなわざとらしい仕草も、声も表情も腕も、ひとつひとつが震えるほど好きで、愛しくて、たまらない。
目の前のこいつを構成する六十兆の細胞のたったひとつさえ、他人に渡したくなんてなかった。触らせたくなんてなかった。それら全てが、泣きそうになるほど、大切だった。
オレのものじゃないお前なんて、
「・・・・ッ」生まれてこなければよかった。
心の中では幾千もの言葉が交錯するのに、声では何も発せないまま、オレはただ拳を強く握った。
「そういう態度取られるとさ、」浩司は飄々とした態度を変えぬまま、言葉を継ぐ。「俺、逆に燃えるタイプだって、知ってた?」
え? それは、そりゃあ、知ってるけど──げ、や、やばいかも、と漏らしそうになったときには、遅かった。
次の瞬間、オレの背中にがっちりと、浩司の両腕が回っていた。ジェットコースターの安全バーよろしく、オレを一切身じろぎさせないほどしっかりと、抱きかかえられている。
「ぎゃ!」オレは全身を鋼のように強張らせた。
「理由を話すまで、解放しない」浩司の声が耳元でする。
真性サドめ、とオレは歯軋りしそうになりながらも、目を裂けそうなほどに見開いている。どうしよう、と、どうしようもないこの状況を嘆いてみた。
「質問をしなおす。どうして今日はそんなに、態度がよそよそしいのでしょうか」
まるで何かの紙を読み上げるかのように、淀みなく浩司は言いあげた。
目に映るのは浩司の胸元に垂れ下がった、店の制服であるネクタイの鮮烈な赤。その赤信号に反応したのか、心臓はぴったりと停止してしまうし、手も足も動かない。
弱弱しい呼吸をどうにか繰り返す咽喉で、嫌いだからだよ、と言いたかった。榎本浩司、お前が嫌いだからだ、と。
だけど言えなかった。それは、咽喉が弱弱しい呼吸しかできなかったからじゃなく、その言葉を、その大いなる嘘を、オレの身体全てが、脳味噌が、精神が、全力で拒絶していたからだ。
お前が嫌いだなんて、そんな嘘をつけば、オレのほうがいかれてしまいそうだった。
「・・・・ゆず、」浩司はオレの耳の少し上あたりに鼻を寄せるようにして、憎らしいほど甘ったるく、優しい声を出す。「お前に避けられると、つまんないよ」
こいつは、オレを口説きにかかっているんだとしか思えなかった。つまんないよ、なんて、ちょっと甘えるみたいな言い方で、そんなの、ずるいだろ。
どうして、こんな辛い恋をした。どうして、こんなにも狂おしい恋をした。
オレは、普通に恋愛して、普通に結婚して、それなりに幸せな家庭を築ければそれで良かった。そう思っていた。
こんな恋をする予定はなかった。こんなに息苦しい切なさは、知らずにいたかった。
お前はこうやって、オレに甘い言葉を囁いたりする、抱きしめたりする、オレの名前を優しく呼んだりする。だけど、お前の見据える視線の先に、オレはいないじゃないか。
くそう、お前なんか、
「・・・・すき、」
お前なんか。
「・・・・好きで・・・・」
オレの涙に震えた小声を、浩司はうまく聞き取ったらしい。そして、うーん、と唸ってから、「・・・・まだ里香が、ってことか?」なんて、大馬鹿もいいところの台詞を吐いた。「確かに振られたのは、辛いかもしれないが──」
カチン、ではなく、ブチ、とオレはこめかみ辺りで、自分の血管が切れる音を聞いた。
もう、お前なんてくたばれ! と言わんばかりの勢いで、アホ面を呈す浩司の鼻をグッとつまんだ。涙が両の頬を伝い落ちている。構わなかった。
「お前がだよ、バカ浩司ッ!」
張り上げた大声は、天井にぶつかり壁に反響し、終にはオレのもとへ戻ってきて、オレの脳天を鉄槌か何かで殴るかのようだった。
唐突な大声に驚いたのか、その言葉の内容にびっくりしたのか──99%の確率で後者だろうが──呆然としている浩司の身体を押しやって、オレは店を飛び出した。

言った? 涙を拭いつつ闇を切り裂くように走り、オレは考える。え、今、オレ言っちゃったのか?
あーあ、と無念そうな声をあげたのはオレではなく、きっと足元に生えていた雑草か何かだろう。
何もかも台無し、ジ・エンド、万事休すだ。



[三]へすすむ