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夏の恋花。[三] 昨日はつまんねえギャグを言って、悪かったな。ちょっとさ、体調悪かったんだ。 ──なんて言って、通じるだろうか。オレは明日浩司に披露する取り繕いの嘘を、ああでもないこうでもない、と投げ首状態で思案していた。 自分のアパートに着いて、玄関のドアを閉め、そのままドアに凭れかかってしゃがみ込んだ。部屋の電気もつけないままで、オレの身体は深い暗闇に覆われている。 信じらんねー、馬鹿じゃねーの、なに言ってんの、とひとしきり自分を罵った後、引かれたかな、そりゃそうだ、絶縁かな、そりゃそうだ、とおぞましい未来予想図を脳内で描いてみた。 お前ゲイだったのかよ、と幻滅を露にする浩司の顔。今までの彼女たちはカモフラだったのか、と猜疑心をむき出しにする浩司の顔。悪いけど俺は男には興味ないから、と当然のことをあっさり言い捨てる浩司の顔。 明日予想される浩司の表情を全てイメージトレーニングして、極力落胆しないように、絶望に打ちひしがれないように、備えておこうと思った。 そりゃあ、「嘘に決まってんだろ」と白を切れば、どうにかなるのかもしれなかった。 だけどオレは昔から上手に嘘がつけた試しなんてないし、第一、この気持ちを否定するなんて、そんなのはもう、自分自身を否定するも同然なのだ。ささいな嘘さえ巧みにつけないオレが、そんな大それた嘘など貫き通せるはずもない。 どうすんだよ、本気で沖縄に逃亡か? 資金はあるだろうか、船で行こうかそれとも飛行機か、飛行機だったらパスポートがいるんだっけ── 国内だったらそんなのいるわけないか、とそこまで思考が落ち着いたのと、オレが凭れかかるドアが叩かれたのは、ほぼ同時だった。 オレの心臓は肋骨を突き破るような猛烈な勢いを見せ、肉離れを起こしたアスリートみたいに変な具合で急に呼吸がとまったものだから、何度か噎せた。 「柚!」 覗き穴を覗かなくたって、ドアの向こうにいる人物は目に見えていた。 なんで来るんだ、とオレは噎せ返る咽喉を宥めながら、泣きそうな気分になる。わざわざ蔑みに来たか、正攻法で別れ告げに来たか。 どうして明日まで待ってくれないんだ、斟酌や忖度という言葉を学んでくれ。まだオレ自身さえ目の前のリアルを咀嚼しきれていないというのに。 「開けろ」そう権高な物言いで指示する浩司に、 「いやだ」オレの答えは当然決まっている。 すると、少し言葉を詰まらせたあと浩司は、「・・・・開けないと、向かいのアパートに放火する」と出し抜けなことを言い出した。 は? と眉を顰めながらもオレは、どうせいつもの調子に乗った冗談だ、と解釈し、「お好きなように」と嫌味たっぷりで返す。 その後、ドアを隔ててその場に充満した沈黙の、奇妙さ・危うさといったらなかった。浩司の声は途絶え、アパートの前を横切る自動車の煙たい音がオレの耳に届いた。 この不自然な沈黙──浩司は、なにしてるんだ? オレは、彼が愛用するZippoのライターで、そこいらのゴミを使って向かいのアパートに放火する浩司をちらっと想像してみた。が、すぐに取り消した。そんな馬鹿な。 オレは耳を研ぎ澄まして、ドアの向こう側から、浩司のアイロニカルな声が聞こえてくるのを待った。放火は犯罪だぞ、と遅ればせながら忠告したほうが良いだろうかと思う。 そんなオレのピンと立った耳に届いたのは、サイレンの音だった。 (しょ、消防車!?)耳を疑う、否、耳をたしなめた。なんて音を聞き取ってくれるんだ、お前は! オレは、自分の体裁とか恋の行く末とか浩司からの侮蔑とか、そんなの瞬時にして忘却し、泡を食って扉を開けた。浩司が犯罪者になるなんて、そんなの──! 壊れそうな勢いで開かれた哀れなドアの先には、ごうごうと燃え盛るアパート、ではなく、携帯電話があった。折りたたみ式のわりと最近の型、浩司のものだった。 その携帯電話は、サイレンのような音を鳴らしている。浩司が先刻うだうだと喋っていた、携帯に内蔵されている「パトカーの音」だったようだ。拍子抜けのあまり、オレは腰を抜かしそうになった。 「消防車だと思ったろ、」にや、という性悪な笑みをたたえて、「パトカーでした」と種明かししてから浩司は、呆気にとられるオレを正面から予告もなく抱きしめた。オレは、ひっ、と小さく声を漏らす。 え、何、なんで、どうして、とオレの頭は疑問符のオンパレード状態だったので、押し戻すことも、かと言って腕を回し返すこともできぬまま、ただうろたえた。 「俺のこと、好きなの」浩司は語尾を吊り上げる。 なんてやつだ、もう一回言わせるつもりかよ。オレは歯噛みしたい思いで、それでも、もうばれちゃったもんはしょうがないし、という諦念、あるいは今の状態のせいで頭がヒートしていたのもあって、 「・・・・ご、ごめん」とりあえず、謝った。 「なにそれ」浩司はそんなオレの耳元でくすっと笑う。揶揄でも、ましてや嘲笑や冷笑の類でもない、ぬくもりのある笑い方だった。「謝る理由がないだろ、柚には」 オレはその浩司の笑いが持つぬくもり、それから浩司の腕や胸のぬくもり、皮膚や声のぬくもり、それらがあまりに温かくて目にしみたので、既に涙が出かけていた。情けなかった。 「ある、」格好悪い涙声だ。「ありまくり・・・っ」 「じゃあ例えば何、って聞いてもいいけど、そんなの、もうどうでもいい」 浩司は腕の力を一層強めた。く、苦しい、とオレは呻く。決して太くはないあの腕のどこに、こんな力が潜んでいるのだろう。 「ほんと、嬉しい」彼の声は、未曾有の弾み方をしている。「俺のだ」間延びさせてそう言うと、浩司は甘える猫科の動物のようにオレの耳元に、すり、と髪を擦り付けた。 まじろぎもできないオレは、この熱帯夜の最中であるのにも拘らず、全身の血液が凍ってしまったかのように硬直した。そのくせ、意気軒昂たる心臓だけはやけに張り切って、オレの身体に空回り気味で血液を送っている。 「・・・・は・・・?」オレはどうにか声を絞り出した。 オレが予測していた『浩司の今後の行動リスト』、そのどこにも、今の浩司の行動は入っていなかった。こんな反応は、まったく予期していなかった。こんなの、まるで両想いのようじゃないか。 柚、と鳴きながらオレの肩に頭を乗せる猫科の動物は、「俺も好き」ととんでもないことを言った。 浩司はいつだって皮肉っぽく、且つ嫌味っぽいくせに、こんなふうに時折、年下だということをオレに実感させるような態度を取る。 そんな所だってもちろん馬鹿なオレにとっては愛おしくてしょうがないわけだけれど、今はそれどころじゃなかった。俺も好き、だと? 「そ、そんなわけがない」オレは言う。 は? と首をかしげるのは、今度は浩司の番だ。「なんだその言い草は」 「そ、そんなことあるわけないだろ」頑なに首を振るオレ。 「そんなことあるんだよ」頑として意見を貫く浩司。 「紫さんはどうしたんだよ!」 好きな相手に好きだと言われているのにそれを甘受せず、こんな天邪鬼な態度を取るオレのようなやつは、いっそ希少価値のある生物として保護されるべきだ、と思う。 「紫? ああ、」そういえばそんな子もいたなあ、というような、最低男と称されて然るべき間抜けた反応で、浩司は口を開く。「俺が紫と付き合いだしたのって、柚と里香が付き合い始めた直後だって、覚えてるか」 確かに覚えているので、オレは黙っていた。ここの空間ではもう、否定さえしなければ肯定、という偏屈な決まりができている。 「むかついたんだなあ」 そう言う浩司の声は、今日はいい天気だなあ、と晴れやかな空に話しかけるような、若かりし頃の青春を懐古するような、そんな爽やかさだったので、むかついたなんていう悪性の言葉はその声色にはあまりに不釣合いだった。 「柚が彼女なんて作るから、むかついて、俺も作った」浩司の言葉はさらっとしている。 「は」なんだそれは。「お前は今の瞬間、日本イカした男ランキングの、ワースト一位だ」 「最低男のグランプリ、と言ってもらったほうがわかりやすい」浩司は口元に湛えたにやつきを隠さぬまま、顔をあげてオレの目をじっと見た。「明日、紫には張り手でも食らわせてもらうよ」 「張り手? 首を絞められても、ナイフで刺されても、お前に文句は言えない」 「おっしゃる通りで」浩司はへらへらと邪心もなさそうに笑む。「結構、態度に出てたと思うんだけどな。夏祭りの時とか、どう見たって柚にばっかり構ってただろ、俺」 「そうだろうか」 「そうだろうよ」だって本命なんだから、と彼は付け足す。オレはそれだけでどきりとした。 そんな言い合いをしながらも、鼻先が交差するほど近い浩司の、うんざりするほど均整の取れた顔から、もう目が離せなくなっている。もうオレのこの視線は、二度とブレないだろう。 「好きだ」 ほんとかよ。好きだなんて、そんな浩司の非現実的な言葉を、疑ってみる。 だけどもうすっかり敗勢だ。この男には、たとえオレが千人の兵を従えたって、勝てっこない。嘘だっていいか、負けたっていいか。そう思ってしまうオレは、やはり相当、一コ年下のこいつに甘い。 どうして、こんな奴に出会ってしまった。こいつのせいで、オレの人生はめちゃくちゃだ。 こんなに、こんなに最低な男がやっぱり好きで、オレはなんておめでたいやつだ。 こんなに、こんなに幸せになる予定はなかった。想定外だ、それなのに。 この最低男に焦点が合ったこの眼は、僅かもブレてはくれないのだ。 浩司だってオレだって、男相手は初めてだっていうのに、こんな場所は無茶だろってオレはごねたけれど、「俺は一年以上前から我慢してきた」という浩司の理不尽な理由で、オレは玄関前の冷たい廊下の上に横たえられている。 床のひんやりとした冷たさと、空間に満ちた湿っぽく生温い空気が、オレの身体を両側から撫で、オレの動悸を一層速めた。 初めはオレの身体に触れる手が浩司のものだという事実を呑み込むのに時間を要して、息を乱すとか快楽を見出すとかの前に、オレはただ廊下の上でじたばたした。床にぶつかった足に走った痛みが、そんなオレにささやかなリアリティと正気を注いでくれる。 現実味がなかった、夢心地だ。だけど、オレの耳元で囁かれる、柚、という熱っぽい声は間違いなく浩司のものだった(だってオレが彼の声を聞き間違えることなんてたとえ天変地異が起きたってありえない)。 そうしてやっと、オレの腹部あたりに触れる熱い手が浩司のものなんだってわかり、その途端、堰を切ったようにオレの身体は酷く熱を帯びた。それは、この熱帯夜の気温のように生あたたかいものではなく、熱湯のような、炎のような、激しい熱だった。 その激しい熱に肉薄して、オレは咽喉を引き攣らせる。引き攣った咽喉から、掠れるような、恥ずかしい声。 「ん、あっ・・・・!」オレは浩司のTシャツを、汗ばんだ手で強く握る。 浩司の大きくて骨ばった手が、信じられないほどの熱を溜め込んだオレの中心に触れた。わっ、と声を漏らしながらオレは訳もわからずびっくりして仰け反った拍子に、床に頭をぶつけている。浩司は、大丈夫? と少し笑いながら、そんなオレの頭にキスをした。 オレはいま人生史上最高に、どきどきしている。幸せすぎて、吐きそうだった。こんな量の幸福を、オレのこの小さな身体で受け止めきることなんて、到底できそうにない。だけどそのくせ一グラムだって零したくなくて、泣きそうだ。溢れた幸福が、涙となって体外へ出ていっているのかもしれなかった。 オレの中心に触れる浩司の手は、いやらしいとか、淫猥とか、そういう言葉が全然に合わない風情だった。丁寧で優しくて直向きで、それでいて執拗だったりして、オレが気持ちよくなるようにっていう必死さが伝わってきた。 その必死さに気がついて、オレは顔が熱くなって、嬉しくて、やっぱり泣きそうで、これがもしも愛というものなら、こんなに素晴らしいものはこの世に二つとない、と思った。 「あっ、ア、あぁっ・・・・! こ、浩司、」 クチュ、と湿っぽい音を立てながら浩司の手が上下する。オレは気持ち良さと恥ずかしさでもうただ息を切らして、どうにか、という思いで浩司の名を呼んだ。オレが世界で一番愛しい名前だ。 それに対して浩司は、オレの唇をキスできつく塞いで、器用な舌でオレの上顎をざらりと舐めた。 その舌にも、オレの中心を包み込んだまま動き続ける浩司の手にも、オレはどうしようもなく痺れてしまって、吐息と共に声にならない声を漏らす。 「ん、んっ・・・は、あっ、ぁん・・・!」 「・・・・春紀」 ──ずるい、と思った。こんなタイミングで、オレの名前を呼ぶなんて。 いつもオレのことを柚と呼ぶ浩司のことだから、もしかしたらオレの本名なんて知らないじゃないかと思っていた。そんなオレを尻目にするように浩司は、熱で飽和状態とでも言うべき息で、オレの名前なんて呼んだりするから、オレの身体の熱にも拍車がかかった。 春紀、とオレを呼ぶ浩司の声に煽られたかのように、オレは身体を震わせて奔流を放出した。 「名前・・・感じた?」 そんなことを、そんな、オレが答えることなんてできるはずもないことを、浩司はオレの耳朶を甘噛みしながら問うてくる。オレはかっと燃えるように頬が熱くなったのを感じ、息を詰まらせた。 浩司の舌はオレの左耳の縁をなぞるように這い、そのまま首筋を通り、胸元へ下りてくる。そうして胸の一点に至ると、きつく吸い上げ、優しく歯を立ててくる。 「はっ・・・・あっ、あぅ・・・ん、や、あぁ・・・・!」 浩司に操られるみたいにしてオレは殺しきれない声を漏らす。じん、とすぐに下半身に熱が集まってくる。 こんなふうに女のような、いわゆる嬌声なんかをあげるのは不本意だったし、たまらなく恥ずかしかった。けれど、口元を手で押さえても、歯を食いしばってみても、駄目だった。オレの皮膚を辿るこの手が、浩司のものなのだと再確認するたびに、意識なんてたやすく飛んでしまいそうだった。 一度は熱を吐き出したはずのオレの自身も、すでに頭をもたげてきている。浩司はそこから吐き出されたオレの精液を指で丹念に絡め取り、探るようにしながら、オレが自分でだって触れたことのない後ろの方へと手をもぐりこませた。 ぐ、とそこへ物理的な力が加わるようにして、指が体内へ進入してきたのがわかる。オレは生まれて初めての感覚に戸惑い、金属的なものを感じさせる甲高い声を零す。ぐちゅ、という淫靡な音が、自分の身体から漏れているだなんて、とても信じられなかった。 「や、あぁ、あっ・・・・! いっ・・・痛、へ、変、そこ・・・・あ、浩司・・・っ!」 緩慢な変化で、それでも確かに、浩司の指がスムーズに動くようになってくると、痛みを忘れたオレは得体の知れない感覚に背中を反らせ、無意識に爪で床を引っ掻く音を聞いていた。 「あっ、んあ・・・・っ、も、もう・・・・! やっ、ぁ・・・・!」 原因不明の涙が、まなじりから垂れる。浩司、と恋しい名前を何度もただ、呼んだ。 明日別れるとはいえ、現時点ではまだ浩司の彼女である紫さんへの後ろめたさとか、この現実が夢なんじゃないかという疑心とか不安、オレの心臓が掻き鳴らす、笑えるような鼓動の音が浩司に届いてしまっているのだろうかとか、オレのあげるこんな妙な声を浩司はどう思っているのかとか、地球は今もちゃんと回っているのかとか、そういう煩雑な、雑多な事柄が全部丸ごとどうでもよくなって、オレの全神経は、浩司の指の動きだけに、そんな些細なひとつの事だけに集中した。 地球とか宇宙とか恋愛とか、そういうスケールの大きいことなんてどこかへ置き忘れたかのように、今のオレの世界は、浩司の指や息遣いだけ、浩司その人だけ、だった。 他には何もなかった。そのことがこんなにも幸福だ。オレは多分、恋愛なんかにほうけた愚か者なのだ。煩悩だけをぶち込まれた肉塊だ。それでも良かった。 相手が男とか、彼女持ちとか、そんなことは二の次だった。 オレは恋をした。文句あるか。 辛い恋だった。いいことなんてこれっぽっちもない、最低の恋だった。この恋がこんなにも、誇らしい。愛おしい。 涙がとめどなく垂れる。もう一度、浩司、と呼ぶ。 それに応えて、キスの雨が降ってくる。傘なんて、この世から消えてなくなってしまえ、と思えるような雨だった。 いつの間にか身体が繋がり、その圧倒的な容量と熱に身体は強張り、むろん鈍い痛みも伴ったけれど、これは浩司なのだ、と思えば堪えることなんて容易かった。 浩司の首に腕を回して、徐々に加わってくる腰の動きに、こすれる内壁の紡いだ痺れるような心地に、舌を絡ませあって口角から滴る唾液に、重なる息に、溺れるように身を委ねた。 「あっ、ん、ア・・・・っ! こ、浩司・・・・はっ、あ、ああっ・・・!」 何度も浩司の熱がオレの内部を行き来し、ガクガクと震えるオレの足を浩司が労わるように撫でてくれ、オレが世界で一番愛しく思う唇は、オレの胸の突起にキスをする。 その状態で浩司が、春紀、とオレの名前を口にすれば、涙なんてもう留まることを忘れて、もう「好き」ともロクに言えない益体なしの咽喉は、ひっきりなしに痙攣した。 最後を飾るキスと共に、好き、と浩司が言ってくれたのかどうか、もうそれすら、オレはちゃんと聞き分けることができなかった。 どうしてこんな恋をした。この男のせいで、オレの人生はめちゃくちゃだ。 (こんなに幸せになる予定はなかったのに) この男に出会った瞬間、オレの敗北はきっと、決まっていたのだ。 *** 遠くの空が、明るくなってきていた。 玄関先で結ばれた後はベッドへ移動し、また暫し二人で汗をかいた。そうしてようやく心が満ちたりて、窓のカーテンをそっとよけてみたら、夜の残滓と生まれたての朝が混じり合う美しい空が、頭上を覆っていた。 おー、綺麗、と隣にいる浩司が感嘆した。うん、とオレも顎をひく。 昨日と同じはずの太陽が、朝の光が、空気の色が、違って見えた。隣に浩司がいるからだ。他の誰でもないオレの隣で、彼が笑っているからだ。 オレはもう一度枕に頭を沈めて、目の前にある浩司の顔に手を伸ばし、その頬に触れた。 「言い忘れてた、」浩司の頬に手を伸ばして、触れる。これ以上の至福があろうか、とオレは思う。「誕生日、おめでとう」 オレが言うと、ああそういえば、と浩司は微笑み、「最高のプレゼントです」とおどけながら、浩司もオレの頬に手を置いた。「ありがとう」 まなじりに浮かぶ彼の優しい笑い皺、オレにとってそれ以上に大切なものなんてこの世にはないだろう。 ありがとうなんてこっちの台詞だ、とオレがじわっと目頭を熱くしたのと、外でドン、という騒々しい音が響いたのはほとんど同時のことだった。 その突然の音に二人して肩を聳やかしながら、慌てて窓のほうを見遣る。 「・・・・花火だ」とひとりごちたのは、オレだったのか、浩司だったか、判然としなかったけれど、オレも浩司も心中では同じことを呟いていただろう。 朝日が夜の闇を駆逐し始め、大いなる光でこの大空を独占しようとしているこんな折に、打ち上げ花火をするなんていうなんとも酔狂な若者がいるらしい。花火の打ちあがる音と共に、若者特有の弾けるような喧騒が耳に届いた。 いつもなら、こんな朝っぱらになんて非常識な、と眉を顰める場面だったろうけれど、今日ばかりはそんな感情を微塵も抱かなかった。 今のオレたちはあまりに幸せで、そんなオレたちを取り巻くもの全てに、見守ってくれるもの全てに、感謝したかったのだ。その花火の音も光も、若者たちの奔放な喧騒も、オレたちを祝しているかのように思えた。 叶うはずなんてない恋だと思っていた。それが当たり前だと言い聞かせていた。 この恋が成就することなんて、この蒸し暑い熱帯夜に大雪が降ることぐらい、有り得ないことのように思えた。真夏の豪雪、そんな現象にも似た、夢のような話だった。 それなのに、彼はオレの隣で笑っている。そうして、オレの耳元に艶やかな唇を寄せて、「好き」と囁いたりする。 真夏にこんな雪が降る。たいへんな大雪。幸福の雪だ。 外では、市販のものだろうけれど随分と立派な打ち上げ花火が、明らんできた空の高い場所で、大きく光の花弁を広げた。 好きだと囁いてくれる浩司の手を取って、握り締めた。自然に唇から零れる笑み。 始まったばかりの、オレたちの恋の花も今、大きく花開こうとしている。 大空に広がった日と光の燦然たる集合体──オレたちの恋を見守る、恋の花火だ。 翌日紫さんに別れ話を切り出した浩司が、強烈な張り手を食らって片頬を真っ赤にしたことや、夜明けに花火をしていた若者たちが警察官に補導されていたこと、浩司が包丁を使って豆腐をカットできるようになったことなんかの話があるのだけれど、これは飽く迄オレの個人的な恋愛の話であるから、オレの恋愛について直接的に関係のないそれらの話は、また別の機会があればそのときにでも。 長くなったけれど、以上が、オレにとって最高に大切で重要で掛け替えのなかった一夏に起こった、夏の恋花──失礼、夏の恋話(こいばな)、でございます。 ご清聴に、感謝。 |