この部屋の窓から一望できる場所で 今日も戯れている つい目で追ってしまうのだ 危なっかしい行動に一人冷や汗をかいたり 華麗に靡く三つ編みに見入ったり 端正な顔立ちに乗せた満面の笑顔 飾りのない直情さ 拗ねた表情 外で弟と愉快そうに遊ぶ若干十五歳の少年── そして鼻につく鮮血の匂い── え?鮮血? まさか私が統治するこの建物内で何か事件が──? 「ホークアイ中尉!どこかから鮮血の匂いが!一体なにが・・・っ」 「大佐の鼻血です」 「へ?」 いよいよ変態らしい。 恋愛茶番劇 (上) 司令官室に、プーッという間抜けな音が響いた。 「あはははっ!!なんだよそれ大佐!」 ロイの両鼻に詰め込まれたティッシュを認めると、大声で笑い転げだした元凶。 その無遠慮な哄笑をあげている元凶こそ、最年少国家錬金術師、エドワード・エルリックである。 指をさして、よく似合うよく似合うと連呼しながら、かれこれ5分程笑い続けている。 滲んだ涙を拭う事もせずに、ソファーやら机やらを叩き、最終的には床に突っ伏して爆笑。 もう嘲弄しているということは明白だ。 「・・・・いい加減笑いすぎではないかね」 眉を顰めて問うロイに、返答は不可能にせよ、せめて笑いを鎮静させようと努めるエドワード。 一瞬キリッと凛々しくなっても、次の瞬間にはまた吹き出す。 はーっとため息を吐くロイの横で、せっせと鼻に詰める物を作っているアルフォンスも兄を咎めた。 「そうだよ兄さん、いくらなんでも笑いすぎ!大佐に失礼でしょ」 「だ、だってなーぁ、アル!こ、これは、歴史に残る名場面・・・・!!こ、滑稽すぎる・・・!!」 普段散々こきを使われている鬱憤を晴らしているといったところだろう。 大体、元凶が目の前にいて、鼻血が止まるはずがないのだ。 それでも部屋から追い出すまいとするのは、やはり彼の姿を見ていたいからでなのである。 要するにお互い様なので、本気で叱ることもできないでいる。 (全く不甲斐ないな・・・) 叱咤できぬ失意を駆逐するように、小さくかぶりを振りながら、鼻の詰め物を変えたのはこれで四度目。 *** 爾来数時間が経ち。 事が起こったのは、その日の夕方。 残業を任命されたロイは、日が沈んだ今もなお、昼間の罷業の分仕事をしなければならなかった。 渋々と書類を片付けていると、キィ、と静かにドアが開かれた。 「誰だね?」 「・・・・・・・・・オレ」 思わず目を見開く。 見張った目が捕らえたもの、それはビニール袋を一つ携えて、何故か寡黙になって部屋に入ってきたエドワードだった。 アルフォンスに謝ってきなさいと吹き込まれたのだ。 弟の説諭に促され、エドワードもまた渋々と足を煩う羽目になってしまった。 そんな少年の元へロイは歩を進め、尤もな疑問を口にした。 「どうした?」 「あのさ、これ」 俯きながら、ずいと右手が握っていたビニール袋を突き出し、呟いた。 ビニール袋に粗雑に収まっていたものは、 「・・・・・・・・・煮干し?なんだねこれは」 開いた口が塞がらないロイを直視せずに、俯いたまま続ける。 「貧血には鉄分だって。煮干しにはヘム鉄っていう鉄分が入ってて、非ヘム鉄っていう鉄分よりも吸収がいいんだ。ヘム鉄を含んだ食材は他にはやつめうなぎにあゆ、レバー・・・・非ヘム鉄を含む食材はきりぼし大根、ほうれんそう、ひじき、大豆、それから」 「ああ、もういいもういい」 立板に水といったふうに捲くし立てるエドワード。 顔をあげないのは照れているからに相違ない。唐突な饒舌さも、照れ隠しなのだろう。 それを制止したロイは、今にも笑い出しそうである。 「そのー、昼間は、悪ィ・・・」 いかにも不服、という雰囲気を纏った口調だったとはいえ、言うことを言ったぞと自分に言い聞かせ、煮干しをソファーに置き、部屋から脱兎の如く飛び出した。 と思ったら、ロイに呼び止められてしまった。 「鋼の」 足をとめざるをえない。 背を向けたまま、 「なんだよ・・・もう謝らないからな!」 「ありがとう」 思いもよらない返答に、エドワードは息を飲む。 そして恐る恐る振り向き、相好を崩しているロイに、諭すように言った。 「・・・・・やっぱ貧血で頭イカれちまったんじゃねーの・・・・?」 「失礼だな。礼を言って何が悪いのだ?」 「そういう訳じゃないけどさ・・・・大佐、しっかり、気を確かに」 そう言いながら、眉間に皺を寄せた心配そうな表情で、ロイの顔の前で手を振る動作は、この上なく愛くるしい。 本人は本気半分、嘲弄半分というところなのだろうが、エドワードの振る手は、ロイにはモラルを掻き消すように映るだけ。 ちょっとだけからかってやろう、そういった軽い気持ちだったのだ。ロイにとっては。 昼間の仕返しも含めて、揶揄混じりの唇を。 「んぅっ!?」 突然、なんの前触れも伏線もなく重なってきた唇に、身体が硬直するエドワード。 頭は真っ白に、全身の血液など逆流しそうになる。 数秒後、肢体から力が抜けかかったところで、案外唇はあっさりと離れた。 それでも。 「・・・・・・・・・・。」 何が起こったのか、未だ飲み込めない様子で、エドワードは瞬きすら忘れている。 思考回路が復活し、現在受けた余りに理不尽なキスを理解すると、頬が真っ赤に紅潮した。 「なっ、なにすんだてめぇ!!!出血多量で早く死ね!!!」 そう言い残し、ドアを壊れそうな勢いで閉め、飛び出していく。 「し、死ね、か・・・・」 不可抗力だ、と意味不明な事を考えながら、ロイは少しばかり反省を喫した。 *** (気持ち悪い気持ち悪い・・・・っ!なんなんだ今のはっ・・・!!) 手の甲で何度も感触の残る口唇を拭い、エドワードは飛び出そうなほど激しく早鐘を打つ心臓を宥めながら、弟の元へ急いでいた。 東方司令部の近くの宿屋に宿をとっている。軍の仮眠室でなくて、本当に助かった。 初めて味わった唇の未知の感触に、涙が滲む。 耳元でドクドクとがなりたてる心臓、紅潮した頬。 何故涙が出るのかすらわからない。思考回路は完全に使用不可能に。 唯一、誰に何をされたという事実だけが、ぐるぐると渦巻いている。 「アルっ!」 宿屋にとった部屋のドアの開く、尋常でない勢いの良さに、次に驚いたのはアルフォンスだった。 「ど、どうしたのさ兄さん!それに、その顔・・・」 「え?」 涙はさっきしっかり拭った。目もさほど腫れる性質じゃない。 他に異常などない筈なのに・・・ 「真っ赤だよ?」 アルフォンスのその一言に、更に顔は熱くなる。 「そ、そんな訳あるか!!!」 「そんな訳あるかって言われても・・・何かあったの?」 「なんでもない!!寝る!!」 怒気が感じられる声のトーンでそう言い、そそくさとベッドに滑り込む。 なんでもないと嘯くには、感情が露骨すぎ、アルフォンスは疑念が深まるばかりである。 言いにくいのだろうと、これ以上の言及は避けてあげようと配慮したのにも拘らず、その話題に触れてきたのはエドワードだった。 ベッドに入って数分後。 「・・・・・アル」 「わっ、なんだ兄さん、起きてたの?」 「キス、ってしたことあるか?」 その問いに、アルフォンスは己の耳を疑った。 「な、なんだよ兄さんイキナリっ!!」 「いいから答えろって!」 兄の切羽詰った物言いに、戸惑いながらも返事を返す。 「そりゃあ、あるけど・・・?」 「えっ!?あんの!?なんだよお前!生意気な!」 ずっと背を向けていたエドワードが、がばりとこちらに振り向く。 そしてその顔は、どうしてか赤い。 「え、え!?だってお前・・・・鎧・・・」 「だから、小学校の時だってば」 「なんでそんな大事な事をお兄ちゃんに相談しないんだ!」 「ええ!?に、兄さん突然どうしたの?今日変だけど・・・」 ここで暫し沈黙。 弟の問いはまるっきり無視し、 「あ、アル・・・・・・それはその・・・・・・勿論・・・・・・女の子と、だ、よな?」 「う、うん・・・そりゃそうだけど・・・ほ、ほんとにどうしたの兄さん・・・・?なんかおかしいよ?」 だよなぁ・・・と無音の相槌を心の中で打ち、また壁のほうに向き直ってしまった。 「兄さん?」 「なんでもない・・・おやすみ・・・・」 自分の腕を掻き抱き、まだ完全には治まらない動悸の律動を耳に感じながら、眠りについた。 『信じられない!まさか大佐と?軽蔑だよ・・・・まさか兄さんがゲイだったなんて・・・』 弟の蔑みの視線。 「違うっ!!!・・・・・あ、あれ?夢?」 飛び起きた上半身。酷く息切れする咽喉。 同じような悪夢に魘される一夜。睡眠不足。 全部、奴の所為。 *** 「お、あれは・・・」 廊下の先の方に見える、赤いマントを羽織った少年。 その姿を見つけたロイ。と同時にあちらもこちら側に気付き、顔を真っ青に染めた。 「はがねの・・・・あ」 呼び止めようとしたロイを邪険に扱うように、素早く逃げていってしまうエドワード。 とにかく距離を置く戦法にでも出たのだろうか。 「・・・・・何故逃げる?」 そう、ロイにはほんのお遊びだったのだ。経験豊富な彼に、たかがキスの一つや二つなど。 けれどエドワードに、そんな割り切った考え方ができる訳もなく。 経験豊富。の筈なのに、こんな気分は初めてだった。 まさか、まさか自分が、他人に避けられて傷つくなんて、笑えてくる。 こうなってくると、色々とマズく、厄介だ。なかなか抜け出せない底なし沼のように。 まさか、まさか。 十五歳の、少年に? 自分が、本気で? 本当に、笑えてくる。 フッ、と含み笑いを漏らし、続けた。 「・・・・成る程、おもしろい」 人を本気で愛すなど、一体何年ぶりだろうか。 (あーーーー!!もーーーー!!) 一方エドワードは、怒り心頭といわんばかりの風情で、廊下を歩いていた。 誰に向けて?ロイ?はたまた先を越された弟に? 否、自分にだ。 (なんでっ・・・なんで・・・・) あんな奴の姿を見ただけで。 心臓は落ち着きをなくすのだろうか。頬は熱くなるのだろうか。 こんな姿を見られたくなくて、相手に気付かれる前に逃げてきた。 もしかしたらこちらに気付いただろうか。そうしたらどんな風に思っただろう。 馬鹿にされる。絶対に。 あの経験豊富そうな気障野郎だったら、面白がって笑い転げるに違いないのだ。 どうせあんな出来事だって、奴には日常生活に於いての綻びにも過ぎないのだ。 そんなのわかってるのに。 オレばかり翻弄されてる。あいつの掌で踊らされているのだ。 いい玩具だとでもいいながら。 そんな考えばかりが頭を支配し、ロイへの苛立ちすら凌駕する己の不甲斐なさと情けなさへの怒り。 (悔しいっ・・・・・) あんな奴の事など考えるな。 どうせ遊びなのだ。どうせ玩具なのだ。どうせ本気などではないのだ。 どうせ、どうせ──── (・・・・・何だってんだ・・・・ッ!) どうやら、昨日から少々、涙腺が緩くなったらしい。 上官命令には逆らえない。軍の原則。 例え呼び出したのが、今すぐにでも殴り殺してやりたいと願っている鼻血野郎でも、だ。 「・・・・・なんだよ」 「大した話ではないのだがね」 「じゃあ帰る」 「まぁ待て」 ロイはふぅ、と一息置いてから話し始めた。 「なんだか私を避けているようだが、まだ昨日の事を根にもっているのかね?」 こいつの神経はどんなになっているんだ、とエドワードは思う。 「あ、当たり前だろ!お前にとってはどうでもいいことだったかもしれないけどな!オレははじっ・・・」 「恥?」 ハッと気付く。 初めてだった、などと言ったら、きっとナメられる。 「ああ、もしかして初めてだったのか?」 鋭い。 (流石は経験豊富ってやつかよっ・・・!) 再度やってくる苛立ち。 ここはなんとしてでもナメられるわけには、という虚栄心が手伝って、 「ん、んな訳ねーだろっ!」 などと吹いてみたりする。 ここでダメージを受けたのはロイだ。 ガーン、という擬音が聞こえてきそうな雰囲気で、酷く気落ちする。 愚にも付かぬ二人の不毛なやり取りは、少なからず二人の気心に余波を残すのだ。 快方へ向かうかどうかは別として。 「五、五股だと・・・・!!」 「お、オレモテモテだったしー・・・・」 見栄を張り続けているうちに、話はどんどん入り組んでいく。 エドワードが小学校時代、五股をかけていたという嘘までつき、ロイは更に青褪めていく。 けれどそんなロイの様子も、嘘をついているせいで直視できずに、気付かないエドワード。 「た、大佐だってあんだろ?それぐらい・・・」 少しいたたまれなくなってきたのか、ロイに話題をふる。 「生憎私は一人に尽くすタイプなのでね」 彼が言うと実に胡散臭いが、根はそうなのかもわからない。 その一言に、エドワードはトクン、と胸が弾むのがわかる。 「う、嘘ばっかり・・・」 どうしても言いはじめがどもってしまう。嘘をつきなれていないのか。 「嘘などではない。・・・・証明してみようか?」 えっ、と思いロイの方を向くと、こちらへ歩み寄り、肩に手を伸ばそうとしている。 これだけでドキッとしてしまうエドワードは、重症かもしれない。 「さ、触んなっ!!」 パシンッ、という乾いた音が空しく耳を打つ。 顔が熱を持つのがわかる。見られたくなくて俯く。 触られるのが嫌なのではない。怖いのだ。 昨日からどうも変だということはわかってる。唯、このままだと、怖い。 漠然とした恐怖で、説明もしようがない。 この動悸はなんなのか。この頬の熱はなんなのか。 キスの感触も、全部全部初めてで、わからない。 わからないのだ。 怖いのだ。知らないものというのは、最初は怖いものなのだ。それが何であろうと。 そして弾かれた手を呆然と見つめるロイは、いよいよ自殺しそうである。 触ろうとしただけなのに、しかも肩だ、手は弾かれ、視線を逸らされ。 黙りこくられ・・・本当に自分は嫌がられているようだ。 元々好かれてはいなかっただろうが、それがもっと、言うなれば毛嫌いと呼ばれる類になったのだろう。 そう一人で推測し、自分の推測の結果に落胆。悪循環。 「もう出てっていい」 エドワードを追い出すかのように、指示をだす。できるだけいつも通りの声音で。 顔を見ていたら、それこそもっと傷ついてしまいそうだったから。 取り付く島もないその態度に、エドワードは指示に従う他なかった。 しかし普段は憮然としているロイの、その露骨な表情の変化を不審に思い、出て行く前に発問してみる。 「・・・・・大佐?」 が、何を問えばいいのかわからず、二人称だけ疑問調子で言う。 「なんだ」 「や、えっと、あの・・・・貧血、大丈夫?」 「お陰さまで、な」 目が合わない。合わしてくれない。 そっぽを向いて、驚く程そっけなく返事を返される。 叩いた手がそんなに痛んだのだろうか。そういえば右手で殴ってしまったかもしれない。 きっと呆れられた・・・いや、怒っているのかもしれない。 手が痛んだら焔だって出せないし、仕事だって手際が悪くなるし。 全てが食い違いの自己嫌悪。 「あ、ご、ごめん・・・手、痛い?」 「心が痛い」 「は?」 また冗談ではぐらかそうとしているのだと思い、エドワードは余計な心配だったか、と思い直す事にした。 ロイの背中に向かって一礼をし、ドアノブに手をかける。 「鋼の」 自分を呼ぶ声に、条件反射で後ろを振り向く。 昨日も似たような事があったような。 どうしてこいつはいつも帰る直前に呼び止めるのか。 呼び止めて────あ。 (またキスされるかもっ・・・・!!) 思わず身を捩って目を固く瞑る。 けれど唇にはなんの感触も訪れない。 (あれ・・・・?) 片目をゆっくりと開けて、その目が映し出した光景に息を飲む。 今まで見たこともないような───哀愁を纏った表情。 そんなロイの自分を見つめる綺麗な瞳に、今日一番大きな鼓動を感じる。 ドクリ、とすると息苦しくなる。喉に何かが詰まったみたいだ。 「なんでもない。行っていい」 「・・・あ・・・」 そのまま部屋を出た。 信じられない。あんな、あれだけの事で? 唯悲しげな視線をおくられただけで? 胸がぎゅうっと握られたような感覚に襲われる。 もしかすると、もしかするかもしれない。 昨日の今日で?たかが一度のキスで? (オレって結構・・・カルいのな・・・) それでも早くなる鼓動はとめられないのだ。 (完全に嫌われた・・・・) 机に突っ伏し、項垂れる。 確かに先に手を出したのは自分なのだから、自業自得といえば自業自得。 今更自分を叱責したところで、何になる訳でもなく。 もう落ち込むしか手はない。 (こんなに思っているのに・・・・) 欲しいものを手に入れる為には、どんな手段も選ばないつもりだった。 けれど、面と向かうと、どうしてかあの少年だけには弱気になってしまう。 こんなのは初めてだ。 どんな女も簡単におとすことができ、女ったらしの百戦錬磨とまで謳われたこの自分が。 たった一人の少年に。 募るばかりの思いが、こんなにも辛いなんて、知らなかったのだ。 (でも・・・完全に怒ってた・・・・) 背中を預けていたドアに凭れながら、ずるずるとしゃがみこむ。 自分が手を弾いてしまったのだから、自業自得といえば自業自得か、と言い聞かせる。 今更自分のしたことを悔やんだところで、彼の手の痛みが治まる訳でもなく。 絶対に怒ってるという結論にしか至らない。 (好きになった矢先に・・・・嫌われてどうすんだよっ・・・オレっ・・・) はーっ、と長い長いため息が、二人の口から同時に漏れた事を、いつまでも二人は知らない。 |