【1】〜【3】




【1】


「イシュバールの英雄のお通りだ」

 軍の人間が私に向ける視線は、このリノリウムの床よりも冷たく、無機質だ。
「英雄」とは、こんな夥しい数の白眼視を一身に受ける人物のことを指すんだったか、と自嘲する。おかしいな、一度「英雄」の欄を辞書でひきなおしたほうが良いのかもしれない。

「いったい何人焼いたんだ」「人殺しの目だ、見ろ、あの暗い両目を」

 暗い目は遺伝だ、と私は両親の容姿を想起しながら頭の後ろを掻く。廊下を進む足の動きは止めない。

「あれだけ人を殺しておいて、よく人前に出られるな」
「心臓に毛が生えているに違いないさ」
「死んでも償いきれない、罪深い男だ」
「神にでもその心臓を捧げるべきだ」

 心臓?
 このたった270グラムの血液の塊を、神が欲しいと言うのなら、くれてやるさ。

(どうせ返品だろうが、)思わず笑みが零れ、肩を揺すらないようにするのに必死だ。

 こんな毛むくじゃらの心臓、いったい誰が欲しがるというのだ?


◆◆◆

「『英雄』の意味を知っているか」

 私の問いかけを受けて、執務机に向き合うようにして立っていた少年が、「ハア?」と金の眉毛をひしゃげさせる。
「偉業を成し遂げた人のことじゃねえの」不良少年が補導員の質疑に応じるときのような、乱暴な口調だった。
「それが、そうでもないらしいぞ」私は提出された報告書に上滑りな視線を遣りながら、言う。「正しくは、無数の白眼視を向けられる人物、だ」ほとんど対義語の意味に近いな。「くそったれ、と言い換えることもできる」
 鋼という厳めしい二つ名を背負うにはあまりにも華奢な双肩が、大げさにすくめられた。
「『やばい』が良い意味で使われだしたのと、同じ原理だな」
「私の話を真面目に聞いているか?」
「どうでもいいけど、早く帰らせてくんない」
「上司との会話を、”どうでもいい”とはね」私は眉の位置を高める。
「発展の見込めない会話を続ける趣味はねーんだよ」不機嫌さを隠そうともしない。上司の前だというのに、随分ご丁寧な態度だ。「特に、素面じゃない相手の場合はな」
 白い手袋の嵌まった彼の右手が、微かに金属を思わせるような音を立てながら動いた。その手は私の執務机に鎮座する、ウイスキーのボトルを指差す。
 ゆめゆめ酔っ払いは相手にするべからず、か。まことに賢明だ。おっしゃる通り。

「……随分荒れてんのな」アーモンドのような蜂蜜色の双眸が、こちらを訝るように眇められる。「昼間から酒とは、良い御身分で」
「ま、国軍大佐ともなればな」
「はぐらかすなよ、何かあったのか?」と少年は言い、続けざまに「なんて、言うと思ったか?」と吐き捨てた。「三十路間近の酒臭いおっさんの愚痴を聞いてやるほどの度量も、暇も、オレには無い」
「それは残念だ、」私はくつくつと腹から湧き上がる笑いを漏らし、報告書に検印を押した。「残念だが、賢明だ」
「賢いって? よく言われるよ」
 その生意気な台詞を言い終わるころには、少年は狭小な背中を私に向けた。そのまま出口のほうへ歩を進めはじめる。身長を誤魔化す仕掛けがあるとしか思えない底の厚いブーツが、硬質の音を規則正しく執務室に響かせた。
 退屈な一仕事を終えた少年の背中を見て、その退屈な一仕事の内容を確認する、という退屈な一仕事を終えた私も、執務用の椅子の背もたれに体重を預けた。

「普段から、あんたのことなんて別に好きじゃねーけどさ、」
 部屋から出て行く直前、少年は私に背を向けたまま、声を投げてきた。
「今日のあんたは、もっと嫌いだ」
 バタン、と木目調の扉が荒々しく閉じられる。

 私はウイスキーのグラスを手に持ったまま、暫し呆然と扉を見つめていた。何故って、驚いたからだ。
 軍部の人間の心無いうわさ話──そんな瑣末なことを気に病むなんて、らしくないんじゃねーの。いつもみたいに、不敵に笑っているほうがあんたに似合いだ。
「今日のあんたは、もっと嫌いだ」という彼の短い台詞が、私には、そんな意味合いに聞こえた。とても粗野な、愛の告白のようにも聞こえた。私だけだろうか。
 きっと、私だけだな。否、私だけでいい。

 急に胸部が熱を帯びた。横隔膜が心臓を締め付けた。
 急に酔いが回ったか、と胸元を押さえたが、すぐに気がついた。これは「酔い」なんていう、老いらくの時代を象徴するような感覚じゃない。これは、違う。
 これは、青春の時代の最たる象徴だ。つまり、「ときめき」。恥を忍んで言うのなら。

 この毛むくじゃらの心臓も、まだときめくことを忘れていなかったようだ。
 くそったれ英雄の心臓は、久方ぶりに、正常に機能しだした。


【2】


「いつまで独り身でいるつもりだ?」
 独り身、ね。実にいい響きじゃないか。「英雄」なんていう、まるで取ってつけたような称賛よりは、はるかに心地良い単語だ。
「自分の家庭ってのは、いいぞ」受話器の向こうで国内一の愛妻家を自称する男が、恍惚とした声を出す。「結婚は、実に良い」
「ヒューズ、有難い言葉をひとつ、お前に教えてやろう」
「なんだ?」疑問符を点したヒゲ面が、目に浮かぶようだった。
「アンドレ・プレヴォーはこう言った」
 私は肩と右頬で受話器をはさみながら、恬淡とした口振りで言う。
「『独身者とは、妻を見つけないことに成功した男である』」
 私の座右の銘だ。
 電話が乱暴に切れた。

◆◆◆

 先人たちは「人生の先輩」という権威を嵩に着て、結婚やら人生やら恋愛やらに、好き放題にキャッチフレーズのようなものを残している。後に「名言」と称されて囃し立てられている類の、あれだ。
「名言」と呼ばれるそれらの文言たちが嫌いではないが、その「名言」たちのどこを探しても、「結婚」を肯定するような言葉はなかなか見つからない。様々な名言達を見比べた後で最終的に成り立つ方程式は、「結婚=我慢」くらいのものである。
 それとは対照的に、「恋愛」に関しては、肯定的な意見が多い。恋愛とは素晴らしいのか、と納得させられるような金句も多数見つかる。
 しかしながら、恋愛のハウツーを提示する言葉は、一つもなかった。皆口々に、恋愛とはああだこうだと抽象的に捲くし立てるだけで、具体例や必勝法など一つも挙げてはいない。師範が門下生の前で、えいやあと剣術を披露し「どうだ、良いだろう剣術は」と鼻を高くするだけで、それきり指南を行わないようなものだ。その無責任さが、なんと腹立たしいことか。オルダリ・ハクスリーにいたっては、「やり方やハウツーなんてない。ただ愛することによってしか、愛し方なんてわからないんだ」と、ご丁寧に、指南放棄宣言までしている。

「私はこれまで、どうやって恋愛していた?」
 私の溜息のような呟きを聞いて、書類を抱えた中尉が、面倒くさそうに振り返った。「なんです?」
「先人というものは押しなべて無責任だ。自分の恋愛観を押し付けるだけで、具体的なことなんて何一つ提示していないじゃないか」
「なんの話です」彼女の眉間の皺が深くなったので、
「いや、なんでも」私は降参するように掌を見せた。
 未処理の書類が山積する執務机の上で、憂色に塗れた溜息と共に、頬杖をついた。「頬杖をつく暇があるのなら」と中尉がこれ見よがしに机上の書類を睨んだが、私は気付かないふりをした。
 
 胃袋と脳に残る、昨日の、若干のアルコール。そのアルコールがそうさせているのかどうかは分からないが、頭から彼の姿が離れない。残像、というか。金の髪と赤のマントという鮮烈なコントラストが、アルコールと共に頭蓋骨の裏側にこびりついている。
「恋かな、これは」
「私に、ですか? 嬉しいですね」彼女が冗談と言うとは、珍しい。「ですが、書類に恋をしていただけたら、なおのこと嬉しいです」明らかな皮肉を垂れるときも、彼女の表情は一片の変化も見せない。
 書類に恋、ときたか。「私の老後は暗いなあ」確かに私はもう少し、書類と見つめあうべきなのだろうが。
「結婚でもしたらいかがです」
「書類と、か?」私は項垂れる。君はヒューズとグルなのか、と言いたくもなった。
「いえ、」
 中尉の凛とした瞳が、こちらを鋭く射抜いた。
「意中のお相手と、です」

 私は目を見開いた。何故って、驚いたからだ。
「恋ですよ、それは」と彼女にぴしゃりと指摘されたような気がした。そして、冗談など滅多に口にしない聡明な彼女が言うからには、この胸中に燻る思いは恋以外の何物でもないのだろう。そんな気にさえなった。
 今の驚きは、昨日の「今日のあんたは、もっと嫌いだ」という発言を耳にしたときの驚きと、よく似ていた。他人に指摘されて開眼する、そんな感覚が。
 自分が思っているよりも、他人は自分を見抜いている。傍目八目というやつか?

 そうか、恋なのか。私は脳内で慎重に繰り返した。
 相手は自分の半分程度しか生きていない、少年。それに対する戸惑いや躊躇、良心の呵責は多少なりともあるが、それらはそれほど問題ではなかった。
 先人は結婚には否定的、恋愛には肯定的だ。
 男同士なら、結婚などしないですむ。かえって気が楽じゃないか。私の座右の銘に反することもない。

「私はこれまで、どうやって恋愛していた?」

 さて、問いはここへ戻る。
 どうやら、少年に恋をした。それはいい。それはいいとして、問題は、次だ。
 少年相手の恋愛など、経験値は皆無だ。経験則も成立しない。先人の名言も、役には立たない。

(どうするかな、)

 とりあえず、電話でもかけてみるか。食事に誘ったら、どうなるかな。
 先ほどのヒューズのときよりも、はるかに乱暴に電話が切れる──というほうに、二千点賭ける。


【3】


「今晩、食事でもどうかな」
 いい店があるんだ、と私は言い募る。「予定があるのなら、無理は言わないが……」女性の都合を何よりも最優先する、これが紳士の第一義務だ。
「いえ、とんでもないっ」
 受話器に開いた無数の穴の奥から、焦ったような声と共に、スケジュール帳を開く音が漏れ出す。女性の声というものは、美しい。ハープのような上品さ、バレエのジュテのような軽やかな弾み。
「お誘いいただけて、光栄ですわ」
 会話は、私の想定通りに進んだ。受話器の奥で女性がまだ何か捲くし立てていたが、私は御茶を濁すように曖昧に相槌を打つだけで、電話を切った。
 女声特有の、ハープのような上品さ、ジュテのような弾み。実に良い。
 実に良いが、私の鼓膜はちっとも震えなかった。

◆◆◆

 自慢ではないが、私は巷間で「百戦錬磨」と謳われるほどの男だ。実際、女性との恋愛は十指では到底追いつかないくらいに重ねてきた。その豊富な経験に対する自負もあるし、ある程度の恋愛テクや手練手管も、備えているつもりだ。
 いくら、未曾有の少年相手とはいっても、この私が手も足もでないということはあるまい。「恋愛」という土俵の上であることは変わらないのだ。相手の染色体がXY、普段との異同はたったそれだけだ。
 想定問答集を入念に練り直し、十分にイメージトレーニングをしてから、再度受話器を持ち上げる。ダイヤルする番号は、彼が宿泊している宿のものだ。
 電話に出た宿の主に頼んで、彼に代わってもらう。
「やあ、鋼の」私は穏やかに言った。
「どちらのおっさんだ?」
 少年はにべもなく返してくるが、私の想定問答集に書かれていない言葉は、無視するに限る。
「こちらには、いつまでいるつもりだ?」
「二週間くらい。調べものがあるんだよ」無駄な言葉を一切合切排したような、そういう理系を絵に描いたような話し方だ。「用事は何だよ」一言発するたびに、彼の声が苛立っていく理由が、私には皆目わからない。「報告書はもう提出したろ?」
 そうか、と私はゆっくりと顎を引いてから、
「今晩、二人で食事でもどうだ?」
「はあ?」ヤンキーのお手本みたいな声だ。「寝言は寝て言え」
 電話が切れた。昼間のヒューズのときよりも、十倍は乱暴な切れ方だった。賭けはどうやら私の勝ちらしかったが、用意した想定問答集は微塵も役立たなかった。
 ツー、ツー、という取り付く島もないような電子音を繰り返す受話器を睨み、おかしいな、と首をかしげた。私が食事に誘ったら、ふつう、「光栄ですわ」という返事が戻ってくるはずなのだが。
「寝言は寝て言え、か」
 咀嚼するように、彼の言葉を反芻した。想像の遥かに上──否、下か?──をいく返答だった。
(恋愛という、同じ土俵なんだがな)
 常套手段を用いてみたが、きつい迎撃を食らって、あっさり押し出しでKO。
 オーケー、なるほど。通り一遍の方法では、歯が立たないという事か。
「……食事は駄目、となると」私は右耳を掻く。「次はどうするかな」
 さあ、面白くなってきた。

 先ほどの女性に、もう一度電話をかける。「すまない、急に仕事が入ってしまって」
 あら、と女性が電話口で声を高めた。「残念ですが、お仕事でしたら仕方ありませんわね」またの機会に、とハープの声音で言う。
 彼女とは、端から食事をする気はなかった。想定問答集の作成に、一役買ってもらっただけの話だ。
 残酷なようだが、今回の相手は過去に類を見ないほどの強敵なのだ。片手間に戦いを挑めるような相手ではない。私の持ちえる手練手管、権謀術数の全てを注いで然るべき強敵。

 アプローチの手段の王道、ひとつめの「食事」は撃沈。ふたつめは──
「贈り物、か?」
 通り一遍の手段は、彼には通用しない。そんなこと分かっているのだが、如何せん、私はこれまで通り一遍──別言すれば王道、あるいはベタな手法しか、とったことがない。何故か。女はベタなものが一番喜ぶからだ。王道には王道になるだけの理由があるという事なのだろう。
 とりあえずはお決まりのコースを彼にぶつけてみよう。当たって砕けろ精神上等。それらが全てスカに終わったら、それからまた別の手段を考えればいい。消去法というものは、まわりくどいが、確実だ。
 
 懇意にしている花屋のダイヤルを回す。今日は日がな電話機と睨めっこしている。
 一番高価なものを注文した。花束の中身はお任せだ。女性を口説くための花言葉は幾つか覚えているが、今が盛りの花の種類などは一つもわからない。
 花屋の女性店員が愉快そうに言う。「新しい恋人ですか?」
「そんなところだ、」私は肩をすくめる。「と言いたいところだが、そんなふうに言えばきっと怒鳴られる」
「怒鳴られる?」
「寝言は寝て言え、」眉毛をハの字に下げた。「きっと、そう言われる」
「なんですか、それ?」花屋の店員が弾けるような笑い声をあげた。
彼女もなかなかの美声だった。それでも、私の鼓膜は喜びに打ち震えない。
 先刻の少年の、なんとも愛想が悪い、粗野な口振り。私の両耳は、あんなものを待っている。なんと馬鹿らしい。
 結婚イコール我慢だというのなら、恋愛は、さしずめ病とイコールだ。我ながら、陳腐なたとえだが。
「マスタングさんを怒鳴るなんて、どんな女性なんでしょう」想像できません、と女性店員は声の片隅に笑いを残しながら、言った。
 女性、という単語には目を伏せた。「どうも、私は嫌われているようなんだ」
「照れ隠しじゃないですか?」
「いや、それはない」照れ隠しと拒絶の境目くらい、私にだってわかる。
「自分が嫌われているかもしれないのに、花束を贈るんですか?」
「まあ、そうなるかな」私は顎を触った。
「一途なんですね」
「意外かい?」
 うーん、と女性は考えるような声を出してから、
「本気の恋をするときは、みんな必死です。みんな同じ」受話器を持ち直すような音がした。「そういう必死な気持ちは、いつかきっと届きますよ」
「恋をしたのが、君なら良かった」
 あはは、と店員が笑った。「残念でした」
 ほんと、残念だ。

 アプローチ手段の王道、ふたつめの「贈り物」。
 きつい迎撃を覚悟して花束を贈るのも、人に「一途」なんていう言葉を掛けられたのも、初めての体験だ。悪くない。
 恋イコール病。悪くない。