![]() 【4】〜【END】 【4】 「拾い食いでもしたのか?」 何か汚いものでも見るかのような目で、少年は言った。私は生ゴミにでもなったかのような気分になる。何故、彼はこんな目つきで私を見るのだ? 「この前の食事の誘いといい、コレといい、なんなんだよ。正気か?」 抱えてみると私の視界を阻むほど大きな花束を、少年は厳しい目つきで指差した。 「それとも女に溺れすぎて、とうとうオレまで女に見えてきたか」 少年は矢継ぎ早になじってくる。私が自己弁護する隙さえ作ってはくれない。 「オレは査定の準備で忙しいんだよ、さっさと帰れ」 お世辞にも新築とは言えない宿の老獪な扉が、乱暴に閉められた。その扉の風圧で、私が抱きかかえる花束から、二、三片の花びらがむなしく落下した。 こうなることは端から分かっていたとはいえ── 「……けっこう、胃にくるな」 必死な思いはきっと伝わる、と花屋の店員は言ったが、そもそも「きっと」という言葉の示す可能性の度合いは、一体何パーセントくらいなのだろうか? ◆◆◆ ハボックが灰皿に煙草を押し付けたのを見計らって、私は問いを投げた。 「ハボック、男が恋愛対象になる瞬間とは、どんな時だ?」 私の問いを受けた男は、片方の眉を不恰好にひしゃげさせ、今しがた吸い終えたばかりだというのに、また懐の煙草へ手を伸ばした。 「……考えたこと、ないッスね……」それはまあ、そうだろう。異性愛の男からすれば、禅問答のような問いだ。 「花束を贈られたら、どうだ」 「いや、ナシっすね」ギャグだと思いますよ、と補足しながらハボックは煙草に火をつける。「大体同性愛なんて、不毛な恋愛じゃないっすか? 不毛とホモは字も発音も似てるって、よく言うし」 「恋愛など、不毛じゃないケースのほうが珍しい」むろん、男女間であっても、だ。 それもそうっすね、とニコチンの香気を漂わす男は頭を掻いた。「大体、『恋愛対象』の定義はなんすか?」 「セックスができるかどうか」私は当たり前のように答える。 げほ、とハボックが咳き込んだ。「……もうちょっとハードル下げましょうよ」 「これが一番低いような気もするが」まあ世の中には、相手が恋愛対象でなくとも、平然とセックスする人間はごまんといるが。「さてはハボック、お前、奥手だな?」 「大佐を基準にしたら、全ての生命体が奥手っすよ」 人を色狂いのように言うな、と眉を顰める私を尻目に、ハボックは唇の間から紫煙を吐き出し、事務的な椅子の背凭れによりかかった。私が腰を下ろすものより大分座り心地の悪そうなその椅子は、窮屈そうに一度軋んでみせる。 「ともかく、花束はナシっすね」 「ナシっすか」 「自分の身に置き換えて考えてみれば良いんじゃないですか」煙草を銜えた状態で器用に喋る、という事に関しては、彼は国内屈指の才能を持っている。「男に花束を贈られて、きゅんときますかね?」 人の価値観にもよるでしょうけど、とハボックは雑な口調で付け足す。私との会話の合間に煙草を吸うというよりは、煙草を吸う合間に私と会話をする、というかんじだ。彼にとって煙草とは、おそらく生涯を共にする人生の伴侶よりも大きな存在であるのだろう。少なくとも私のような甲斐甲斐しさに欠ける上司よりは、煙草のほうがはるかに重要であるらしいことは、この会話を見る限り、明らかだ。 話を戻そう。「自分に置き換えて考える」。なかなかの妙案だ。男女間ではなく、男性同士の恋愛のフィールドに於いてのみ有効な手段である。 自分が、男に花束を贈られたら? それがむくつけき男からであれば尚更だが、世間から超のつく美形と謳われるような男──たとえば、私のような──であったとしても、確かに、ぞっとしない話だ。一旦は体よく受け取ってみせたとしても、帰宅すればすぐさま家庭の生ゴミになるだろう。 (……生ゴミ、ね) 先刻、鋼の少年が私に、生ゴミでも見るかのような視線を向けていたことを思い出し、また胃が重くなった。同じ生ゴミなら、食べ物のほうが良かっただろうか。 「男からの花束なんて、即刻生ゴミっすよ」 「金輪際、私の前で『生ゴミ』という単語を使うな」 「へ?」 今はその言葉が、世界で一番嫌いだ。 *** ハボックとの会話では、終ぞ「男が男を恋愛対象とする瞬間」の答えは導き出されなかったが、「自分に置き換える」というあまりにも盲点であった手段を得ることができた。一歩とまではいかないが、まあ、半歩前進、というところか。 「自分に置き換える」。言うは易く行うは難し、とはよく言ったもので、はたしてこれがなかなか難しい。 (いや……、)難しいというよりも、非常に複雑だ。 たとえばこういう事をされたら、相手の男を恋愛対象と認識するかもしれない──と脳内で、あらゆるパターンで以て幾度となくシミュレーションをしているのだが、 (……まず、無いな) 自ら出した答えに、自分で落胆する。よしんば一千万積まれたとして、男と寝られるだろうか? 否、無理だろう。 私だって基本的には、女性が好きなのだ。柔らかな肌、豊満な胸、甘やかなコロンの香り……それら女性特有の魅力をも凌駕するほどの男など、到底この世に存在するとは思えない。 しかして、高価な花束を贈られたとしても、何度か食事を一緒にしたとしても、札束を堆く積まれたとしても、易々と男を恋愛対象にできはしない。たとえ一千万でも、一億でも── 『今日のあんたは、もっと嫌いだ』 それなら、先日の彼の一言には、一億以上の値打ちがあったということか? 人生、いつ何が起こるか分かったものではないな、と私は首を放るようにして天井を仰いだ。男は無理なくせに、彼だけは別だなんて、我ながら可笑しな話だ。融通の利かないガキじゃあるまいし。 一億差し出されたって、男と付き合う気にはなれない。私なら。そして、普通の男なら。 じゃあ、一億差し出しても駄目だというのなら、一体どうすればいい? 閉じた瞼の上に、右腕をゆるりと載せた。「……お手上げじゃないか」 万策尽きた。やんぬるかな。 「オイ!」 突如として室内に響いた蛮声に、私は肩を聳やかして前を見た。 「聞いてんのかよ」苛々と腰に手を当て私の執務机の前に仁王立ちしていたのは、言わずもがな、くだんの少年である。「何処にトリップしてんだよ、大丈夫か?」 鋼の、と私は上擦った声で呟いた。「いつの間に」 「いつの間に、じゃねえよ」呆れるように眉間を掻いている。「この間の電話といい、花束といい、今といい、どうしたんだよ」頭でも打ったのか、と刺々しい口調で言い詰める。 「いや、なんでもない、どうもしない」とりあえず両の掌を身体の前でひらひらとやり、その場を糊塗した。「君こそ、なんの用だ?」 少年は合点のいかないような顔を一旦してみせたが、すぐに真顔に戻った。手袋の嵌まった鋼の少年の手には、一枚の書類が握られている。 「査定に備えて調べ物をしてるんだけど、この文献が必要でさ。でも上司の許可がないと閲覧できないらしいんだ」 ぐいと書類を私の鼻先に押し付けてくる。そういうわけだから許可の意を示す判を押せ、ということらしい。彼は私のことを上司というよりも、使い勝手の良いただの判子としか認識していないように思える。 ハイハイ、と私は書類によく目も通さずに、判を押した。使い勝手の良い判子で結構。こちとら、書類の内容に逐一目を凝らし、咀嚼し吟味する手間など極力省きたいのだ。 「男が恋愛対象になる瞬間」 聞き覚えのあるフレーズにぎょっとして、私は顔を上げる。その台詞は間違いなく鋼の少年の、均衡のとれた唇から発されていた。 「ハボック少尉に尋ねたんだって? たく、何考えてんだよ、あんたは」言って、私のデスクから書類を奪い取り、「そんなこと考えてるヒマあったら、この国の行く末を憂いてくれよ」 「食事に誘われても、花束を贈られても、駄目らしいぞ」 「そりゃ、そうだろ」はは、とここで初めて彼が笑った。「あんた、馬鹿だろ」 「なんとでも言ってくれ」 私は大袈裟に肩をすくめる。万策は尽き、挙句の果てには馬鹿呼ばわり、か。 報われないなあ、と小さくため息をついたのと、 「でも、その方があんたらしいよ」 そんな言葉が耳を打ったのは、ほぼ同時だった。 はっとして少年の顔を見直したときにはもう、彼はこちらに背中を向けていた。 机上に身を乗り出し、翻る深紅のマントに手を伸ばす。その一連の動作は、私の意識下のものではなかった。 気がついたら彼のマントを掴んでいて、驚いたように目を丸くして振り返った少年と、まともに視線がぶつかった。 食事も駄目、花束も駄目──それなら、 「好きなんだ、」 正攻法、しか、無いじゃないか。 「好きなんだ、君が」 「は……っ?」 食事に誘っても、花束を贈っても、きっと一億積んでも、表情一つ、声のトーン一つ変わらないはずの彼の顔が、 初めて、マントよりも真っ赤に染まった。 【5】 「なんという、失態」 世界中の不幸を掻き集めたような溜息を、長く吐き出す。あと数回この溜息をつけば、鉄筋コンクリートでできたこの建物だって容易く朽ちてしまうだろう。まして木造であれば、一撃必殺だ。 忙しなく執務室を横断していた中尉の右眉が、ピクリと動いた。「女性に菊の花束でも贈ったんですか」 は、と私は鼻で笑ってみせる。「その程度のミスに過去を書き換えられるなら、残業だって喜んでするさ」 「残念ながら過去は書き換えられませんが、」中尉は胸に抱えた書類を持ちなおす。「残業はしてください」 世間は女性をよく花にたとえるが、とあるアジアの著名な作家は、花のアントニム──つまり対義語を、女だと言った。 花の対義語が、女。彼女にこのことを告げたら、かえって喜ぶかもしれないな、と私は中尉の横顔を見て、思う。 花の対義語が、女。それなら、花のシノニムは、男か? くだんの少年の、赤面した姿を想起しながら、思う。 花のシノニムが男。そうして彼のことを思い出す── この一連の動作も、そもそも失態のひとつであり、この恋自体、それこそが失態だと誰かに指摘されても、私は否むつもりはない。 ◆◆◆ 「好きなんだ、君が」 その台詞を自分の前歯から空中に突き出した瞬間、突如として私の胸に、煤けたような退廃的な色をした不安の塊が去来した。続けざまに、あっ、と漏らしそうになる。しまった、と。こんなタイミングで、こんなシチュエーションで、この想いを告げる予定など、スケジュール帳の裏表紙まで探したって、無かった。無かった、はずなのに。 「は……っ?」 上擦った声を出した鋼の少年の頬が赤くなったのは、見えた。 けれどその頬の紅潮は、照れによるものなのか、怒りからくるものなのか、その時の私には判じかねた。及び腰の私は、むしろ後者じゃないのか、とさえ思った。 少年の整った両の眉が、困惑の色合いを見せて、斜めに下がる。少年の華奢な双肩が、露骨に強張る。 そんな彼の様子を見て、困らせた、と思った。泡を食って焦って、慌てて取り繕おうとした。 「なんてな」 ははは、と晴れやかに笑ったが、心の中では豪雨だった。 雨の猛攻を受けて心臓が痛んだが、心臓にさす傘はない。 鋼の少年はといえば、今度こそ間違いなく怒りによって頬を紅潮させ、コートを掴んでいた私の手を振り落とし、無言のまま部屋を出た。 悪口雑言を大声でぶつけられるのを覚悟していた私は、やや拍子抜けしながら、額を執務机に打ちつける。 何が、『なんてな』、だ。最悪だ。 取り返しのつかないことを、してしまった。 彼の気を引こうと、ここを先途と色々腐心した。でも、もう無理だ。万事休す。 「……最悪だ」 最悪すぎる。 *** 『なんてな』の日以降は、漫然と日々を費やしていた。 鋼の少年には会うことはおろか、連絡すらしていない。当然だ。あんな悲惨なザマを呈しておいて、ぬけぬけと彼の前に出ていけるほど、私の顔の皮は厚くない。 大失態の直後こそ暗澹たる気分に打ちひしがれていたが、今となっては、不毛なアバンチュールから足を洗う良いきっかけになった、とポジティブに、且つ建設的に解釈している。 あれは、あの不毛で唐突な恋愛は、憂鬱が見せた一時の白昼夢。一瞬の気の迷い。そう思うことにした。 左で眠る、裸の女を見た。そのとき私が目を眇めたのは、窓枠から溢れる朝日の眩しさのせいか、その眠る女の裸のせいか、判然としなかった。 ここ連日、不快な寝つきと、不快な目覚めばかり、負の連鎖みたいに続いていた。 だから昨晩はむちゃくちゃに女を抱いて、コンセントを引っこ抜くように意識を飛ばして、眠りについてみた。そうすると、不快な寝つきがなかった分、二倍、不快な目覚めになった。 上半身を起こし、立てた膝に肘をつき、やや汗ばんだ頭を掻く。胸元には赤い鬱血があった。ずいぶん積極的な女だ、と舌打ちする。 女の、柔らかな肌、豊満な乳房、ぽってりとした唇──あんな骨ばった少年の体より、どう考えたって、こっちのほうが上等なはずだ。どう考えたって、「花」の比喩が似合うのは、こっちだ。 それなのに、窓際の一輪挿しで揺れる花を見て、彼を思い出す自分がいる。 ひどい重症、 「……いや、」 末期。 【END】 「少し、お休みになりますか」 書類の上で踊る活字の羅列が、こちらの生気を奪う呪詛のようにしか見えなくなってきていた私に声を投げたのは、例によって有能な私の部下、ホークアイ中尉である。私の本日の仕事の進捗具合や、この堆い書類の山などを勘案すれば、彼女の提案は、自殺行為とも言えるようなものだった。私は驚いて、まがまがしい呪詛との睨めっこを中断し、中尉のほうへ視線を遣った。 私の浮かべた疑問符を、彼女はその鋭い慧眼ですぐに察知し、 「すごいクマですよ」とその提案の所以を説明した。 「あの、哺乳類のほうの?」私は空とぼけた。 「目の下にできるほうです」私の決死の諧謔にも、クスリともしない。「仮眠室で休まれたらいかがです」 稀有な彼女の気遣いに、私は目を剥き、うわごとのように言った。「……鬼の目にも、」 「皆まで言ったら、前言撤回しますよ」 中尉は絶対零度の微笑みと共にホルスターから、物騒この上ない、黒光りする武器を取り出す。ほんの冗談を呟いただけで、あの物騒なブツと対面を果たす羽目になるのだ。私は銃社会の悲愴な行く末を、そこに見る。 私は重量のある溜め息をつきながら、眉間に指を押しあてた。 「そんなにひどい顔、してるかな」 「死相のほうがまだ、生き生きとしていますね」 「それはひどいな」はは、と力ない笑いをこぼす。「なら、お言葉に甘えて、一眠りしてくるよ」執務机に立てた両腕に力を込めるようにして、鉛のように思い腰を上げた。「せめて死相よりは、精彩を持った顔に戻るように」 夕方までにはお戻りください、という中尉の言葉を背中で聞いて、部屋を出た。仮眠室はどこだったかな、と綻びかけた記憶の糸を慎重に手繰ってみる。 ◆◆◆ 仮眠室のベッドは埃っぽく、また、不快ではない程度のうっすらとした黴臭さがあった。あまり使用されていないのだろう、私自身、この部屋を利用した記憶はほとんどない。ここへ正しく来るまでに、何度か道を誤ったくらいだ。 枕に顔を埋めてみる──が、本当はあまり、横になりたくなかった。埃や黴臭さのせいではない。 瞼を閉じると、否が応でも、彼の残像が網膜に映りこむのだ。金と赤と黒、あの三色の強烈なコントラストは、何度頭を振っても頭蓋骨の裏側から引き離すことができない。 こんな感覚は、何年ぶりだろう。残像を思うだけで、胃の底がじわじわと熱を持ち、全身を巡る血液が沸騰し始めるようだ。焦がれる、としか表現しようのない、このウブな衝動。あまりにも人間的な、むずがゆい感覚。 気が触れているのか、あるいは、触れていた気が正常に戻っているのか── 「……わからない、」 ただ、彼に会いたい。会って、話をするだけでいい。 自分の弱い部分を人に知られまいとするような、あの、強気で生意気な声を聞きたい。 稀にふと見せる、いとけない笑顔が見たい。 (けれどもう、それも無理かな──、) 再度静かに瞼を閉じ、そして、すぐに開いた。爆音をひきつれて、部屋の扉が開かれたからだ。 「……見つけたぞ……ッ!」 肩で息をしながら闖入してきたのは、あにはからんや、鋼の少年、だった。彼の眉間にはアイロンをかけても直りそうにないほどの深い皺が、幾本も刻まれている。 私は高い位置で眉を停止させたまま、口を動かした。「……見つかったぞ、」 どうしてここが? と尋ねると、中尉に聞いた! と粗野な返事が戻ってくる。呆気に取られている私を尻目に、彼はずんずんと室内へ進入してきた。怒気が足を生やして歩いているかのようだ。 「どうしてくれる!」 と叫ぶやいなや、あろうことか、上半身を起こした私の胸倉を掴んできた。 「な、何がだ?」 私は両の掌を少年のほうへ向けて降参のポーズをしつつ、糖が足りずにうすのろな動きをする脳味噌に鞭打って、思考をフル回転させた。先日の私の、「好きだ」や「なんてな」という発言について彼が憤怒しているのなら、「どういうことだ!」と責めたててくるところではないか? それなのに、どうしてくれる、とは何事だ? 脳に糖分が足りないせいか、否、きっと十分に足りていたとしても、答えは出なかった。 「調べ物に、集中できねーんだよっ」彼は怒声以外の声では喋ることができない病気のようにも見えた。「査定が近いってのに……!」 「集中できない? 何故だ」彼の神経をこれ以上逆撫でしないように、「“集中”は君の得意分野じゃないか」慎重に言葉を選んでみたが、 「うるせえ!」どうやら、失敗したらしい。「あんたが変なこと、言うからじゃねーか!」 「変なこと?」とは、無論先日の、私の情けない告白のことを指しているのだろうが──「って、何だ?」あえて、白を切ってみた。 「な、何って……、」 ここで少年が初めて、怯んだ。私の胸倉を掴んでいた手の力を弱め、半歩後ろへ下がる。 「こ、この前の……」 ぱっと俯いた彼の頬骨のあたりに、微かに朱が差したのを、私は見逃さない。鋼の少年はトパーズ色の瞳を左右にきょろきょろと動かし、間の悪さを取り繕うように前髪を触った。 「わ、忘れたのかよ」キ、と形の良い金の眉を吊り上げる。 「ああ、忘れた」私は悠然と頷いてみせた。 少年は胡桃でも割れそうなほど強く奥歯を噛んで、「もういいっ!」部屋を辞そうと踵を返す。彼の厚底ブーツとリノリウムの床がこすれ、キュ、という甲高い音を鳴らした。 「嘘だよ、」 ベッドから腕を伸ばす。そうして赤いコートを引っ張ると、後ろにつんのめるようにして少年が足を止めた。器用に編まれた金の三つ編みが揺れる。 「少し、ここに居てくれないか」 私が言うと、少年はこちらの表情を窺うように、おそるおそる振り向いた。彼の眉は相変わらず怪訝そうに歪んでいる。どういうつもりだ、とでも言いたいのだろう。 「体調があまり良くないんだ、最近、寝付けなくてね」 「寝付けない? なんでまた」 「君のせいじゃないか」 「はあ?」少年は顎を突き出す。 事実、体調は芳しくなかった。先ほどから軽い眩暈も感じる。元来「健康体」からは程遠い位置にいる上、私の血圧は名前を書けば入れるような大学の偏差値くらいしかない。そのため生活リズムが崩れると、こういった眩暈をすぐに起こすのだ。 彼の細い腕を掴んで引くと、予想よりもはるかに容易く、ベッドの上に連れ込むことができた。随分と軽い身体だ。機械鎧の重さがあって、これか? 「うわッ!」 彼の身体を引き倒し、私の隣に寝かせた。完全に虚を衝くことに成功したらしい、抵抗らしい抵抗は皆無に近い。 そのまま二人分の身体の上に分厚い布団を被せ、彼の華奢な腰を引きよせた。お互いの腹部が密着する。少年の瞳の奥はたゆたう水面のように困惑に揺らぎ、頬などはハイビスカスのようなビビッドな赤に染まった。 「な、な、何す……!」パニックのあまり、私の身体を押しやる行為すら忘れているようだ。 「何もしない、」本心だった。「何もしないから、ここにいてくれないか」 「え、」 喉を引きつらせるような、彼の震えた声。金髪のかかるおでこまで、真っ赤に上気している。そこへキスしたいな、と思ったけれど、彼の前髪にそっと触れるだけにした。 私と目が合うと彼はすぐに逸らし、生身のほうの手でこぶしを作って、自らの胸部に押し当てた。心臓の音がうるさいのかな、と私は想像する。私も同じだった。彼の前髪に触れただけで、心臓がぎゅっと疼いた。すべての充足を得た気がした。こんな感覚は、ああ、本当に何年ぶりだろう。 「冗談で茶化したりして、すまなかった」 私の言葉を聞いて、少年は伏せていた長い睫毛を持ち上げ、こちらを見た。話が本題に戻ったことに気がついたようだ。もちろん“本題”とは、『なんてな』の一件である。 「そんなつもりはなかったんだ」 心臓の場所を的確に把握できるほど、自分の皮膚の下で、強い鼓動を感じる。 恋とはこういうものだったか? 前髪に触れただけで満足できるような、こんな想いが? 恋とセックスがイコールじゃないというのなら、ここ数年、私はなんと下等な恋ばかり舐めてきたのだろう。 「嘘なんかじゃないんだ、」 少年の右の頬に触れると、そこはひどく熱を帯びていた。透き通るような肌理の細かい肌、強く触れればそれだけで、壊れてしまいそうだ。 「好きなんだ、君が」 数秒、時が止まった。こんなに有意義な静寂を、私は聞いたことがない。空中に漂う塵でさえ息を潜め、じっとして、鋼の少年の返答を待っているようだった。 「お、オレは、」 そんな塵たちの期待にこたえるため、というわけではなかろうが、少年が口火を切った。 「オレは、よく分かんないから、そ、そういうの、」 ああ、と私は彼の言葉に頷いた。私にも、よく分からないよ。 こんな恋愛は、ほとんど初めてだ。こんな、相手の頬に触れるだけでも緊張して、躊躇うような、こんな恋愛は。 「分からないなら、確かめようか」 「……へ?」少年の唇が不安げに開く。 「私たちは、科学者だからな」全ては実験から始まる。 胸の中でくすぶって、うまいこと飛び立てない気持ちを、軋むベッドの上で二人して抱えている。 そうだな、まずは君のまぶたに触って、それから頬を撫でてみよう。 最終的に、震える君の唇を指でなぞって、キスができたら、 羽化すらできなかったこの気持ちに、正しい名前をつけられる気がする。 ------------------------------------ 有難うございました!「羽化すらできない」完結です。 さくっと気軽に書いてみた話なので、さくっと気軽にお楽しみいただけていましたら本当にうれしいです…!// ご感想など頂けましたらとってもしあわせです…* お付き合いいただきましてありがとうございました! |